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前編

「今年の夏は例年にない猛暑となるでしょう」


 と、月初めには予想されていたのだが、それが見事に外れる事を教室内に吹き込んでくる穏やかな風は教えてくれていた。

 今は七月、初夏である。


 高等学校における教室内の風景というものは、多少の差異こそあれ大体似たようなもので、それは放課後であっても変わらない。

 この教室でも多くの生徒が授業という労苦から解放されたことを喜び、ある者は部活動の準備を始め、ある者は級友と待ち合わせの時間と場所の再確認をしていた。


 そんな賑やかで若い喧騒に満ちている中、一人席についたまま片肘をついて窓の外の光景を眺めている少年がいる。

 その薄い茶色の瞳には校庭で球技に勤しんでいる生徒達の姿が写っていたのだが、少年にとってそれは視覚情報として入ってくるだけのもので、心にまでは届いていなかった。

 それらは少年にとっては無意味なものであったから。


桜庭さくらば、元気?」


 耳に入ってきた声は自分を呼ぶものであったので、さすがに少年は反応した。

 振り向くと、日に焼けた茶色い髪と顔をした、活発という言葉を擬人化したような少女の顔が目に飛び込んでくる。


「元気と言えば元気かな」

「気のない返事だねえ。今もご主人様の命令待ちですか?」

「そういう言い方は好きじゃないって前も言ったはずだけど」


 批難のこもった少年の返答を聞いて少女は快活に笑い、「ごめんごめん」と謝った。


 桜庭は少年の姓である。

 名は早人はやとで、これを共同で名づけた両親は二人とも既に他界していた。

 瞳と同様薄茶色の頭髪をしているが、これは染めているわけではなく、生まれつきである。

 頭髪だけでなく全身の色素が薄く肌も色白で、やや中性的な顔立ちをしているため初対面の相手にはハーフかクォーターなのではないかとよく誤解されていた。

 

 早人は少女に何かを言おうとして口を開きかけたが、その時アラームが制服のポケットから鳴り響いた。

 会話を止めて携帯電話を手にする。


「はい早人です。はい……はい……。分かりました」


 通話を止めると立ち上がり、鞄を机の上に置いた。


「ごめん、呼び出しだ」

「ご主……滝川たきかわさん?」

「そうだよ」


 返事を聞いた少女は眉根を寄せ、早人の心の内を探るように顔を見つめて問いかける。


「毎日命令されるのって腹が立たない?」

「長年やってるから」

「やめたいと思わないの?」

「考えたこともなかったな。でもやめてもどうなるものでもないし。ここにも通えなくなる」


 鞄の中に、机から取り出した教科書をしまいながら早人は答える。


「んー。じゃあやりたいからやってるわけではないんだよね?」

「そう言うのともちょっと違うかな。選択の余地がない、そういう事だよ」

「なんで……」

「そんなに気になるのかな?」


 苦笑して早人は少女に振り向いた。

 秀麗な顔を向けられて、少女は目に見えて赤面する。


「そ、そ、そ、そう言う訳じゃ」

「まあいいよ。今度機会があれば詳しく話してあげる、夏樹なつきさん。じゃあね」


 にこやかに少女――夏樹に微笑むと教室から出ようとしたが、夏樹は素早くその先に回り込んだ。

 顔には太陽のような満面の笑みを浮かべている。


「本当に?」

「え?」

「詳しく教えてくれるんでしょ、桜庭と滝川さんの事」


 聞いて早人は一瞬呆気にとられ、肩をすくめた。


「いいけど、もう皆知ってることじゃないのかな」

「ある程度はね。そりゃ貴方達『主従』は有名だもの」

「それなのにわざわざ?」

「桜庭から聞いてみたいのよ」


 夏樹は快活にそう宣言する。

 あまりにもさっぱりとしたその口調からは色気と言ったものを早人は感じなかったが、言葉の内容は周囲にとってはそれなりに衝撃があったらしい。

 数人の男女が冷やかすように声をかけてきたので、早人は背筋を伸ばして自身の赤いネクタイを直すと努めて冷静を装って答えた。


「じゃあいずれ。時間ができたら」


 それだけを伝えると夏樹の脇をすり抜け退室した。

 その姿を見送った夏樹の周囲に女子が集まり、囃し立てるように次から次へと言葉をかけて来る。



 ――――――



 私立希恍きこう高等学校は、全国でも五本の指に入るといわれる程の超名門校である。

 中高一貫教育で高校からの生徒募集自体が行われていない。

 校内では制服の着用が義務付けられており、学年によってネクタイが色分けされている。

 高校では一年が赤、二年が青、三年が白となっていた。

 名門だけあって学費の高さもずば抜けており、その額は一人当たり年間で一般家庭の平均世帯年収に匹敵する。


 そして東京ドームが二つ収められるほどの広大な敷地を持ち、点在する校舎群は長い歴史を感じさせる煉瓦造りの外観をしていた。

 しかしその内は改装を重ねられて、最先端の教育施設と設備環境が整えられている。

 セキュリティも万全で、広大な敷地は高い塀に囲まれ監視カメラがそこかしこに(ただし一見してはそれと分からないほど目立たぬよう)設置されて、外界からの侵入を固く拒んでいた。

 その敷地内の一角に、来客・父兄用の駐車場があるのだが、早人はそこに向かって道を急いでいた。

 電話の相手との待ち合わせ場所がそこであったから。


 早人の視界が人影をとらえる。

 細く、背筋を伸ばして凛として立つその人物は腕時計を見つめていた。

 黒い後ろ髪は肩の下に届くほど伸ばしているが、前髪は眉の所で切り揃えられている。

 その色白の顔は極めて整っており、万人が認める美人と言ってよい。


 だがしかし、その表情には生気と言ったものが欠けていた。

 紛うことなき美人なのだが、妙に作り物めいているのである。

 人形か、彫刻のような美であった。

 早人が近くまで駆け寄ると、美少女は気が付き、早人が口を開くより早く言葉を発した。


「遅かったわね」


 顔と同様、感情を感じ取れない抑揚のない声が通る。


「すみません、みさき様」

「どういうつもり? 私は五分以内に来るように、と命令したはずだけど」


 早人は長年の経験でこういう時の岬には何を言っても無駄だと悟っていた。

 クラスメートの女子につかまっていた、などと言えば話がややこしくなる。

 できるだけ無難な返答をするしかない。


「帰り支度に手間取ってました」

「無駄なものが多すぎるのね。貸しなさい、その鞄」

「はい」


 右手に下げていた自身の鞄を早人は差し出す。

 岬はそれを受け取ると、駐車場の片隅にあるゴミ箱まで持ち運び、無造作に投げいれた。


「帰るわよ」


 そう告げると、今度は自分の鞄を差し出した。

 早人は一礼すると両手で恭しくそれを頂く。

 視界の隅に岬の赤いネクタイの一部が見えた。


 岬は踵を返すと、駐車場で待機していた黒の高級車に向かう。

 傍で待機していたドライバーが慣れた動作で後部座席のドアを開いて岬を迎えいれた。

 無言で岬が乗り込むと、ドアを閉めたドライバーが反対側に回りドアを開ける。

 早人が礼を言って岬の隣に着席した。

 ドライバーはまたドアを閉めると運転席に戻り、車を発進させる。


 街道をゆく人々は日傘をさし、ある者はハンカチで汗をぬぐう。

 そういった光景が車窓から見えなければ、今が夏であることすら忘れそうな程快適な空間をその車は提供していた。

 だが、乗車する人がどう感じるかはまた別であろう。

 少なくとも心穏やかな者はこの車中にはいない。


「明日は?」


 正面を見据えたまま岬が無感動に尋ねる。


「六時起床予定です」

「そう。下校は今日と同じくらいのはずよ。明日は待たせないでね」

「岬様、それなのですが」


 岬は顔は動かさず視線だけを早人に向ける。


「放課後、クラスメートとミーティングを行う予定があるんです」

「欠席しなさい」

「いえ、以前お話ししたかもしれませんが、僕は学園祭のクラス委員に任命されていまして、明日はその話し合いなので欠席するわけには」

「私の下校時間に間に合うまでなら参加してもいいけど。それ以上は無理ね」

「かしこまりました」


 そこで会話が終わり、岬は視線を正面に戻した。以降は無言の時間が続いていく。

 車は幸いにも、というべきか信号待ちで止まることもなく快調に走り続け、三十分もすると目的地である滝川邸に到着した。

 

 滝川邸は平均的な中学校に比する敷地面積があり、その中央やや北寄りに地上三階地下一階、白亜の洋館がそびえたっている。

 正面玄関前で降車した岬と早人を初老の執事と二十代と思しき女中の二名が出迎え、岬はごく簡単に帰宅の挨拶だけをすると、それ以上話すことなく二階の自室に向かって歩み続ける。

 早人は鞄を女中に引き渡すとその後ろから付き従った。

 そして岬と女中が部屋に入るのを一礼して見届ける。

 豪奢に装飾された室内の様子が見て取れたが、それもごく僅かの事で、すぐにドアは閉じられる。


 早人は顔を上げると、階下に向かって歩き出し、地下階まで至った。

 そのまま地下にしては高い天井を持つ廊下の中央よりやや先、「桜庭」と記された表札のついた扉の前まで歩み、ノブに手をかける。

 

 室内は十畳ほどはあるだろうか。

 早人一人で暮らすには十分すぎると思われる広さのその空間には、しかし目立った家具や装飾品と言ったものがない。

 あるのは真新しいタンスが一棹とこれもまだ傷一つないベッドだけで、壁面には壁紙すらなく剥き出しの表層を晒していた。



 ――――――



「はい、これ」


 翌日、登校した早人が席に着くや否や、夏樹が机の上に昨日岬によって廃棄されたはずの鞄を置いた。何人かの女子が遠くからそれを見て何やら声援を送るようなポーズをとっている。


「ありがとう」

「でも必要なかったのかな」


 夏樹の視線の先には、机の脇に置かれている新品の鞄があった。


「いや、そんな事ないよ。でもどうしてゴミ箱にあるって気付いたのかな?」

「悪いと思ったんだけど、昨日桜庭の後を追っかけた」


 夏樹の、岬ほどではないが美人の部類には属する顔が既に赤い。


「で、これも悪いと思ったんだけど。鞄の中身見ちゃったんだ。驚いたよ、教科書以外何も入ってないなんて。ノートすらないし」

「いつ捨てられるか分からないからね」

「どうして?」


 快活な夏樹に似つかわしくない、悲嘆交じりの声音を聞いた早人は苦笑して答える。


「分かったよ、鞄のお礼もあるし昨日約束したし、話してあげるよ。でもここじゃ場所が悪いから」


 早人は自分達に向けられている視線の数を数えだす。片手で余る程度にはあった。


「後で空き教室で良いかな?」


 夏樹が頷き、周囲から歓声のようなものが上がりかけたが、直後にかぶさった予鈴のチャイムにかき消されていた。





 昼休みになると早人は校舎内を散策し、ほどなく誰も使用していない会議室を見つけると、そこにお邪魔することにした。

 ホワイトボードになにやら数式が書かれたまま残っていたので、授業か会議が行われていたのだろう。

 明るい陽射しが窓から差し込んでくるが、直前まで空調も効いていたせいか、室温はそれほど高くない。


 長テーブルを挟んで夏樹と向かい合って座る。

 早人は両手を机の上で組んでリラックスしていたが、夏樹は両手を握って膝の上に乗せ、唇をかんで緊張の表情を見せていた。


「大丈夫?」

「ななななな、なにが?」

「緊張してるみたいだけど」

「そ、そ、そ、そんなことないよ」


 明らかにそんなことがありそうな返答だったが、早人は話を進めることにした。


「僕と岬様の話を聞きたいって事だったけど。最初から全部話していくと長くなりすぎるから要点だけまとめていくけど、それでいいかな?」


 夏樹は真っ赤な顔を何度も上下に動かした。


「最初は……小学校二年生の時だったから八年前かな。僕の両親が亡くなった」


 防音対策のとられた室内には外の喧騒は聞こえない。

 早人の声だけが通っている。


「交通事故だったんだけどね。当時の詳しい事はもうあまり憶えていないんだ、周りで大人達が大騒ぎしていたけど。そして僕には身寄りがなかった。父の友人だった人が八方手を尽くして探してくれたんだけど、僕を引き取っても良いという人はついに現れなかった……かに見えた」


 早人は目を閉じ、当時の記憶を掘り起こしている。


「ところが康光様……岬様のお父様が僕を引き取りたいと申し出てくれた。大人達は仰天したと思う。父はしがないサラリーマン、母も父の幼馴染でしかも孤児だった。そんな両親と滝川グループの総帥につながりがあるなんて想像することすら不可能だ。誰もがその接点を知りたがったようだけど、康光様は『理由は一切聞かないように』というのを条件にしていたので、今も不明なままなんだ。僕も尋ねたことはあるけど答えは頂けなかった」


 夏樹にとってはこれは噂として既知の話であった。

 もっともこうして本人から事実として聞くまで半信半疑ではあったが。


「まあ不審なところはあったけど渡りに船の申し出でもあった。という事で大人達は僕を康光様に預けることにした。そうして最後まで面倒を見てくれていた父の友人に連れられ、僅かに残った家財道具を携えて僕は滝川邸を訪ねて、そして玄関が内から開かれた時、真っ先に目に入ったのが小さな女の子、岬様だった」

「……」

「挨拶をしなきゃ、と思った僕が口を開くよりも先に岬様の怒鳴り声が響き渡った。今と違って感情豊かだったんだよ、幼い岬様は」

「なんて言われたの?」

「『そんな汚い服や鞄、私の家に入れないで!』と」


 夏樹が息を飲む音が早人の耳にも届く。


「それで、持って来た家財道具は一切合財玄関の敷居をまたぐことなく処分された。服も執事さんが買いに行って外で着替えさせられた。で、やっと入館することを許された僕に岬様が再度声をかけてきた」

「今度はなんて?」

「『貴方は私の召使いなのよ。それを弁えないならいつでも追い出すから』とね」

「そんなことが許されてたの?」


 憤慨するような夏樹の問いを聞いて、早人はまたしても苦笑する。


「今もそうだけど、滝川邸では岬様が絶対なんだよ。康光様も奥様も忙しくてあまり帰宅されない、必然残る岬様が唯一の滝川の人間となる」


 早人の薄茶色の瞳が、灰色に変じたように夏樹には見えた。


「それからは岬様の機嫌を損ねる度に、その原因となっている物を処分させられた。物だけではなく、人も。友人との約束があって岬様を待たせたりしたら、その友人と絶縁させられた。とにかく岬様を最優先しなければならない、それ以外は不要なんだ。僕は岬様に仕えるだけの人間なんだよ」

「逆らったりしなかったの?」


 夏樹は目に涙すら浮かべ、声を震わせて問いかける。


「昔はね。でもその度打ちのめされた。岬様に逆らう事はイコール滝川に逆らう事なんだ。……でも、それでも一つだけ小さな抵抗を続けていた」


 それを聞いて夏樹の顔に輝きが戻る。


「最初の日、全ての家財道具を廃棄させられたんだけど、唯一隠しておいたものがあったんだ。それは銀製のハート型ロケットペンダントで、元々は父さんが母さんにプレゼントしたものだったんだけど。滝川邸に行く前日、父の友人が僕と両親の写真を入れ直して渡してくれた。それだけは隠し持って、時々首から下げていたんだ」


 早人は静かに一呼吸して言葉を続ける。


「だけど運悪く、それを着けていた時にまた岬様の逆鱗に触れることがあった。理由は覚えていないけど、岬様の部屋の中でのことだった。その時服を脱ぐように命じられて、当然ロケットも見つけられて、捨てるように言われたんだ。それだけは許してほしいって土下座して頼んだけど無駄だった。ただ、その時室内は僕と岬様だけだったから……」

「二人きり?」

「そう。それで恥ずかしい話だけど、岬様に飛びかかった。もうヤケクソになっていたんだろう、岬様を泣かせてもいいからロケットだけは守るつもりだった。でも、情けない話だけど力でねじ伏せられた。子供時分の事だったから、女の子の方が腕っぷしでも強かったんだ」


 早人は自嘲気味に肩をすくめる。


「そして、首から引きちぎるようにロケットを取り上げられて『そんなに大事な物なら私自ら処分してあげるわ。貴方は感謝するべきね』と言われて部屋から叩き出された……それから僕はもう抵抗するのをやめたんだ。今の僕にはもう何もないんだよ」


 直射日光が窓に当たり、室内に濃い影を作る。

 その中で夏樹の影が動いた。立ち上がると必死な口調で語りかける。


「なにもないなんてそんな事ないよ、桜庭、頭いいし、それにスポーツもできるし」

「それは、岬様に仕える者として必要だから教え込まされたんだ。乗り手にとって良い馬になったにすぎないよ」

「……じゃあ、召使いになっているのが嬉しいわけじゃないんだよね」

「喜ぶとか悲しむとか、そういうものじゃないんだ」

「でもそうなんだよね?」


 夏樹の力強い、有無を言わせぬような言葉に早人は気圧されるものを感じた。

 それでもなんとか夏樹が納得できそうな言葉を探す。


「ありきたりだけど、しょうがないんだよ」

「だったら、私が助けてあげる」

「え?」


 その宣言は早人には完全に想定外の物であったので、虚を突かれて夏樹の顔を見直す。


「待っててね」


 夏樹がいつものように浮かべた太陽の笑みは、早人にはひどく眩しいものに見えた。

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