十、神の身隠し
いつもの場所に、『風運び』の少女は居た。
何年も前の大水で流された、卵のような巨石の傍らに立つ、銀の花のように華奢な姿。長い髪があるかなしかの風で仄かに揺れ、傾き始めた日は白い肌を益々白く、磨いたが如く晒し出す。
「……久方振りね、ヒスイ」
初めに口を開いたのは彼女だった。
久し振り。確かにそうだ。家に引き籠るしかない冬の期間を除き、こんなにも二人が会わなかったことは無い。
ヒスイはごろごろとした石の上を真っ直ぐに、カワセミの下へと歩み寄った。
「久し振りだね、カワセミ。元気? 何ともない?」
「私は、平気よ。どこにも悪いところは無いわ」
一言ずつを言い合って暫し二人は見つめ合う。次に何か発せばこの静穏は破れると、どちらも分かっていた。
先に口火を切ったのもやはりカワセミだった。
「里はどう?」
ヒスイは少女の口元を見ていた。桜色のそれが動かなくなっても更に見続け、暫くしてやっと、その葡萄の瞳に視線を移す。
「みんな怠け者になってしまった。朝からだらだらとして何もしない。昼から酒を飲んでいる。時々、水を持って来いだとか、火を熾せとか、干した魚を乾かせだとか言うだけだ。菜っ葉は緑が濃いし、芋も豆も瓜も今までにないくらい育ってる。牛も豚も鶏もよく肥えてる。けど、あたしの知ってる里じゃない」
「そう……」
また、夜の静寂よりも固い沈黙が流れる。次に話し出したのはヒスイだ。
「カワセミの方は、どう? 『風運び』のみんなは」
「……私たちは、里から離れることになったわ」
「離れる?」
「里の人々が、私たちの知っていた人たちでなくなってきているから……このままでは、きっともっと悪くなる」
「……」
「私たちが居なくなれば、里の人は私たちを頼らなくなる。だから……」
「でも、カワセミ」
少女の言葉を遮って『風見』の娘はその顔を見上げた。
「前に言ってたよね。『風運び』が今の姿でいるのは、人と関わっているからだって。なのに、里から離れるって」
「霧か霞のようなものに、戻ってしまうと思うわ……」
「そんな」
「……里の人たちがこうなってしまったのには、私たちにも責がある……そう強く感じてしまって、自ら姿を失った人もいるわ。私たちの形は、元々とても曖昧だからって、お婆様は仰っていた」
「でも、だって、カワセミたちは悪くないのに」
「ヒスイたちも悪くは無いわ……でも、今までに使っていた秤は、壊れてしまった。もう元には戻せない」
「あたしたちがしっかりしたら、今からでも、みんなは居なくならずに済む?」
「……分からない。でも、きっと無理だろうって。私たちが居るだけで、居ることが分かっているだけで、里の人はどんどん、駄目になってしまう」
「……」
否定できなかった。今の里の体たらくを見て、一体どうしたら元の形に戻せるというのか。
ヒスイはぎゅっと拳を握り込んだ。
「カワセミだけでも残る訳にはいかない? あたし、カワセミがここに居るって誰にも言わないし、来るときも秘密にするし、上手くやれるよ。あたしが側にいれば、カワセミはカワセミのままでいられるんでしょ?」
矢継ぎ早に述べ立てる少女に、しかし『風運び』の娘は首を振る。
「……私たちだけ、特別扱いにはなれないわ」
「だけど、あたしたちは友達だよ! ずっと一緒だって言ったじゃない!」
「ヒスイ……」
「カワセミの居ない生活なんて考えらんない。あたしも消えてしまうのと変わらない。里がどうなったって構わないよ、傍にいて欲しい」
「……そんなこと、言わないで」
我知らず、涙が頬を伝っていた。カワセミの指が拭うように目許を過ぎる。
「ごめんなさい、ヒスイ。……私も残りたい。でも」
「でも……?」
「私は……私以外が皆消えてしまったこの山で、ヒスイも中々、ここに来られなくて……そうなったとき、一人で残っていられない……できる自信が、持てない……」
言われて、はっとした。
他の『風運び』が残らず姿を無くしてしまったら、カワセミは山で独りきりになる。言葉も交わす者も無く、いつ来るかも分からない、たまに会いに来る友を待つだけの日々。
それを求めることがどれほど惨いことか、気付いてヒスイは身震いした。
こんな単純なことにも気付かないほど我を忘れていたことに恥ずかしくなる。
「ごめん。我が侭言って」
「良いの。私も……同じだもの。でも、きっとこれは、ヒスイにとっても良いこと。そう信じてる」
「カワセミ……」
少女たちは見つめ合い、また静謐な時間が過ぎていく。
「二つ、聞いても良い?」
「……何?」
「良くないことって、何だったの」
少女が大人に、十五になったら話される筈だった秘密。『風運び』たちが去ると言うのなら、前倒しで聞いても構わないだろう。
見つめる視線にカワセミは目を逸らし、暫し迷って、それからゆっくりと唇を開く。
「あの、日照りの年に……雨を降らせる前、私たちが水を集めていると言ったことは、覚えている?」
「え、うん」
「私たちが集めていたのは、木や岩の陰の水……鳥や虫や、山の獣たちが頼る最後の水だった。私たちはそこから、彼らから水を奪っていたの」
厳粛な語りは、まるで老婆のように重々しかった。
「何も無いところから、何かを出すことなんてこと、私たちは出来ない。……そう見えるものは全て、元々どこかにあったものよ」
「じゃあ、あの時の雨は」
「……ここではないどこかに、降る筈だった雨」
聞きながら、冷や水を浴びせられた気分になる。
カワセミは知っていた。他の『風運び』も『風見』の大人たちも。
だから幼い頃から何度も、口を酸っぱくして言われたのだ。『風運び』に力を使わせるような、無理なお願いをしてはいけないと。
「けど、それも併せて話すなら、『風運び』の力のことを『風見』以外にも言っても良かったんじゃない?」
「知る人が多ければ多いだけ、誰かが抜け駆けをする……お婆様はそう仰った。目の前の親しい人が喜ぶなら、野の獣が飢えようと、見知らぬ人が渇こうと、意になど解さぬものなのだと」
里で会った『風運び』の少年は、初対面のヒスイより、数年を過ごした若者たちを取った。
ヒスイもつい先程、カワセミと里を天秤にかけた。
「……厭うより親しむ方が危ういこともあると『風見』の婆様も言ってた。そういうことなんだね」
「ええ……きっと、同じことだわ」
結局は『風運び』も『風見』も、見えぬ『玉結い』や『土交い』を信じ切れていなかった。欺き騙したと誹られても仕方がないのかも知れない。
「……もう一つは?」
黙ってしまったヒスイをカワセミが促す。
ヒスイは、ああ、と頷いて。
「ヒバリは、まだ姿がある?」
その問いに、『風運び』の娘は目を伏せた。
「あの人は……いっとう先に姿を無くしてしまったわ。前の日までは、しっかりと見えていたのに」
「そっか」
「驚かないのね」
「うん。そんな気がしたんだ」
夜明け前の河原でした会話を思い返す。まさかあれでお別れになるとは思いもしなかった。
「いっとう先に寝てしまうなんて、酷い大人だ」
「……そうね……あの人、良い人も居たのに」
「益々いい加減だ」
虚しい憤りは胸を埋めずに風に溶けた。
彼の望みは逆夢となってしまった。ヒスイのそれと同じように。
けれどその後、続けるカワセミの声は、不思議と先程までより少し明るかった。
「でもね、ヒスイ……姿が無くなっても、私たちは死んでしまうのでは無いの」
「そうなの?」
「私たちが人のように、生まれて育って老いて死ぬのは、人に似ようとしたから……だから、霞に戻ったら、私たちは、とても長く生きられるって」
「でも、霞みたいなもののままじゃ」
「消えてしまっても、また人と関わって、人の姿に戻れた人もいる。お婆様が仰っていたわ」
「本当に?」
「ええ。だから……いつかまた、こんなこと終わってから、会いに来て」
「分かった。きっと来る。約束だよ」
幾度目かの沈黙が下りる。
触れられない掌を重ねて、少女たちは河原に並んで座った。
傾いた陽光は優しく、染まり始めた木の葉は赤と黄と緑が並び、空の青と合わせて虹の錦にも見える。せせらぎの音には鳥の声が混じっている。秋の鳥たちは春のようには囀らず、高く鋭く、短く鳴く。
常なら帰る刻限が来ても二人は動かない。
日が橙に輝きを変えて山向こうに隠れ、吹く風が肌に冷たく、空に微かな星が輝きだす頃、どちらともなく少女たちは立ち上がった。
そしてお互いを抜けるように擦れ違い、二度と振り向くことはなかった。
続く日々は、表面上、特に変わり無いように思えた。
秋に収穫を迎える畑は存分に実り、家畜たちも肥えていた。人々は今までになくゆったりと過ごし、何もかも豊かに見える。
『土交い』たちは畑の手入れも草取りもせず、家畜小屋の掃除もしない。秋に肥えた獣も狩らず、鱒も捕らず、山菜や茸を採りにも行かない。自ら面倒なことをしなくとも、頼めば行う者がいるからだ。
『玉結い』たちは玉や木などを無駄に使うようになった。わざわざ里を出なくとも、茜や漆、黄檗や紫、竹や木や玉石など、赴いた先で採れる上質の素材を届けてくれる者がいるからだ。
大屋根では連日の酒盛りで、酒に狂った一部の者は昼から飲んで酔い潰れ、また起きては飲むという始末。その酒も肴も、黒い筒で覗き見た先の者に頼めば、どこからともなく現れる。
以前を知らぬ者ならば、労せずして実りを得られるこの里は桃源郷のように映っただろう。
彼らは知らなかった。または忘れていた。或いはどうでも良いと思っていた。
その、願い頼んで得られるものが、一体どこから来るのかを。
長く山野と暮らしてきた里の民が自ら採りに行くならば教えられて知っていることも、頼まれただけの者たちは知らない。全ての花や芽を摘んではいけないことも、子連れや稚魚や卵は根こそぎ狩らぬことも、群生地の草本を採り尽してはいけないことも。
物事はただ楽で、苦労も面倒も無い方へ、石が転げるように落ちるだけ。
無論、以前のように自ら働く者も残っている。
しかし勤勉の隣で怠惰が蔓延り過ぎて、次第に彼らも思い始めた。こんなことは馬鹿馬鹿しいと。
心模様は腕に映り、作業の結果に結び付く。いつしか働き者の手から生まれた品でさえ、かつて誰もが目を瞠った輝きを失っていた。
そして『風見』たちには見えていた。日毎に数を減らしていく『風運び』が。
ヒスイはいつかのカワセミの言葉を思い出す。
わざわざ里に降りる『風運び』たちが望み喜ぶのは、人との関わりだと。与え与えられ、手探りでも互いの意志を確かめ合う、彼らが求めていたのはそんな結び付きだったのだろう。人の怠惰と無精のために、願いを叶えるだけの関係ではなく。
それを里人に『風見』の誰かが忠告したとて、もはや誰も耳を貸さない。里の民を騙したとされた彼らへの信用はもうどこにも残っていない。
一人消え、二人消えしていく彼らを、ヒスイも引き止めはしなかった。
関わりを絶つのが彼らの意志なのだから。
夕暮れ、酒の入った馬鹿騒ぎ以外はすっかり静かになった里の道を、少女は黙って家へと向かう。遠く山間から、風に乗って笛の音が聞こえる。いつも同じ時間、沢に里に響く懐かしい音。
まだカワセミは人の心を持ち、人の形をしているのだろう。
家まで後少しというところで、見覚えのある若者に出くわした。いつだかヒスイを牛小屋に放り込んだ彼は、手に遠眼鏡を握りしめ、酒臭い息をしながら青い顔で『風見』の娘に駆け寄った。
「おい、お前、知らないか」
「……何を?」
「目が覚めたら、あいつが居ないんだ。さっき、俺たちが寝るまでいた筈なのに」
(ああ、あの人も消えたんだ)
自分で分かるほど、冷ややかな目をしていたと思う。
彼は何に嫌気が差して、人の下から去ったのだろうか。
「なあ、お前には見えてるんだろ? 頼むよ、あいつを見付けてくれ。前のことなら謝る、この通りだ」
縋るように地に膝を突こうとする若者に、ヒスイはゆっくりとかぶりを振った。
「あんたたちの友達はもう戻って来ない」
「……どういうことだ」
「見捨てられたんだよ、あたしたち。あんまり怠け者になったから」
言われた意味を理解したのか呑み込めないのか、彼は呆然とその場に座り込む。
「嘘だろ……俺たち、友達だったのに」
独り言のように呟く若者に背を向けて、ヒスイも小さく呟いた。
「その友達に見限られるようなことを、あたしたちはしたんだ」
消えていく笛の音を聞きながら苦虫を噛む。
これからは、一人で歩いて行かねばならない。
秋が深まり、山々が鮮やかに染まる頃、『商い役』たちは帰って来た。
彼らが目にしたのは変わり果てた故郷の姿。
まず迎えの鐘が鳴らなかった時点で、一行は不審を覚えただろう。
そしていざ着いてみれば、折れて倒れた柵や塀、雪囲いをされぬままの果樹、明らかに手入れ不足の農具を始めとする道具類が無雑作に転がり、屋根石も通りに落ちたまま。そんな荒れた様子とは逆に実りは豊かで、芋も瓜も根菜も大きく育っているらしく、けれど半分は収穫されず畑に放置されている。軒下の魚も果実もびっしりと並んでいるが、その吊るし方は極めて雑だった。不気味なほどちぐはぐに。
何より人々に覇気が無い。待ち望んだ筈の『商い役』の帰還に沸くこともなく、土産物を見る目も冷めている。その反対に騒がしい人々は酒臭く、仕分け前の荷台のものに勝手に手を出す始末。
「一体どうしちまったって言うんだ」
飲んだくれたちを荷車から引き剥がして困惑する父兄の前に、少女は立った。
「父ちゃん、兄ちゃん、お帰り」
「ヒスイ……これはどういうことだ。里で何があったんだ」
まるで見知らぬ土地に来てしまったような顔をしている一行に、ヒスイは淡々と語る。
彼らが出て行って帰るまでのたった数ヶ月で、どのように里が壊れてしまったかを。
『風運び』の力と『風見』の秘密も洗いざらい全て。
説明の間、心はとても静かだった。悲しみも憤りも無く、涙も流れなかった。
『商い役』らは少女の話に恐慌状態に陥りそうなほど混乱し当惑していたが、騒ぐことは無かった。
流石、外での不測の事態に慣れた歴戦の猛者と言えよう。だが兄を始めとした半数は呆けたり、真っ青な顔で空を見ていた。それも詮無いことだ。縁ある人や彼らの家へと駆け出さないだけ冷静である。
「それで……風様は、もう、お一人も残っていないのか」
厳しい顔で父が問い、ヒスイは頷いた。里で見える範囲に『風運び』らしき者はいない。
「……そうか。とんでもないことに、なってしまったんだな」
「でも、誰も悪くはないんだ」
先手を打つように言う。
遠眼鏡を見つけて里に持ち込んだのは『商い役』である彼らだから、言っておかなくてはならない。
「みんな色々やったことが、積み重なって悪いことになっただけだよ。だから、誰か一人が悪いってことは無いんだ」
「……」
淡々と言う娘の意を察したか、父は口を結び、その痩せた肩に手を乗せた。
「すまんな。大変なときに居てやれなくて」
「ううん……それが父ちゃんたちの仕事だから。けど」
唇を歪め、笑うような顔をする。
「帰って来てくれて良かった。あたしじゃ、やれること、もう分からなかったから」
父の大きな腕がヒスイを抱き寄せる。温かい逞しい腕に縋りついて、けれどやはり瞳は乾いたままだった。
『商い役』が帰って来た、その日の黄昏を最後に、峡谷の笛の音は途絶えた。
それから『商い役』たちの指示の下、大急ぎで冬支度が行われる。
幸い食糧となる作物は、人々に願われた『風運び』たちが後先を考えず仕事をしたお陰で、皮肉にもいつもの年より多く大きく、冬の備蓄として申し分ない。他の、薪割りや雪囲いも、すっかり怠け者になってしまった里民たちの尻を叩いて行われ、初雪が降るぎりぎりでほぼ全ての準備を終えることが出来た。
当然、帰還の宴も秋の収穫の祭も無い。どのみち酒は飲み尽されて、笛を吹く者も居ないのだ。
到来した冬は例年通りの寒さと長さで、里を閉ざす。
暗く冷たい夜のような数ヶ月、ここ数年していたのと同じように、ヒスイは笛を彫って過ごした。吹いて貰う宛の無い貝の笛を。
父母も兄も腫れ物に触るように扱った。それが居心地悪く、少女は作り笑いを覚えて対処した。空元気でもそれなりに明るさをもたらすものだ。
やがて、夜明けのような春が来て。
雪解けの水が深い沢に流れ込み。
常より水量を増した流れが、手入れの行き届かなかった沢の橋と、それより下の家と畑を押し流した。
幸いにも死者は出なかったものの『風運び』の辞去に加えて二民の友好と協力の象徴たる橋が流されたことは、怠惰に溺れて草臥れた里の民の心を折るには十分な出来事だった。
春のうちに、里の年寄りと『商い役』と『風見』を中心とした話し合いにより、人々は里を捨てることを決めた。
外で柄長が囀っている。
屋にはヒスイの他に誰も居ない。
笛作りの道具の内、持ち出すものを選って並べる。
大小の錐、小刀と鑢を貝の表面を磨く布に包む。手を入れる前の貝のうち質の良いものをそこに加え、最後に屋の隅にある、完成した笛の棚に向かった。
元となる貝に同じ物が無い故に、出来上がった笛にも一つとして同じものは無い。表面に彫った蝶や鳥や魚の紋も同様だ。たった五年ではあったが、初期のものと最近のものでは明らかに出来が違う。今改めて見れば、以前のものはよく売り物として許されたものだ。そもそもここに残っているものは、売り物として外に出せないものばかりではあるけれど。
記念にどれか持って行こうかと考えて、思い入れのある品はどれも『風運び』の少女に贈ったことを思い出す。
(ああ、そうだね。そうだった)
胸に開いた穴を風が吹き抜けた。
残った笛を吹こうとは思わない。きれいな音など出せないと分かっている。
頭を振りながら振り向くと、いつからか居たのか、戸口にヤナギが立っていた。
「どうしたんだ、そんなとこで突っ立って」
問うと少年は、去年より少し低くなった声で。
「あ、その……俺も、道具を取りに」
「あんたも、外で笛作り続けるのか」
「はい。短かったけど、折角教わったし、玉を磨いて削るより俺には向いてたし」
「そう。そっちも頑張って」
里を出ると決まったものの、殆どの民にとって外は全くの異郷である。
この沢を出て、どうするか、いやどうなるか、誰にも分からない。身内に『商い役』がいる者は彼らを頼り、外での生活の柱とすることになる。居ない者はどうにかしてどこかの集団に入れて貰うか、知らぬ者同士で集まって博打を打つしかない。
ヒスイの家は父が『商い役』のため、当然付いて行くことになっている。ヤナギは恐らく、父親の知人の方に入るのだろう。
どうせそんな遠くに散らばることなど無いのだから、今生の別れにはならないだろうが、実際はどうなるか分からないのが現実だ。もしかしたらこの少年と会うのは最後になるかも知れない。
同じことを彼も考えていたのか、彼はひどく真剣な顔でこちらを見た。
「若先生」
「もう良いよ、その呼び方。もう師弟とかそういうのじゃなくなるんだし」
「いえ、俺にとっては若先生はずっと俺の師です」
こそばゆいことを言う。
「俺、外に行っても笛、作るんで、いつかどっかで見付けて、出来が良くなってたら褒めて下さい」
「外で見付けたら分からなそうだけど」
「銘を彫ります。若先生も入れてるでしょう? 大陸の文字で、自分の名前」
「よく見てるね」
「技術は見て盗めと親父に言われて来ましたから」
真面目な顔を続ける少年に、ヒスイは苦笑して返した。
「……分かった。上手くなって、どっかで会ったら褒めてあげる」
「有難うございます」
ヤナギは嬉しそうに笑い、腰をほぼ直角に曲げて一礼する。
「俺、若先生の笛を聞いて笛作りになったから、早く認められたいんです」
「あれは、吹き手が良かったんだ」
「それでも悪い笛だったらきっと嫌な音になります。若先生の力です」
「わかったわかった」
いたちごっこになりそうな気配を感じて話を切り上げた。
「じゃあまた、そのうちにね」
「はい」
春から夏へと向かう季節に、少女たちは里を後にする。
旅支度に身を包み、懐には笛作りの仕事道具を大事に仕舞って。
ここを出れば、ヒスイはもう『風見』ではない。『玉結い』とも呼ばれない。ただの、笛作り職人の娘になる。
崖にへばり付くような道を、振り向き振り向き下りて行く。
見覚えのある家々が、山並みが遠ざかる。
人に見えぬ少女と遊んだ林はもう見えない。
もう、ここへ帰ることは無いのだろう。帰ったところで、風に溶けたあの娘はどこにも居ない。
けれど、いつか、と約束した。
いつか、全てが良くなって、姿を無くした者が人に戻る日が来るだろうか。
谷を吹く風が、笛のように鳴る。
物悲しく美しいその音は、いつかの草笛に似ていた。