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異世界町【吸血鬼の恋人】

作者: ダイバ

 細い飛行機雲が夕焼け空を切り裂いた。

 僕は何食わぬ顔を浮かべながらも、その情景を偶然にも見届けたことに満足感を得た。


 窓の外へ逃避行をしている僕を後目に、仕事場の友人達は勤務時間が終わると我先にと帰宅の準備に勤しんでいる。

 出遅れた僕が大通りに出ると、客引きをしている色情的で芳醇な香りの花人やスーツケース片手に渋みの強い視線を向けてくる玄人など、道ゆく人々はそれこそ様々だ。


 昼休みによく利用する喫茶店を覗けば見知った顔の白()の手でも借りたいような働きっぷりをしているのが見えた。

 貼り付けたような営業スマイルの中に、普段の人を食ったような表情が垣間見えてしまっている。


 大通りから三本外れたその名も情けない「身隠れ通り」の一角に、隠れ家的と言うのが売りの古本屋がある。

 本屋に隠れ家的というのは商売文句としてどうかと思うのだけれども、ともかく、そこの二階はもう一つ奥の通りにある老舗雀荘と繋がっている。そのあまりにも不自然な組み合わせは、きっと表では言えない付き合いもあるのだろうけれど、僕としてはこの二つがつながっているおかげで面倒な逆橋を越える必要が無くなるのが非常に助かっている。


 雀荘の店主に何番台に人が足りないから入ってくれと呼び止められるが、今日が最終日であることを理由に断ると、僕のことをよく知る店主は大きな笑い声をあげる。

 餞別だ。と店主が上等な蛇酒を手渡してきたので仕方なく受け取る。

 こういうときに店主が渡すものと言うのは、どうせ身ぐるみはがれるまで居座った馬鹿の唯一の財産だったのだろうから、もらってしまったところで良心の呵責に悩まされることはない。


 紙袋に入った蛇酒を気にしながら歩いていると、進行方向から見知った顔が向かってきた。

 病気がちと勘違いされそうなぐらいの白い肌。林檎よりも赤くて艶やかな唇と髪の毛。

 何にも興味なさげだけれども全てを見透かしてしまいそうな、そんな金色の瞳。ああ、彼女は僕の愛する吸血鬼。

 殺人者のように冷酷な愛情で優しく僕を包み込む。

 月の光の妖しさときらめくダイヤの魅惑さを花蜜と一夜の快楽でコーティングしたそんな魔性の吸血鬼。


「帰ったら君のパスタが食べたい」


 すれ違いざまにそう一言。返事を待たずにたった一言そう告げた彼女の姿は日の沈みきった町にうっとりするほど静かに消えていった。


 アパートの崩れ落ちそうな階段を登りきって、僕はようやく部屋に帰り、彼女の言葉を思い返した。

なるほどと。あれは何かそう言った隠語の類ではなかったのか。

 持ち運んだ蛇酒の香りに当てられたのかと、自分のことながら笑うに笑えなくなってしまったのは

彼女が慣れないキッチンで奮闘した様子が見られたからだ。


 床に散乱するパスタと、水でビショビショのエプロン。焦げたトマトの入ったフライパン。


 おそらくパスタを茹でることは成功したんだろうけど、ソースが作れなかったのだろうと、容易に想像が付く。


 着慣れないエプロンを着て精一杯パスタを作ろうとする彼女の姿を想像して、幸せな気持ちになったところで、僕は彼女の帰りを待つべくして、準備に取りかかった。




 風呂に入りながら、瓶詰の野菜を振り続ける。

 彼女のように魔法が使えれば、こういうときにすぐさまピクルスを作ったり出来るんだろうけれど、僕にはそう言った魔法は使えない。仕方なしに振れば振るほど中の時間が圧縮されるっていう売り文句を使っている魔法瓶で代用しているのだが、時間を圧縮するとはどういうことなんだろうか。

 カタログの売り文句が料理の時間の短縮だったから、きっとこういう使い方を想定してるんだろうけれども。

 などと、時間圧縮についての論争が本格的に始まりかけたときに、風呂場のドアが勢いよく開いた。


 湯気の立ちこもる浴室に裸体の彼女が泣きそうに目を腫らしながら入ってくる。


「ジロー!君のパスタは僕の心を癒やす最高の料理だったよ!」


 僕に両手で抱きかかろうとする彼女の豊満な胸が僕の視覚を占領する。


「おや、ジロー?その右手にあるのはなんだい」


 僕が何かを発する前に彼女は僕の手からビンを絡め取る。


「ピクルスじゃないか!ジロー!君は本当に最高だよ!ちょうどガーネットからワイン貰ってきたんだ。一緒に飲もうよ」


 僕の返事を待つこともせず、彼女は虚空からワインを一本取り出した。

 グラスがないよと僕が言うと、口移しではダメだろうかと彼女が言う。

 なにやら今日の彼女は随分と思い切りが良い。

 何かあったのか、と聞きたくなるのは男としての器量が小さいからだろうか。

 久しぶりに見た彼女の少女のような笑みを見ながら、僕は情けない気持ちになった。






 アルコールに火照らされた彼女の寝顔はとても清廉で、出来ることなら時間を止めて永遠に見ていたくなるような気持ちになる。


 昨夜の風呂場での出来事と、その後の寝床で出来事はいつもよりもいろいろな意味で激しかった。


 彼女は吸血鬼だ。それもただの吸血鬼ではない。吸血鬼達の間で貴族と呼ばれる非常に位の高い吸血鬼だ。

 町の外では吸血鬼の貴族なんて言うのは一つの国を持っていたり、絶対的な支配者として君臨していたりするらしいのだけれども、彼女はそう言ったことに興味がないようだ。


 けれども、この町において彼女の存在はある種、絶対的だ。


 ノアノッド・ノーティア・ノル・ノディーク


 どこまでが名前でどこからが家名なのか知らないけれど、そんな長ったらしい名前を彼女は持つ。

 彼女のナワバリであるこの町には厄介な支配者はやってこない。

 彼女が毎夜のように町の外を飛び回るだけで、強欲な地竜はこの町を破壊しようとせず、裏通りに潜む鬼童子や霊鬼は派手な振る舞いをしない、らしい。

 僕にとってそれはどうでも良いことだ。

 僕は彼女のことを愛しているし、彼女も僕のことを愛している。

 吸血鬼ノアは僕に対して「愛」以外求めないのも、僕にとっては嬉しいことだ。


 カーテンの向こう側の世界が白みだす。

 月と闇は朝日の前になりを潜め、空を飛び交うコーチンドレイクの嘶きで一日が始まる。

 けれども、今日は最終日明けの休日だ。

 こんな日にも働いているのはワーカホリックの蟻人か、昼夜問わずに町の清掃にいそしむケリアンテイカーぐらいだろう。


 もう一寝入りしようとベッドに入ると、すぐさま僕からシーツを奪うように寝返りをうつ彼女を見て、驚きと微笑みを隠せなかった。


 彼女か本格的に寝始めるときっちり夕方になるまで起きることはない。

 それが吸血鬼としての性分なのか、それとも彼女個人としての性分なのか判断することは出来ないけれど、そのことを知っている僕に出来るのは彼女の邪魔をしないようにベッドから出ることだった。


 ちょっとした思いつきで、残り物のパスタをフライパンで炒めて卵でオムレツのように包み込む。

黄色いハンカチのような見た目が非常に可愛らしく、これならば普段朝食を食べない隣人にも受けがいいだろう。


 ベランダからこっそりと隣の部屋を覗けば、明かりがついているのが確認できた。


 すぐさまインターホンを押して、隣人が出てくるのを待つ。

 寝間着のままだが、まあ関係ないだろう。


「こんな朝早くから、なんのようだい」


 おそらく正体が分かっているのであろう、静かな怒声と嫌味を含んだ言い方に思わず恐縮してしまう。


「ジローです。昨晩はご迷惑をかけたと思いますので、お詫びの品に朝食を持ってきました」


 インターホンの向こう側で舌打ちをしたような音が聞こえたが、気のせいだろう。


「相も変わらず…盛りの付いた猫でももう少しマシだよ。まったく」


 開いた扉から顔を出すなり、隣人の白猫は文句を言ってくる。

 何の因果か仕事場近くの喫茶店で働いているので下手をすれば愛する彼女よりも多く顔を合わしているかもしれないのだけれども、いつもこんな調子だ。


「おはようございますコシロさん」


「はいはい。礼儀正しいのもここまで来ると嫌味だね」


 よほど昨日の接待業務が疲れたようだ。普段の三割り増しで憎たらしい顔つきをしている隣人を見て、僕はそんなことを思う。

 これほど人相が悪いのに、人気ウェイトレスとして働いているあたり、かなりのやり手であることが伺える。

 残念なことに僕の姿を見たとたんにコシロさんは喫茶店の奥に引っ込んでいくので、営業モードの彼女を僕は遠目からしか見たことがない。


「コシロさんは今日が盛り日ですか?」


 珍しく僕が冗談を言ったからだろうか、隣人は目を丸くして瞬きを数回すると、またいつもの細い目でこっちを見てきた。


「そう言えば昨日、あんたの同僚がクソ忙しいときに電話番号の書いた紙を手渡してきたっけねぇ。しばらくの間、仕事が手に着かなくなるぐらい搾り取っても良いんならそうしてやっても良いんだけど?」


 からかったつもりが、随分と恐ろしいことを言ってきた。

 そして、その同僚にも当てが付いてしまっているものだから尚更困る。

 コシロさんは猫又であり、妖怪の一種だ。

 吸血鬼と違って夜伽で血を吸うことは無いだろうが、精を得て妖力を蓄えるのならば、文字通り搾りカスになるまで搾り取る可能性もあるわけだ。


 そこで言葉に詰まった僕を見て、コシロさんはまた怪しい笑みを浮かべる。


「まあ、その持ってきた朝食の出来次第だね。冷めちまうからさっさとよこしな」


 半ばふんだくる勢いで僕から皿を受け取ると、コシロさんは何も言わずに部屋の奥に戻っていった、尻尾で器用にドアノブを摘まんだのがなんとも印象的だった。




 部屋の奥から聞こえてくる彼女の寝息が僕の心を安心させる。

 と、同時に酒と汗との入り混じった刺激的な香りが部屋中に充満しているのがわかる。


 ひょっとすれば、コシロさんの機嫌が悪かった原因は僕の身体からも発されているだろうこれだろうか。

 だとすれば申し訳ないことをした。清々しい朝の香りがこんな香りに打ち消されてしまえば、誰であろうと嫌な顔をする。

 コシロさんは猫又であるので僕よりもはるかに鼻が利くのだから、耐え難いものだっただろう。


 それはさておき部屋の角に転がっている空きビンをなんとかすべきだろう。

 彼女のワインと僕の蛇酒はまだ日付が昨日のうちには飲み干してしまったのだけれども、酒がなくなれば彼女は目の前の大好きな食材に食らいつくのが道理な訳であり……


 ふと、それでいてハッキリと、昨晩彼女に首筋、脇腹、太腿と数えられるだけでも三カ所から吸われたのを思い出して、僕はすぐさま冷蔵庫から牛乳とチョコレートを取り出した。


 掃除の前に先に栄養補給が先決だ。

 今まで忘れていたのは、寝起きで頭に血が足りてなかったのと、それから彼女の魅了が作用していたからだろう。

 身も心も吸血鬼に授けようとする魅了は、対象の生命活動を妨げる働きもある。

 今回のように血を吸われたことを忘れて活動するのもその一つだ。


 二日酔いで胃がムカムカするし食欲もないが、きっちり肉と野菜を食べて血を作らないと明日からの仕事に支障が出るだろう。

 チョコレートを食べ終えてようやく、いつもの調子を取り戻した僕は、彼女の寝息を嬉々として聴きながら、朝食の準備に取りかかった。


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