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後編

 滝川邸二階廊下の窓からその年で最も強い陽射しが差し込む。

 時は盛夏となっていた。

 陽光を半身に受け、黒絹のような髪をなびかせながら歩む岬の姿がある。

 人形めいた美貌からはその心の内は伺い知ることは出来ず、歩調は正確なリズムを刻んで止まることはない。


 しかし、その足音をもし早人が聞けば、岬がこの時不機嫌の極にあることを察したかもしれない。

 その原因はまさに早人自身にあるのだが。

 この日、早人は早朝から他家への使いに出されていた。


 余程のことがない限り岬の傍から離されることはないのだが、当主である康光の命令とあれば岬といえども逆らえない。

 使いの内容が秘匿されていたことも岬の心に醜いささくれを起こしていた。


 だがその一方で、岬も康光から呼び出しを受けていたのだ。

 それで、今は康光の書斎へ向かっている所である。

 因みにこれは稀有な事例であるといってよい。

 自身が多忙な為もあるが、康光は娘に関しては基本的に放任主義を貫いていたのだから。


 年代を感じさせる、しかし表面はよく磨かれた木製の扉までたどり着くと、岬はそれをノックし抑揚のない声で到着を告げた。

 入室を許可する返答があり、岬はノブを回す。


 室内は窓のある面を除く三方を床から天井まで届く本棚に囲まれており、一面には巨大な暖炉も設置されていた。

 本棚含め調度類は多くが木製で、紙と木の香りに包まれた空間は、昭和か大正時代にタイムスリップしたかのような感覚をそこに訪れる者に与える。

 中央には花瓶の置かれた丸テーブルと、それを囲むように椅子が数脚並べられているのだが、その内の一つに腰かけているのがこの部屋の主であり岬の父、滝川康光であった。


 今だ四十代半ば、若くして滝川グループの総帥となった秀才で、顔の下半分は髭でおおわれている。

 その風貌は実業家というよりは新進気鋭の文豪と言った方が似つかわしい。

 口髭で隠された唇を開き、康光は娘と簡単な挨拶を交わすと、椅子に座るよう促した。

 岬が席に着くと一呼吸おいて話を始める。


「ところで、岬」

「はい」

「おまえは、早人の事をどう思っている?」


 聞いて岬は訝しげに美しい眉を歪めた。


「どう、と言いますと?」

「簡単に言えば、おまえにとって早人はどういった存在か? という事だ」

「従者ですわ」

「そうか」


 康光は両肘をつき、手を顔の前で組む。


「それで間違いはないんだね?」

「はい。それ以上でもそれ以下でもありませんわ」

 

 岬の誤解しようのない返答を聞き、康光は目を閉じる。

 そのまま姿勢を変えずに声を発した。


高山たかやま家を憶えているかな? 父さんの友人で重要な取引先でもある。早人は、来月からそちらに引き取られることになった。以後の面倒は高山家が見ることになる」


 青天の霹靂。

 岬にとってはこの時の康光の言葉はまさにそれであった。

 眩暈がするほどの憤激に岬は襲われ、激情のままに普段からは想像もできない勢いで怒声を発する。


「どういう事ですお父様!」


 人形の顔が般若に変わる。

 眼球にすら血管が浮き出る程激昂する岬の姿は、康光が「これが本当に娘なのか」と疑う程かつてない物であった。


「早人が成績優秀なのはお前も知っているだろう。希恍高校でもトップクラス、大したものだ。それを知った高山家が早人を将来にわたってサポートしたいと申し出てくれた。今日からその準備に入る、もうおまえを助けることはない。私がそうした」


 高い音階の転倒音が室内に鳴り渡る。

 岬が立ち上がると同時に、テーブル上の花瓶が倒れ、座っていた椅子も真後ろに転がっていた。


「なぜ、断わりもなく私の召使いを他家にやるのです!」

「それだ。まさにその考えが理由だ」

「え?」

「おまえは滝川家の成り立ちを知っているだろう? その始まりは遠く平安時代にまで遡ると言われているが、豪商として名を成したのは江戸時代の頃だ。その通りなのだが、世間どころか滝川家の中でも極一部の者しか知らない事実が一つある」


 気圧された岬が言葉を失うのを見て、康光はその目を正面から見据える。


「滝川家は元々番頭格だった。つまり使用人だったのだよ。そしてある時期に主人にあたる商家の財産を乗っ取ったのだ。我々の先祖にとって主人だった人物は、その時に全てを失い身ぐるみはがされて追いやられた。それが当時の桜庭家の当主だ」

「……」

「追放された桜庭家は、当たり前と言えば当たり前だが凋落して、やがて人々の記憶から消えていった。一方の滝川家は我が世の春を謳歌して今に至る。だが、その消息不明となった桜庭家がどうなったか私は調べてみたくなったのだ。別に罪悪感に駆られたわけじゃない、ビジネスの世界ではご先祖様に負けず劣らず辛辣な事を私もやっているつもりだ。だが、代々滝川家の当主にのみ伝えられてきたこの歴史を清算したいという欲求も確かにあった」


 淡々と、という表現のままに康光の独白は続く。


「そうして四方八方手を尽くしてようやく見つけた桜庭家の末裔、それが早人だ。所在が分かった時にはもう既にご両親は亡くなっていて、早人自身は行く当てもなく途方に暮れていた。もはやどこかの施設に預けられるしかない、そういう状況だったのだが、私には天恵に見えた。早人を引き取る事で先祖の贖罪を済ませ、将来お前と結婚することにでもなれば、かつての主人から奪った財産を返すことにもつながるだろう、そう思った」

「……」

「だが、おまえが早人をあくまでも従者として見るというのなら、桜庭家は主人から使用人に落とされたという状況になってしまう。それでは意味がない。滝川と桜庭が過去の恩讐を超えて対等になる、これが私の望みだった。最初からこの考えを話しておけばよかったのかもしれないが、おまえの人生はおまえが決めることだ。私の希望を押し付ける気はなかった」


 岬は自身の目に滴り落ちてくる液体の存在を感じた。

 涙ではない。

 額に浮かんだ油汗が水滴となって、白い肌を滑って落ちているのだ。

 作り物のように滑らかなその肌を苦悩の色に染め、それでも声を絞り出し岬は康光に反論した。


「だからと言って、高山家に引き取られたところで状況は変わらないのではありませんか? 結局ここにいた頃と同じ、使用人のままのはずですわ」

「そうはならない。早人は高山家の養子になる」

「養子?」

「そうだ、正確に言えば婿養子だ。高山家の末娘……夏樹さんと言ったかな、たしかおまえの同級生だったはずだが。大変早人を気に入っているらしい、勿論結婚はまだ早いが二人は許嫁となる。今日早人を使いにだしたのも先方に挨拶させるためだ」


 急に揺り籠の中に放り込まれたように足下の床がうねり、岬はバランスを崩してテーブルの縁につかまる。

 視野狭窄を起こす視界の中で、岬は床が動いたのではなく自身の足がくずおれたのだという事実に愕然としていた。



 ――――――



「へへー」


 高山邸で駐車場へ向かう道すがら、自分に向かってはにかむように笑う夏樹の顔を見て、早人は足を止めた。


「どうしたの?」


 夏樹も立ち止まり、早人の顔を覗き込んで問いかける。


「どうしたもこうしたも、一体全体なんでこうなったんだ」

「心配?」

「いや、そうじゃなくて……」


 早人にとっては急展開どころの話ではない。

 今朝、康光から高山家への婿入りの話を聞かされ、呆気にとられているうちに夏樹の両親へ挨拶に出向くことになり、現実の世界にいるのかどうかも定かでない感覚にとらわれているうちにその対面も終わって、今は帰宅する途中なのだから。

 そんな自身の心境を嘘偽りなく話すと、それを聞いた夏樹は両手を後ろに組んで朗らかに笑う。


「桜庭を助けるって言ったんだもん、このぐらい簡単だよ。希恍高校に通っているんだから私も世間でいう所のお嬢様なんだよ?」

「いや、簡単って……許嫁になったりして、いいのか?」

「大丈夫! 婿養子って言ってもお父さんの事業は兄貴達が継ぐし、桜庭が心配することはないから。お父さんは私には甘いのよ。それに、それにね……桜庭だから、いいんだよ」


 早人は言葉を失う。


「こうでもしないと、滝川さんに勝てないと思ったから。でも、いいんだよ? 桜庭が嫌になったらいつでも婚約解消しても」


 そう言って、夏樹は「えへへ」とはぐらかす様に努めて明るく笑って見せる。

 だが、その声音と唇が震えているのに早人は気づいていた。

 自身の胸郭が何かに締め付けられるのを感じて、早人は衝動の赴くままに行動した。

 夏樹の肩に両手を回すと、抱き寄せて耳元で囁くように語りかける。


「ありがとう……本当に、ありがとう」


 腕の中にある夏樹の体温と、爆発しそうなほどに高鳴っている胸の鼓動を早人は感じた。

 やがて固く、震えていた夏樹の体から両腕が早人の背中に伸びて、しがみ付いて来た。

 そのまま無言で時を共有する。


 しかし、その時間は早人のポケットから鳴り響いたアラームによって寸断された。

 我に返った早人が音源である携帯電話を取り出し、画面を見る。

 早人の秀麗な顔に翳が落ちるのを見て、夏樹も相手が誰かを悟った。


 夏樹は、早人の手を両手で包み込み、縋り付くような目で彼を見つめる。

 僅かに逡巡した早人だったがそれも一瞬の事で、夏樹に微笑を見せると携帯電話の電源を落とした。

 そのままポケットの中へ放り込む。

 夏樹は目尻に涙を浮かべると、早人の頭に手を回して踵を浮かせた。

 二人だけの時間が再開する。



 ――――――



 天上からの直射日光と地面からの照り返しはあらゆるものに平等に、そして容赦なく降り注ぐ。

 それは今、滝川邸の玄関前で降車した早人にしても例外ではない。

 巨大な白亜の城塞のごとく屹立する館を眺めながら早人は考える。

 今回の夏樹の行動は早人に対する好意から発生していることは明白だったが、自分の夏樹に対する気持ちはどうなのであろうか、と。


 好意はあるのだが、それは夏樹の持つそれとは意味合いが違うか、もしくは夏樹ほど巨大ではない気がしていた。

 とはいえ、感謝してもしきれないほどの恩義も感じている。

 二人の間の感情の差異は、これからゆっくり埋めてていけばいいのではないか。

 夏樹とならそれが可能な気がしていた。

 なにしろ事態は完全に好転したといってよい。

 厚く覆っていた失望と絶望の黒雲が消えて、希望に満ちた晴れ間が見えているのだ。

 ただ一つの問題を除いて。


「ただ一つの問題……」


 口の中で呟くと、早人は玄関のドアを開ける。


「早人……」

「岬様」


 高い天井を持ち、一軒家がそのまま収まるのではないか、と思われるほど広大な玄関ホールで、早人の考える「ただ一つの問題」そのものが仁王立ちしてその帰宅を出迎えた。

 早人に向けられる視線には瘴気とすら表現できる程の憤怒の色があり、これほどまでの負の感情をぶつけられるのは、早人の記憶では初めて滝川邸を訪れた時以来だった。


「なぜ電話に出ないの? 私を無視する気?」

「康光様にお聞きではないのですか。僕はもう、岬様の侍従役から外されました」


 ホールに早人のやや強張った声が通る。

 周囲には岬に付き従う執事と女中がそれぞれ一名ずつ控えていたが、共に口を差し挟むことも出来ず、沈黙のまま二人の対峙を見守っていた。


「関係ない、お父様が何をしようが、誰がどう言おうが。おまえは私の従者なのよ」

「岬様」


 早人の顔色は蒼白であり、それが表わす通り彼は全力で内なる恐怖と戦っていた。

 長年の刷り込みにより、岬の声を聞くと早人は無条件でその意に服従しなければいけない強迫観念に駆られるのだ。

 跪こうとする足を必死で支え、早人は心にごく僅かに残っていた自我に縋り付くようにして口を開いた。


「岬様、これは康光様が決定されたことです。そして、僕もそれを望みます」

「従者のくせに! おまえに選択権などない!」


 その瞬間、早人は心が折れるのを自覚した。

 骨の髄まで染み込まされた岬への服従心は、今や全身を支配し、口を開くことを許さない。

 反論も説得もできず、ただ岬の意のままにその場で膝を折ろうとした……だが、それでも早人は残る自我を振り絞る。


 そして、逃げ出した。

 館の中、自分の部屋に向かって全力で走りだす。


「岬に今、勝つことは不可能だ。とにかく逃げるしかない。でも逃げてどうにかなるのだろうか」


 そんなことを考えながら疾走する早人の背中に岬の声が届く。


「恩知らず! 今までの恩を忘れて!」


 恩。

 その言葉が逃げる早人の心に引っかかった。恩とは何だろうか。


 最初に浮かんだのは夏樹の笑顔だった。

 夏樹は人生を賭けてまで早人を救おうとしてくれている、まさに恩義と言ってよい。

 早人もそれには感謝の念しかなかった。

 では、岬の言う恩とはなんであろうか。岬に与えられたもの、それは……。


 その瞬間、早人の中で何かが弾けた。


 足が止まる。

 数秒、岬に背を向けたままであったが、振り向くと顔を上げた。

 その表情を見て岬が息を飲んだ。

 幼き日、ロケットを取り戻そうと岬に全力で戦いを挑んできた早人の顔を岬は思い出す。

 その考えに間違いはなかった。

 早人は血走った眼をし、牙をむくように開いた口から怨嗟の声を発する。


「恩? 恩ってなんだ? 僕の中にあるのは苦痛の記憶だけだ。それが与えられたもの全てだ。そんなものが恩だって言うなら、もう沢山だ!」


 ホール内が氷結した一瞬だった。

 その中で愕然としたのは岬である。

 美しい口元をだらしなく開くと、悲鳴とも呻き声ともつかない呼気を吐き出し続けた。

 身体は微動だにしない。

 早人は憎悪の篭った視線でその姿を射抜いていたが、無言で踵を返すと自室へ向かう階段を下りて行った。


 岬は、早人の姿が見えなくなっても尚立ち尽くしていた。

 心配した執事と女中が駆け寄ってくるがその言葉も耳に入らないようで、口内を微小に動かす。


「なぜ。まさかそんな。どうして。私は何だったの」


 岬自身にしか聞こえない、その言葉を繰り返し続けていた。





 書斎は、康光にとって心落ち着く唯一の場所であるといっていい。

 滝川グループの総帥として文字通り世界中を飛び回り、たまに帰宅しても屋敷内にいる限りは家長としてふるまわなければならない。

 従って、基本的には康光一人の時間を過ごす事が出来るのは書斎にいる時だけであった。

 家族や使用人でも許可がなければ立ち入りを許さないようにしている。

 そういう意味では書斎の中でコーヒーを運んできた執事が康光に話しかける、と言うのは珍しい事なのだが、この夜それが発生した。


「旦那様」

「なにかね」

「畏れ多くも申しあげますが」


 慇懃に話してはいるが、初老の執事は滝川家に仕えて長い。

 康光がこの時繰り返していた「上髭を何度もしごく」という癖が上機嫌のサインであるという事を知っていた。


「桜庭さんの高山家への婿入りの件、取りやめることはできないでしょうか」

「なぜかね?」

「お嬢様がお気の毒です」


 康光は上髭をいじっていた右手の動きを止めると、それを顎に当てて考える姿勢をとった。


「まあ、あれにしてみれば従者がいなくなる訳だ、幼馴染でもあるし……」

「そうではございません」


 信頼する執事が珍しく自分の意を否定する事を言ったので、康光は興味深げに椅子に座ったまま執事を見上げた。


「旦那様、お嬢様は桜庭さんに色々つらく当たられましたが、桜庭さん自身の事は一度だって嫌ってはおりませんでした。それは初めて会った日から変わらず、ずっと。あの日、お嬢様は桜庭さんの過去を捨てさせました。それが桜庭さんに似つかわしくないと思ったのでしょう。そして、召使いとして勤めないなら追い出す、と言われましたが……」

「それは知っている。という事は早人をそれほど大切にはしていない、という事ではないのか?」

「いえ、幼い頃で感情の表現が上手くなかったのもあるのでしょうが、桜庭さんを追い出す気は更々なかったはずです。とはいえそう言ってしまった手前、そこから屈折した心理が発生したのか、桜庭さんが言いつけを守らないというのはお嬢様にとっては桜庭さんが悪いのではなく、彼をそう仕向けた者が悪い、となったのです。お嬢様は常に彼の周りにいる者に憎しみを向けております」

「……」

「永遠に桜庭さんを手元に置いておくために不安要素を排除し続けていたのです。旦那様、お嬢様にとって桜庭さんは……」

「……岬は今はどうしているのかね」

「部屋にこもりっきりになっております。時々悲鳴とも咆哮とも思える声が聞こえるとか」

「咆哮?」


 その単語に剣呑なものを感じた康光だったが、コーヒーを一口飲むと、その出来栄えに満足したように頷く。


「まあ、成長のためには失恋も必要だろう。挫折を知らないで良い女になれるはずもない」


 執事は何かを言いかけたが、頭を下げると主人の意向を受け入れた。




 

 その叫びは壁を突き抜け、廊下で緊急時に備え待機していた女中の耳にまで届く。

 ドアを開け中を確認したい、もしくは逃げ出したいという欲求との戦いは既に女中は放棄していた。

 絶叫を聞き続けて数時間が経過していたから。


 壁を隔てた室内は窓から月光の煌めきが差し込んでいて、深夜でありながらも肉眼で見渡せる程度には明るい。

 その光に照らされて見える風景は、響きわたる絶叫に負けず劣らず荒んでいる。


 衣類、書物、家具に至るまで台風にでもあったかのごとく散乱し、その多くが破損していた。

 いくつかには吐瀉物がへばりついている。

 その部屋、岬の居室のほぼ中央で、部屋の主である少女は蹲り、嘔吐していた。

 もっとももう吐くものもなく、ただ舌を出し蛙のように喉を痙攣させるだけなのだが。


 そして髪を掴むと引きちぎらんばかりに引っ張り、顔を上げ宙に向かって絶叫する。

 それはもはや人語と呼べるものではない。

 それでも叫ばずにはいられないのだ。

 そうしなければ、岬はそれこそ本当に発狂していたかもしれない。

 叫ばなければ、喉をつぶして体を痛めつけなければ、思い出してしまう。

 考えてしまうのだ、どうしても。


 ――なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。早人を可愛がっていたのに。早人も理解してくれていたはずなのに。だっていつも一緒にいてくれたではないか。命令すれば素直に聞いてくれたではないか。一緒にいて暖かかったではないか。時には笑顔を見せてくれていたではないか。そう、笑顔――


 しかし、それら良き思い出は全て抜け落ちる。

 浮かんでくるのは、早人の辛そうな顔、苦しそうな顔。

 そして岬は憎悪する。

 その対象は誰でもない、自分自身だ。


 ――自分が早人を苦しませたのだ、悲しませたのだ。なぜそんな事をしたのだろう。理解できない。悪いのは、そう、過去の自分だ。なぜ自分はあんなことをしたのだろうか。酷い事をしなければ、優しくすれば、早人は笑って、幸せだったのに。この先もきっと一緒にいてくれたはずなのに。なぜ自分は。殺してやりたい、過去の自分を――


 そこまで考えて再度岬は髪をかきむしり絶叫する。

 五感を自身の叫びで埋めなければ耐えられない。

 少しでも隙があれば悲しげな早人の顔が浮かび、それは即ち自身に対する殺意と化す。

 殺してやりたいほど憎い相手が自分という事実に岬の精神は耐えられなかった。

 何度も咆哮し、部屋の中でのたうち回り、頭を壁に何度も打ち付け、手当たり次第に周囲の物を破壊した。


 ――でも、許して。お願い、貴方に嫌われたくない軽蔑されたくない――



 ――――――



 早人が滝川邸を離れることになるのは新学期の始まる九月一日である。

 その日を迎えるまで残り一週間となり、早人は忙しない日々を送っていた……という訳でもない。

 これまでに自分の所有物と言えるものは尽く岬によって処分されていたため、衣類が数着以外には運び出すものとてなかったからだ。

 かと言って、今だ滝川に世話になっている身としては、羽を伸ばして遊びまわる、と言う気持ちにもなれずにいた。


 その日も、書店で購入した小説をベッドで横になって読みふけり、それを夜半に至るまで続けている。

 そして睡魔の訪れを感じ、寝間着に着替えようとした時、扉をノックする音が耳に入った。

 相手の氏名を問うた時、早人は思いもかけない答えを聞く。


「私よ」


 八年間、最も多く聞いた声音を聞き、早人は驚いてベッドから飛び降りた。

 急いでドアを開け、そしてより以上に驚愕する。

 目の前に立っているのは間違いなく岬だった。

 だが、その美しい人形のような顔は、本物の作り物のごとく白く蒼ざめ、目は充血し、その周りには隠しようもないほどの大きな隈ができていた。


「どうしたんですか?」


 岬と会うのは先日の玄関での別れ以来である。

 その間何があったのか、さすがに変わりようを心配して早人は声をかける。


「これを、返しに来たの」


 岬は握りしめた右手を早人の前に差し出す。

 その指にいくつもの歯形があるのに早人は気が付いた。

 まさか自分で自分に噛みついたのだろうか、と思ったが岬がその手を上に向け開いた時、そこにあるものを見てそんな考えは吹き飛んだ。


「ロケットペンダント」


 その言葉は二人から同時に発せられた。

 早人はそのまま沈黙したが、岬は言葉を紡ぎつつける。


「私には貴方の喜ぶことはこれしか分からないから。貴方がとても大事にしていたものだから、あの時、これは捨てられなかった。でも貴方に返したら、きっとあなたの心はそれに捕われたまま。だから返せなかった」


 無言のまま、早人は視線を岬の腫れ上がった両目に向ける。


「いつか、私を心から慕ってくれるようになった時に返してあげれば、きっと喜んでくれて、私に感謝してくれる。その日を待っていた。でも、もう間に合わないから」


 岬の口と両目が閉じられる。

 蒼白だった頬に、朱が差すのを早人は見た。


「お願い、許して。貴方が、早人が好きなの」


 そうして岬は俯くと、早人と同様に沈黙した。

 岬の声は小さかったが、廊下中に反響したような錯覚に早人は陥っていた。

 その感覚に身をゆだねていた早人だったが、両手を岬の右手に重ね、ロケットを岬から受け取った。

 そして沈黙を破る。


「ありがとうございます。でも、もう遅いんです」


 顔から表情を消し、あえて冷酷と言ってよい口調で告げる。


「僕は、僕の人生を取り戻しに行く。そこには貴女は必要ないんだ」


 即座に振り返ると表に岬を残したままドアを閉めた。

 岬がどんな表情をしたか、早人は見たくなかった。

 見ればまた心が折れてしまうかもしれないから。

 高い音をわざと立てて扉を施錠すると、ベッドにもぐりこんで布団を上からかぶり、早く岬が立ち去ることを願う。


 だが、早人が眠りに落ちるまで岬が扉の前から動く気配は感じられなかった。



 ――――――


 

 高い空と秋風の色を含んだ空気の流れが滝川邸を包む八月末日、早人は家人達への挨拶回りをしていた。

 と言っても康光は海外へ商談に出てしまっていたので、執事、女中、運転手くらいのものなのだが。


「いよいよ明日お別れですね」

「執事さんにはお世話になりました」

「またいつでも遊びに来てくださいよ」


 寂しげに笑う老執事の顔を見て、早人は苦笑する。

 早人自身はもう会う事はないだろう、と思っているのだがそれを告げるのは野暮と言うものだ。


「岬様にはお会いになりませんか」

「はい」


 間一髪も置かずに断言してしまい、さすがに冷たすぎるかな、と思い直し執事に質問してみる。


「岬様は最近どんな様子なんですか」

「もう部屋から一歩も出てきません。女中も食事を運ぶくらいでそれも部屋の前までです」

「部屋に入れないんですか?」

「鍵束を奪われてしまったそうです」

「え?」

「心配しなくても、桜庭さんの部屋の鍵はついていませんよ」


 さすがに早人もそこまでは心配していなかったが、執事の言葉を聞くと背中に氷柱が立つのを自覚した。


「まあ旦那様の部屋と、倉庫や車庫とかの鍵が付いていましたけどね。合鍵はあるんですが、それを使ってお嬢様の部屋に入ってもまた取り上げられるだけでしょうし」





 最後の夜、早人はベッドで横になり、殺風景な白い天井を眺めながら寝付けないでいた。

 理由の一つは、やはり明日からの生活に対する期待感である。

 夏樹と共に新しい、そして本当の自分の人生を始められる、その思いは早人の心を高揚させてやまない。

 そして理由のもう一つは。


 扉がノックされる。

 氏名を問うたが返答はない。

 だがしかし、早人は相手が岬であることを察していた。


 深呼吸して心を落ち着かせる。

 岬が何をしてこようと、何を言ってこようと突き放さなくてはならない。

 早人にとってもギリギリの勝負なのだ。

 長年にわたって染み込まされた服従心を克服しなければ、全ては水泡に帰してしまう。

 僅かな恐怖、憐憫、同情すらも抱いてはならぬ。

 覚悟を決めて、ドアを開ける。


 だが、目の前の光景を見て、早人は自分の予想は間違いだったのだろうか、と思った。

 そこにいるのは、俯いた少女である。

 痩せこけて、至る所に乾いた吐瀉物がこびりついたピンクの寝間着を着ていた。

 その寝間着には見覚えがあった。

 確か岬が好んで着ていたもののはずだ。背格好も岬とほとんど同じである。


 だが、美しかったはずの髪は酷く乱れていた。

 いや、乱れているというどころではなく、まるで幼児がハサミで悪戯したかのごとく、滅茶苦茶に切り落とされていた。

 しかも所々頭皮が見え、そこに血がにじんだ跡がある。

 自分で髪の毛を引っ張り抜き落としたのだ。

 その考えに至って、早人は戦慄した。

 思わず叫び声を上げそうになったが、少女がそれより早く口を開く。


「お願い、許して」


 聞きなれた岬の声。

 早人は心がなぜか落ち着くのを感じた。

 もう一度深呼吸をする。


「執事さん達が心配してますよ」

「許して」

「岬様……」

「どうすれば許してもらえるのか、私には分からないから」


 岬は顔を上げた。

 早人はその顔を見る。

 やつれ、目は充血し、頬はこけていたが美しさは損なわれてはいない。

 いつものように人形のように美しい顔だった。


 そう、人形のように美しい、右半面。

 そしてその隣にある半面を見て、早人は今度こそ絶叫し後ろに跳びすさる。

 そのままベッドまで後ずさり、その上にへたり込んだ。

 早人を追いかけて、岬が入室してくる。

 それを遮ることは早人には出来ない。

 ただ、驚愕に口を開け、近づいてくる岬を見つめていた。


 岬の左半面は、右半面と同じく人形のようだった――ただし、蝋燭の炎を押し付けられて溶けた人形のように、全体が焼けただれていた。

 その中にある左目は、黒目と白目が混ざったように全体が灰色に潰れ、涙のような体液を垂れ流し続けている。

 なにか強い酸を被ったのだ。

 早人の心中で僅かに残っていた理性がそうつぶやいた。

 どこから手に入れたのだろうか、屋敷にあった倉庫を鍵で開けたのだろうか――。


「私は」


 早人に向かう歩みを止めずに岬が話しかける。


「私を許さない。でも貴方の傍にいたいの、どうすればいいか分からないの。これじゃ足りない? どうすれば許してくれる? 貴方が許してくれるなら私は何をされてもいい。そう、殺されてもいいわ」


 岬は錯乱している。

 理性はそう教示していたが、早人にはどうすることもできない。


「お願い、殺して。それで許してもらえるなら、私は構わない。いえ、むしろ本望だわ。お願い、殺して」


 ただ迫る岬の姿に飲まれ続けていた。


「許して」

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