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残余(ざんよ)の声(こえ)

第九章 残余(ざんよ)(こえ)


           1


 六月の第三土曜日。

 市立K中学で起きた連続殺傷事件が解決してから五日ほど経過し

たその日、宮房俊樹は午前中には凪森健の部屋にやって来ていた。

 昨日、県警は凪森たちの要望であの事件の経緯などを説明する場

を非公式で設けた。

 もちろん、俊樹もそれに出席する資格は持っていた。

 しかし月曜日の騒動のあと、警察の事情聴取などで拘束されたせ

いで会社に戻れなかった彼は、当然ながら翌日上司から大目玉を食

らうはめになり、仕事のスケジュールもずれ込んでしまったために、

その会合には出ることができなかった。

 そこで彼は、出席した凪森からその内容を聞くためにここを訪れ

ていたのである。

「天罰か......」

 凪森から一通りの説明を受けた俊樹は、リビングにある程良い柔

らかさを持つ革張りのソファに身を沈めながら声を漏らした。

「納得できない。そんな顔をしている」

 向かいに座っている凪森が紫煙を揺らめかせながら言う。

「納得はしてるさ。特に三つ目の件は、谷口君だってはっきりと分

かる証拠もあったってことなんだから」彼はそう言い返した。

 二人の中学生が犯行を告白したあの日。

 凪森の発言から技術室に向かうことになった棚部は、そこで血塗

れになって横たわる市川伸作教頭の姿を発見した。

 市川は室内の廊下側の壁に背中を預けた状態で座っていたらしい。

 技術室にやって来た棚部は、まず初めにドアのガラス越しに中の

様子を見たがそこでは異常を確認できず、そのあとで学校の職員に

部屋を開けさせたところで彼を見つけた。市川の身体には刃物によ

る刺し傷が幾つもあり、既に死んでいるのは見て明らかな状態だっ

たという。

 県警は、谷口稔と水谷結香里の二人を一連の事件の容疑者として

逮捕した。彼らは、理科室での言葉通り今のところ抵抗する様子も

なく、取り調べにも淡々と応じているらしい。

 鈴原太一の殺人と益田仁美の殺人未遂について、二人はあのとき

結香里が告白した内容と同じことを語っており、さらに稔は市川殺

害についても容疑を認めた。

 K中学の技術室は、週ごとに各学級が交替で清掃を行っており、

その際には必ず教員一人が持ち回りで生徒たちの付き添いをしてい

た。そしてあの週の清掃当番は稔のクラスであり、その引率者は市

川であった。

 稔は、自分一人で技術室の掃除をするとクラスメイトたちに申し

出て市川と二人きりになる機会を作ると、所持していたナイフで市

川を刺したと話している。その供述通り、現場には一本のナイフが

落ちており、そこからは彼の指紋が検出された。また押収した彼の

荷物の中には、血で真っ赤に染まった体操服が入ったビニルバッグ

も見つかり、その血液が市川のものと一致していた。そして犯行後、

稔は市川を壁際に移動させると、外から部屋の中の様子を見られて

もすぐには気づかせないようにするため、現場に飛散した血痕をそ

のとき着ていた体操服を使って拭き取ったのだという。彼が理科室

に遅れてやって来たのは、汚れてしまった衣類を着替えていたせい

だと彼は告白した。

 さらに、そこで使われた凶器についても驚くべき事実が分かった。

 なんとナイフからは、稔の他に太一と仁美の指紋も見つかったの

である。

 稔の計画では、当初は例の怪談と同様に技術室にある鋸で市川を

殺害するつもりだった。しかし美術室の事件で仁美を襲ったとき、

彼女がそのナイフを隠し持っていたことを知ると、彼はそれを持ち

去って、より使い勝手の良い凶器で市川を襲うことにしたのだった。

 そこで県警は、仁美を追及することにした。

 彼女は最初それを強く否定していたが、最終的には自分の所持品

であったことを認め、さらに彼女が加奈に会おうとした真意も語っ

た。

 仁美は、太一と加奈が以前交際ことを知っていた。

 太一の女癖の悪さを認識していた彼女は、彼が未だに加奈との関

係を自分に隠れて続けているのではないかと密かに疑っていた。そ

のため太一が襲われたとき、彼女は加奈が痴情のもつれから犯行に

及んだのではないかと考えていたらしい。そしてその疑念は、彼の

死によって殺意へと変化していった。

 太一の最期を看取った仁美は、その直後に加奈と連絡を取った。

突然の呼び出しでは怪しまれると考えた彼女は、翌日の学校で加奈

に復讐を遂げるにした。

 例のナイフは、太一が生前に護身用として身に着けていた形見で

あり、仁美は彼の無念を晴らすためにそれを使うことにしたのだと

話していたらしい。しかし、当日になって事件について重大な事実

が教えると話を持ちかけてきた結香里に応じたことで、彼女の計画

が実行されることはなかった。

 本当のことを言えば、仁美は稔に襲われる直前の出来事まではっ

きりと覚えており、また意識を失っている間にナイフを奪われてし

まったことにも気づいていた。だがそれを誰かに話してしまうと、

なぜそんなものを持っていたのかと問い質され、その結果加奈に対

する殺意を警察に知られてしまう可能性があった。

 仮にそれが発覚したところで、仁美が事件の犯人だと決めつけら

れることはなかったはずだが、彼女は自分が殺人を犯そうとした人

間であると周囲から思われることを非常に恐れた。そのため、彼女

は記憶喪失を偽って事件について口を閉ざし続けたのである。

 仁美が保身に走らなければ、市川が犠牲になることもなかったの

かもしれない。

 だが今更そんなことを考えるのは無意味だ。

 それにたとえ時間を巻き戻す術があったとしても、おそらく同じ

ことの繰り返しになるだけだろう、と俊樹は思った。

「なぁ、どうして谷口君はここまでしなくちゃならなかったんだ?」

彼が尋ねる。

「世間一般では、その状態を納得してないと表現する」凪森は浮か

ない顔をする俊樹を見て言った。

 稔は、一連の事件を起こした本当の動機についても話していた。

 K中学に入学した彼は、ほどなくして当時新任の教師だった藤崎

加奈に恋慕を抱くようになった。それが思春期の少年が持ち易い大

人の女性への憧れだったのか否かは他人では推し量ることはできな

い。ただ彼自身は、その想いは決して実るものではないと悟り、ず

っと胸の内に秘めたままにしていた。

 ところが、彼がそんなほろ苦い感情を維持したまま中学生活を続

けていたある冬の日に事態は急変する。

 その日は雨が降っており、稔の所属するバスケットボール部は体

育館も使用できない日だったので、彼は校舎の中でトレーニングを

していた。そこでたまたま東棟を通りがかった彼は、生徒資料室の

前まで来たときにある異変を感じた。

 その頃には既に生徒資料室の鍵は紛失しており、誰も部屋に入る

ことができなくなったことは校内でも有名だった。だがそのとき、

生徒資料室はほんの少しだけドア開いており、さらに部屋からは微

かな人の息遣いも聞こえた。そして、それが気になった彼は好奇心

に負けてドアの隙間を覗くことにした。

 すると、その中では市川と加奈が愛し合っていたのである。

 それを目撃した稔は、その光景から目を離すことができずに、二

人に気づかれないように息を殺して呆然と眺め続けるしかなかった。

 その出来事は、稔にとってセンセーショナルなものだった。

 当然彼はショックを受けたが、それによって加奈への気持ちが消

え去るようなこともなかった。

 ただし、市川に対する評価は違うものだったらしい。

 自分が想いを寄せる相手を奪われたという感覚も少なからずあっ

たが、それ以上に市川の自覚の無さに呆れたのだと稔は話した。

 市川に妻子がいることは校内でも周知の事実だった。しかしそこ

で彼が目にした光景は、そのような人間が決して行ってはならない

ものであった。そして、稔はその無責任な行動を思い出す度に市川

に怒りを募らせるようになっていった。

 彼は二人の秘密の逢引きを止めさせたかった。

 しかし仮にこの事実を誰かに話したところで、他の教師や大人た

ちが彼の言葉だけで無条件に信じてくれるようには思えず、またも

しそれが公になった場合、市川だけでなく加奈もその責任を追及さ

れることが想像できたので彼は誰にも話そうとはしなかった。

 ただ、せめて他の者にまで知られることのないようにと、稔はあ

る作り話を創って友人たちに聞かせて回った。

 それが開かずの部屋の怪談である。

 噂の発信源が校内有数の優等生で、普段はそういった話に全く関

心のなかった稔だっただけに、それは瞬く間に全校生徒に伝わり、

その影響で以前に比べれば東棟に近づく生徒も減っていった。

 しかしそれが成功したからといって根本的な解決にはならないの

は彼自身もよく分かっていた。

 そして一ヶ月ほど前、稔は加奈の体調の乱れを間近で目にするこ

とになった。

 半年前ほどに結香里と鈴原の間で起きたトラブルを知っていた彼

は、そのときあることを思い浮かべた。そして恐れていた事態が起

きたのだと察した彼は、これまで溜めこんでいた気持ちを抑えるこ

とができなくなった挙句、市川に制裁を加えることを考えた。

 そう。

 つまり稔がこの事件を起こした最大の目的は、市川を殺害するこ

とだったのである。

 彼は、これは天罰だったと口にしているらしい。

 自分の言動の重さを自覚し、その責任を取る覚悟を持った上で行

動するのが大人の務めだと考えていた彼にとって、市川の行為は許

されるべきものではなく、当然その代償を支払うべき思った。しか

し実際には、市川がその報いを受けるわけでもなく、彼はのうのう

とこれまで通りの生活を続けていた。

 その現実を知った稔は、誰もこの大人としての資格を持たない者

に罰を与えないのであれば、自らがそれを代行すればいいと考えた

末に犯行を決意したのだと言う。

「悲劇の山本さんをモチーフにしたのは、彼なりのメッセージだっ

たんだろう」凪森が話す。

「メッセージ?」

「市川は、教頭になる前までは技術科を教えていたそうだ。だから

彼は敢えて学校内部の人間くらいしか知らない怪談を使って、その

話に出てくる教室を犯行場所に選んだ。そうすることで、校内の誰

かがお前を狙っているのだと市川本人に暗に気づかせて、恐怖を与

えたかったんだと思う。きっとそれも、彼の言う天罰の一部だった

んだろう」

「だとしたら、あの怪談ほど最適な素材はなかったってわけだな」

俊樹が頷いた。

「彼が目的を達成するためには、市川の他にも二人の犠牲者が必要

だった。この計画を考えたときに、彼は少なくともその一人を鈴原

太一にすることは決めていたはずだ」

 稔は、結香里を傷つけた太一に対しても市川と同じ気持ちを抱い

ていた。ただ彼の最大の目標は市川への報復であり、太一のことは

あくまでもそこに至る過程という意味合いが強かったのだと推測で

きる。

「ただ、彼と益田仁美の接点は薄い。だから彼女が選ばれたのは、

水谷結香里が話した通りだったのではないかと思う」

「なら、もし彼女の口から益田さんの名前が出ていなかったらどう

していたんだろう?」

「全く関係の無い誰かが狙われた可能性もある」凪森が言った。

「そんな......」俊樹が顔をしかめる。

「たぶん彼は、市川に制裁を加えるためには誰の犠牲も厭わないと

考えていたはずだ。それだけ市川に対する憎悪が膨らんでいたんだ

ろうな」

 凪森は短くなった煙草を灰皿で揉み消しながら話した。

 稔は、市川に苦しみを味あわせながら殺したかったとも供述して

いたらしい。

 技術室での犯行の際、彼は意図的に市川に止めを刺さないまま理

科室に向かった。そして凪森の推理で自分が犯人だと指摘されると、

集まっていたメンバたちに時間をかけて、さらに嘘を織り交ぜなが

ら事件の経緯を説明することで市川が息を引き取るまで時間稼ぎを

していた。

 そのことからも、稔が市川に強い恨みを持っていたのは理解でき

る。そして彼は、市川を殺すことで一年半もの間抱き続けた思いを

晴らすことに成功したのである。

「だとしたら、俺は谷口君が少し不憫に思うよ」

 俊樹はそう言うと、深くため息をついた。

 加奈に想いを寄せていた稔は、不倫の末に彼女の身に起きた悲劇

を想像することで今回の事件を引き起こした。

 俊樹にとってはそれだけでも充分にヘビィな内容だと受け止めて

いたのだが、事件後に加奈が語った新たな事実によって、この事件

はさらにその重みを増すことになった。

 四月の終わりから自分の体調の変化を疑い始めた加奈は、市川に

それを打ち明けるだけの勇気も持てずに不安な毎日を送っていたら

しい。そしてその状態に耐えきれなくなった彼女は、真偽を確かめ

るべく五月の長期休暇のうちに一人で病院を訪れた。

 結論からを言えば、彼女が感じていた身体の不調は、日々の激務

からくるごく軽い過労が原因であり、市川の子供を身籠っていたと

いう事実はどこにもなかった。

 それを知った彼女はひとまず安心した。

 だが、今後もそういったリスクを持ったまま市川と関係を続けて

いくのは難しいと考えるようになり、彼女は彼との間に終止符と打

つことを決めたのだと言う。

 加奈が市川に別れを持ち出した際、そこには立会人として寛子が

同席していた。そして、その話し合いが行われていたのと同じ頃、

学校では稔たちが最初の事件を起こしていたのである。

「彼は、藤崎さんが妊娠したって勘違いしてたわけだろう? そん

な思い違いさえしなければこんな事件は起きなかったんだ。そうす

れば犠牲者が出ることもなかったし、彼が人を殺すこともなかった

んだ」俊樹は暗い顔をして言った。

 稔が加奈の体調不良を目撃したのは、俊樹たちとコンパをした翌

日のことだった。その頃には、加奈は病院で検査をした結果を既に

知っており、あとは市川との今後について考えていたところだった

らしい。

「それは違う」そこで凪森が言う。「彼は、以前から市川や鈴原の行

動に怒り、嫌悪感を持っていた。だからそれは単なるきっかけでし

かなかったのだろう。仮にあのとき早とちりをしなくても、彼はい

ずれ別の形で天罰とやらを下していたはずだ」

「でも、他のこと原因で事件が起きていれば、もしかしたら殺人ま

では考えなかったかもしれないじゃないか」

「たしかに彼が殺人を犯すまでに至ったのは、それだけショックが

大きかったからだと考えられる。行動を起こすためのトリガとなる

ものが異なっていれば、犯行の程度は変わっていただろう。だが、

仮にそうだったとしても、その違いで彼自身にはどんな変化があっ

たというんだ?」凪森が冷静な顔で問いかける。

「どんなって......、そりゃあ殺人は罪が重いし、それ以上に彼は、

一生人を殺したって事実を背負わないといけなくなる。殺人とそう

でないものとではそこが全然違うだろ」

「それは、彼を取り巻く環境とそこに存在する他人の認識の変化で

あって彼自身とは関係のないことだ」凪森が言う。「あのとき、彼は

笑っていた。それは宮房も見ていただろう?」

 彼は俊樹の意見を一蹴したあとで、彼を見据えてそう言った。

 俊樹たちのもとに市川の件が知らされたとき、稔は満足げに話し

たあとで穏やかに微笑んでいだ。

 それを見ていた俊樹は、彼がなぜあんな表情をするのか思議に思

い、また少し不気味だと感じていた。

「彼は今回の事件を計画したとき、たとえそれがどんな結果になっ

ても自分が犯罪者になることに違いはないと考えたはずだ。そして

罪を犯すということは、その度合いに関わらず、大きなリスクを伴

うものであると理解していたのだと思う。彼はそれを分かった上で

行動に移すことを決めた。おそらく、あの場に俺たちがいなかった

としても、最初から市川を殺したあとで自首をして、その罪を償う

つもりだったはずだ」

「そんな」俊樹が呟く。

「それだけの価値が藤崎加奈という人物にはあると彼は判断したん

だ。そしてそこまで考えが及んでくると、もう人を殺すとか、もし

かしたら彼女が妊娠しているのかどうかさえ彼にとっては些細な事

柄になっていたのかもしれない。これまでの自分の全てを犠牲にし

てでも彼女を守りたい、ただそれだけの想いで計画を成し遂げたん

だろう」凪森が続ける。「社会的に考えれば、彼のしたことは許せら

れるべきものではないし、大多数の人間からすれば、それは非常に

短絡的で未熟であると評価されるだろう。ただ、そこに至るまでの

思考やそれに対する心構えだけを取り上げてみると、世間で大人と

認知されている人たちよりも、彼の方がよっぽど言動の重みを自覚

し、覚悟を持って行動していたように俺には思える」彼はそう言っ

たあとで新しい煙草に手を伸ばす。

 俊樹は、それをどこか腑に落ちない様子で聞いていた。

 凪森の言うことが理解できないわけではない。

 だが、稔がどんなに高尚な考えをして、そして強い意志を持って

物事に臨んだのだとしても、それが犯罪という方向であった以上、

彼の行為は決して肯定できるものではない。

 俊樹には、凪森が稔のことを少し美化しているようにも聞こえた。

「まぁ、どうあれこれは俺の単なる個人的な感想だ。別にこの考え

が正しいわけでもないさ」凪森は俊樹の顔を見ると、肩を竦めてひ

と言つけ足した。

 俊樹は釈然としない様子でそれを聞いていたが、そう言ったあと

でもう話すことは何もないという風にリラックスして一服する友人

を眺めているうちに自然とため息を漏らした。

 そのあとで、彼は別の話題に切り替えることにする。

「そういえば、まだ疑問に思っていることがあるんだけど」

「どんなことだ?」

「火の玉だよ。理科室の事件のとき、学校にたまたま来てた子が東

棟で火の玉を見たって前があっただろ?」

「あぁ、そのことか」凪森は今思い出したといった様子で呟いた。

「結局あれだけは謎のままだったな」

「いや、犯行自体にはそこまで関係がなかったから、説明するのを

つい忘れていただけだ」

「ってことは、あれの正体も分かってるのか?」

「残念ながら幽霊の仕業ではない」

 凪森は、目を大きくして尋ねる俊樹に向かって小さく笑った。

「じゃあ、やっぱりあの二人がやったんだな?」

「不良グループの少年が人魂を目撃したのはだいたい八時過ぎくら

いだ。その頃はまだ東棟にあの二人がいた可能性が高い。時間を考

えると現場の片付けをしている途中か、作業を終えて学校から出よ

うとするくらいだったと推測できる」凪森が話す。「たぶん二人は、

理科室か美術室を出るときに外の人通りを確認した。そうしたら、

タイミングの悪いことにちょうど学校にやって来る生徒の姿があっ

た。きっと彼らは、この事態をどう乗り切るか早急に考えたことだ

ろう」

「別に、その子がいなくなるまで校舎の中に隠れてやり過ごせばい

いだけの話じゃないのか?」俊樹が言う。

「水谷結香里は、アリバイを作るために九時までには塾に戻る必要

があった。その時点ではまだ余裕はあったが、どれくらいの時間を

待てばその生徒が学校を去ってくれるのかは予測できない。それに、

おそらくそのときは、東棟の一階のドアの鍵は開いたままだったは

ずだ」

「そうか。鈴原さんを校舎に入れたときに鍵をかけたりしたら、彼

が不審に思うかもしれないもんな」俊樹は頷く。

「彼らは念のためにドアを施錠しなければならなかったし、できる

ことなら早く学校から立ち去りたかった。それで思いついたのが人

魂の演出だった」凪森が言った。

「でも、火の玉なんてどうやって作ったんだ?」

「炎色反応という現象は知っているか?」そこで凪森が尋ねる。

「中学のときに理科で習ったあれだろ? アルカリ性の金属イオン

の溶液とかに火をつけると炎の色が変わるやつ......、あっ!」

 そのとき俊樹が急に声を上げる。

「分かった。塩化銅だ」彼はひと呼吸置いてそう呟いた。

「そういうことだ。塩化銅に含まれている銅イオンを火に晒すと、

炎は少し青みがかった緑色になる」凪森が言う。「その知識があった

二人は、理科室から塩化銅水溶液を用意すると、同じ部屋のあるア

ルコールランプに溶液を流し込んだ。そして一階に下りてドアの鍵

を閉めると、戻り際にそのアルコールランプを着火すればいい」

「辺りは真っ暗だから、身体を屈めてランプを上に掲げるようにし

て移動すれば、遠くからは火の玉がゆらゆら動いているみたいに見

えるってことか」

 俊樹は、塩化銅の溶液が急に減ってしまったのだと加奈が不思議

そうに話していたのを思い出した。

「よくそんなことまで思いついたな」彼が感心して凪森に言う。

「宮房と学校を見に行ったとき、外から東棟を眺めながらぼんやり

とはイメージしていた。それで、そのあとで彼に会ったおかげで有

り得ると考えた」

「谷口君に?」

「彼は右手の親指にテーピングを巻いていただろう? 俺はあれを

見たとき、彼は火傷の痕を隠しているのかもしれないと思った。そ

して彼は、捕まったときも同じようにしていた。突き指程度の怪我

なら、もう治っていてもいいはずなのにな」凪森が言った。

「なら、あのときからもう彼を疑っていたのか?」

「不良生徒の落し物と理科室のある校舎で起きた人魂騒ぎ。そして

火傷と思わしき彼の怪我。確証は何もなかったが、充分に検討すべ

き要素だとは思った」

「......まったく、頭が下がるよ」俊樹は、当然のように話す凪森を

見ると降参したように両手を広げて見せた。

 そして、彼はすぐに真顔に戻ってからぽつりと呟く。

「それにしても、後味の悪い事件だったよな」

「犯罪というのは、基本的に人間の悪意が行き交うものだ。だから

後味が悪いと感じる人の方が圧倒的に多い」

「そりゃそうだよな」俊樹が相槌を打つ。

 彼はふと稔のことを思い浮かべたが、すぐにその思考を止めると

なんとなく凪森の後ろにあるベランダの方に焦点を合わせた。

「でも火の玉の正体が分かったから、これで少しはすっきりしたか

な」俊樹はそう言ってソファから立ち上がった。

「なんだ、もう帰るのか?」

「これから用事があるんだ。そろそろ時間だから退散させてもらう

よ」彼は腕時計を見て言う。

 午後になってから、もう随分時間が経過している。

「なるほど。今日はデートか」

 それを聞いた凪森が納得した声を出した。

「なんでそうなるんだよ?」

「いつもと格好が違うからさ」彼が答える。

「そうかぁ、たいして変わらないだろ」

「若干気合いが入っているのが分かる」凪森は、そう言いつつも照

れるように自分の服装をチェックする俊樹に声をかける。

「せっかくの機会なんだ、楽しんでくるんだな」

 彼はそう言ったあとで歯を見せて微笑んだ。


           2


 凪森の部屋を出た俊樹は、近くのコインパーキングに戻って停め

ていた車を発進させた。

 もし車を持ち出すところを同居人の棚部雅史に目撃されていたの

なら、不満の一つでも言われていたところだろう。

 目的地にはすぐに到着した。

 この数週間で馴染みになってしまった運動公園である。

 俊樹は駐車場に車を停めて外へ出る。

 空は曇っているが、この時期としてはまずまずの天気だった。

 公園の中心にある大きな広場にやって来た彼は辺りを見渡すが、

周りには顔見知りはほとんどいない。時計を確認しても約束の時間

にはまだ少し余裕があった。

 そこで俊樹は、近くに設置されていたベンチに腰を下ろしてひと

息つくことにする。

(どうして谷口君は、間違った道を選んでしまったのだろうか?)

 彼は、公園の風景やそこにいる人々を眺めながらぼんやりと考え

てみる。

 人間は思考してから行動を取るよりも、直感的、感情的なものに

流されて動く傾向があると彼は考えている。なぜならそこには、思

考というステップをショートカットすることで、思考する際に消費

されるエネルギィを節約できるという利点があり、少しでも生きな

がらえようとする本能がそれを知っているからである。それゆえに、

己の立ち振る舞いによって生じる責任を常に考えながら行動をでき

る者はそういるものではない。だが、そのせいで犯罪にまで発展し

てしまうようなケースも滅多にはないだろう。つまり多くの人は、

自覚の薄い行動を取ったとしても致命的な過ちを犯すことは少ない

はずなのだ。

 それに比べると、谷口稔は自分の行動をしっかりと把握し、そこ

にある責任も自覚するという慎重さを持っていたにも関わらず犯罪

に手を染めてしまった。

 過ちだと分かりながら、その責任を深く考えないことでどうにか

誤魔化して日常を維持してきた大人たちと、考えに考え抜いた末に

自ら破滅を選択してしまった子供たち。

 今回起きた事件を振り返ると、それが如実に浮かび上がっている

ように思えた。

「はぁ......」俊樹は意識して声を出すと天を仰いだ。

 難しい事柄を考えてそれに行き詰まると、彼はいつも癖でこうし

てしまう。そして吐き出される空気と共にその先にある結論も霧散

していき、思考はまたふりだしに戻っていくのだ。

 それはたぶん、思考がある地点まで行くと、そんなことを考えて

もエネルギィの無駄遣いなだけだと無意識のうちに思っているから

なのだろうと俊樹は自己分析していた。

 またそれと同時に、難しく考えたくない言い訳を作っていること

を自覚した彼は、この深追いしない怠惰さもまた大人には必要なの

かもしれないと思って自嘲してみる。

「こんにちは」

 突然、至近距離からその挨拶が聞こえてきた。

 完全に不意を突かれた彼は、一瞬びくりとしてから声のした方角

を向く。

 すると、ベンチの左隅に座っていた彼の真横に一人の少年が彼を

見つめて立っていた。

「君かぁ」俊樹がその少年を認めて微笑む。

 彼がK中に出向いたときに、最初の事件で使われた凶器の石の話

をしてくれた男の子だった。

 今日は制服ではなく、Tシャツにハーフパンツという服装をして

いる。

「こんにちは。今日の学校はお休み?」

「あったよ。でも土曜日だから午前中で終わり」少年が答える。

「そっか。じゃあこれから友達と遊びにでも行くんだね」

「まぁそんなところ」

 少年は俊樹から目を離すと、誰かを探すように周囲を見て言った。

「こんなところで会うなんて奇遇だね」

「キグウって何?」少年が俊樹に向き直る。

「意外だねとか、珍しいねって意味」それに彼が真面目に答えた。

「ふーん......。ところでさ、おじさんはもう学校には来ないの?」

少年が別の質問をする。

「あの事件が解決したのは知ってるよね?」

「うん」

「だからもう君の学校に行く仕事は終わっちゃったんだよ」

「そうなんだ」少年は軽い調子で呟くと、すぐにまた違う話題に移

す。「ねぇねぇ、あそこにはちゃんといたでしょう?」

 そうやって無邪気に尋ねる少年を見て、俊樹はまた事件のことを

思い浮かべしまう。

「あぁ......、いや、僕たちも調べてみたんだけどね、あそこに幽霊

はいなかったよ......」彼は表情を曇らせて言う。

「そっか......」少年もそれに呼応するように寂しそうな声を出した。

 少年がぱたりと話すのを止めたので二人に微妙な空気が流れる。

 それに気づいた俊樹は、気を取り直して今度は自分から話しかけ

ることにした。

「この前の月曜日に東棟の近くにいたよね? あのとき、どうして

急にグラウンドの方に行っちゃったんだい?」

 理科室に向かう際に見かけた少年は、まるで逃げるように俊樹た

ちから走り去っていった。彼はそれが印象に残っていたのである。

「それは......」すると少年が急に口籠る。

 俊樹は、彼の表情が強張っていくのを確認して不思議に思う。

 少年は何かに怯えているようだった。

 今の質問がそんなに怖かったのだろうか?

 彼はその様子を見て首を傾げると、とりあえず少年の緊張を解そ

うと思って声をかけようとする。

 しかしちょうどそのとき、

「やっと見つけたぁ!」

 向き合っていた俊樹たちの右側から、子供の甲高い声がした。

 二人が反射的にそちらを振り向くと、少し離れた場所から彼らに

向かって駆け寄ってくる女の子の姿があった。

「もう、探したんだからね。入口の前で待ち合わせって言ってたの

に、なんでこんなところまで来てるの?」女の子は少年に近づく。

 涼しげな水玉のワンピースを着たその少女は、少年と同じくらい

の歳に見えた。

 彼女は少年の隣に並ぶ。二人同じくらいの背丈だった。

「ちょっとね」少年は少女に言う。

「ちょっとって何よ。時間になっても来ないから心配したんだから

ね」少女は、彼の返答でさらに不満げな声をあげた。

「こんにちは」

 俊樹は少女に向かって笑顔で挨拶をする。

 彼女はそのときになって初めて彼に顔を向けると、不審そうな目

をしながら小さく会釈を返した。

「この前学校で会った人なんだ」

 少年は、俊樹と彼の間で視線を往復させる少女に説明する。

「ガールフレンド?」

「うん、まぁ......」少年が俊樹に答える。

 彼の表情をもう和らいでおり、今は照れ臭そうにしている。

 俊樹はそれを見て安心したあとで微笑んだ。

「なら、僕はそろそろ......」少年は少女に顔を向けたあとで言う。

「うん、どうやらこっちも来たみたいだし、これでお別れだね」

 俊樹は彼らの後方眺めて言うとベンチから立ち上る。

「じゃあね。バイバイ」彼が軽く手を振る。

 少年は頭を下げてそれに応じてから少女に声をかける。

「じゃあ行こうか。ひさぎ」

 すると、その直後に少女がまた大きな声を出した。

「その呼び方はしないでって、前に約束したでしょ!」彼女は急に

凄い剣幕になって少年を睨につける。

「ごめんごめん。ついうっかり」

「何がうっかりよ、今のは絶対わざとだった。もう、本当に意地悪

なんだから」彼女は文句を言うと既に歩き出している少年のあとを

追う。

 ただ、むっすりとした顔をしながらもその指を彼の手に絡ませる

少女の姿を見て、俊樹は再び顔を綻ばせた。

「ごめんなさい、もしかして遅れちゃった?」

 並んで歩いてゆく二人の背中をしばらく眺めていると、今度は別

の声がかけられる。

「大丈夫。僕の方が早く来てただけだから」

 俊樹は、傍に来た村瀬千寿留に答える。

 敷地の奥から駆け寄ってきた彼女は、少し息を切らせながら彼に

目を向けている。

「駅まではまだ余裕があったんだけど、バスがちゃんと時間に来て

くれなくって」

 呼吸を整えると、千寿留は苦笑い浮かべながら言った。

 今日の彼女は、フリルのついたブラウスに黒いスカート、それに

少しヒールのある靴を履いていた。

 最近よく見かけていたパンツスタイルにも好感を持っていたが、

こういった丈の短いスカートも魅力的だと俊樹は思った。

「さっきは何にやにやしてたの?」千寿留がきいた。

「いやね、さっきまであの中学校で知り合った男の子をちょっと話

してたんだよ。そしたらあとでその彼女まで来て、それが凄く仲良

かったから、微笑ましいなぁと思って」

「もしかしてあの幽霊の子?」

「うん」

「へぇ、どこどこ?」千寿留が辺りを見る。

「ほら、あっちにいるよ」

「うわぁ、ホントだ。ギュッて手を繋いでて可愛いわねぇ」

 俊樹が指をさして教えると彼女はさらに彼に近づき、そしてその

幼いカップルの後ろ姿を確認すると嬉しそうな声を上げた。

 そのときには二メートルほどあった二人の距離は一気に縮められ、

今ではお互いの身体が触れるほどの位置関係にまでなっていた。

「それで、藤崎さんの具合はどうだったの?」

 俊樹は、目の前まで迫ってきた千寿留をあまり意識しないように

心がけながら尋ねる。

「えっ、あぁ」彼女は少年たちから目を離すと真顔に戻る。

 事件の犯人が教え子であり、その犠牲者にかつての交際相手たち

がいた加奈は、さらに稔の告白によって、元凶は自分にあったので

はないかと悩むようになり、事件が解決したあとも自らを強く責め

てしまった。そのことで彼女は精神的に不安定になり、またそれに

同調するように体調も崩していた。

 そこで千寿留は、俊樹と会う前に加奈を見舞いに行くのだと先日

話していたのである。

「夜になっても眠れなくなるらしいの。今は一応病院でもらった薬

で少しはどうにかなっているって話だけど、お医者様からはしばら

く療養が必要だって言われたみたい。だから、とりあえず二学期が

始まるまでは仕事を休むことにしたんだって」

「そうなんだ......」

「でもね、会った感じでは、少し落ち込んではいるようだったけど

そこまで酷いって様子でもなかった。たぶん、今はまだショックを

引きずっているだけなのよ。ちゃんと時間をかけて気持ちの整理が

つけばまた前みたいに元気になると思うわ」

 彼女は笑顔を見せて言ったが、すぐに暗い顔をして思わず息を漏

らした。

「あたし、加奈ちゃんがずっとみんなに隠していたのに、市川先生

とのことを話してしまったでしょ? あのときは、事件を解決する

ためにはそうするべきだと思っていたから話したけど、結局あの推

理は見当外れで、結果的に加奈ちゃんを傷つけるだけでしかなかっ

たわ。だから事件がひと段落着いてからもそれが心残りで、あんな

こと言わなければよかったってずっと後悔していた。それで加奈ち

ゃんとはあの日から一度も顔を合わせてなかったから、もし彼女に

拒絶されたらどうしようって思って、本当は今日本人と会う直前ま

で凄く緊張していたの」彼女が話す。「でも加奈ちゃん、いつも通り

接してくれた。あのことを知っていれば、誰だって疑うに決まって

るからって笑いながら許してくれたの」

 千寿留はそう言ったあとで小さく微笑んだ。

 そこに浮かんでいたのは、安堵と悔恨が混ぜ合わさったような、

なんとも言えない笑みだった。

「僕も藤崎さんと同じだな」

 俊樹は複雑な表情を浮かべている彼女に言う。

「それは単なる結果論だよ。きっとさ、僕たちがこのことを調べて

いなかったとしても別の誰かが事件を解決したはずだし、そうなる

と自然に藤崎さんたちの関係も秘密のままにはできなかったと思う。

たしかに村瀬さんの口からその話が出てたときは彼女もびっくりし

ただろうし、それが最善の方法だったのかは僕にも判断できない。

だけど、手がかりがあるのに黙ったまま何もしないでいることが正

しかったとは絶対に思えないよ。だからあんまり思いつめない方が

良いよ。それで自分を責めちゃったら、今度は村瀬さんまで藤崎さ

んみたいになりかねないからさ」

 自分の行動がどの範囲にどの程度影響を及ぼし、その結果どうい

う形で自分自身への責任として返ってくるのか。

 目の前で心を痛めている千寿留や一連の事件の関係者たちのこと

を考えると、俊樹は身が引き締まる思いがした。

 だが、本来はそれが普通なのだろう。

 たとえどんなことであっても、行為に対する責任は常に問われる

ものなのだ。しかし、だからといって日頃から自分の言動の一つ一

つを気にしていたら、平穏な心のままではとても生きていけない。

 だからきっと、人間には些細なことだと評価したものを無視でき

てしまうようなストレス軽減のシステムが存在するのだろう。それ

があるから人は、どうにか自分を保ちながら生活を続けているので

はないだろうか。

「うん、そうだよね。これから加奈ちゃんには元気になってもらわ

ないといけないのに、あたしが落ち込んでたらいけないわよね」千

寿留は両手に拳を作ると、自分に言い聞かせるように何度も頷いた。

そして、そのあとで俊樹を見つめる。

「ありがとう」彼女は優しく微笑んで礼を言った。

「僕はただ、本当にそう思っただけだから」

 その笑顔を前にした俊樹は、照れを隠そうとしてぎこちない返答

になってしまった。

「あ、そういえばさっきね、加奈ちゃんの家を出たあとで県警の棚

部さんと会ったわ」そこで千寿留が思い出したように話す。

「雅兄に?」

「あたしと入れ違いで加奈ちゃんに会いに行くところだったみた

い」

「なんだろ? まだ事情聴取とかしてるのかな?」

「うーん、そんな感じではなかったけど」彼女が首を傾かせながら

答える。「棚部さんとは、あれから事件のことで話をした?」

「全然。今週は僕もあっちも仕事が忙しくて、家の中では顔も会わ

せてないよ」俊樹が首を振る。

「そうなんだ。あたし、てっきり宮房君は月曜日のあとで棚部さん

に注意されたんじゃないかって思ってたわ」

「どうして?」

「だってあのときの棚部さん、学校に宮房君がいたせいで機嫌悪そ

うだったから」千寿留が言う。

「雅兄は単なる同居人だよ。そりゃあ昔から兄貴みたいなもんだと

は思っているけど、もうお互い社会人なんだし、こっちのすること

にあれこれ文句を言われなくないね。僕だってもう子供じゃ......」

 そう話している最中に、俊樹は自分の言葉に違和感を覚えて言葉

を詰まらせる。

 その様子を見ていた千寿留も不思議そうな顔になった。

「......うん、でも大人ってわけでもないなぁ」彼は間を空けたあと

でひと言呟いてから続けて話す。「凪森がさ、谷口君は初めから事件

を終わらせたあとで警察に捕まるつもりだったんだろうって言って

たんだ。けど普通さ、大人でもそこまでの覚悟を持っている人もな

かなかいないでしょ?」

「そうね」千寿留が頷く。「刑事さんたちの話だと、彼はちゃんと罰

を受けてから、まだ随分先の話だけど社会復帰できた場合のことも

口にしているらしいわ。今の時点でそんな先を見据えて考えること

は、きっと大人でもできないでしょうね」

「僕は、彼みたいに強い意志を持ってはいない。だからやっぱり、

自分は大人ではないんだろうなってこの頃少し思ったりしてるん

だ」

「なら谷口君は? あんなことをしてしまった彼は大人だって言え

るのかしら?」彼女がきく。

「それは僕にも分からない。だけど、少なくとも犯罪をした人間は

大人ではないっていうのは違う気がする。僕は犯罪者を認めるなん

て気持ちはこれっぽっちもないけど、法律とかで決められたものは、

あくまでも今の社会を円滑に進めるための仕組みだからね。だから、

中にはそれに馴染めない人もいるんじゃないかなとは思う」

 俊樹はそう答えてみせると、次に気持ちを切り替えるように両手

を合わせる。

「さてと、この話はとりあえず終わりにしない? じゃないと、こ

こでずっと立ち話するだけになっちゃいそうだし」彼は明るい口調

で千寿留に話しかける。

「あぁたしかにそうだわ。じゃあ、そろそろ出かけよっか?」

 すると彼女もそれに賛成して微笑みを返した。

 今日二人が会うことになったのは、今回の件で俊樹を振り回した

ことを悪く思った千寿留が、その埋め合わせをしたいと申し出たか

らだった。その必要はないと俊樹は言っていたのだが、それでは彼

女の気が収まらないらしく、結局押し切られる形で休日の午後を一

緒に過ごすことになったのである。

 俊樹は、上目遣いでこちらを見つめる千寿留と目を合わせる。

 その小さな顔には、心なしか会社で見るときよりもメイクを施し

ているような印象を受けた。

 いつもより美しく着飾っている姿を再確認した彼は、このイベン

トに臨む千寿留の意気込みを想像して、彼女にいっそう好感を抱い

た。

「車はあっちに停めてあるから」俊樹は、自分の思いを千寿留に勘

づかれないように平静を装いながら駐車場へ足を向ける。

 千寿留もその距離を開けることなく、ぴったりと彼についてゆく。

(責任と覚悟、か......)

 自身がどう考えようが、社会からすれば自分は大人と見なされて

いるに違いない。だとすれば、果たして自分は、大人としての言動

を取ることができるのだろうか?

 彼はそんなことを自問していた。

 しかし今は、先にある不安よりも目の前にちらつく仄かな期待の

方が上回っている。

(今日のところは深く考えなくてもいいか)

 そういった小難しい話は、ひとまずペンディングにしておいても

悪くはないだろう。

 既に他の話題に移って楽しそうに世間話をする千寿留に応じなが

ら、俊樹はそう考えることにした。

 彼はふと空を見上げてみる。

 そこには今まで権勢を誇っていた雲たちに翳りが見えはじめ、

所々から晴れ間が顔をのぞかせている。

 それはまるで、自分の考えを後押ししてくれるような力強い光だ

と俊樹には思えた。

 「至成の線」は2011年10月に書いたものです。

 この話の主要人物である宮房俊樹、凪森健、村瀬千寿留の三人が登場する話は他に2作あり、それ以降も続く予定となっています。とはいえ、まだ4作目には着手していないのでどうなることやら(笑)

 他の話もまた近いうちに投稿していければと考えているところです。

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