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かみのみかくし  作者: 一里 郷
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一、玉の名の娘

 少女の知る世界は広くない。

 渓谷に挟まれた小さな里。平屋の家々は急な斜面に貼り付くように建ち、道や水路や階段状の痩せた田畑がその間を縫う。沢を削った早瀬は谷底を細く流れ、上流は滝、下流と周囲の山々は鬱蒼とした森と林に覆われる。彼女が行ける世界はここまでだ。

 里の者の殆どが、谷の内で生まれ谷の中で死ぬ。外を知るのは限られた『商い役』だけ。里から出る唯一の道は細く切り立っていて、知る人すら稀だという。冬になれば早くから雪が谷を閉ざし、死んだように静まり返る。世俗の噂も諍いも流行も、深山の僻地には届かない。

 そんな狭く、土地も痩せ、華やぎは春の花と蝶ばかりのところであっても、少女は満ち足りている。

 冷たく澄んだ渓流では岩魚や山女魚が鱗を煌めかせ、ふっくらと苔生した岩は素足に優しく柔らかい。滝の飛沫は時折錦の弧を描く。天を突く橅や水楢の林では鳥が囀り狐や鹿や兎が遊ぶ。木々は大きく枝を広げ、葉を透かした陽光が空気一面、鮮やかな緑の光に包む。周囲の山々のため日の出は遅く日暮れは早いが、里が薄闇に沈んでいる時刻でも山肌は鮮やかな紅や茜を纏って染まり、夜は空自体が輝く程の満天の星を臨む。

 ヒスイはここで生まれ、ここで育った。齢は今年で七つを数える。

 狭い平屋で共に暮らすのは父と母と、五つ上の兄。

 外の人々が秘境と称す厳しい土地も、そこで育った少女にとってはそうではない。この谷は、この里は、どこよりも温かく豊かで瑞々しい、幸せで穏やかなところだ。

 どこに何の木があるか、どんな虫や鳥や獣が棲んでいるか、眺めの良い岩場から山菜や茸の穴場まで、山林での仕事を生業にしている大人には負けるものの、知らぬことの方が少ない。

「森や山で遊ぶのはそんなに楽しいの? 怖くはない? 危なくはない?」

 里の娘たちは少女に問う。

 その質問に、ヒスイは言い淀む。もし森の中で一人だったならとうに飽いていたかも知れない。けれど彼女は一人では無いのだ。それを説明すると、問うた彼女たちは納得しつつも怪訝な顔をする。

 何故なら彼女の遊び相手は少女にしか……否、彼女と、里の一部の者にしか見えない人らなのだから。

 その人々を里の民は『風運び』と呼んでいた。


 ヒスイの住む里は深い谷の中腹にあり、沢を挟んで二種の民が向かい合う。

 沢のこちらに住むのは『玉結い』。糸を紡ぎ皮をなめし、錦を織って玉を磨く、腕利きの頑固な職人たち。硬い石や玉を柔らかな紐や布のように扱うことから彼らは玉結いの名で呼ばれている。

 反対に沢の向こうに居を構えるのが『土交い』。土を耕し作物を育て、獣を狩り魚を捕り、外の町へ行って商いをする、社交的で賑やかな人々。ものを育て里を養うことから彼らは培いの名を持つ。

 里の起こりはずっと昔、都を出た南の職人と、北の地を追われた山の民がこの地で出会い、意気投合したのが始まりだという。

 以来二つの民は力を合わせて、この山奥の貧村でひっそりと暮らしてきた。

 『玉結い』は衣服や家具や道具の他、職人の腕を揮って見事な細工を作り上げる。壊れ物を直すのも彼らの仕事だ。

 『土交い』は畑を耕し家畜を育て、山野で狩りをし里の民を養う。狼や熊、猪相手に戦うため、弓を撃ち棒を振るうのも彼らの役目だ。そして『玉結い』の作った細工を『土交い』の商人、『商い役』が町へ行って売り、得た財貨で山や里で得られない塩や薬や貴重な品々を手に入れる。

 こうして長い間、二つの民は互いを利して協力してきた。

 沢に架かる橋はその証と言って良いだろう。深い沢を跨ぐ、雪深く貧しい山村に似合わぬ立派な木桁橋。里を起こして間もなく、『土交い』が切った大木を『玉結い』が組み立てたと言われる。

 人々は長年この橋を大事に渡り、手入れし、年に二度の祭では橋の周りに集まって大いに騒ぎ立てた。

 しかし睦まじい鴛鴦夫婦のような両民の間にも、やはり話せぬ秘密はある。それは互いの技術や風習であったり、個々人に関わるものであったりと様々だ。

 中でも最大の秘密は『玉結い』に、それも一部の者にしか見えぬ存在のことだった。

 人と変わらぬ姿をしながら多くの人の目に映らず、見える者にも触れることの出来ない、霧か霞のような民たち。山にも里にもこうした一部にしか感知されないものは居たが、人の姿をし、意志を通わせられるのは彼らだけである。

 風を吹かせ雨を呼び、その力を以て里に降りかかる天災を鎮め実りをもたらす彼らのことを、人々は『風運び』、或いは尊称として風様と呼び、生まれつき彼らを見る力を持った者たちは『風見』と名付けられた。

 彼らの存在は『玉結い』にも『土交い』にも知られていたが、その姿や力について詳しく知るのは『風見』だけであり、その秘密は厳しく守られている。

 ヒスイはその『風見』として生を受けた。


 朝、里の外へと続く道を駆ける少女の目の端を、ひらひらと白い袖が舞う。

 けして高くはない屋根の上、沢へと下る道の脇、鐘を鳴らし里全体に報せを響かせる峠の櫓、そこかしこに朝の早い『風運び』たちが佇んでいる。一人一人に挨拶を投げるヒスイに、ある者は微笑んで返し、ある者はぷいとそっぽを向き、ある者は居心地悪げに隠れてしまう。どんな反応でも彼女はにこりと笑って返す。

 隠れる者は、もしかしたら見えないのを良い事に悪戯をしていたのかも知れない。ただの引っ込み思案かも知れない。見えない人々にとっては奇跡をもたらす神々のように扱われるが、実際は愛想の良い者も素っ気ない者も居る。

 彼らもまた人なのだと『風見』の長は言った。

 天地をも揺るがす力を持っていても、彼らは人なのだと。

 だからこそ関わりは慎重に、よく考え、気安く望みを願ってはいけない、とも。

 今より幼い頃、『風見』の長老である老婆から『風運び』の力のことを口止めされたとき、ヒスイは問うた。

「なぜ話してはいけないの? みんなの力は何でもできる、とても良いものなのに」

「そうだね。何でも出来る。だからこそ無闇に使っちゃならんものだ」

 枯れ木のような手で幼い頬を撫でながら彼女は語った。

「友や家族にお願いをされたら、叶えたくなってしまうものさ。私たちも、あの子らもね。お前の親が不作に悩んでおれば、お前はそれを何とかしたいと思うだろう」

「……『風運び』には、できるから?」

「雨を乞うのも川を鎮めるのもあの子らにとっては容易いことだし、我らが喜べばあの子らも嬉しいと感じる。奇跡を起こすのが神々ならば全てを見渡して要と不要を見極めよう。だがあの子らはそうではない」

 頼まれれば、役に立てるのならと喜んで腕を奮ってしまう。

 それはヒスイにも解る。『土交い』の商人、『商い役』である父も、愛娘である少女の頼みなら幾らでも聞いて、外から土産を持って来てくれる。親しい者からの頼みとはそういうものだ。

「あの子らの力は万病に効く薬のようなものだ。だが良い力が常に良いことに繋がるとは限らん。それに厭うより親しむ方が危ういこともある。お前にもいずれ分かろう」

 そして不安そうに顔を曇らせた童女にこう付け加えた。

「だが道を誤らねば親しむことは悪いことではない。いつものように遊ぶのは構わんとも。だから行っておいで」

 そう言った老婆も、まさか少女が朝から晩まで森に入り浸るようになるとは思っていなかっただろう。ヒスイも、ただ見えぬものたちと戯れるだけでは、そこまで彼らに入れ込むことは無かったかも知れない。

 けれど彼女は得てしまった。

 里の誰より親しい友を。


 橅の林は緑濃く、溺れるほどに瑞々しい。

 柔らかな羊歯が顔に触れ、足首まで土になりかけた葉に埋まる。遠くからは聞き慣れぬ鳥の声がした。この春から耳にするようになった囀りだ。きっと旅をする鳥だろう。

 背の高い下生えを掻き分けて河原に出ると、先程までくぐもって聞こえていた滝の轟きが鮮明に耳に届いた。

「カワセミ!」

 少女は声を張り上げる。

 谷と里を分ける沢の上流、橅の林を抜けた先。聞こえるのは鳥の声、せせらぎと少し離れた滝の音。それを縫うように、つんと尖った細い音が河原の岩陰から流れ出す。

 数年前の大水で流されてきたというごつい巨石の裏を覗き込むと、儚い雰囲気を纏った少女が唇に草の茎を銜えて座り込んでいた。細い手足、透けるか光を放つかの如く白い肌、若葉色の小袖を纏った柳のように華奢な娘は、草を離し、姿に似合う細い声で囁く。

「今日も来たのね、ヒスイ」

 対してヒスイは溌剌と答える。

「勿論。今日もカワセミの笛が聞きたいんだ。それにもうすぐ天狗の木の木菟が巣立ちだもの。一緒に見よって言ったでしょ?」

「うん……」

 吹けば消えそうな少女、カワセミは小さく頷いて、そろりと岩陰から歩み出た。そのまま重さを感じさせない軽やかな足取りでヒスイのもとまで歩み寄る。

 カワセミは『風運び』の娘である。『風見』以外には見えもせず、そうであるヒスイにも触れることは出来ない。

 けれどそんなことは構わない。彼女は少女の友達で、草笛の名人だ。春には管菜の、秋には麦の茎を軽く咥えて、鳥の囀りを真似るのは勿論、童歌も容易く吹きこなす。同じようにヒスイが息を吹き込んでも、蛙の屁のような音しか出ないのに。

 やり方を教えて貰っても出るのはやはり不格好な雑音ばかり。鳥のつもりで芋虫を彫る『土交い』も畑の豆を枯らす『玉結い』も、きっとこんな感じなのだろう。ひと月ほど頑張ったが上達の兆しすら見えないので、ヒスイは早々に諦めて聞き役に徹することにした。

 『風運び』の少女は残念そうな顔をしたが、自分が下手くそな音を鳴らすより、カワセミの奏でる、その見た目にも似た柔らかく繊細な、やや物悲しい音色を聞く方がよほど楽しい。

「カワセミはきっと、笛の神様に愛されてるんだ」

 ヒスイが褒めると、少女はそんな大層なものではないと顔を赤らめた。

「私なんて、少し人より吹けるだけだわ」

「そうなの? でも、他の誰かのは知らないけど、あたしはカワセミの笛が好きだよ」

 手放しの賞賛には偽りの欠片も無い。彼女の演奏はこの世のどんな音より胸に響く。

 屈託無く笑う『玉結い』の娘につられて『風運び』の少女も微笑んだ。

 こうして近くで見る姿は里の人と全く変わらない。けれど今、手を伸ばしても、触れることは出来ない。手を繋ぐことも髪を結いっこすることも叶わぬ望みだ。伸ばしたり振り回したりした手が空を切る度、見えてはいても里人とは違うと思い知る。

 金緑の光が降る林を並んで歩きながら、ヒスイは鳥の名の娘を盗み見た。

 彼女の魅力は笛だけでは無い。子鹿を思わせる華奢な手足も、絹というより蜘蛛糸のような微風に靡く長い髪も、幼いヒスイの憧れだ。瞳は大きく睫毛は長く、道行けば振り向かぬ者はいない小町に育つことは想像に難くない。見ることの出来る者はごく限られているけれど。

 それに引き換えた自分の容貌を思い、我知らず溜息を吐いた。

「……どうしたの?」

「え? あ、うん」

 不意の問いにヒスイは慌てて頭を振った。

「カワセミはきれいだなって」

「……そう?」

「そうだよ。顔も髪もきれいだし、手も足も長いし」

「ヒスイだって可愛いわ」

 いつもは控え目なカワセミが、声こそ小さいが断言する。

 カワセミは嘘など吐かない。お世辞だとは毛ほども思わないが、ヒスイにはどうも信じられない。色は黒いし髪は短くくしゃくしゃ。手足も細いと言えば細いが、ほっそりというより棒切れのよう。体も華奢というより貧相という表現が似合う。五つ上の兄は妹と言うより弟がいるようだといつもからかってくる。

「褒めてくれるのはカワセミだけだよ」

「……そうなの?」

「うん。兄ちゃんは男の子みたいだって言う」

「そんなことない。ヒスイは可愛いもの。栗鼠や駒鳥みたいに」

「それ、ただ小っちゃいってだけじゃないの?」

 強く言い募る少女に、ヒスイは少し意地悪に返す。

 カワセミはきょとんとした後、狼狽してふるふると首を振った。

「え? いいえ、そういうことじゃ……」

「あ、ううん、冗談だよ、冗談!」

「……」

「ほら、あたし、嫌だとか思ってないから、カワセミがそう思ってくれるのも嬉しいし」

「……本当?」

「うん!」

 捲し立てる顔をそっと見て、カワセミが小さく言った。

「でも……私、本当に、ヒスイは可愛いと思うの。お母様もきれいだから、きっと、大きくなったらもっときれいになるわ」

 ヒスイの母は確かに美人だ。『玉結い』の職人の娘でありながら『土交い』の父が橋を越えて契りを乞うた程に。『玉結い』と『土交い』、二民の婚姻は珍しく、強く反対されたと言うが、父はそれを熱い恋心で撥ね退けたと聞いた。

 どちらかと言うと父似と言われるのだけど、という言葉を飲み込んでヒスイは大きく頷く。

「そう、だね。カワセミは今もきれいだから、きっともっときれいになると思う。優しくて笛も上手くて、きっとみんながお嫁に来てって言うよ」

「それなら、素敵ね」

 慎ましく微笑む少女を見て、やはり美しいと思う。触れられないのが口惜しい程に。

 引っ込み思案で人見知りの性分も、その笛の腕前と気立ての良さ、見目の麗しさによって全てが美点となる。

 彼女は実に誇らしい友人だった。


 二人の出会いは数年前。

 雨で水嵩の増えた川にヒスイが落ちて流され、運よく助け出されたものの、家で寝込んでいた時のこと。

 祖母のツグミに連れられて、見舞いにやって来たのがカワセミである。

 連れ添いの『風見』が伝えるには、ヒスイが落ちたとき彼女が近くにいて、それで心配になって来たのだという。しゃんと背筋を伸ばした老婆の陰に隠れるように立つ娘は、咲いたばかりの菫のように可憐であった。ぼんやりと熱に浮かされながらも、その姿から目が離せなかった。

(きっと、あの子が助けてくれたんだ)

 ヒスイが寝込んでいる間、童女は何度も見舞いに訪れた。大抵は祖母が同伴していたが、たまに一人のときもあった。今思えば里への行き来は、見知らぬ人を苦手とするカワセミには酷な道のりだったろう。

 熱が下がってすぐ彼女を探して里の外に向かったのは言うまでも無い。その後の林での出会いは全くの偶然だったけれど。

 あれから数年が経った。

 その美しさも、慎ましやかな性格も、優しく気立ての良いところも、カワセミのことは何もかも好きだ。性格も見た目も真逆であるけれど、花を愛で鳥を眺め、木々を縫い飛ぶ蝶を追い、兎や鹿を隠れ見るときの心は、同じ種から芽吹いた双葉のように同じだった。

 共に居て言葉を交わせばそれだけで、体の隅々まで温かく、鳥の羽に包まれたような心地になる。林の中で、川のほとりで、ずっと二人で話していたい。そう思うことは少なくなかった。

 されど世の習いというものは、それを容易く許しはしない。


 陽が山の端に差し掛かり、空が薄紅を帯びる頃は、カワセミとの別れの時間だ。

 谷底にあるこの里に於いて日暮れは早く、夜の帳は猫のように静かに素早く訪れる。空はどんなに明るくとも里の家々は山の影に入り、木々の茂る森は尚暗く、夜を歩く山犬や熊たちが早々に闊歩し始める。

 だから里の者はどれだけ山慣れしていようとも、帰りの時間だけはきちんと守るよう言い含められ、どんな悪童も跳ね返りも言われた通りに帰って来る。それはヒスイも同様だ。

「ただいま!」

 建て付けの悪い引き戸を開けて飛び込むと、ちょうど母が土間に寝床の筵を広げていた。

「そんな燕のように飛び込むでないよ。もう少し娘らしくおし」

 地味な小袖に細い帯を締め、桂包を巻き褶を着けた姿に飾り気は無いが、カワセミの言った通りの美人である。二子を産んだ現在でも、端正な面持ちは父が心奪われた当時と変わらない。寧ろ艶が増したと惚気られる程だ。

 但し、今は娘の無作法のため眉間に皺が寄ってはいるが。

「どうせまた風様と遊んでたんだろ」

 敷かれた筵に胡坐を掻いて、兄のコガネが意地悪く笑う。

「そうなのかい?」

 問われ、ヒスイは不承不承こくりと頷く。横目でちらと兄を睨むが、彼は既に素知らぬ顔で筵に転がっている。

 母はわざとらしく大きな溜息を吐いた。

「全くお前は……言うことを聞かないんだから」

「『風運び』とばかり遊ぶなって言われたけど、遊ぶなとは言われてないもん」

 ぷいと横を向いて言い訳をする娘に、母は小さく首を振る。

「父ちゃんが帰ったら叱って貰わないといけないねえ」

 ヒスイの父は『土交い』の出である。それも里で唯一外へ出て町の人々とやり取りをする『商い役』だ。

 沢の境を越えた婚姻に周りは渋い顔をしたが、前述の通り母の美しさに魅了された父が情熱と口八丁で押し切った話は里の語り草の一つである。慎ましい大和撫子である母とは反対に、陽気で押しが強く口の上手い父にとってその説得は容易いことであったし『商い役』は適任である。

 そんな腕利きの商人である父は雪解け早々に他の『商い役』らと里を出ていた。

 長い冬に作り溜めた細工を売り、外の物を仕入れるためである。帰って来るのは夏の盛りで、またすぐ収穫の祭に間に合うよう商いの旅に出てしまう。なにしろ里から一番近い小さな村まででも山を越えて二日、市の立つ町に行くには更に日数が掛かるのだから。

 故にヒスイが父と過ごせるのは冬の間と真夏だけである。

 今は晩春。『商い役』一行が帰るのはまだひと月ほど先だろう。

「……父ちゃんも母ちゃんも、あたしがあの子と遊ぶのがそんなに嫌?」

 両親の忠告に理不尽を覚えたまま唇を尖らせて愚痴ると、母は手を止めずに返す。

「父ちゃんも母ちゃんも『風見』のじじもばばも、お前を心配して言ってるんだよ。あの子らとの関わりはうんと気を付けてやらなきゃならないんだって、言われたんだろう?」

「言う通りにしてるよ。カワセミとは沢山遊んでいるだけだもん」

「それもだよ。あんたも来年には八つになるんだから、そうそう遊んでばかりはいられないんだからね」

 七つまでは神のうち、と言われるように、里では七歳まではごく幼い子供として扱われる。何もせずごろごろしていても一日中野山を駆け回っていても、文句を言う者は誰もいない。

 だが八つになれば話は別だ。小さな大人として職を持ち、里の仕事を手伝わなければならない。途中から他の仕事に移る者もいるが、大抵は将来、その仕事を専門にこなす大人になる。

 母は八つから機織りを始めたし、父は、流石に『商い役』として一行に入るのは十五になってからだが、それまでは外へ出るための勉強漬けだったという。将来の『商い役』を嘱望されている兄も今、老齢により引退した『商い役』から読み書きや銭勘定など商売のいろはは勿論、外の村や町での立ち回り方、いざというとき身を守るための武術などを学んでいるという。

 『風見』であるヒスイもそれは同じだ。『玉結い』の子として機を織るか玉を磨くか、木を削るか布を染めるか、道は様々だが決めなければならない。

 当然、今のように日がな一日山野を駆けて、『風運び』の娘と遊ぶことなど出来はしない。

「ヒスイ、知ってるか。昔、お前みたいにあの子らとばかり遊んで怠けていた奴がいてな、そいつは嫁にも貰われずに、最後には風様も愛想を尽かせて、目の前でぱっと消えちまったんだと」

 唐突に、筵の上で半身を起こした兄、コガネが言う。

「『風運び』はお化けじゃないもん。消えたりするもんか」

「爺ちゃんと婆ちゃんが話してたの、俺、聞いたもん」

「あたしは来たことないから。そうやって脅したってあたしは怖がったりしないよ」

 普通の『玉結い』や『土交い』の目に移らなくても、人や獣に触れられなくても、彼らは姿のある人間だ。巷の怪談にあるお化けのように出たり消えたりするものではない。

 だが兄はめげずに続ける。

「じゃあ、こんなのはどうだ? 風様と仲良くなりすぎた男が神隠しに遭う話。毎夜逢瀬を重ねるうちに風様と同じになって、誰にも見えなくなっちまうんだ」

 確かにただの物でも『風運び』が長く触れたり持ち歩いたりすることで人の目に映らなくなるという。彼らの着る衣服がそれだけ宙に浮いて見えたりしないのはこのためだ。だが鳥や獣、人などには端から触れられないので、そんなことは起こらない。

「そんなことある訳ないよ。聞いたこと無いもん。兄ちゃんは嘘吐きだ」

 だが兄は意地悪くにやにやと笑う。

「そりゃ話していないからさ。お前は子供だから」

 言い終えるより前につかつかと歩み寄った母が少年の頭に拳骨を落とした。予期せぬ仕置きに兄は痛ぇと叫んで頭を抱える。

「コガネ、あること無いこと言ってヒスイにちょっかいを出すのはお止め」

 母は背から見て分かるほど大きく溜息を吐き、静かに振り返った。

「ヒスイも口答えをするんじゃないよ。お前はまだ子供なんだから、見ても聞いてもいないようなことが世の中には沢山あるんだ。だから言うことをお聞き」

「でも……」

 ヒスイが言い返す語句を探す前に、これで終わりとばかり再び母は背を向ける。兄もちぇっと言って口を噤んでしまう。

「全く、型破りなところは父ちゃんにそっくりだよ」

 母がそう、小さく呟くのが耳に届く。

 話はそのまま、そこで終わった。


 夜、寝床である筵にくるまって、少女は薄く開いた雨戸の向こうを見るともなしに眺める。

 囲炉裏の種火が灰に埋もれた屋内は、頬に触れられても分からない暗闇だ。雨戸の隙間から覗く夜の世界の方が、星や月の光で余程明るい。

 豪雪に耐えるために厚く土を塗られた壁は洞穴のように極寒から人々を守ってくれるが、熱と同じく光も音も通さない。そんな中、届く一筋の光は、実際の明るさに関わらず燦然と輝いて見える。

 指を翳せば隠れてしまう細い明かりを、ヒスイはぼんやりと見ていた。

 『風見』には『風見』の間だけの、『風運び』に対する決まりがあり、その中にも、親しみ過ぎてはいけないという項もある。

 あまり関わってはいけない、と母は言った。それはきっと『風見』であるヒスイのために他の『風見』が言ったのだろう。それに、人に見えぬ『風運び』とばかり遊んでいては、里の暮らしに障りが出ると思っているのだ。

(分かってるよ、そんなこと。子供じゃないんだから)

 逆らおうと思っている訳ではない。

(でも、だって、カワセミはあたしの友達だし、他の『風運び』だって里に下りて来る)

 ヒスイはヒスイなりに節度を持って彼らと接しているつもりだ。

 しかし生まれた時から見えぬものが見える少女にとって、彼らが見えない者の視点は理解し難い。

 居ることを誰も知らなければ、黙って秘しておくことも出来たろう。言っても子供の戯れ言と一笑に伏されたかも知れない。だが見えるのはヒスイだけでなく、その存在は里の誰もが知っている。貧村が頼る最後の望みとして、厄を退ける神々として。

 故に少女の我が侭を、誰も強くは止めない。『風運び』との良い関係は里の益にこそなれ、損や害を与えるものでは無いからだ。かと言って手放しで誉められる訳でもない。

 そんな事情がヒスイには未だ解らない。ただ周囲の空気が歓迎一色でないのは分かっている。

 分かってはいても、はっきり行くなと言われないなら、止める理由は無い。

 友達と遊びたいという単純且つ明快な気持ちに蓋は出来ない。

(里の人にも、みんなにも『風運び』が見えれば良いのに。そしたらみんなで話が出来るし、カワセミのことも友達だって分かってくれる)

 叶わぬ願いとは知っている。見えぬものを見られるのは『玉結い』のごく一部。これまでずっとそうだった。生まれてから死ぬまでその力は変わらないし、逆に見えぬ者が見えるようにもなることも無い。

 けれど幼い胸に芽生えた望みは、育ちこそすれ消えはしない。

(みんなが見えれば、きっと変わるんだ)

 筵を通して伝わる土の冷たさを頬に感じながら、ヒスイは目を閉じた。


 思いながら眠ったその夜、少女は淡い夢を見た。

 カワセミや他の『風運び』たちが里の人の前に現れて、仲良く秋の祭に混ざる夢。

 稲わらの牛馬を組み、橅の実と紅葉を飾り、酒を酌み交わし、里で一番大きな大屋根の広場や橋の上で歌い踊る。普段は日没とともに眠る人々も祭の夜は篝火を焚いて、三つの民は区別なく朝まで騒ぎ遊ぶ。最後は稲わらの人形たちを広場で燃やして幕となる。

 ヒスイも触れられぬ筈のカワセミの手を取って、片手で吹く草笛の音に合わせ、その輪の中で踊り明かした。

 満天の星の下、それはそれは美しい夢だった。

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