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かみのみかくし  作者: 一里 郷
4/13

三、商い人の帰郷

 夏至を過ぎて暫く経った頃、峠の櫓の鐘が鳴った。

 かんかんと高い音は谷の隅々まで響き渡り、住人たちは皆、その音を聞いて知る。

 出稼ぎの一行が、『商い役』が帰って来たと。

「父ちゃん!」

 里の坂道を転がるように駆け下りたヒスイは、一行の先頭に立つ男へと真っ直ぐに飛び込んだ。

「おお、俺の可愛い子鼠よ! また大きくなったな、元気にしていたか?」

 懐を突くように飛んで来た娘を軽々と受け止め、抱き上げ、髪をくしゃくしゃに掻き回して男は笑った。顔全体に広がる人好きのする笑みは、知らぬ人が見ても親子と分かる似方である。

「元気だよ! 風邪一つもひいてない!」

「元気すぎるくらいです」

 横から母が口を出す。

「この子ときたら、日がな一日野山を駆け回っているんですよ。いずれ野兎にでもなっちまうんじゃないかってくらい」

「おお、そうかそうか」

 母の文句を聞き流し娘を抱き上げたまま、父は息子に目を向ける。

「コガネよ、大きくなったな! 精進していたか?」

「勿論です!」

 ヒスイに対しては意地悪ばかりする兄も、父の前では目を輝かせ、少し緊張気味に頬を上気させている。

「前にいただいた書は、もう大分覚えました。計算も打ち合いも、同い年の子には負けません」

「そうか、流石は俺の息子だ。今度はまた新しく、都の僧が使う書物があるからな。先生に渡しておくぞ。打ち合いは、後で稽古をつけてやろう」

「はい!」

 元気の良い返事に父は目を細め、大きな手で少年の頭をわしわしと撫でた。

 ヒスイもいつもの意地の悪さは好かないが、こういう時の兄は少し見直す。実際、真面目で出来が良いと教育係の老『商い役』からの評判は上々らしい。

 対抗して少女も父の腕を揺さぶる。

「あたしにも、お土産はあるの?」

「勿論だ。お前が喜ぶものを選りすぐってきたぞ。ヒスイは良い子だからな。神様がいつも良い品を俺の前に置いて下さる」

「あなたは全く、ヒスイに甘くはありませんか?」

「そうか? お前も甘えたければ遠慮なく来い!」

「そういう事ではございません」

 噛み合っていないようで噛み合っている会話。父は機嫌良く母も満更でもない様子だ。兄も褒められ誇らしげである。周りからは家でやれだの見せつけてくれるだのと野次が飛ぶ。熱いのはいつものことだと笑いからかう者もいる。

「さて、俺は仕分けの会に行って来る。積もる話は後にしよう」

 ひとしきり家族との再会を喜んだ後、父はずっと抱き上げていたヒスイを下ろして言った。

 母は頷き娘を引き取って、兄と共に荷車の一行から離れる。

 父や他の『商い役』たちが遠い村や町から買い付けて来た様々なものが、荷車には満載されていた。

 塩に油、海の幸の干物や塩漬け、様々な道具に使う鉄、病のための薬は勿論、細工に使う金銀に珊瑚や貝殻、染めに使う藍玉や梔子の実、『商い役』見習いのための書物、紅茶や菓子やの嗜好品など様々だ。

 頑健な牛たちが引く車はこの後、里の集会所である大屋根の家に運ばれ、そこで物品の披露と分配が行われる。この仕分けの会に集まるのは里の家それぞれの家長である。

 女であり家長でもないヒスイには一生参加することを許されぬ集まりだが、それを不満に思うことなど無い。集まりが終われば村の皆が加わる宴が始まり、篝火が焚かれて酒も入り、朝まで飲めや歌えやの大宴会となるのだ。

 その上、父が家に帰れば里の外の土産話が聞ける。これまでも、海で採れた大きな巻き貝を磨いた飾りや白く光る小さな真珠、掌に包めるほどの壺に入った蕩けるように甘い飴、南国に生える扇葉の木から採れる糸で編んだ鳥が土産としてやって来た。それらに纏わる話と共に。

 夜闇の中、消えかかる熾きの火を見つめながら筵の中で聞く彼方の物語は、里から出ることのない少女にとって耳新しいものばかりだった。ときに面白おかしく、ときに不思議に、今や『商い役』筆頭の父の語りは川の流れのように聞き手を見知らぬ世界へ連れて行く。いずれ『商い役』として外に出る兄は話の途中で疑問を投げかけたり詳しい説明をせがんだが、ヒスイはいつも黙って聞き耳を立て、話の中に沈んでいくのを楽しんでいた。

 無論、今宵の宴も楽しみだ。土産話は父のものが一番だが、他の『商い役』の話も楽しい。

 そのためには夜までに宴の支度をしなければならない。仕分けの会の間、女たちは料理や振る舞い酒を用意する。

 だから夜まで、暇な者は里に一人も居ないのだ。


 一旦家に帰る道の上で、ふと宙から声が掛かる。

「『商い役』のお帰りかい」

 問うでもなく話しかけ、背の高い『風運び』の青年が、すうとヒスイの横に並んだ。

 女のように髪を伸ばした彼は、外の土産を楽しみにしている者の一人だ。先程も『土交い』である『商い役』らに見えないのを良いことに荷車を覗き込んで、年嵩の『風見』に睨まれていた。

 迎えの際に姿を見ることは幾度もあったが、話しかけられるのは初めてである。

「勝手に覗き見するのは行儀が悪いよ」

 突然、宙に向かって言葉を発したヒスイに母と兄が一瞬ぎくりと目を向けたが、すぐに『風運び』と気付いて少女の視線の先を探るように見る。

「風様かい?」

「そうだよ」

「これはこれはどうも」

 何もない空中に礼する姿は見えぬ者にはさぞ滑稽なことだろう。ヒスイにはこの場の全員が見えているので分からないが。

 『風運び』の青年はにこにこと笑って二人に手を振った。

「私はまだ何のお役にも立ってない。小さな『風見』、この人らに伝えておくれ」

「まだ何も役に立ってないから、礼とかそういうの良いって。ここに来たのはお土産が気になるだけだよ」

 後半の追加は私見だが間違ってはいない筈だ。そこは話さなくて良いのに、という顔をした若者に釘を刺す。

「仕分けの会も覗いたら駄目なんだからね」

 先程の様子を見るに、彼は仕入れ品の分配にも顔を突っ込みかねない。何を心待ちにしているかは分からないが。

「それなら彼らに伝えておくれ。筒のような形をした、細く長く巻いた貝が欲しいと」

「貝? 食べるの?」

「いや、欲しいのは殻だ。前に海の土産に入っていたが、近頃は見ないのでな」

「ふうん」

 ヒスイに見覚えは無いが、特に嘘を吐くような話でもない。

「分かった。言ってみる。けど手に入るかは分かんないよ」

「知っている。宜しく頼む」

 そう言い彼は裾を翻して去って行った。空中と娘を交互に見やっていた母が会話の終わりを察して口を出す。

「風様は何て?」

「細くて長い、筒みたいな巻き貝が欲しいって」

「貝だって?」

「うん」

「何にお使いになるのかね」

「分かんない」

「そういうのはちゃんと聞いとくのが、気の利いた大人ってやつなんだぜ?」

 横から年上ぶって兄が言う。ヒスイはむっとしてその顔を睨み上げた。

「あたしは話してないことを根掘り葉掘り聞くのは嫌がられるって聞いた」

「何だよ、お前は聞きたがりのくせして」

「およしなさい、おまえたち」

 毛を逆立てた猫のようにいがみ合う兄妹の間に母が大きく手を叩いて割って入った。

「下らないことで喧嘩をするんじゃないよ。風様のお願いについては伝えておけば上役が話してくれるんだから。コガネはいちいちヒスイをからかうんじゃない。ヒスイも、そんな風に言われたのはおまえがどこにでも首を突っ込むからだ。しかも肝心なときに話を聞けてないなんて、困った子だよ」

 自分に対する注意だけ少し多い気がして、ヒスイは小さく苛立った。

 だが母は話はこれまでとばかりにさっさと歩き出し、兄もそれに続く。母に見えないよう妹に向かって舌を出すのを忘れないところに腹が立つ。いっそ後ろから蹴飛ばしてやろうと思ったが、それで叱られるのは自分だけだろう。全く割に合わない。

 渋々二人の後に付いて行く。

(折角楽しかったのに。父ちゃんも帰って来て)

 ひどく水を差された気分だった。これはあの『風運び』の所為なのか、横から意地悪を言う兄の所為なのか、ヒスイにばかり口煩い母の所為なのか。

(カワセミと話したい)

 彼女なら話を聞いてくれるだろう。ヒスイのもやもやとした苛立ちを受け止めて慰めてくれるだろう。

 今から林まで走って友を呼びたい衝動に駆られる。

 けれどそれは駄目だ。夜の宴の準備は大掛りで、まだ子供のヒスイも手伝わなければならない。娘が居ないとを知れば父も母も慌てるだろうし、帰れば先程の比では無いくらい怒られるだろう。

 いつもは前座として楽しめる準備を、今日は楽しめる気がしない。

 心の中で溜息を吐く。

(夜になったら会えるかな)


 しかし子供の心は気紛れだ。

 少女の小さな苛立ちは手伝いの忙しさに押し出され、宴本番には殆ど洗い流されていた。残っているのはただカワセミを探さなければという思いだけで、これは不満が無くとも普段から思っていることだった。

 祭のように焚かれる篝火。炎の舌が暗闇を舐め、羽虫のように火の粉を散らす。

 芋や団子を蒸す湯気の中、大屋根の内外に里中の人が集まって、酒を飲むやら歌うやらのどんちゃん騒ぎが始まった。壁の内で海を渡る大船の話をする者がいれば、星の下で春の間に相手を見つけた若者を囲んで囃し立てる者もいる。

 そのあちこちに『風運び』たちが混じるので、ヒスイたち『風見』には人の数が倍ほど増えたように見えていた。ただし彼らは里の民をすり抜けるので、見た目ほど窮屈ではない。

 そんな騒ぎの中、蒸した団子に見向きもせずに、ヒスイはカワセミを探していた。

 周りは人混み、それも酔った大人たちで、小さな子供が歳のそう変わらぬ娘を探すのは難しい。『風運び』たちも触れられはしないものの視線は遮るし、やはり酒と宴の空気に酔っていて、人捜しには応えてくれそうにない。

 途方に暮れかけたその時、爽やかな風が一迅、火照った頬を撫で過ぎた。

 はっとそちらに顔を向けると、篝火の向こうに彼女がいた。細く長い髪を揺らめかせ、赤い炎に照らされた姿は常より儚く、今にも湯気と煙に溶けてしまいそうに見えた。

「ヒスイ」

 掻き消えそうな声に呼ばれ、少女は酔って寝転んだ大人たちを乗り越え、友人の下へと駆け寄った。

「カワセミ、ここにいたんだね。探した。会いたかった」

「私も」

 手を取り喜ぶことが出来ない代わりに、二人は寄り添い見つめ合う。

「ずっとここにいたの?」

「ええ」

「そうなの。ごめん、もっと早くこっちに来れば良かった」

「いえ、いいのよ……」

「あ、ちょっとここ、離れようか」

 咽せるような人混みで、明らかにカワセミは口数を減らしている。少女が頷いたのを見、手を引けぬことをもどかしく感じながらヒスイは灯りと人の輪を出た。

 炎を離れると涼しい夜気が体を包む。まるで夢から覚めるように頭が冴え、視界が広がる。

 振り向けばカワセミも同じく今目を覚ましたような顔で立っていた。

「こっちの方が涼しいね」

 話しながら近くの地面に腰を下ろすと、カワセミも隣にしゃがみ込む。見回せば同じように明るい集まりから離れた者が何人かいた。今出たばかりの少女たち以外は皆、男女の組であったけれど。

「今日、ほんとは準備の前からカワセミに会いたかったんだ」

 篝火に照らされ燃えるような色に染まった大屋根を眺めながら、ヒスイは呟く。隣の少女が首を傾げる気配がした。

「そうなの?」

「うん」

「……何か、あったの?」

「ちょっとね」

 思い返すと腹立たしいが、あの時に感じたよりはずっと丸い感覚だ。

「『風運び』の大人に頼み事をされたんだけど、細かいこと、ちゃんと聞かなかったから怒られた」

「そう……」

 囁くような相槌から少し間を置いて。

「でも、ヒスイはまだ小さいもの、悪くない……そういうこともあるわ。大人が後で、きちんとしてくれる筈だもの」

「うん……」

 ヒスイはにっと笑って。

「やっぱりカワセミは優しい。話して良かった」

 そして暫しの沈黙が下りる。

 黙り込んだ二人の間を宴に酔った大人たちの笑い声が行き過ぎた。

「……でも本当に、昼の人は何だったんだろ。カワセミは知らない? 背が高くて髪が長くて、きれいな男の人」

 ヒスイの問いに、カワセミは小さく首を傾げる。

「男の人はみんな、背が高いわ。髪も……伸ばしてる人は、沢山いるし」

「だよねぇ」

「ごめんなさい……」

「いいよ。カワセミ悪くないもん」

「でも、私……あまり人に会わないから……」

「いっぱい知り合いがいても、知り合いじゃない人だったかも知れないもん。やっぱりカワセミは悪くないよ」

 『風運び』は人と関わるのが好きだ。人知れず物を贈るのが好きな者もいれば、近くから遠くから眺める、というより観察するのを好む輩もいる。彼らが見える『風見』とお喋りを楽しむ者もいる。だが『風見』は少なく仕事もあるので、特に関わりを好む者は、逆に『風運び』同士ばかりと接することも多いという。

 年寄りやごく幼い子は、ただ里に下りられなかったり、面倒だったりというのもあるらしいが、基本的に『風運び』は人に友好的で、何らかの形で関わりたがる。

 その中でカワセミの性質は珍しい。とても控え目で怖がりで、知らない相手と話すのを苦手としている。だから新しい知り合いを増やすのはとても難しいし、今日の宴のような人混みは蛇の巣に分け入るようなものだろう。

 彼女がヒスイと友人になってくれたことは、殆ど奇跡である。

「せめて、名前だけでも分かれば」

 引っ込み思案の娘がしゅんと呟く。確かにそうだとヒスイも思う。

 それを思えば、自分は何と迂闊なのだろう。母に叱られるのも仕方がない。兄の意地悪は理不尽極まりないが。

「細長い貝なんて、一体何に使うのかな」

 疑問は絶えないが答えは出ない。

 再び黙り込んだ二人の間に飛び込んだのは、今度は爽やかな男の声だった。

「ああ、お前さんは昼間の娘じゃないか」

 ヒスイがぱっと振り向くと、三歩ほど離れたところに見覚えのある若者が蒸し団子を手に佇んでいる。顔を見れば間違いない。さらさらとした長い髪に涼しげな目元、『風運び』には珍しくない、女とも男とも取れるきれいな顔立ちの若者だ。

 隣にしゃがんだカワセミがヒスイの方にそろそろとにじり寄るのを感じる。同じ『風運び』であり、悪い人物には見えないが、やはり見知らぬ人は苦手なのだろう。

「今、そこから出てきたら話が聞こえた。私のことだろう?」

「そうだけど……」

「私の名はヒバリだ。先程は名乗りもせずに済まなかった」

 言葉とは裏腹に全く済まなそうな顔をしていない。不審げな少女たちをよそに青年はからりとしている。

「貝のことは伝えて貰えたかい?」

「まだだよ。父ちゃんにも他の『商い役』とも話してないもん」

「ほう、お前さんの父親は『商い役』なのかい」

 『風運び』の青年、ヒバリは少し目を丸くした。

「『風見』の父が『土交い』とは初めて聞いた。では母親が『玉結い』か」

「そうだけど……」

「そう言えば、何年か前に橋を越えて契りを結んだという酔狂が居たと聞いた。成程、お前がその子という訳か。これは『風運び』と契りたがる輩が出るのも時間の問題かな」

 向けられたのは恐らく好奇の目。

 里の者からはそんな風に見られたことなど無い。日常に於いては『風見』である方が余程特異なことであるし、父も母も人望があるから、そのために負の感情が向けられることなど一度も無かった。

 居心地の悪さに思わず怯む。けれど相手の顔からは目を離さない。これは意地だ。

「いやいや、そんな怖い顔をしないでおくれ。何も酷く言うつもりはないし、悪さをしようとも思っていない」

 言って苦笑するヒバリの視線はヒスイの横に向いている。

(え?)

 ちらと横目で見ると、少女の影に半ば隠れながら、『風運び』の娘が、今までに見たことのない激しい目付きでヒバリを睨んでいた。自分が奇異の目で見られたことより、ヒスイはこちらの方でぎょっとする。

「カワセミ……」

「……」

「えっと、あたし、何ともないから、平気だから」

「……本当に?」

「ほんとだよ」

 言葉を重ねてやっと、カワセミは表情を和らげる。緊張した風の若者もほっと胸を撫で下ろしたように見えた。

「妙な物言いをして済まなかった」

「いいよ。父ちゃんが橋を越えたのはほんとだし」

「そちらの娘さんも、友達のことを悪く言って済まなかったな」

「…………良いわ。ヒスイが良いなら」

 すっかり嫌われてしまった、と肩を竦めるヒバリにヒスイは詰め寄る。

「それで、貝は何に使うの?」

「貝?」

「あんたが土産に欲しいって言った貝のことだよ」

「ああ、あのことか」

 頷いて彼は懐から一本、と数えられそうに細長い貝を取り出した。つるりと磨かれた表面には鮮やかな縞模様が浮かび、葉巻虫の寝床のように巻いていて、先端と胴には穴が開いている。

「これのためだよ」

「……何、これ?」

 答える代わりに青年はそれを摘まむように持ち、強く息を吹きかける。

 ぴい、と、よく通る甲高い音が大屋根の広場に響き渡る。聞き覚えの無い、と思いかけてすぐ、近頃森でよく聞く小鳥の囀りに似ているのだと思い出した。

 これは笛だ。見たことの無い形の。

(あの鳥はこの人だったんだ)

 朗らかな囀りを幾通りか繰り返して、青年は吹き止める。

 短いながらもその音は鮮明で耳に残り、何よりとてもきれいな音色だった。

 ヒスイは感嘆の意を込めてぱちぱちと小さく手を叩く。

「それ……私も、吹いてみたい」

 不意に細い声がヒスイの肩越しに投げられる。

 驚き振り向くと、白い頬を紅潮させ、熱の籠もった眼差しで、カワセミがヒバリを見上げていた。

「お前さん、吹けるのかい?」

 若者の問いで、はっとヒスイは思い出す。

 どうして今まで頭に浮かばなかったのだろう。

「カワセミは、笛が上手いんだ。草笛で鳥の声を吹けるし、童歌も歌える」

「ほう?」

 思いがけぬ話を聞いたと言うようにヒバリが瞠目してカワセミを見た。

「それは興味深い。一曲頼もう」

 『風運び』の青年から少女の手に貝の笛が渡った。

 ヒバリは息の込め方や、音色を変えるための穴の押さえ方を二つ三つ軽く教える。簡単だよ、と言う通り、ヒスイにもすぐ出来そうな扱いである。見るとやるとでは大違いなことも、身を持って知っているけれど。

 やがて真剣な二対の目が見つめる前で、カワセミは縞模様の笛にそっと息を吹き込んだ。

 それは、先程の音とは似て非なる、美しい音楽だった。

 始めは物悲しく、次第に調子を上げ軽やかに楽しく、心を踊らせる旋律に転じていく。音色は夜気を裂くほどに澄み切って、彩り豊かに火の粉舞う空を震わせる。

 寒くも無いのに背筋がぞくぞくした。こんな音は、今度こそ聞いたことが無い。

 ヒバリも呆気に取られた様子で、一心に笛を吹く少女を見つめていた。

「いやはや……大した逸材がいたものだ……」

 感嘆の溜息と共にそんな呟きを漏らす。

 初対面の青年の心をも奪う、そんな演奏をする友人をヒスイは誇らしく思った。それ以上に自身がこの旋律の虜になっていることは言うまでも無い。

 けれど、広場に集まった人々の大半は振り向きもしなかった。一部が不思議そうに空を仰いだり振り返ったりするのみ。隣に、今何か聞こえなかったかと尋ねる者もいる。

 篝火も賑やかな空気も酒盛りの光景も同じなのに、いつかヒスイが見た夢とは違う。

「風が見える人にしか聞こえないの?」

 めくるめく音の流れの中、問うと彼は頷く。

「私たちの声と同じだよ。万人の耳に届かせるには、これに触れすぎた。もっと手早く拵えれば初めの一曲くらいは聞こえるかもしれない」

 語るその目は寂しげに見えた。

 そうだ、『風運び』が長く触れたものは普通の人には見えなくなる。よもや音もそうだとは、ヒスイは思ってもみなかったが。

 若者は静かに続ける。

「前々から思っていた。この里の宴には、祭には音が足りない。歌はあっても、拍子を打つ手や棒や、鈴や鼓に似たものはあっても、音色というのが足りぬのだ。奏でる器が無いのは勿論、笛なら吹き手も、この里には無い」

「新しい貝が欲しいのは、聞かせたいから? あんたの、その笛を」

「それもある。だが驕っていたな。今は、この音を聞かせられぬのが勿体ない」

「……そうだね」

 この音、とはカワセミの吹いた曲のことだろう。

 ヒスイにはその気持ちが分かる。それはいつだって少女が思っていたことだったのだから。

 そんな会話の間に、演奏が終わった。

 ほっと一息ついたカワセミが丁寧に歌口を拭って、笛をヒバリに返す。

「素敵な笛……吹かせてくれて、有難う」

 頬を赤らめ、目を輝かせながら少女は言った。

「いやいやこちらこそ、素晴らしいものを聞かせて貰った」

 ヒバリが褒めると、カワセミは赤くなった頬を更に紅潮させ、すっとヒスイの後ろに下がってしまった。照れているのか、まだ人見知りをしているのか、その両方か。

 『風運び』の青年はそれを気にする様子も無くにこにこと続ける。

「これは以前、二本あったのだが、一本を壊してしまった。木や竹でも試したが私の望む音にはならなかった。貝がもっとあればお前さんにも笛が渡せる。存分に吹けるぞ」

 背中から、はっと息を呑む音が聞こえた。黙ったままのカワセミに代わってヒスイは口を挟む。

「作ったら、カワセミにもくれるの?」

「勿論だ。こんな素晴らしい笛吹きを埋もれさせておくなど勿体ない。それに」

 青年の顔が強気な少女の方を向く。

「お前さんは『風見』、つまり『玉結い』の子だ。笛は吹けずとも、作り方ならものに出来よう。どうだ、作ってはみないか?」

 今度はヒスイが息を呑む番だった。確かにそうだ。その筈だ。

 自分が作った笛をカワセミが吹いてくれるなんて、なんて素晴らしい話だろうか。

 興奮を抑えられぬまま、少女は大きく頷いた。

「分かった。あたしから父ちゃんに、貝を持って来てって頼んであげる。だから、笛はちゃんとカワセミに渡して、あたしにも作り方を教えてよ」

「お安い御用だ。貝の数だけ笛を作ろう。そして広めて、宴に音の花を添えておくれ」

 ヒスイは振り向き、カワセミと顔を見合わせる。肩越しに立つ少女は今にも倒れそうに赤い顔をして、満面の笑みを浮かべていた。

「私……分からないけれど、とても嬉しい気持ちだわ」

 表情と裏腹に、泣きそうにも聞こえる震え声。

 取れない手を宙で重ね合わせ、ヒスイは少女に笑いかけた。

「あたしもだ。良かったね、カワセミ」


 それから一体、いつの間に眠ってしまったのか。

 目を擦りながら起きた時には、もうそこは広場でも大屋根の家でもなく、見慣れた自分の家だった。外はどうやら雨らしく、濡れた土の匂いと湿気、晴れの日では有り得ない肌寒さが戸や窓の隙間から漂ってくる。

 本来この寒さを凌ぐため窓は狭く壁は厚く、冬は隙間を塞ぎ、屋内は晴れた昼間でも暗い。雨の日ならば尚更だ。けれど外に光が見えるなら、夜はもう明けている。

 『風運び』たちは、きっともう帰ってしまっただろう。

(おやすみくらい言えたら良かったのに)

 もしかしたら言って別れたかも知れないが、眠りに落ちた記憶も無い。まるで昨夜のことは夢だったかのように。

(でも、たぶん夢じゃない。夢ならきっとカワセミのことだけ見るもん)

 それに、初めて見た貝の笛やその音色のことなど、夢に見られる筈があるものか。

(そうだ、ヒバリの貝のこと言わないと)

「父ちゃん?」

 囲炉裏の脇に座り込んで暖を取っているらしい、大きな後ろ姿に声を掛けた。

「おお、起きたか。お前、広場の端で寝ていたぞ。あのまんまじゃ風邪を引くところだった」

 憂鬱な湿気を払う明るい声。運んで連れ帰ったのは彼なのだろう。朗らかな笑顔でヒスイを振り向いた父はこっちに来いと手招きをする。

「ほら、こっちに来て暖まれ」

「うん……母ちゃんは?」

 招かれるままとことこと父の隣に行き、同じ格好でしゃがみ込む。

「宴の片付けだ。丁度雨になるから広場に広げて、雨で洗って貰おうって話らしいぞ。考えるもんだ」

「兄ちゃんは?」

「先生のところだ。一刻も早く土産の本が見たいらしい」

「ふうん」

 ぱちぱちと炎が爆ぜる。先程までの寒さが嘘のように暖かい。

「本って面白いの?」

「面白いのもあるが、つまらんものもあるな。父ちゃんは話好きだが本を読むのは嫌いだった。コガネはどの本も面白いらしいから父ちゃんは羨ましいよ」

「そうなんだ」

「ヒスイも何か、面白いことはあったか?」

「面白いこと」

 反復し、少し俯く。

「面白いかどうか、分かんないけど……」

「良いさ。話してご覧」

「うん」

 揺れる炎と赤熱した炭を見るともなしに見つめる。

「あたし、夢を見た」

「夢?」

「みんなが、あたしたちだけじゃない里のみんなが『風運び』を見られる夢。昨日みたいな宴の、祭の夜で、みんなが仲良く歌って踊るの」

「それは楽しそうだな。ヒスイの友達もいたかい?」

「うん。あたしたち、手を繋いで踊ったの」

「そうかそうか」

 父の大きな手が少女の肩をぽんと叩いた。『風運び』は見えない。見える者にも触れられない。

 それは『土交い』である父もよく知っていることだった。

「それでね、昨日は他の『風運び』に会って、それで頼まれたんだ。父ちゃんに、『商い役』に、細くて長い貝をお土産に欲しいって、伝えてくれって」

「細くて長い貝?」

「このくらい、指みたいな細くて、細長いやつ」

 手で示すと、父は思い当たる節があるというように頷く。

「そんな物で良いならお安い御用だ。しかし一体何に使うんだい? 特に見目が良くも無いし、美味いもんでもなかったぞ」

「ううん、欲しいのは殻だよ。笛を作りたいんだって。昨日聞いたけど、すごくきれいな音だった」

「ほう。それは父ちゃんも聞いてみたいもんだな」

「父ちゃんもきっと好きになるよ。あたしの友達は、笛がとっても上手いんだ。それでね、すごく早く笛に出来たら、一曲くらいはみんなも聞けるかもって言ってた」

「そうかい」

 少女の熱を込めた語りとは裏腹に、父は笑顔だが、その声に乗った期待は薄い。

 仕方がない。見えぬ者に『風見』の力が宿ったことなど、里が起こって以来、一度も無いのだから。

 ヒスイは囲炉裏の近く、照らされた地面に目を落とす。

「ほんとに、すごくきれいな音だったから、みんなに聞こえないの勿体なかった。父ちゃん、『風運び』がみんなに見えるようになるものとか、そういうのは町に無い?」

「どうだろうな……父ちゃんは聞いたことが無いよ」

 その返事がひどく素っ気なく聞こえて、ヒスイの心は沈んだ。

「……都や、海の向こうの大陸にも無いかな」

「そこまでは、父ちゃんたちは行かないからな、確かめ様が無いんだ」

「そう、だよね……」

「……しかし、都は帝同士の諍いや戦で、人の悪い気が集まり妖が出ると言う。大陸なんぞは広いから俺たちの知らぬ物の怪だらけと聞く。そういうところなら、見えぬものを無理にでも見えるようにする道具があるかも知れん」

「それじゃ」

「と言っても、我々のうち一人でもそんな希少品を手に入れられる機は、万に一つも無かろうな。そういうものはお偉い方々や、化物を退治する武士が持つものだ。俺たちが行くような市には出回らんよ」

 期待を込めて見上げた顔がみるみる曇っていくのが分かったのだろう。父は肩に置いた手をヒスイの頭に乗せてくしゃくしゃと撫でた。

「そんなにしょげるな。話は聞いてみよう。貝も探しておく。もし何も無くとも、お前は気兼ねなくその笛を楽しんでおくれ」

「でも……」

「俺は外に出ていろいろなものを見聞きして、土産に持って帰るだろう? そいつと同じように、お前が聞いた笛の音を、お前が思う通りに俺たちに話してくれ。父ちゃんはそれで充分だ」

 見上げた父の顔に広がるのは何より説得力のある笑顔。

 ヒスイはふっと心が軽くなり、思うより先に頷いていた。

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