五、笛作りの娘
幾つかの季節が巡り、人も木々も齢を重ねる。
子栗鼠や子鼠と扱われた幼子も、すらりと背が伸び手足が伸び、春先の蕾のような娘に育つ。
ヒスイは齢十二になっていた。
そして里の新しい職人、笛作りの職人の筆頭でもある。職人見習いでは無い。職人である。
渇きの年、日照りが来る前に頼んだ通り、父は細長い縞模様の貝を幾つも持ち帰って来た。あの年は外の村や町でも雨が降らず、どこへ行っても雨乞いと飢饉の話で、僅かな水や食料を手に入れるにも苦労したという。荷車を引く牛も一頭が飢えと渇きで死んでしまった。
それでも父は忘れずに土産をくれた。空いた荷車の隅、割れぬよう端切れに包んで。
「他ならぬお前の頼みだからな」
言って、疲れた顔で父は笑った。
それから約束通り、笛の作り方をヒバリに教わった。流石は『玉結い』の血のお陰と言うべきか、散々苦労してもものに出来なかった草笛とは反対に、難なく覚えて形にすることが出来た。その手際の良さにはヒバリどころか本人が一番驚いて、夢ではないかと頬を抓ってしまったほどである。
「全く、笛吹きでも笛作りでも、こんな小さい娘に抜かれてしまうとは」
一方のヒバリは、笑うしかない、といった口調で肩を竦めていた。
ヒスイの作った笛は驚くほど早く里でも認められた。
それには『風運び』の吹き手の力が大きい。宴の夜にヒバリが言った通り、作ってすぐ吹いた初めの一曲は『風見』でない里の者の耳にも届いた。
人々は宙に浮いた笛が、奏でる音と共に消えていくのを目にし、その儚く美しい音に心を動かされ涙した。
(当たり前だ。吹いていたのはカワセミだもの)
この辺りはヒバリの入れ知恵である。腕の良い者が吹くことで、笛の価値は何倍にも高められるのだと。でなければ自ら演奏をすることも出来ない七つの小娘の言うことを、誰が信じようものか。
「これは楽器なのだからね。奏でる者がいて初めての完成だ。聞かせてやれば皆、傾国を前にした男のように、ころりと落ちるに違いあるまいよ」
全くその通りになった。
勿論笛そのものの造りの良いこともあって、貝の笛は早速次の『商い役』の荷車に乗せられた。どうやら町での評判も上々のようで、結果、里には新しく、笛作りの職人が生まれることとなった。
職人は職ごとに屋を持つが、数年前に空きになった里の外れの庵がそれに充てられ、ヒスイは今や最も若い笛作り職人としてその屋に通っている。
この里では新しい仕事に就く仲間は六名。皆二十歳にも満たぬ者ばかり。新しい技術に心を奪われ、腕を振るわんとする、鼻息の荒い若人たちだ。
ヒスイは中でも一番若い笛作りとなった訳だが、『風運び』からの技術を最初に教わり伝えた者として、師のような立ち位置にされていた。
立場とはそこに就く者に大きく影響を及ぼすものだ。ヒスイもその例に漏れず、他の者たちより下手な笛は作れないと自負している。
同時に、いやそれより強い原動力となっているのが、カワセミのために最高の笛を作るという目標だった。
素材は凝れば凝るほど、根を詰め時間をかけ丁寧に手を動かすほど応えてくれる。手を加えるだけ、貝の笛は新たな音色を生み、音を冴えさせ、広がり豊かな表現を持つようになった。
始める前は母や周囲の生み出すものの形ばかりを見ていたが、いざ始めてみるとそれだけではない世界が見えて来て、手を止めることが出来なくなる。そうしてつい時間を使ってしまうときは、自分も『玉結い』の子なのだと思い知らざるを得なかった。
やがて新しい音の笛が仕上がったなら、すぐにそれを友人の下へ持っていく。
笛の出来栄えを見てもらい一曲を吹いて貰うのが、ヒスイの至福のときだった。
「山へ行くってことは、新しいのが出来たんですかい」
新作を端切れで包み、林へ行こうと屋を出た少女の背中に、職人仲間が声を掛ける。
振り向いた先にいたのは一番新しく笛作りとなったヒスイより二つ上の少年で、前までは親と同じ玉を磨く仕事をしていたが笛の音に魅せられてしまい、頼み込んでの移籍だそうだ。
確か名はヤナギと言ったか。実質の師であるヒスイには職人たち誰もが丁寧に接したが、入りたての彼は、まだ年下の少女に対して砕けた態度が大分ある。
ヒスイ自身は気にしていないのだが、ここは上下を重んじる職人世界。他の笛作りに見つかれば説教より先に拳骨が飛ぶことだろう。
「うん。ヤナギはまだ続ける?」
「はい」
「じゃあ、最後になったら火を落としてね」
「分かりました。ヒスイさんは、これから山の……ええと、カワセミさんていう風様のところに行くので?」
「そうだよ。入りたてなのによく知ってる」
「そりゃあ、ヒスイさんの友達のカワセミさんでしょう? 初めの笛を吹いて、それからこないだの、春の祭で吹いてたのも。あの、いっとう上手い笛の人ですよね」
「へえ、あんた耳が良いのね。伝えておいてあげるよ」
感心した。と同時に嬉しかった。春と秋の祭で一番笛を吹きに来る『風運び』が何人かいるが、無論、その誰よりもカワセミは上手い。聞き分けられる人はそうそういないけれど。
「それに『風見』の、ええと、なんてったかな……その人が言ってました。大層な別嬪さんだって。一体どんな風なんです?」
興奮した物言いに思わず吹き出しそうになる。確かに『風運び』は男女問わずの美人揃いだが、彼らを見目で測る『風見』が居ようとは。
「その人の言う通り、カワセミは美人だよ。あんたが分からないくらい、とびっきりのね」
「へぇ……」
溜息ともつかない声を出し、彼は頭の中に描いた『とびきりの美人』に惚けてしまった。
その姿を見てヒスイは呆れる。男は美人に弱いというのは両親の関係を見れば一目瞭然だが、そんなはっきりと見える下心では、どんな娘も引いてしまうだろうに。
そもそも彼は、今目の前にしている少女も一応、年頃の娘だと分かっているのだろうか。
(確かに別嬪とは程遠いけど)
「ああ、でも、女が見た目を褒め合うときは、話半分に聞いた方が良いって親父が、痛ッ!」
我に返って独り言のように話し出した少年の口を、裏から出て来た先輩職人の拳が封殺する。
「おい新入り、何をくっちゃべっていやがる。それに若先生に対して何だその口の利き方は」
予想通り、いつも通りの説教が始まった。
「ああ、若先生。こいつはこっちで締め上げておきますんで、御用の方に行って下さい」
こちらにはにこにこと人好きの笑みを向ける青年の齢は二十歳より前。だが勿論ヒスイより年上だ。
けれどこの笛作りの屋ではヒスイが親方扱いのため、若先生と呼ばれて丁寧に接されるという、ちぐはぐな関係が築かれているのだった。外でも変わらぬことと耳にするが、職人の師弟関係とはおかしなものだ。
『風見』の少女がきちんと年経た女であったなら、何もおかしく見えないのだろうが。
ともあれ引き止める者はもういない。
ヒスイは踵を返し、林へと向かった。
通い続けた木々の間も今は前よりずっと歩き良い。かつて顔に触れていた羊歯はもう腰の高さである。
緑の日差しも鳥の囀りも同じまま、少女の手足の長さ、目の高さだけが変わっている。その変化は日々のものだから普段は気にも留めない。ただ、ふとした拍子に思い出すのだ。
林を出ていつもの河原に出ると、卵のような大岩の上に少女がいた。
「カワセミ!」
呼んで手を振ると『風運び』の娘が振り返る。
数年を経た友は幼い頃の予想通り、眩しい程の美人に育った。
雪と見紛う白い肌、水より滑らかに軽くそよぐ長い髪、形良い眉と薄紅の唇、朝露を戴けるほど長い睫毛に飾られた、憂いを含む澄んだ眼。
その名と同じ鳥ほどの華美さは無いが、峡谷に花弁を散らす山桜のような、月に照らされた渓流の飛沫の煌めきのような、祖父が編むように拵える銀細工の花のような、そういった迂闊に触れられない、触れれば壊れてしまいそうな細やかな美しさ。
里の男が、兄が見たらどう思うだろうか。美しく慎ましやかで気立ても良い娘を放っておく若者が居るだろうか。ヒスイのことを散々、背が伸びただけの山芋と馬鹿にする兄も、カワセミを見たら惚けて腰砕けになるに違いない。先程のヤナギと言う少年ならば、頭に血が上って卒倒してしまうかも知れない。
惜しむらくは彼らに『風運び』の姿は見えない。
それが勿体なくもあり、美しい友人を独り占めできる優越感でもあった。
「新しい笛が出来たのね、ヒスイ」
岩の下まで来た少女にカワセミが微笑む。
「分かる?」
「顔を見れば、すぐ」
『風運び』の少女はするりと河原に下り、ヒスイの前に歩み寄る。
「今度は何をしたの?」
「穴を増やしてみたんだ。たぶん、音が三つくらい増やせたと思う」
「そうなの?」
手渡した笛を興味深げに矯めつ眇めつ、歌口を唇に当て、そっと息を吹き込む。
澄んだ音色が笛作りの少女の胸を貫いた。
いつ、どんな笛を吹いても、彼女の音は美しい。その見目にけして劣らない音。ときに散り行く山桜のように、冷たい水の飛沫のように、職人の手の中で咲く銀の花のように、様々に色を高さを変え、そのどれもが美しく響く。
短い曲を聞き終わり、ヒスイはほうっと溜息を吐いた。我知らず息を止めていたらしい。
「やっぱり、カワセミの笛は素敵だ」
「……ヒスイがそう言ってくれるのが、一番嬉しい」
微かに頬を染めて『風運び』の少女が笑う。まるで春の花が咲き零れるように。
見慣れた筈の、同性である自分でさえ、ふとした風や光の具合にはっと目を奪われる。友としての贔屓目を抜いても、他の『風運び』の男女と見比べても、その容姿は抜きん出ているように思われた。
思わず、この場にそぐわぬ問いが口を突く。
「あの、カワセミはさ。もう縁談とかの話は来るの?」
「ヒスイはまた……お婆様みたいなことを言うのね」
目を伏せた少女が囁くように言った。
「ツグミ様が?」
「ええ。その後で、こうも言うの。早く婿をとって曾孫を見せておくれ、って」
「へえ、それで?」
「良い人なんて……私にはいないわ」
「そうなんだ。ヒバリとか、どうなの?」
「まさか、ヒスイったら……十も上だわ。それにあの人には、あの人の良い人がいるのよ」
「うん、冗談だよ」
「そうだと思った」
薄く微笑み、カワセミは一度目を伏せ、それから天を仰いだ。
「私には、まだ決まった仕事が無いから……ヒスイが羨ましいわ。やりたいことがあって」
葉摺れほどに小さな声には、婚姻を急かす祖母への不満も恨みも無い。
それもその筈だ。女なら十四にもなれば相手が居るのが当然で、十八で独り者なら良からぬ噂を囁かれる。この里ではそれが普通だ。現にヒスイの母も嫁入りしたのは十五の春である。
ヒスイは今年で数えの十二、カワセミは十四になる。少なくともカワセミには浮いた話が出て当然だ。
自分には十五になっても十六になってもそんなことは期待できそうにも無いが。
背も手足も伸びたが、それだけだ。色黒で木の棒のように素っ気なく、兄が山芋扱いするのも悔しいがその通りである。髪は癖が強すぎて、一時伸ばしたこともあったが雑草の群れのように跳ねて絡まるばかり。顔もお世辞にも良くは無いだろう。
豪放磊落を絵にしたような父に似ていると言われることはあっても、その父が橋を越えてまで娶った母に似たとは、やはり一度も言われたことがない。まだ兄の方がその面影を継いでいるし、里の娘たちがそう噂しているのを聞いたこともある。
「そりゃ年頃の娘なら、男の見目の方を話すものだよ」
兄のからかいに堪えかねて母に愚痴ったときは、そう返ってきた。
「おまえはよく食べて元気で病一つしない。それが母ちゃんには一番だ」
自分も同じ年頃の娘なのでは、と突っ掛かりたい気持ちも、己が容姿を見つめ直せば萎んでいくばかり。
それを思い返しながら、少女は少しだけ年上の友人に溢す。
「でもね、幾ら一番若い笛作りの職人だって持て囃されても、それだけじゃ嫁には行けないじゃない?」
「ヒスイの笛は褒められるのでしょう? 皆きっと、待ち焦がれているわ」
「褒められるのは嬉しいけどさ。あたしだって一応、年頃の娘なのだし、ちょっとはそういう話っていうか、口添えがあっても良いじゃない」
「きっとまだ、子供だと思われているのね。ヒスイは小さくて、可愛らしいから」
「うん、カワセミが言ってくれるのは嬉しい。でも、もう子供って年でも無いからさ。上手く言えないけど」
相も変わらずカワセミはヒスイの容姿をごく自然に褒めそやす。この黒い肌や棒の手足やくしゃくしゃの髪が、一体彼女にはどう見えているのだろう。
ヒスイがこんな風に話せる相手はカワセミだけだ。
里でも話す相手はいるし、笛作りの職人たちとは仕事の合間に雑談に興じている。『風見』たちの集まりにも顔を出し、『風運び』や他の人に見えないものたちの話に花が咲くこともある。
けれど一番親しい友はカワセミだ。愚痴を言ったり、河原や林の中で戯れたり、何もせず半日を過ごしたり出来るのは彼女とだけ。
但し、職人として仕事をするようになった今では、幼い頃のように毎日朝から晩まで遊ぶことは出来ない。来られるのは仕事の後、昼を少し過ぎてから日が山の端に落ちるまで。笛の作りを凝ったり気になるところが出てしまえばそんな暇も無くなる。そんなときは時間を忘れて打ち込んでしまうので、前に会った日から十日も経っていた、なんてこともざらである。家にすら数日帰らない時期もあるくらいだ。
そうして、共に過ごせる時間は、今はとても少なくなった。
故に、この関係がいつか途絶えてしまうのではないかと、時折不安に襲われる。
もし彼女に良い相手がいるのならば、二人の間が途切れても、変な言い方だが、諦められるだろう。
良い人が出来れば契りを結び、家に入って子を産み、妻や母としての関わりや生き方をすることになる。そこは独り身の娘であった時とは違う世界が作られるのだと、先に嫁入りした年上の娘たちを見て知った。
それは寂しいが仕方のないことで、行った先ではまた新たな楽しみや喜びがあることも分かっている。
「あたし、カワセミがお嫁に行くときは、とびきりの笛を贈るからね」
「またそんな話……でも、ヒスイはすっかり良い笛作りになったわ」
「そりゃそうよ。見た目が男だの狸だの山芋だのと言われても、これだけは譲れないもの」
正直、こんなに自分が笛作りに打ち込むようになるとは思わなかった。けれど自分のしたことでカワセミが喜んでくれるのは、何より喜ばしいことだ。
「……また、この笛も、何か工夫をするのね」
「うん。でもこれ以上、穴を増やすのは難しいかな。きっと貝が割れちゃう。もっと殻の厚い貝なら彫れるけど、それだと今までの音が変わっちゃいそうだし」
「そうね……一つ一つの穴を小さくしてみるのは、どうかしら?」
「それはそれで音が変わりそうだけど……カワセミは音が増えるのと、音がこのままなのと、どっちが良い?」
「……ごめんなさい。それは、吹いてみたり、聞いてみないと分からないわ」
「だよねぇ」
笛の音色は吹いてみるまで分からない。形も無い、話の上だけなら尚更だ。それに、良い音が出ても扱い辛かったり、ひどく壊れやすい出来になることもある。素材となる貝も一つとして同じ物は無く、畢竟、ヒスイたちの作る笛に同じ物は一つも無い。
それが難しくも面白いところなのだが。
「じゃあ、次の貝で試してみるよ」
「また屋に籠もるのね。……根を詰め過ぎて、体を壊すのは、駄目よ」
「うん、分かってる。風邪とか引いたらカワセミの笛の音も分からなくなるもん」
会えない間の二人を繋いでいるのは、夕刻にカワセミが吹く笛の音だった。
日が山の端に掛かる頃、谷一面に響き渡る物悲しくも懐かしく温かい笛の音は、『風見』にしか聞こえない曲ではあったけれど、ヒスイはそれだけで胸がいっぱいになる。笛を吹く少女の姿を思い浮かべ、心を満たすことが出来る。
「あたし、カワセミの笛、ほんとに好きだから」
心の底から笑んで見せる。
こんなにも日々が素敵なのは、きっとカワセミのお陰なのだ。
友人と別れ、里へと帰る道すがら、とりとめもなく考える。
ヒスイが笛を作り、カワセミがそれを吹くようになってから、里の人々と『風運び』たちの距離が縮まった気がしていた。
それは笛作りの作った笛が荷車に乗せられるだけでなく『風運び』たちにも納められ、主に宴や祭の際、彼らがそれを吹くという関係が築かれたからだろう。これはヒバリの望みでもあった。
皆が聞けるのは『風運び』が笛を手にして最初に奏でる一曲のみ。
回数は一年を通してたった数度。
けれど僅かな糸口であっても、何の手がかりも無い話に聞くだけだった頃と、耳に聞こえる音として確かに存在を感じられるのは、大きな違いなのだろう。
普段は見えず聞こえずの存在であっても、確かに居ると分かれば人々の態度は変化する。
『風運び』が居るのではないかと、何も無いところに話しかける者や、どうにか接触しようとする者が出て来たのはいつの頃からだったか。今では『風運び』の側もそれを喜んで、見えぬ者の言葉に応えて近くの壁を叩いたり、茂みを揺らしたりして意思の疎通を図ろうとしているようだった。一部の者にはそれが『風見』と話すより楽しいらしく、他のことをそっちのけで、遊びにも似た奇妙な会話に興じている姿を何度も見た。
それは生まれた時から彼らの姿を見、声を聴けるヒスイたち『風見』にはよく分からなかったが、確かな変化が訪れていることは理解できた。
里と『風運び』の間が緊密になることは、好ましい変化に思えた。一部の『風見』たち、『風運び』や里の老人たちの中には懸念を示す者も居たが、人々の、特に若者たちの熱心さの前にはそれも蟷螂の斧である。
そしてカワセミも、自分の演奏で『風運び』と里の民の間を繋げられることを喜ばしく思っているようだった。一昨年、春と秋の祭に祭囃子を吹くことを是非にと里から指名され頼まれたときも、二つ返事で引き受けたほどである。
ヤナギが聞いたという春の祭の笛とはこのことだろう。
宴の笛は既に習いとなっていたが、彼らは最初に聞いたあの音の主に吹いて欲しいと言ったのだ。
人混みを苦手とする人見知りの少女には酷なことでは無いかとヒスイは思い、断っても良いのだと促したが、カワセミは首を横に振った。
「私、嬉しかったの。初めにヒスイの笛を吹いたとき……大勢の人、ヒスイの里の人に、笛を聞いて貰えたのが。だから、やりたい。ヒスイの笛を、いっとう上手く吹いて、皆に聞かせてあげたいから」
こんなことを言われたら断る理由など無いも同然だ。
それに、どれだけの人がカワセミの笛を聞いたとて、それでヒスイとカワセミの間の特別感が薄れる訳も無い。カワセミが吹くのはヒスイの作った笛だけで、新しく作った最初の笛を吹くのは必ずカワセミだ。
何より、あの祭の夜の光景は、少女には忘れ難いものだった。
焚かれた篝火。酒の匂い。酔った大人たちの騒ぐ声。子供たちのはしゃぎ声。供物を表す稲わらの牛馬が広場に立ち、橅の実と紅葉に飾られる。
その賑やかな広場に、響き渡る美しい音色。
人々はそれに聞き入り、ある者は合わせて唄い、ある者は手拍子を打つ。
誰もが『風運び』の、カワセミの笛を聞いていた。ほんの一時の間だったが、紛れも無く確かに。
赤々と炎の燃える広場でその光景を眺め、笛の音を聞きながら、ヒスイはただただ立ち尽くしていた。
それは、いつか幼い日に見た美しい夢の景色に、限りなく似ていたから。
夢の実現を、少女は見ていたのだ。