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かみのみかくし  作者: 一里 郷
5/13

四、幼き日の終わりに

 その日のしとしと雨は降ったり止んだりを繰り返し、次の『商い役』の出立、ひと月後まで続くことになる。

 しかし一行が里を出る日はそれまでの陰鬱な空はどこへやら、青くからりと晴れ渡り、誰もが良い出発日和だと喜んだ。崖を這うような細道を遠ざかる一行を里の者総出で見送る。ヒスイも背の高い父の頭が見えなくなるまで、千切れんばかりに手を振った。

 彼らが再び里に帰るのは、初雪がちらつく前、秋の終わり頃だ。帰れば収穫の祭で、先日の宴よりも賑やかな騒ぎになる。

 そして終われば長い冬が来る。沢を凍らせ、里の殆どを雪深く閉ざす冬が。『風運び』たちも冬の間は、熊や栗鼠のように昏々と眠りに就くという。山は静まり、川は凍てつき、木々は葉を落とし、鳥も獣も姿を消す。

 だからそれまでに支度をしなければならない。一年の後半はそのためにあると言っても良い。

 薪を割り、木の実を集め、家畜の餌を蓄える。秋に肥えた獣を狩って肉や脂や皮、骨を分けて取る。沢の魚は内臓を除いて燻す。特に海から上がってくる鱒は卵を抱えたご馳走だ。それ以外にも家の壁や屋根を繕ったり、庭の果樹などに雪囲いをしたり、炭や薪の数を揃えたり、冬支度は毎年忙しい。

 まだ暑い、短い夏は、その前に一息をつく季節だ。青々と茂った畑を眺め、秋の実りに心を馳せる。

 けれどその年は、それきり雨が降らなかった。


 五日ほどは誰も気にも留めなかった。半月経ってもまだ、今年は雨神様が怠けてやがると冗談を言えた。ひと月が過ぎる頃、誰もが深刻な顔で空を見上げていた。

 天は乾き、雲の一つも無い。いつもなら二日か三日おきに激しく夕立の来る季節だというのに。

 日照りが危ぶまれてから早々に『玉結い』の職人たちは仕事を止めた。玉を磨くにも土を捏ねるにも糸を染めるにも水を使う。それは『土交い』たちが育てる作物や家畜たち、里の者が飲むために残さねばならない。生命線としての水が無ければ『玉結い』たちも生きてはいけないのだ。

 手の空いた彼らは家に引き籠るか、心当たりのあるものは水や水気のある草花を探しに行った。しかし、その成果の大半は芳しくなかった。

 沢の水は減って濁り始め、畑の作物も力なく土に伏した。少ない水を掻き集め、各家にある水瓶は一旦は悉く満たされた。けれど雨が降らぬままでは、その残量は減るばかりである。

 ヒスイの母は家に閉じ籠った。

 彼女は腕の良い機織りだが、若い時分から林に入ったこともなく、座り仕事のため健脚でもない。

 体力の無い者は外に出ても汗をかいて水を余計に使うだけである。力仕事や林での仕事は男たちや詳しい者らに任せ、家の中にいるのが懸命だ。実際、体力と強い足を持つ兄は外へ出て、水汲みや畑仕事を手伝っている。

 人々は今か今かと空を見上げ、雨を運ぶ雲の影を探した。

 けれど空はつるりと晴れ渡り、雲はあっても乾いた刷毛でひと塗りしたようなものばかり。里の望む湿りはいつまで待っても訪れなかった。

 ヒスイにとっては記憶に残る初めての変災である。

 初めは行水が取り止めになった。次に飲み水を控えるように言われた。粥の水気は日毎に減り、煮炊きする料理が朝昼の飯から姿を消した。

 そして幼い子供であるヒスイは、家に籠もって外へ出るなと申し渡された。理由は前述の通りである。

 けれど、彼女はそれで黙って大人しくしている娘では無かった。

 とある真昼、転寝をした母の目を盗み、少女は家を抜け出す。

 里の景色はすっかり様変わりしていた。

 土は乾いて白く、風はひりひりとして砂っぽい。畑の緑は色褪せて黄や茶に変色したものもある。道端の草に至っては秋の終わりかと思うほど、かさかさと干し藁のようになっていた。陽炎の立つ往来に人影は無く、家々の門戸は閉ざされて、いつもは放し飼いにされている犬や猫や鶏も姿が見えない。

 どこもかしこも、まるで死んでいるように静かだった。

 恐ろしいと言うより、ただただ不気味である。

 林に行っても生き物たちは息を潜め、鳥の囀り一つしない。木陰の羊歯は作物よりは元気に茂っていたが、畑と違って水を撒いて貰えないためか、他の陽向の植物たちは軒並みしおれかけている。

「ヒスイは里に居た方が良いわ」

 会いに行った『風運び』の少女は開口一番そう言った。

「どうして」

 折角会いに来たのに、と言い募るヒスイを、カワセミは少し困った顔で、しかしはっきりとした口調で窘め諌める。

「ヒスイは帰って、家の中にいて、汗をかかないようにじっとしてるのが良いわ。暑さで倒れたら、もっと水が要るようになってしまうもの」

 言う通りだ。カワセミの言うことには道理が通っている。

 けれど、頭では分かっていても、子供のむずがりは簡単に収まるものでは無い。

「ちょっとだけ、ちょっとだけで良いから、話そうよ。笛も聞きたい。カワセミの笛、もうしばらく聞いてないよ」

「無理よ……草笛に使う葉はみんな枯れてしまったわ」

 それはここに来るまでに、充分に分かっている筈のことだった。草も葉も乾いて萎れているのに、草笛など作れる訳がないのだ。

「じゃあ、他の『風運び』の人は? 大丈夫? 里の人は、昼は皆、家の中にいる。外は暑くて大変だし」

 『風運び』たちを里で姿を見なくなって久しい。普段なら里に一人か二人、多いときは十人以上も屯しているというのに。

 カワセミは首を横に振る。

「私たちは、元々そんなに水が要らないから……でも、他の皆は、水を探しに行っているわ」

「水、あるの?」

「木の洞とか、岩の隙間とか、あとは苔の根元とか……そういうところに、少し。水をきれいにするのは、私たちには簡単だから……」

「へえ、すごいなあ」

「……集めたら、『風見』の上の人に渡しているそうだから……ヒスイも飲んでいるかも知れない」

 確かにここ暫く、一日か二日おきに、手桶に半分くらいの水が各家に配られていた。どこかを掘って出た水かと思っていたが、裏で『風運び』たちが動いていたらしい。

「そうなんだ……うん、あたしも飲んだ。美味しかったよ。母ちゃんもこれで煮炊きができるし、体も拭けるって喜んでた。ありがと」

「……大したことでは無いわ」

 手放しの感謝を受けても、一瞬だけ微かに微笑みを浮かべるだけで、カワセミの表情は暗かった。

「どうしたの、カワセミ? ……やっぱり、長話、良くなかったかな」

「そうね……私は、早く帰った方が、良いと思ってる。お母様も心配するわ」

「うん……」

 言葉通りの意味と、それとは別の意を持つ言外の拒絶を感じ、ヒスイは数歩、少女から離れる。長居はきっと迷惑なのだろう。

 じゃあ、と帰ろうとする背中を、けれど細い声が呼び止める。

「……ヒスイ」

 振り返り、感じ取ったのは怒りにも似た空気だが、カワセミの顔に浮かぶのは憂鬱と困惑に見えた。

「これからも……雨が降らなかったら……沢も滝も涸れるなら、里の人はきっと、話し合いをする。それから、神窟の祠でお祈りをする。そうしたら私たちは、雨を呼ぶわ。遠い空から、雲を集めて、雨を降らせるの。だからきっと……」

「じゃあ、里は大丈夫なんだね!」

 思わずヒスイは声を高くしたが、カワセミは憂い顔を崩さない。

「そうよ、でも……良いことばかりでは無いの」

「どうして? 畑の葉っぱも元気になるし、水もいっぱい飲めるようになるんでしょ?」

「ええ。それはその通りだわ……私は、ヒスイが喜ぶなら、それで良いから」

 静かな口調。沈鬱な面持ち。けれど理由は語らない。

 様々に問いを投げても、そこから先は一切、少女は口を利かなかった。


 家に帰ると母は起きていて、当然のようにヒスイはこっぴどく叱られた。

 当然だ。言い付けを破ったのだから。

 普段の、帰りの時間が少し遅れただとか、水瓶の蓋を閉め忘れただとか、そんな程度のことでは無い。家にいる筈の少女が出かけて帰って来ないとなれば、誰かが探しに行かねばならない。ヒスイ一人でも暑さで倒れたり水の減った沢に落ちたりという危険があるのに、他の者が探すとなれば、彼らをも同じ危険に曝すことになる。

 そんな常より激しい叱責を聞きながら、少女の胸には『風運び』の友人の憂い顔が引っ掛かっていた。

(良いことばかりでは無いの)

 悪戯に人を不安がらせるようなことを言う娘では無い。ヒスイに嘘を吐いたことだって無い。

 だからきっと言う通り、雨を降らせる代わりに、誰かにとって悪いことが起きるのだ。

(私は、ヒスイが喜ぶなら、それで良いから)

 ヒスイに害は無いという。きっと里の者にも無いだろう。だとしたら、それは一体誰に。

 唐突に、はっと気付いて、少女は我知らず立ち上がった。

 説教をしていた母が驚いて娘を見つめる。

「いきなりどうしたんだい、ヒスイ。ちゃんと話を聞いていたかい?」

「あたし……カワセミに言わなきゃ」

 ぼんやりと言葉が口を突いて出た。母の顔は呆れと怒りが半々浮かぶ。

「おまえ、やっぱり聞いてなかったんだね。駄目だよ、もう家から出す訳にはいかない」

「でも、行かなきゃ!」

 叫んで駆け出すその腕を、母がむんずと掴んで引き戻す。肩が抜けそうに痛いと思う間もなく足が滑り、視界の中の天井が反転した。

「駄目だって言ってるだろ!」

 転げ倒れたヒスイに雷が落ちる。

 そうだ、今は母が起きている。戸も閉じられている。暫くすれば兄も帰って来るだろう。家からは出られない。カワセミのところへは行けない。

 頭の中がわっと熱くなり、その熱に押し出されるようにぼろぼろと涙が零れる。

「全く、泣くんじゃないよ。水が勿体ないだろう」

 母の声を遠く聞きながら、声を上げてヒスイは泣いた。土間に転がったまま手足をばたつかせ、駄々を捏ねる赤ん坊そのもののようにわんわんと泣き喚いた。

 そのうちに泣き疲れて眠ってしまうまで、母は何も言わなかった。

 きっともう怒りを通り越して、ただただ呆れ果てていたのだろう。


 少女は思い至ってしまったのだ。

 誰が害を被るのかを。

 ヒスイ本人でも里の者でもないとするならば、残るは『風運び』たち自身であると。

 ともすれば、カワセミ本人のことでは無いのかと。

 それならあの憂い顔も理解できる。話したがらない訳も分かる。彼女は優しいから、ヒスイに心配をさせたくないのだ。そうに違いない。

 雨を呼ぶなんて大層なことだ。ちょろちょろと流れる水を止めたり、微風を吹かせて落ち葉を舞わせるのとは違う。何の代わりも無く使える力ではないだろう。

(もしかしたら)

 悪い考えが、深い淵のように暗い渦が少女の心に湧き上がる。

(もしかしたら、カワセミは死んでしまうのかも知れない)


 目覚めたのは夜だった。

 辺りはしんと静まり返り、母と兄の寝息だけが聞こえる。外からは何の音もしない。虫も鳥も押し黙って、風すら吹いていないようだ。

(……行かなきゃ)

 音を立てぬよう、注意深く身を起こす。泣いたまま眠ってしまったせいか、目は腫れぼったく頬はがさがさに荒れている。夜目を凝らすと、二人の包まった筵が見えた。戸口の方を向くと、閉じた木戸にはつっかい棒がしてある。気付かれずに外へ出るのは難しそうだ。

(でも、やらなきゃ)

 友人の、一番の親友の命が係っているのだから。

 そっと筵を除けて立ち上がり、足を忍ばせて戸に近付く。なるべく音の出ないように指を少しずつ差し入れながらつっかい棒を外して、そろそろと土の上に置いた。

 今のところ、耳に届く寝息に変化は無い。ちらと見ても、膨らんだ筵は先程と同じ形である。

 残る敵は建て付けの悪い木戸だ。普通に開ければ猫の子も起きるほど煩くがたがたと鳴ってしまう。それを僅かずつ、持ち上げたり降ろしたりしながら慎重にずらしていく。まるで虫が這うような遅さだ。

 やがて、小柄な少女がどうにか通れる隙間が開く頃には、僅かに見える空は既に白み始めていた。いや、もしかしたら長く感じていただけで、起きた時には既に夜明け間近だったかも知れない。

 詰めていた息をそっと吐いて、ヒスイは戸の隙間から外へと滑り出る。その前に一度、振り向いて母と兄の様子を見た。

 筵から顔を出した兄と、目が合った。

 弾かれたように駆け出す。

 狐から逃げる兎のように、里の外へ、林に向かってひた走る。

 今にも兄が声を上げて母を起こし、追って来るのではないかと。五つも上の兄に駆け足で叶う筈が無い。母も健脚ではないとは言え七つの幼子に追いつくのは造作も無いだろう。

 捕まれば連れ戻される。もっときつく叱られて、見張られて、二度と外へは出して貰えない。

 それは駄目だ。

 それは絶対に駄目だ。

 息を振り絞って、今までに無いほど全力で少女は走った。

 表が乾いて砂っぽくなった土の上は駆け辛く、硬くなって足の裏を痛める。夜が明け始め、ぼんやり道が見えるのが助けだ。

 追手はまだ来ない。背後にした家は静かで、兄が声を上げた様子も無い。

 だが理由を確かめようとは思わない。

 射られた矢のように林に入り、光の通らぬ暗い斜面を駆け上がる。いつもは爪先を柔らかく包む落ち葉が今日は沼のように足を取り、羊歯は無遠慮に手足や頬を叩いて嬲る。うろついている筈の夜の獣のことなど、頭を掠めもしなかった。

 駆けては転び、立ち上がってまた駆け、着物も膝も掌も土で汚しながら、少女は河原に辿り着く。

 いつもの河原は静かだった。

 川も滝も水嵩が減り、その光景は昼に見たのと変わらないのに、夜明けの景色はどうしてか、もっと静かに感じた。

「カワセミ!」

 理由を吟味する暇も無く、ヒスイは切れ切れに叫ぶ。

 叫んだ声は乾いた空気と岩肌にこだまして、そして消える。返事は無い。静寂の中、せせらぎと聞き紛うほどささやかになった滝の音だけが響いている。

「カワセミ! 来て! 話があるの!」

 息は上がって、喉はからからだ。叫べば血を吹き出しそうで、早くも錆の匂いがするような気さえする。

 ふらつく足取りで石だらけの河原を遡る。打ち上げられた魚がそこここに干乾びてへばり付き、茶色くなった藻がかつての水位を示していた。

「お願いだよ! 話を聞いて!」

 呼べど叫べど答えは返らない。

 少女はやがて、乾いた石の上に座り込んだ。せめてカワセミたち『風運び』の住むところを聞いておけば良かった。聞きたがりはヒスイの得意であり欠点だというのに。

 膝を抱えたヒスイの上で、夜はどんどん明けていく。『風運び』に会えないならば、里に帰らなければならない。早起きの母は彼女が脱け出したことに気付いただろうか。兄はどうしているだろうか。もう騒ぎになって、里の男たちが集められている頃だろうか。そうだとしたら、いっそ二度と帰りたくない。

 またぽろぽろと涙が零れた。喉はこんなにからからなのに、熱い涙は次から次へと頬を伝って膝に、乾いて白くなった石の上に落ちて、黒々と染みを作る。

(あたしは何にも出来ない。友達も助けられない)

 思い浮かぶのは『風運び』の少女の儚い笑顔。風に髪を靡かせる、可憐な花のような姿。日に当たらぬ日陰の草の茎のように白い手足。ぽつりぽつりと話す囁きの声。林の中、鳥や蝶を見つけて控え目にはしゃぐ様子。彼女の吹く細く高い草笛の音。そしてあの宴の夜、夜空に響いた奇跡のような美しい音色。

 失いたくない。

 失われてはならない。

 それなのにそれを阻む手立てが分からない。

 ふと気付くと、ぼやけた視界に二本の足があるのが見えた。

 縦に伸びる道標のようなそれを辿って顔を上げると、萌黄色の小袖の裾、木の皮で染めた細い帯、白魚のような腕と薄い胸が見えた。

「……カワセミ」

 見下ろす顔の表情は、ぼやけてよく分からない。けれどそれが誰かは疑いようも無い。あるかなしかの微風に幾筋かの髪が宙を舞っているのが、何故だかよく見えていた。

「どうして来たの」

 囁くように『風運び』の少女が言う。怒るような悲しむような調子で。

 声は昼に聞いたばかりなのに、何年も離れて耳にしていない、そんな気がした。

 名を呼ぶことも出来ずヒスイは立ち上がって飛びついた。驚いたカワセミが腕を広げたが、当然のように互いの手も身体もすり抜けて、少女はがらがらと石の上に転がった。

 硬い石で体を打った痛みで一瞬気が遠くなる。

「ヒスイ! 大丈夫? 怪我は無い……?」

 困惑し泣きそうなカワセミの声が耳に届く。そうだ、気を失っている訳にはいかない。

「カワセミ……お願い、雨を降らせないで」

 痛みを堪えながら、渇いた喉から声を絞り出す。

 体を起こして見上げた友人は戸惑いの顔をしていた。

「どうして? 今はまだよ。でも、これからもっと、雨が降らなかったら……里の畑はみんな枯れてしまう。牛も鶏も、里の人も、みんな……死んでしまうわ」

「でも、雨を降らせたらカワセミが死んじゃうんでしょ」

 叫んだつもりだった。しかし声は掠れて、飛び出したのは拍子抜けするくらい小さな声。

「それは、あたしは、嫌だ。カワセミが死んじゃうなら雨なんていらない。お祈りされてもお願いされても、そんなことしなくて良い。雨なんて、呼ばなくたってそのうち降るんだ。それまで我慢するから、家にいて、水が飲めなくても、じっとしてるから」

 悲しくて情けなくて、また涙が零れて落ちる。雨が降るまで我慢しなければならないのに。勿体ないと言った母の言葉が蘇った。

 声を震わせしゃくりあげる少女の頬を、カワセミの手が翳すが如く撫でる。

 再び顔を上げると、友人の少女は困ったように笑っていた。

「困った子……そんなことで、言い付けを破って、ここまで来たの?」

「そんなことじゃ、無い。カワセミが死んじゃうのは……」

「死んだりしないわ。一体どうして、そんな風に考えたの?」

 微笑む少女。その顔に困惑はあれど、悲愴や絶望は無い。ヒスイはぽかんとした。

「……違うの?」

「ええ、そうよ。そんなこと、言ってないでしょう……?」

「でも、良いことばかりじゃないって。あたしも里の人も雨が降って嬉しいけど、でも良いことじゃ無い、悪いことがあるなら、『風運び』の、カワセミのことしかないよ」

「……確かに、雨を呼ぶのは大ごとだわ。体の調子を崩す人もいる。でも……それで死んだりはしないわ。もしかしたら、少し寝込むかも知れないけれど」

「それも、あたしは嫌だよ」

「里の人が死んでしまうのも、私は嫌よ」

 囁くような声色で、しかし強くはっきりと、カワセミは言った。

「有難うね、ヒスイ。私のために、ここまで来てくれて」

「カワセミ……」

「でも、私は死んだりしないから。雨を降らせるかどうか、まだ分からないけれど、それでも私たちは誰も死なないわ。少し体が悪くなったとしても、すぐ元気になる。だから、安心して、待っていて」

「本当に? 嘘じゃない?」

「私、ヒスイに嘘なんて言わないわ」

 微笑む顔は優しく清流のよう。その口調にも眼にも、嘘偽りの色は見当たらない。

 それにそうだ、カワセミがヒスイに嘘を吐く筈など無いのだから。

「分かった」

 こくりと少女は頷いた。カワセミも合わせるように小さく頷く。

「里まで送っていくわ。私は、ヒスイのお母様には見えないけれど……他の『風見』の人に言うわ。ヒスイは悪くないって」

「でも里は、カワセミ、苦手でしょ」

「ヒスイがこんなになって、私を助けに来てくれたのだもの。それくらい、平気よ」

 カワセミの手が、土で汚れ擦り傷だらけになったヒスイの膝を撫でる。触れられる感覚は無いが、そうされるといつも、どこか温かさを感じる。

「これは私の、ほんのお礼」

 少女が微笑み、つられてヒスイも笑っていた。

 カワセミは死なない。

 それが分かっただけで、こんなにも安心で、嬉しい。


 戻った里では、ヒスイが懸念したほどの騒ぎにはなっていなかった。

 母は無論、烈火のように怒り狂い、それはカワセミから事情を聞いた『風見』たちの話を伝えられても収まらず、周りの大人たちが必死に宥め透かして漸く落ち着く程であった。

「全くおまえという子は、どれだけ心配させて、迷惑をかけたか分かっているのかい!」

 自業自得で、ヒスイは謝るほか無かった。仕方がない。当然の報いだ。止められても家を出て、皆に散々気を揉ませたのだから。

「ごめんなさい」

 いつになく素直に謝る娘に母は拍子抜けしたような顔をしたが、説教は結局、夜まで続いた。

 ヒスイが家を出るのを見ていたと思しき兄は、それについて何も言わなかった。いつもなら真っ先にからかうなり何なりする筈なのに。

 それが逆に居心地悪く、母の不在時に問い質した。

 兄は面倒くさそうにしていたが、しつこく迫ると渋々口を開いた。

 曰く。

「あんときのお前、何だか鬼みたいな顔してたから」

 その後で、鬼気迫るってのはああいうのを言うんだろうな、と呟くように付け加えた。

 どうやら家を出る際に目の合ったヒスイは、それほど恐ろしい顔をしていたらしい。

 色々思うところはあったが兄には言わなかった。何故か笑われるような気がして。兄もこの話はさっさと切り上げたがっている様子だった。妹を気遣ったことが恥ずかしいのか、五つ下の少女を僅かでも恐ろしく感じたことが決まり悪いのかは分からないが。


 それから暫く日照りは続き、とある日の朝、ヒスイたち『風見』が神窟に集められた。

(雨を呼ぶお願いをするんだ)

 呼ばれてすぐにヒスイは察した。これが正式な『風運び』の民へのお願いの儀なのだと。

 集まった人々は天井の迫る洞に並んで座り、祠の前、組まれた小さな櫓に火が点けられる。誰も皆、押し黙り、鬱屈とした空気の中、火の爆ぜる音に混じって長老が祝詞を唱え始める。

 やがて誰ともなくそれに続いた。人々の声は狭い洞を満たし、煤けた岩の壁を震わせる。ヒスイもいつの間にかその流れに飲まれ、幼い時分に一度教わっただけの祝詞を口にしていた。

 歌うような唸るような声の重なりの中、長老の嗄れた願い言葉が櫓の奥の祠に向かって伝えられる。

 炎が揺らめき、その奥に人影が立つ。

 顔は分からない。恐らく知らない『風運び』の誰かだ。

 男とも女とも付かないその人が小さく何かを言って、長老が更に何かを伝えて伏し拝む。それに倣ってその場の『風見』も頭を下げた。

 次にヒスイたちが顔を上げたとき、炎は消え、櫓の向こうには誰もいなかった。


 その日の昼、高らかに峠の櫓の鐘が鳴った。

 里の人々が次々と戸から顔を出す中、かんかんと響く金属の音に混じって『風見』たちだけがそれを聴く。

 歌うような唸るような、何人も何十人もの声の重なり。遠い峰々を吹く風に乗り、風を呼び、空に散らばった雲を集める。白い雪片のように小さな雲は、里の上で集まり重なり、黒々と陰鬱に影を帯び、谷はまるごと薄闇の中に沈む。

 あ、と誰かが声を上げた。

 その声の理由を、頬に落ちる雫ですぐに誰もが知ることとなる。

「雨だ!」

 歓声を掻き消して、曇り空から雨粒が降り注いだ。一体どれだけ振りの雨だろう。人々は手を広げ、道に転がり、水瓶の蓋を取り払って軒下から押し出した。人々の興奮に犬たちも吠え、牛馬は嘶き、家禽たちは激しく羽ばたいて時ならぬ時を告げる。

 ヒスイは家の前、道の真ん中で、天を仰ぎ立ち尽くしていた。

(雨だ)

 カワセミが、『風運び』たちが呼んだ雨。

 良いことばかりでは無い、とカワセミが言った、どこかで誰かに悪いことが起こる雨。

 里にとっては、恵みの雨だ。

(雨が上がったら、会いに行こう)

 号泣する天に手を伸ばし、小さな掌で器を作る。すぐに溜まって溢れる水を一息に飲み干す。

 渇いた喉を潤す雨水は、今まで食べた何より甘かった。


 雨は二日間降り続いた。

 その後も数日おきに雨が降った。沢にも滝にも水が戻り、畑も林も活気を取り戻した。水瓶も川も充分に満たされ『玉結い』たちも仕事を再開した。

 里の人々は『風運び』に感謝し、神窟には常より多くの品が納められた。この雨で枯死を免れた作物は勿論、職人が彼らのために丹精込めて仕上げた着物や髪飾りも、奉納台を溢れんばかりに彩った。

 秋に帰った『商い役』たちが外の日照りの話を持ち帰り、比べて里の豊かさに驚嘆するのはもう少し先の話。


 水と緑の戻った河原で、『風見』の少女は『風運び』の娘の吹く草笛に耳を傾ける。

「みんな、何ともない? 具合悪くなったり、してない?」

 林を抜けてきたヒスイが開口一番そう問うと、カワセミはこくりと頷いた。

 その顔には僅かな憂いと少しの疲れが見えたが、あれほどの雨を降らせたのだ。疲れの無い方がどうかしているのだろう。

 だから、一曲だけ草笛を聞いたら帰るつもりだった。

 細く爽やかな旋律が滝の音に消え、それを合図に少女は立ち上がる。

「じゃあ、今日は帰るよ」

「……もういいの?」

「うん。カワセミ、疲れたでしょ。しっかり休んでね」

「……」

 カワセミは曖昧に微笑んだ。

 それを諾と受け取って、ヒスイは身を翻して里への斜面を駆け下りる。

 見送る少女の表情の、陰鬱な影にも気付かずに。

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