二、鳥の名の少女
「それでね、『風運び』とばっかり遊んでると、逃げて消えられちゃったり、神隠しに遭うかもって、兄ちゃんが言ったんだ」
不満を顔いっぱいに浮かべて『玉結い』の少女が言った。
林を抜けて開けた河原。かつての大水で流されてきて、長い時を経て表面を磨かれた卵のような大岩に、ヒスイとカワセミは並んで座っている。
視線の先にはやはり大人が手を広げたくらいの大きな橅がそびえ、二人はその木の洞を見上げる。春先から木菟のつがいが子育てをしていた巣だ。少し前まで灰色の毛玉のような雛たちが押し合いへし合いしていて、カワセミの草笛にも反応して甲高く鳴いたものだが、今は皆巣立ってしまい、少し寂しい。
「でもあたしはそんな話、聞いたことなくって。カワセミは知ってる? 聞いたことある?」
『風運び』の娘、カワセミは横目にちらちらとヒスイを見、彼女の言葉を考え、思い返す。
「……お婆様が、昔、そんなお話をしていた気がする」
「本当!?」
ぱっとヒスイが顔を上げる。年上の友人を見上げるあどけない顔。
そのきらきらと光る山葡萄のような目も、毛羽立った岩雲雀のような髪も、可愛らしく愛おしい。その押しの強さには、たまに腰が引けてしまうけれど。
「小さいときに、聞いたお話……だから、詳しくないし、本当かも分からないけど」
「いいよ、聞かせて!」
「……うん……」
目を伏せ、樹上を仰ぎ、記憶の淵を探る。
「ずっと昔、私のお婆様のお婆様が小さかった頃……『風運び』の娘と『玉結い』の、『風見』の若者が、恋に落ちて、それで毎日ずっと二人で会ってたんだって」
「恋? 『風運び』と『玉結い』が?」
「うん……」
信じられない、というヒスイの顔。
それは話しているカワセミにだって信じ難いことである。
『土交い』と『玉結い』の間ならいざ知らず、触れ合うことも出来ない『玉結い』と『風運び』の恋など叶う筈も無い。確かに『風運び』の者たちは人にとって美しく好ましく見える姿をしていると聞くが、それだけである。途方もない話だとは幼い少女たちにだって分かることだ。
「それで、二人はずっと一緒で……だけど、どのうち『玉結い』の若者は、里の誰からも、見えなくなってしまった、って」
「里の、『風見』にも見えなくなったの?」
「分からない……そういうことまでは、お話になかったから……ごめんなさい」
興味津々のヒスイの質問に答えられないのを申し訳なく思い、カワセミは小さく謝った。対するヒスイはううんと首を振り笑う。
「カワセミの知ってること教えてくれただけで嬉しい」
その目には今、残念さより好奇心が湛えられている。
「ありがと、カワセミ」
「……私は、聞いたことあるのを、話しただけだから……それに、これはただのお話だもの」
カワセミの言葉に、ヒスイはそうかあ、と言って体を揺らした。
「じゃあ、もう一つの、『風運び』がいなくなる話は?」
「そっちは……聞いたこと、無いと思う。でも、お婆様なら、知っているかも。……訊いてみる?」
「うん、知りたい!」
『風見』の娘は破顔してきらきらと笑顔を溢す。
それは晴れた日の滝の飛沫のように、とても眩しい。
彼女と出会ったのは数年前。雨で濁り激流と化した沢に足を滑らせた少女が落ちるのを、目の前で見たのが始まり。
あの時、カワセミは何も出来なかった。
幼さは言い訳にしたくない。小さな影は濁った渦に一瞬で飲み込まれ、祖母がすぐに掬わなければ遺体すら上がらなかったろう。あの、ほんの瞬きするような時間を、当時は毎日夢に見てうなされた。勿論、今でも忘れられない。ヒスイはカワセミが助けたと思っているのかも知れないが、勘違いだ。カワセミは何もしていない。
何度も見舞いに行ったのは、その罪悪感からだろうか。それまで殆ど『風運び』たちの住む洞から離れたことの無い人見知りの彼女にとって、見知らぬ人ばかりの里は恐ろしかった。だがそれを乗り越えることで、自分は何かしている、と思い込むことが出来たのだ。祖母は何度も、お前は悪くないと慰めたが、里へ向かう足を止めることは出来なかった。
少女の熱が下がり元気になったと聞いて、カワセミは肩の荷が下りた気がした。禊は終わり、きっともうあの子とは会うことも無いだろうと、そう思っていた。
その考えは、間もなく林にやって来た元気な少女によってすぐに裏切られるのだが。
あれから二人は、冬の間以外は毎日のように会っている。初めこそ胸の奥にわだかまりがあったものの、日々を過ごすうち、それは雪解けのように消えていった。
ヒスイが嬉しいとカワセミも嬉しい。嘆いていれば胸が苦しく、不安なら居ても立っても居られない。いつの間にか、カワセミの心はヒスイと共に動いている。くるくると良く動く表情、野兎のように跳ね回る動き、ときに無邪気に、ときに悪戯っぽい笑顔。どこを取っても愛らしく、心を掴んで離さない。
それだけではない。人混みや見知らぬ人を苦手とするカワセミのために、毎日こうして林を越えて来てくれる。心根のとても優しい子だ。
守ってあげたい、そう思う。
苔生した枝に座り、足をぶらぶらさせながら少女が語る。
「この間ね、あたし、『風運び』のみんなが里のみんなに見えるようになった夢、見たんだ。お祭りの夢でね、すごく楽しかった。あんな風になったら良いなって思った。カワセミのこと、あたしの自慢の友達だってみんなに紹介して、笛も聞いて貰えるんだ」
「そうね……それはとても素敵」
『風見』が力を失う話は皆無だ。逆に普通の『玉結い』や『土交い』が見えるようになったということも。姿を消す話はあってもその逆は耳にしない。だからヒスイが見た夢は夢に過ぎない。
カワセミは知っている。ヒスイも他の『風見』から聞いていることだろう。
「けど、今のまんまでも楽しい。あたしはそれでいいや」
子供らしく無邪気に少女が笑う。カワセミはそっと目を細めて微笑み返した。
本当にこの子は愛らしい。
その日も一日沢や林で遊び回り、空が薄紅に染まる頃、ヒスイは里へ帰って行った。
「またね!」
千切れそうに大きく手を振って、それから毬か子犬のように坂道を下って行く。
その後姿を見送ってから、カワセミも踵を返した。
いつもヒスイと待ち合わせる沢の巨石の先、水音を轟かせ殷々と流れ落ちる滝の裏に、カワセミたち『風運び』の多くが住まう洞がある。
里人が有事に願う神窟にも通じるこの洞は深く入り組み、最奥は誰も見たことが無いらしい。夜闇にすら泣きたくなるカワセミとしては、そんな地の底など恐ろしくて足を踏み入れる勇気など微塵も湧かない。
(きっとヒスイは好きなのでしょうけど)
あの小さな山歩き名人は、そんな話を聞いたなら喜んで洞の奥へ跳ねて行くだろう。しかしそのためには滝の裏か神窟を抜けねばならない。滝の裏は風や水を操れる『風運び』だからこそ通れる道だし、神窟の奥へ入れば、罰が当たると手酷く叱られるだろう。手に入らない夢を見せ付けることになるのは心苦しい。
だから洞のことはこの先も秘密にしていくつもりだ。
(それに、ヒスイが行けても、私は怖いし……今のままでも楽しいことは沢山あるもの)
轟く瀑布を難なくすり抜け荒々しく暗い穴を進むと、明らかに人の手が入ったと分かる空間が出迎える。
歩きやすく削られた足下、さりげなく気を遣って這わされた壁の苔、置物のようにあしらわれて生える美しい傘の茸たち。明かりは淡い光を放つ生き物と、磨いた石を反射させて取り入れた陽光だ。そのため外と同じく日が暮れれば暗くなる。
『風運び』と呼ばれる人々はこの洞で寝起きしていた。
「お帰り、カワセミや」
ふっくらと苔が敷かれた小部屋に入ると同時に、奥から嗄れた声が掛かる。
「ただいま、お婆様」
仄明るい部屋の隅を埋めるように積まれた天蚕の繭の前、身綺麗な老婆がぴしりと背筋を伸ばして正座していた。ごつごつした手には美しい緑の繭があり、節くれだった指でその表を撫でる度、するすると糸がほぐれて膝の上に落ちる。
世の養蚕家や里の糸紡ぎが見たら肝を潰すことだろう。道具も無しに糸を繰るなど人の手では不可能だ。そもそも今のこの国に良い生糸を繰れる家は数少ない。
「硬玉の娘と遊んでいたんだね」
膝の上に落ちた十数個分の天蚕糸を今度は糸巻きに絡めながら、淡々と祖母、ツグミが問う。硬玉とは翡翠、即ちヒスイのことだ。
「ええ、お婆様」
「お前は本当にあの娘に執心しているね。その調子で、ねだられたことを何でも叶えたりはしていないだろう?」
「……ヒスイはそんな、勝手なお願いはしません。笛を吹いてとは、せがまれるけれど……本当に……それだけで……」
「まあ、そんなものだろうね。お前も言い付けを破るような子じゃない」
『風見』の娘と私的に関わり始めて間もなく、祖母に言い含められたことがある。
どれだけ乞われても、容易く人ならぬ力を見せ、貸してはならないと。それがヒスイ本人からのものでも、誰かからの頼まれごとであっても、『風運び』が里の側からの願いを請けるには特別な儀を経なければならないのだと。
だからこれまでカワセミは、ヒスイの望みを叶えるのに力を使ったことは無い。自ら進んで、例えば巣から落ちた鳥の雛を戻す時に、風を起こしたりはしたけれど。
俯き目を伏せた小さな孫に、老婆は微かに口の端を持ち上げた。
「なに、あんまりお前たちがべったりなものでね。ずっとお守り役をするつもりでないかと思ったのさ」
静かな口調からは咎める響きは感じられない。ただ、静か故に怒っているようにも聞こえるだけだ。
「ヒスイは……お守りのいる赤子では、ありません。……あの子とは、ただの、良いお友達です」
「知っているさ。だが『風見』の子には幾つになってもお守りが要るものだ。ああいう子にとって、とかくこの世は生き辛い」
生糸の匂いに誘われた五つ足の布食いの生き物を払って老婆は言う。
「見えぬことと無いことは同じではないが、同じものだとする者が多い」
「……里の『玉結い』も『土交い』も、私たちのことを知っています」
「彼らには一部だが『風見』がいるからね。知っているかい? 彼らが我らを見なければ、きっと我らは今の様にはならなかったろう」
かつて『風運び』は遊ぶように漂うように生きていた。里の民ほど衣食住を要さず、夏は陽炎の如く空中に揺らめき、冬は霜のように大地に降りて眠り、春が来れば雪解けと共に再びふらふらと宙を舞う。その頃の状態は生き物より風や雲に似ていたという。
彼らが真面目に物事を見、活かすようになったのは人と、里の民と関わるようになってからのことである。
「そんな頃の暮らしなど、お前には想像が付かないだろうね」
「はい……」
「そう縮こまることはないよ。私も生まれる前のことだ。この洞はずっと前からこの形で、こうやって繭から糸を取ることも、子供の頃からしていたことだ」
自らの生活のため、衣服や布巾に使う布を織り、その材料や飾りに使う獣の毛や羽を集め、より明るく光る虫や茸や寝床に使う柔らかく厚い苔を育てるなど、里の者と遇うより以前には無かったという。それまで雨や風のように漂い生きてきた『風運び』にとっては無用の作業だったからだ。
しかし人と関わり、より人らしくなった『風運び』たちは、いつの間にかそれを要事と感じるようになっていた。昔はそれを疎む層もいたようだが、今では遊び漂う暮らしに戻ろうという者は無い。
それは、子供が大人になって初めて多くの人の前に出る、そのときの変化に似ていた。
まず人を真似て衣服や髪を整え、住処を改め、言葉を覚えて意思の疎通を図った。里の者の考えを知り、必要としているものを探った。そしていつしか彼らは役割を見付けていったのだ。
例えばある者は野山や里を巡っては水や土の具合を確かめ、見える者に助言を与える。またある者は里に住み、若い『風見』に常人には見えぬものたちとの付き合い方を教えていた。
『風運び』が長く触れれば人に見えなくなってしまうが、そうなる前に、『玉結い』や『土交い』では手に入れられない、例えばきれいな蜘蛛糸の束や川底の琥珀を集めては、人前に落としていく気まぐれ者もいる。
そして大きな災禍が降りかかるときは、人々の強い願いに応えて嵐や大水を鎮め、渇いた畑に湿りを呼び、長雨の雲を吹き散らした。
これらは里の民における仕事と同じ役割だが、それを始める齢に決まりは無い。ヒスイが聞けば羨ましがるに違いない。
里の仕事と違うのは、それが生活に直結する訳では無く、しなくても死にはしないということだろう。
だが多くの『風運び』は、役割を得ることを喜びと感じている。
こういったことを生き甲斐と言うのだと、いつだか誰かが言っていた。
『玉結い』や『土交い』はその『風運び』の行いを喜び崇めて祀っているが、『風運び』からすれば漂っていただけの自分たちに人の姿と生き方を、生き甲斐を与えてくれた人々は感謝の対象だ。
更に人に似るにつれ『玉結い』が染めた糸や布、『土交い』の作った野菜や仕入れてきた物品、主に供物として神窟に捧げられるそれらを好む者も増えた。得たものに対する喜びや感謝は『風見』を通じて里に伝えられている。
そう、この奇妙な見える者と見えぬ者の間柄は、一部の見える者を抜いては成り立たない。故に『風見』の重要さは『風運び』たちにもよく知られていた。
『風見』の娘と仲を深めることに異論を唱える者など、彼らの中にはいないだろう。
少なくとも彼ら自身が定めた決まりの中でなら。
「今の我らは里の者らあってのもの。里を出れば我らは霞よりも薄いものになろう。我らも、我らのご先祖がこの里の者らと逢う前のような、雨風と同じ様なものになり果てるだろうよ。今考えたり思ったりするようなことも全て忘れて、そうだね、虫や草木の様になって人の姿も忘れてしまうかも知れない」
淡々と祖母が語る。
それを聞き、カワセミははっとした。
「お婆様、それは本当?」
「ああ、そうだよ。……おや、お前には話していなかったかね。知らなかったのかい?」
「ええ……」
頷き、少女は老婆を見る。
「今日、ヒスイと話したの……『風運び』と仲良くなり過ぎた里の人が、あんまり遊んでばかりいて、それが嫌になって『風運び』が消えてしまう話……それから……やっぱり『風運び』と仲良くして、恋をした里の人が、里の人から見て、消えてしまう話」
「ほう、今日は神隠しの話だったのかい」
「そうでしょうか? ……そんなことは、あるのでしょうか?」
孫の真剣な眼差しに、祖母はふっと息を吐く。
「後者は私もした話だね。婆の婆が娘だった頃だったというよ。でも、聞いた頃にはもう呆けていたからねえ。本当かどうかは婆にも分からない」
人の姿を真似てから『風運び』は知性と共に寿命をも得た。人のように生まれて育ち年を取り、若ければ恋をし、老いれば呆けることもある。最後は風に溶けるように消えてしまって、それを死と呼んだ。
そうなったことを悔いる者はやはり居ない。何も考えず、何も思わず、そんな空虚に戻ろうとは誰も思わない。
だが、それ故に。
「前者は有り得ることだろうね。私たちは人を見て人の姿になった。離れれば元に戻るのは道理だ」
「でも自分から離れるなんて……それに、そういうことは、だんだん忘れていくのでしょう? 急に消えるなんてこと……あるのでしょうか」
「そうだねえ。余程、愛想が尽きたのか、己が側に居たくない、居てはいけないと思ったか、そいつばかりは本人にしか分からんだろうよ」
「……」
「だが、自ら消えたいと思えば、そうすることは出来る」
その言葉は、少女には衝撃だった。
気付かずに老婆は続ける。
「婆も、そう多くは無いが、消えた者を何人か見て来たよ。お前の聞いた話にあったように、こちらにばかりやって来て村八分にされかけ、それを案じて自ら去った者。懇意にしていた里の『風見』とひどく不仲になり、里に愛想が尽きた者。逆に相手が病に倒れ、或いは亡くなって、その悲しみに堪えられなくなった者。理由は様々で、稀ではあるが、珍しいとは思わなくなったね」
「……消えてしまって、人の姿で無くなったら、それは……どうなってしまうの?」
ここでカワセミの震え声に気付き、ツグミは慌てたようにこちらを見た。
「おやおや、ごめんよ。お前を怖がらせるつもりは無かったんだ。悪い婆だね」
枯れ木のような手で招き、歩み寄った少女の細腕を優しく撫でさする。
「安心おし、そういったことは滅多にないよ。それに、消えたところで、死ぬ訳では無いのだから」
「……本当に……?」
「そうだとも。元々の姿に戻るだけだ。そのうち何年も何十年も経ってから、気の合う『風見』と触れ合って、人の形を取り戻した者も居る」
「元に戻れるの……?」
「そうとも。だからあの子を、あの子との繋がりを大事におし、カワセミや。お前を、私たちを見られる者が居ることは、とても尊いことなのだから」
『風運び』の娘はこくりと頷いた。
震えは全て去った訳では無いが、祖母のしっかりした手は大樹のように心を安らがせる。
「……お婆様、外に、里の外には、ヒスイのような子はいないのですか」
「それは、さあ、どうだろうね。私も私の親も友人も、そんな遠くまでは行かなかったから」
「そう……」
「知らぬから居らぬ、という訳では無いだろうがね」
話すというより呟くように祖母は言った。
「外の『風見』も、人の繋がりもそうだ。見えぬから無いものと断じがちなのは我らも同じ。穴に落ちた者を嗤って足下を疎かにすれば、我らもまた同じ穴に落ちる。忘れてはならぬことの一つさ」
その日、カワセミは夢を見た。見えない蝶になってヒスイの周りを飛ぶ夢を。
『玉結い』の娘も他の『風見』もひらひらと飛ぶ少女に気付かず、呼んでも叫んでも立ち止まりすらしない。
こういった反応は『風見』ではない『玉結い』や『土交い』と相対して知っている筈だった。けれど誰にも感知されない訳では無かった。
見られず、聞かれず、触れられず。
自らはそこに居ると解っている筈なのに、形を無くして風に溶けてしまいそうな感覚。
(お婆様の言った通り……)
指先から崩れていくような不気味さを覚えながら、少女はいつか聞いた話を必死に胸中で繰り返す。
『風見』の力は新たに得ることも無いが失われることも無い。
だからこれは、来る筈のない未来、ただの夢なのだと。