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庶幾(しょき)の解(かい

第八章 庶幾(しょき)(かい)


           1


 凪森健は自宅にいた。

 月曜日の午後になったばかりの時間帯である。

 部屋には照明が一つも灯っていなかったが、窓の外から入ってく

る強い陽射しの恩恵を受け、室内はそれほど暗くない。

 そして太陽光を浴びながらソファに身を沈める彼は、先ほどから

腕を組み、目を閉じて微動だにしなかった。

 その規則的な呼吸は身体を眠りの中へと誘おうとするが、彼の精

神は逆に覚醒し、より高い集中を求めようとしていた。

 彼は思考する。

 世間では、年齢によって人を未成年、成人、社会人と呼ぶように、

物事を言葉で分類することが多くある。このような区別は、社会を

形成するためには必要不可欠なものであった。

 明確な境界条件を定義するためには、定量化された基準が必須と

なる。それに数字を用いたことは、非常に合理的で賢明な判断だっ

たと評価できる。

 しかし、人々はそれを言葉に変換することで、その境界条件が生

まれた背景を認識しなくなった。

 言語というものは、それ自体はただのコミュニケーションツール、

言い換えれば単なる記号でしかない。もちろん数字にも同じことが

当てはまるわけだが、言葉からは数字ほどの客観性を見出すことは

できないだろう。さらに言葉というものは、多くの人々に伝達され

るうちにその意味を変化させて、結果的にその本質が隠蔽されるこ

ともある。言葉だけに囚われるということは、そういった危険性が

常に纏わりつくことになるのだ。

 彼は、次に市立K中学で起きた事件について考える。

 人は産まれた瞬間から社会の中で生きている。

 分類するために作り上げた言葉を使わせてもらえば、つまり誰も

が社会人であると解釈することもできる。

 無知であるために過ちを犯すのは致し方ない。その場合は、間違

いによって新たに学び、それ以降は予防をすればいいだけの話だ。

しかし言葉だけを知って満足し、その本質を理解しようとしなかっ

た者は、たとえ解釈が間違いであったとしても気づくことなく、そ

の結果、同じ過ちを何度も繰り返してしまうのである。

 おそらく人々の多くは後者なのだろう。

 そして、その自覚もなく歳だけを重ね、子供のまま大人を演じ続

けるのだ。

 そこで凪森は瞼を開く。

 テーブルの上には煙草と灰皿にライター、それに一冊のファイル

があった。

 彼はそのファイルに挟んであった紙を数枚だけ抜き出す。それは、

彼が例の青年に追加で依頼しておいた件に関する資料であった。

 青年は昨日までに調査結果を提示すると宣言していたが、それが

凪森の手元に届いたのは今朝のことだった。

 凪森に手渡しをしながら、彼は申し訳なさそうに期限が遅れたこ

とを詫びていた。しかしその資料の中身には、それを許容できるだ

けの情報が載せられていた。

 そのおかげで、凪森の事件に対する興味は一つになった。

 犯人は子供か? 

 それとも大人か?

 彼の関心は、既にその点のみに絞られている。


           2


 宮房俊樹はこの日もサーバ室で働いていた。

 そしてちょうど今、作業がひと段落ついたところだった。

 昼休みが終わってから二時間ほどが経過している。食後の眠気が

ピークに達する頃だ。

 俊樹は近くにあった椅子に腰掛けてひと息つく。すると自然に瞼

が重くなってゆく。

「あぁ、ダメだダメだ」

 両手で自分の頬に喝を入れた彼は、勢いをつけて立ち上がると一

旦部屋の外に出る。顔でも洗えば少しは目も覚めるだろうと考えて、

廊下の先にあるトイレへ向かった。

「お疲れ」

 俊樹がドアを押して中に入ると、洗面台にいた汐見が鏡越しに彼

に気づいて声をかけた。

「お疲れさん」彼も挨拶する。

「今日はどうしたんだよ?」手を洗いながら汐見がきいた。

「は?」

「村瀬さんだよ。何かあったのか?」

「何で俺にきくわけ?」

「だって、そりゃあ、なぁ」

 彼がにやにや笑うのがガラス越しに見える。

「俺は知らない。そんなに気になるなら、柏木さんにでもきけばい

いだろ」俊樹は面倒臭そうな顔をして言う。

「なんだ。宮房にきけば一発だと思ったのにな。残念残念」汐見は

からかうようにそう言った。

 俊樹は、そのままドア開けて出てゆく彼を無言で睨んだ。

 村瀬千寿留は職場を欠勤していた。どうやら病欠らしい。

 そのせいか、チームのメンバたちも朝からあまり覇気が感じられ

ない。ただ、それは単に今日が月曜日だという理由だからかもしれ

ない。

 金曜日の夕食のあと、俊樹と別れるときの彼女には目立った異変

が見られなかった。きっと土日のうちに風邪でも引いたのだろうと

俊樹は思っていた。彼女に病状を確かめることはできるが、病人に

わざわざ手間を取らせるのも気が引けたのでまだ連絡はしていなか

った。

 メールだけでも送ってみようか、と洗顔しながら彼は思い直す。

(もしかしたら、彼女の方から俺に助けを求めてくれたりして......)

 そんな馬鹿らしい妄想を抱きながら、俊樹は持参していたタオル

ハンカチで顔を拭いていた。

 そしてサーバ室へと戻る途中、彼はある違和感に気づいて立ち止

まるとスラックスのポケットに手を伸ばす。すると、そこに入れて

いた携帯電話が震えていた。

 彼は咄嗟に千寿留からだと思ったが、それが凪森だと分かるとほ

んの少しがっかりした気分になった。

「もしもし」

「今、大丈夫か?」凪森が言う。

「うん。こんな時間に珍しいな」

「突然なんだが、これから仕事を抜け出せないか?」彼が尋ねる。

「はぁ?」俊樹が間の抜けた声を出す。「何でだよ?」

「今からK中学に行く。だから、できればあちらと面識のある宮房

と一緒の方が何かと都合がいい」

「いきなり無茶言うなよ。こっちはまだ定時まで時間が残ってるん

だぞ」

「やっぱり駄目か」

 俊樹が呆れたように言うと、凪森は冷静な声で呟いた。

「あそこになんの用があるんだ?」俊樹がきく。

「確かめたいことができた。無理ならいいんだ。仕事中に悪かった

な」凪森がそう答えたあとで通話が切れる。

 携帯電話を耳から離した俊樹は、不思議そうにその画面を見つめ

る。

 凪森は非常にあっさりとしていた。

 それはいつものことではあったが、今の彼はどこか急いでいるよ

うな印象だった。

 事件のことで何か分かったのだろうか、と俊樹は考える。

 わざわざ現場に向かおうとしているのは、その証拠を見つけるた

めかもしれない。

 ただ、部外者の凪森が一人で行ったところで、学校の人間が取り

合ってくれる可能性は低い。だから、学校に出入りしたことのある

自分を連れて行こうと思ったのだろう。

 凪森の行動が気になった。

 だが彼に言った通り、急に仕事を抜け出すのは無理な話だった。

しかしそう思いはじめると、心の中でもやもやとしたもの広がって

いった。

 そこで俊樹が歯がゆい気持ちになっていると、携帯電話が再び震

え出した。彼は即座に反応して通話要求を受ける。

「凪森か?」

「もしもし、宮房君?」

 聞こえてきたのは凪森の声ではなかった。

「あれ? 村瀬さん?」

「うん、そう」村瀬千寿留が言う。

「ごめん、さっきまで友達と電話してたから間違えた」俊樹は謝っ

た。「身体の具合の方は大丈夫?」

「平気よ。心配してくれてありがとう」

 彼女の声は、元気なときと変わっていない気がした。

「今、大丈夫?」

「大丈夫じゃなかったら電話に出てないよ」俊樹が笑いながら答え

る。

「ちょっとね、宮房君にお願いがあって電話したの」千寿留が言う。

「なに?」彼がきく。少し緊張していた。

「会社の裏まで出てこられる?」

「今から?」

「うん」彼女が答えた。

 俊樹は通路を見る。彼以外には誰もいない。サーバ室を出入りす

るような人影も見えなかった。

「別に大丈夫けど......」

「本当? だったらお願いします」彼女は手短に言うと通話を切っ

た。

 俊樹は首を傾げながら携帯電話を仕舞う。

 主旨がよく分からなかったが、ひとまず彼女に言われた通りビル

の出口に向うことにする。そして裏口から外に出た彼は、その先の

道路脇に赤い乗用車が停まっているのを発見した。その中には千寿

留がいて、こちらに気づいて手招きをしている。

「乗って」千寿留が車に近寄ってきた俊樹に言った。

「え?」

「いいから乗って」

 運転席に座り直しながら彼女が急かす。

 状況を呑み込めていない俊樹は反射的に助手席に乗り込む。

「シートベルト、お願いね」千寿留はそう言うと、すぐに車を発進

させた。

 その瞬間、俊樹は彼女を見て、自分が大きな判断ミスをしたこと

に気づいた。

「もしかして、どこかに行こうとしてる?」彼が念のためにきく。

「車が動いてるってことは、そういうことでしょう?」千寿留は澄

ました顔で言った。

「いやいや、俺、まだ仕事があるんだから引き返してよ」

「それは無理だわ」彼女は焦りはじめる俊樹を横目で捉えると、そ

の頼みをきっぱりと断る。「ごめんね。本当は一人で行くつもりだっ

たんだけど、やっぱり宮房君が必要かもしれないと思ってちょっと

強引に連れて来ちゃった」

 そう言ったあとで、千寿留はわざとらしく舌を出した。

 俊樹は窓を覗き込んで後ろを見る。会社が徐々に小さくなってゆ

く。

「病欠じゃなかったんだね......」

「そういうこと。だから、会社のみんなには内緒ってことで」

 俊樹は、満面の笑みを浮かべる彼女を見てむっすりと黙り込む。

 怒鳴るなどして車を止めさせてもいい場面だった。

 しかし彼はそういった強行策を取ろうとはせず、代わりに大きく

嘆息した。

「絶対にあとで叱られる」彼が低い声で言う。

「この埋め合わせは絶対するから許して、ね?」

 それに対して、千寿留は片目を瞑ってみせて受け流そうとした。

 俊樹は彼女を睨むのを止めると、もう一度息を吐いたあとで力無

くシートにもたれかかる。

 会社の人間は、千寿留が自分に好意を寄せているものと考えてい

るようだ。でも実際のところは、こうやって上手いように扱われて

いるだけなのだと思った。

「で、どこに行くの?」俊樹は反抗するのを諦めてから尋ねる。

 本当は、そんなこときかなくても分かっていた。

 なにせ彼女は、今は上着こそ脱いでいるが、それ以外は例のスー

ツを着込んでいたからだ。

「K中学よ」

 予想通りの答えが返ってきた。

 前を向く彼女は、真顔になって続けて言う。

「あたし、犯人が分かったわ」


           3


「今さら言うのもなんですけど、本当なんでしょうか?」

 棚部刑事は、車を運転しながらバックミラーをちらりと見て言っ

た。

 後部座席にいる宗像と目が合う。

「彼女が嘘をついてると言いたいのか?」

「いえ、そこまで言いませんけど......」

 宗像に問いかけられて棚部は口籠った。

 村瀬千寿留から連絡があったのは、ほんの一時間ほど前のことだ。

 彼女は中学校連続殺傷事件の犯人が分かった旨を宗像に伝えると、

その経緯を話したいのでこれから会いたいと申し出たのである。

 棚部はそれに懐疑的だったが、宗像がすんなりと了承したため、

井沢を含めた三人で指定された場所である市立K中学へ向かってい

るところだった。

「完全に信用できないのは俺も同感だ。ただ、この前聞かされた情

報は出鱈目じゃなかった」助手席に座っている井沢が口を開いた。

 彼女から接触があるのはこれが初めてではない。

 二日前の土曜日に最初の連絡が来ていた。

 その際、彼女は自身の事件に対する推理と水谷結加里に関する情

報を彼らに提供していた。

 前者の藤崎加奈と和氣寛子の共謀説は、警察でも既に考えられて

いたケースだった。

 現場の密室状態を無理なく説明するにはその可能性が妥当ではな

いかという見方が強く、その方面でもアプローチは続けていたが、

未だに決定的な証拠は出ていない。

 彼らにとって有益だったのは、そちらではなく後者であった。

 水谷結香里の妊娠と中絶という過去は、これまで警察では一切把

握していない内容だった。

 そしてその話をもとに捜査した結果、結香里が手術をしたと思わ

れる病院を見つけ出すことに成功し、村瀬千寿留の情報が正しいこ

とも確認された。

 この件は、当事者の二人以外ではごく一部の人間しか知らないこ

とだった。もし彼女の連絡がなければ、棚部たちがこの事実を知る

のはまだ先のことになっていたはずだ。

 その証言をしたという佐伯雅彦は、警察に対して反抗的な態度を

取っていた。おそらく彼は、村瀬が警察の人間ではなかったからそ

の警戒心を解いて話したのだろう。

 棚部は、村瀬と初めて顔を合わせた際に宗像の言っていた通りに

なったと思った。

 宗像は口にこそ出さなかったが、この新事実を手に入れたことで

村瀬をある程度評価し、警察が知っている情報を彼女に提供した。

そして、おそらく彼が嫌な顔一つせずにこやって彼女に応じている

のも、その見返りの一つだと考えることもできた。

「ただですね、それとこれとは話が別です。幾ら犯人が分かったと

言っても、それが確実だという保証はどこにもないじゃないですか」

「また新しいことが判明したのかもしれない。例えば、藤崎と和氣

が犯人だと断定できる明確な証拠を得たとか」井沢が棚部を見る。

「それは期待しすぎだと思います」彼が不満げに呟いた。

「俺たちが迅速に犯人を逮捕できなかったせいで二つ目の事件が起

きた。そして、今もまだ確かな手がかりは掴めていないのが現状だ。

そろそろ他の意見に耳を貸してもいい時期だろう」宗像が話す。「そ

れに、あのお嬢さんがどうやって犯人を割り出したのかにも少し興

味がある」

「けど、それが違っていたらどうするんですか? 単に素人が勝手

に推理を披露した挙句、全くの見当外れだったというだけなら失笑

を買って終わりでしょうけど、僕らが同伴するのであれば、それは

警察が公認したという意味に取られてしまいます。しかも事件現場

まで行ってそんなことをするんですから、間違えたらどんなことに

なるのか......」棚部は訴えるように言うと、もう一度宗像を窺う。

「そのときは素直に謝るしかないだろうな」

 宗像は、珍しく表情を緩めると呑気な口調でそう言った。

 それを聞いた棚部は、これ以上反論する意欲を失くすと、黙って

ウィンカーを右に出す。彼は不安を抱えたまま、窓の外に見える三

つに並んだ校舎を目指した。


           4


 千寿留の赤いマーチが市立K中学の正門を通過する。

 窓から外を眺めていた俊樹は、中棟と西棟を間で紺色のジャージ

姿をした谷口稔を見つけた。ビニル製だと思われる簡易のバッグを

片方の肩に提げた彼は、中棟の方から体育館に向かって歩いていた。

 駐車場に到着すると、彼はそこにあった二台の車に目を留める。

 そのうちの一台はパトカーだった。

 道中で聞いた話だと、千寿留はここで警察と落ち合う約束してい

るらしい。俊樹はその場に同席したくないという気持ちでいっぱい

だったが、もう引き返すわけにもいかないので腹を括ったところで

あった。

 そしてもう一台は、赤のボディと白い屋根を持った真新しい乗用

車だった。

「ちょっとごめん」彼はエンジンを切る千寿留にひと声をかけると、

真っ先に外へ出てその車へ近づいた。

「ここに来るのは無理じゃなかったのか?」

 彼が車内を見ると、運転席に座っていた凪森が口もとを上げて言

った。

「まぁ、いろいろあってな」俊樹が言葉を濁す。

「俺としては願ったり叶ったりだから、それについて特に細かく追

及する気はない」凪森はそう言って外に出ると、次に俊樹の後ろを

眺める。

 俊樹が振り返ると、そこには車をロックしてこちらを向いた千寿

留の姿があった。

「彼女が?」

「うん。同じ会社の村瀬さん」俊樹が凪森に言った。

 千寿留が二人の前にやって来る。

 凪森がまず彼女に挨拶する。

「初めまして。宮房の友人の凪森健と言います」

「前に言ってた事件の情報を仕入れてきてた奴だよ」俊樹が彼女に

補足をした。

「あぁ、貴方が」千寿留は凪森を見て頷く。「村瀬千寿留です。よろ

しくお願いします」彼女が頭を下げる。そして顔を上げると、続け

て彼に話しかける。「ところで、どうしてここにいるのですか?」

「事件のことで少し思うところあったので」凪森はそれだけ言うと

小さく笑った。

 千寿留はそれを怪訝な様子で眺めていた。

「......とりあえず、今は世間話をしている余裕はないわ。刑事さん

たちが待っているから早く校舎に行きましょ」彼女は俊樹に顔を向

けて言うと、次に凪森に告げる。「もしよければ、一緒にいらしてく

ださい」

 千寿留はそのあとで、一人でさっさと校舎の方へ歩きはじめる。

 俊樹と凪森は少し遅れて彼女のあとを追った。

「ついて来いだって。良かったな」俊樹が凪森に話しかける。「正直、

凪森は見た目がちょっと怪しいから、村瀬さんに警戒されるんじゃ

ないかって思ってたぞ」彼が意地悪そうに言う。

 すると隣に並んでいた凪森は、平然とした顔で彼を一瞥するだけ

で何も言わなかった。

 三人はこれといった会話もなく黙々と中棟へ向かった。

 そして来客用の玄関に到着すると、俊樹は校舎の中にスーツを着

た三人組の男性がいるのを発見して顔をしかめる。彼には、それが

県警の刑事たちだということがすぐに分かった。

 そのとき、三人組のうちの背が低くて若い男、棚部刑事が大声を

張り上げた。

「俊樹、何でお前がいるんだ!」

「あぁ、ちょっとした成り行きでね......」俊樹は笑って誤魔化そう

とする。

「知り合いなのか?」棚部の隣にいた井沢が尋ねる。

「はぁ、僕の親戚です」

「ならあれか、彼が一緒に住んでるっていう従兄弟さんか」

 井沢の問いに、棚部は恥ずかしそうにして首を縦に振っていた。

 棚部は俊樹の母方の血縁者だった。

 二人の一家は同じ土地に住んでおり、彼らは従兄というよりも兄

弟のような存在であった。

 俊樹が大学へ進学する際、彼は寮住まいではなく下宿を強く希望

していたが彼の両親はそれに反対だった。そこで互いの折り合いを

つけるために挙がった案が、既に丘山で下宿を始めていた棚部との

共同生活だったである。

 それ以来、二人は今までずっと一緒に暮らしていた。とは言って

も、就職後はお互いに不規則な生活をしていたので、顔を合わせな

いことが多い。

 現に、俊樹がこの前に棚部を見かけたのは、もう一週間近くも前

のことであった。

「お一人ではなかったのですね」そこで宗像が千寿留に言う。

「すみません。警察の方には事前に連絡をしていませんでした」千

寿留は彼に頭を下げると、続けて尋ねる。「この二人が一緒では駄目

でしょうか?」

 すると、宗像は千寿留から俊樹、凪森の順にゆっくりと視線を移

した。

「うん、まぁいいでしょう」彼は再び彼女へと顔を戻したあとで快

諾する。

 しかし、棚部がすかさず異議を唱える。

「宗像さん、彼らは部外者なんですよ。事件とは無関係の人を同行

させるのにはあまり納得がいきません」

「村瀬さんは有力な情報を提供してくれた協力者だ。その彼女の頼

みなら、こちらも多少は融通を効かせるくらいはする必要がある」

宗像が彼に言うと、今度は千寿留にきく。「それに、一緒にいらっし

ゃったということは、そちらのお二人もただの見物に来たわけでは

ないのでしょう?」

「もちろんです」千寿留がすぐに答える。

「ならば彼らも我々の協力者だ」

「でしたら、ここでお引き取りしてもらうわけにもいきませんね」

 宗像に呼応して井沢も言った。

「......分かりました」

 上司と先輩の言葉を聞いた棚部は不服そうな顔で渋々と呟くと、

俊樹を睨みつけた。

「ありがとうございます」千寿留が三人の刑事に礼を言う。

「ただし、我々の指示にはちゃんと従っていただきます。そしても

ちろん、このことは口外もしないでください。いいですね?」

 俊樹たちは、その宗像の忠告にそれぞれ頷いた。

「ではそろそろ行きましょうか」宗像が俊樹たちに声をかける。

「どこへですか?」

「東棟にある理科室です」

 宗像は凪森の問いにそう答えた。


           5


 彼ら六人は、職員室を通り過ぎて中棟を出る。

 先頭を歩く刑事たちの後ろにいた俊樹は、東棟の出入口の手前ま

で来たところで急にグラウンドに向かって手を振りはじめた。

「何してるの?」横にいた千寿留がきく。

「金曜日に僕に話しかけてくれた子があそこにいるんだ」

「幽霊がいるって言ってた男の子ね」

 そう言って千寿留もそちらを眺める。

校舎とグラウンドの中間ほどの位置に制服姿の背中を見つける。

 俊樹が声をかけると、その少年は素早い動作でこちらに振り向い

た。しかし、そこには知り合いを見つけたという親しみのある雰囲

気ではなかった。少年は目を大きく開き、その全身は強張っている

ように彼女には見えた。そして、数秒間硬直した状態で千寿留たち

を凝視していた彼は、突然堰を切ったように走り去ってしまった。

「どうしたんだろ?」

「さぁ、分からないわ」

 千寿留と俊樹は、その後ろ姿を見て首を傾げながら先に進むこと

にした。

 一行が理科室に到着する。

「失礼します」

 棚部はノックのあとで中に声をかけると、古びた木製のドアをス

ライドさせて他のメンバに道を譲った。

 宗像、井沢、千寿留に次いで部屋に入った俊樹は、一番前の列の

テーブルの一つに加奈と寛子、それに結香里が固まって座っている

のを確認した。

「大変お待たせしました」宗像がその三人に向かって言った。

「まだ全員揃っていないみたいですね」

 部屋を眺めた千寿留がと呟く。

「他の方はどうなさいましたか?」

「まだ誰か来るんですか?」寛子が口を開く。「私たちは、ただここ

に集まるように言われただけなのですが」

 彼女たちは、不思議そうに俊樹たちを見つめている。

 県警の他に彼らがいることが疑問な様子だった。

「誰かに探してもらってくれ」

 井沢が棚部に指示を出すと、ドアを閉めようとしていた彼はその

まま部屋を出ていった。

「あの、これから何をするのですか?」加奈がきいた。

「実はですね、つい先ほどこちらにいる村瀬さんから事件の犯人が

分かったという連絡が入ったのです」

「本当?」

「ええ」千寿留が声を上げる寛子に言う。

「皆さんが来るまで待った方がいいですか?」

「うーん、どうしましょうか」彼女は片手を口もとに当てて考える。

 他の者たちが彼女に注目した。

 沈黙が少し続いたところで、棚部が部屋に戻ってくる。

「近くに職員の方がいたのでお願いしました。じきに残りの人たち

も来ると思います」彼は宗像に報告すると、そのあとで人を招き入

れる。

 廊下から姿を現したのは谷口稔だった。

「そこで偶然彼に会ったんです」

「すみません。遅れてしまいました」

 部活のユニフォームを着た稔は、頭を下げると井沢に促されて結

香里の隣の席に着いた。

「どうしますか?」宗像がもう一度千寿留にきく。

「そうですね......、ならそろそろはじめることにしましょう」

 千寿留はそう言うと、その場にいる全員を見てから話をはじめた。

「では、この中学で起きた一連の事件について説明をさせてもらい

ます」彼女が会釈をする。「まず、この二つの事件には不思議な共通

点が二つありました。一つは、どちらの事件も発見時に犯行現場が

施錠されている、いわゆる密室状態になっていたこと。もう一つは、

犯行の手口がこの中学で有名な怪談になぞられていたということで

す。私は皆さんから話を伺いながら、犯人がどうやって、そしてど

のような目的でこのような状況を作り出したのかを考えていました。

そして、ようやくその答えに辿り着くことができましたので、そこ

に至るまでの経緯をお話しようと思い、こういった場を作っていた

だきました」

「それで、犯人は誰なんですか?」井沢がきく。

「もしかして、私たちの中の誰かって言うんじゃ......」加奈は緊張

した様子でテーブルに座るメンバを見る。

「いいえ、そうじゃないわ。だから安心して」千寿留は加奈に微笑

みかける。そして、その次に井沢に顔を向ける。

「順番に話していきますので、どうか焦らないようにお願いします」

彼女は落ち着いた口調で彼に言ったあとで話を戻す。「私は、最初の

事件のあとで例の怪談のことを知りました。そのときから、犯人は

それをモチーフにしているのだと考え、さらに二つ目の事件が起き

るとこれは同一人物の犯行だと確信しました。またそれと同時に。

犯人はこの中学の関係者だろうという推測もありました。それは、

皆さんも同じではないでしょうか?」

 県警の面々と俊樹と凪森ははっきりと、そして加奈たちはお互い

に目配せをしながら躊躇いがちに頷く。

「私の考えでは、犯人はおそらく鈴原君だけを襲うことが当初の目

的だったのではないかと思います。そして最初の事件で行われたカ

モフラージュは、単純に捜査を攪乱させるために仕組んだものだっ

たのでしょう」

「すると犯行現場がここだったのと、鈴原太一にかけられていた塩

酸は予め計画的通りだったというわけですね?」井沢がきく。

「そうです。つまり犯人は、理科室と隣の準備室を繋ぐドアが壊れ

ていること、準備室の机に薬品棚の鍵が保管されていることの二つ

を初めから知っていたわけです」

「ちょっと待って」そこで寛子が話を止める。「今、犯人は鈴原君だ

けが狙いだったって言ったわよね?」

「ええ」

「だったら、なんで益田さんも襲われないといけなかったの?」彼

女が質問する。

「きっと益田さんは、犯人の正体に気づいていたのだと思います。

だからそれを知った犯人は、仕方なく二つ目の事件を起こすことに

した」千寿留が答える。「たぶん、理科室の事件のときに悲劇の山本

さん幽霊の仕業に見せかけたのは偶然で、その先のことは犯人も考

えていなかったはずです。だから益田さんを襲うことを決めたとき、

犯人は最初にあの怪談を装ったのはラッキィだったと思ったことで

しょう。ですから美術室が選ばれたのは、理科室の事件と比べると、

より意図的で後付け的な意味合いが強かったのだと想像していま

す」

「なぜ彼女は、そのことを速やかに警察に知らせなかったのでしょ

うか?」

「益田さんは恋人を殺した犯人を憎んでいました。おそらく彼女は、

警察に頼らずにできるだけ自分の力で事件を解決させたかったので

しょう」千寿留は質問をした棚部を見る。

「なら、彼女が藤崎さんに話そうとした内容は、犯人の正体だった

可能性が高くなります」井沢が言う。

「でも私に話したところで、彼女にはなんの得にもならないと思い

ますけど......」加奈が戸惑いを見せる。

「例えば、犯人を捕まえるのを協力してもらおうとしたのかもしれ

ないね」俊樹は思いついたことを口にしてみた。

「ひとまずその辺りの話は保留にしておいて、次に密室のトリック

についてお話しします」

 千寿留がそう言うと、他の者は話すのを止めてまた彼女に注目し

た。

「最初の事件では、犯人は校舎と教室という二重のロックがされて

いるにも関わらず理科室まで辿り着いたことになります。この件に

ついて、警察はどのようにお考えなのですか?」彼女がきく。

「犯人の侵入経路はまだ断定できていません。ただ、ここの一階に

ある生徒資料室という倉庫を使えば、校舎外のから侵入は可能だと

は考えており、現在はそれが有力な説になっています。でなければ、

鍵穴に棒状のものを挿し込んで施錠を解く方法くらいでしょうか」

井沢が説明する。

「生徒資料室の方の証拠はまだ見つかってないのですね?」

「ええ。だた、外から倉庫に入るためのドアノブは他の扉の部分に

比べると汚れが少なくて、何者かが比較的頻繁に使用していた形跡

はあったのですが、指紋は一つも検出されませんでした」

「一つも、ですか?」

「そうです」次に棚部が言う「ですから犯人は、誤ってノブに指紋

を付けてしまったために、それを綺麗に拭き取ったのだと考えられ

ます」彼は自信を持ってそう話した。

「たしかにそういう考え方もできます。ただそのドアノブについて

は、犯人が意図的に痕跡を残した可能性が高いと思います」

 そこで、千寿留が落ち着いた口調でそれを否定する。

「意図的に? それはどういうことですか?」

「犯人が事件を怪談に見立てた大きな理由は、おそらくそこにあっ

たはずです」彼女はそう言ったあとで結香里に視線を送る。「最近流

行っているあの怪談は、もともとは別々だった話が一つになったも

のなのよね?」

「はい。私が知っている範囲では、悲劇の山本さんと開かずの部屋

の話は別物です。でも園田さんが聞いた噂だと、山本さんの幽霊は

開かずの部屋に住みついているという内容だったそうです」結香里

が話した。

「おそらく犯人は、その噂を上手く利用したのでしょう。事件現場

の状況を怪談と似せていれば、いずれ警察の耳にもその話は入って

きます。そうなると自然に開かずの部屋が注目され、犯人はそこか

ら侵入したのではないかと思わせることができますから」

「要するに、犯人はあそこから入ったと見せかけるために、わざと

ドアノブの指紋を消したというわけですね?」

「その通りです」千寿留は質問した宗像に頷いてみせる。

「だとしたら、犯人はどうやって侵入したと言うのですか?」

「それは、非常にシンプルな方法でした」彼女が笑みを浮かべる。

 そしてひと呼吸置いてから全員に向かって言った。

「犯人は、鍵を使って理科室まで入ったのです」

 すると、それを聞いた人たちのほとんどが驚きの顔を見せる。

 千寿留はその反応を満足そうにして眺めながら続ける。

「最初の事件があった夜、犯人は事前に呼び出しておいた鈴原君を

連れて理科室に向かいました。そのとき、東棟と理科室はちゃんと

正規の学校の鍵を使って開けたのです。そして鈴原君を襲うと、学

校の怪談を連想させるように彼に塩酸をかけました。一階のドアが

開いたままだったのは、おそらく犯行直後の興奮状態と逃走時の焦

りがあったために施錠を忘れてしまったのではないか、と私は推測

します」

「でも、学校の鍵はしっかり管理されていたはずじゃなかったっ

け?」

「ええそうです。どちらの鍵も職員室にある金庫に常時保管されて

います。もちろん金庫にも鍵があって、その合鍵を作ることは難し

いんです」加奈が俊樹の問いに答える。

「それは分かっている。犯人は鍵のコピィを作ったわけでも、無理

矢理金庫をこじ開けたわけでもないわ」千寿留が言った。

「ではまさか、犯人は金庫の鍵を?」井沢が呟く。

「そういうことです。犯人は、自分が持っていた鍵を使って金庫を

開けました。事件現場の状況を説明するには、それが一番自然な考

え方だと思います」

「だとすると、村瀬さんは当日に金庫の鍵を持っていた人物の犯行

だと言いたいのですね?」

 宗像がテーブルを囲んで座る四人組に目を向ける。

 結香里と稔の顔にはさほど変化は見られなかったが、教師陣の二

人は完全に表情が固まっていた。そして宗像と目が合った瞬間、彼

女たちはびくりとする。

「わ、私じゃありませんからね。私はあの日、鈴原君を見つけるま

でずっと藤崎先生と一緒にいたんですから、ちゃんとアリバイがあ

ります」寛子が慌てて言った。

「お二人の共犯という可能性もあります」

 すると、今まで静観していた凪森が初めて口を開いた。

「最初の被害者の鈴原さんと藤崎さんの関係を考えれば、動機とし

ては大いにあり得る話だと思いますが」彼は無表情のままで言った。

 千寿留が鍵を用いた犯行だと全員に話したときも、凪森だけは顔

色を変えていなかった。

「和氣さん落ち着いて。さっき話した通り、この中に犯人はいない

わ」そこで千寿留がすかさず寛子に声をかけると、その次に凪森に

言う。「むやみに人を動揺させるような発言は止めてください」

 凪森は彼女に睨まれて小さく肩を竦めた。

「あの日、和氣さんの他に鍵を持っていたのは校長先生と教頭先生

の二人だったはずです。それは間違いありませんか?」彼女が刑事

たちに確認をとる。

「はい。学校の方々と金庫を納入した業者からの証言で、例の電子

錠は三本しか作られておらず、学校の戸締りを担当する教員の方以

外では、嬉野校長と市川教頭が持っていました」

「だた、嬉野校長は一度も使ったことがなかったようです。我々が

鍵の所在を調べたとき、嬉野校長のものは新品同様の状態で彼の机

の奥に仕舞われていました。ご本人の話では、支給されて以来、袋

から出したこともないということです」

 棚部と井沢が交互に説明した。

「ということは、容疑者は消去法で一人に絞られますね」

 千寿留はそれに頷くと、そのあとで高らかに宣言する。

「つまり、一連の事件は教頭の市川先生によるものだったのです」

 確信を持った声が室内に響いた。

 他のメンバたちは、それを聞いて静まり返ってしまう。

 千寿留は、彼らの反応を目にして満足そうな表情を浮かべていた。

「あの市川教頭が? いや、しかし......」棚部が困惑した声で呟く。

「金庫の鍵を持っている彼なら、学校が施錠されていても関係あり

ません」彼女は自信を持って言った。「また、美術室のタオルに鈴原

さんの血が付着していたことも説明がつきます。あのタオルは、凶

器に付いた鈴原さんの血を拭くために予め用意していたのだと思い

ます。おそらく、理科室の事件で使った凶器は市川先生が持参した

ものだったのでしょう。だから現場に置いておくわけにはいきませ

ん。かといって、血が付いたままで持ち去るのも何かと不都合だと

考えたので、彼は美術室のタオルを使うことにした。理科室にも雑

巾はありますが、血痕をつけると目立ってしまいます。その点、美

術室のタオルは絵の具などが付いているので血の色や臭いを誤魔化

すことができます。さらに使用後に簡単に水洗いをしておけば、見

た目では判別できなくなります」

「しかし、それなら自前の物を持って来て、凶器と一緒に処分した

方が楽ではないですか?」棚部が質問する。

「灯台もと暗しという言葉もありますので、学校の備品に紛れさせ

ておいた方が発見される可能性が低いと思ったのでしょう。それか

もしくは、証拠は別々に処分した方が安全だと考えたのかもしれま

せん。あのタオルは美術の授業でも使っているので、放っておけば

いずれ勝手に捨てられますし、教頭の彼なら、やろうと思えばいつ

でも処分できるはずです」千寿留が滑らかに答えた。

「たしかに彼が犯人であれば、美術室の事件も可能でしょうね」井

沢が宗像に言う。

 千寿留は説明を続ける。

「二つ目の事件では、彼は職員室にあった美術室の鍵を使いました。

おそらく四時間目の授業をしていた時間に、職員室で一人になった

ところを見計らって金庫から鍵を取り出したのだと思います。そし

て授業が終わると、和氣さんと入れ違いで美術室に入り、物置の奥

で益田さん待ち伏せしておいて彼女を襲いました。ただ、このとき

に誤算が起きたのです」

「誤算?」宗像がきく。

「彼は凶器に使った石膏の、彼女の血が付着していた部分を誤って

触ってしまったのです。あのときは、いつ人がやって来るのか分か

らないという時間との勝負だったはずなので、それによって彼は少

なからず動揺したのだと推測します。そして予定よりも事後処理の

手間を増やしてしまった彼は、ひと通り自分が特定される証拠を消

したと判断できる状態にしたところで、すぐにその場を立ち去るこ

とにしました。美術室の状況が非常に中途半端だったのは、きっと

そのためだったのではないかと思います」千寿留が説明する。「彼は

職員室に戻ると、和氣先生たちに呼ばれたあとで再び美術室に足を

運びました。おそらく、現場の状況を確認したかったのでしょう」

「なるほど。それならば、あるいは犯行が可能だったかもしれませ

ん」そこで宗像が頷く。「ただ、市川にはあの二人を襲う動機どころ

か、ほとんど接点がないと言ってもいい。それなのに、なぜ彼が犯

行に及んだと言えるのでしょうか?」

 続いて彼は、千寿留にそう指摘する。

「私も先日まで同じように思っていました。ですが、一つだけ彼ら

を繋ぐものが見つかったのです」彼女が言う。

「それは何ですか?」

「おそらく、この事件の発端は三角関係のもつれだったのではない

かと私は考えています」

「えっ、それはつまり被害者の二人と市川の間で、ということです

か?」棚部が驚く。

「そうではありません」しかし千寿留がそれを否定する。

 すると、彼女は寛子たちの方をちらりと見てから小さく息を吐く

と、言いづらそうな顔をして告げる。

「......市川先生は、以前から藤崎さんと親密な関係を持っていたん

です」

 そのあとで、彼女の近くで立っていた俊樹と凪森、それに県警の

三人が一斉に正面のテーブルを向く。

 その先にいた加奈は、思わず息を止め、目を見開いて呆然と千寿

留を見つめていた。

「それがいつからなのかは分かりませんが、二人は誰にも知られな

いように密かに交際をしていました。ですが、そこに彼女の昔の交

際相手だった鈴原さんが割り込んできた。そして、藤崎さんの知ら

ないところで、彼女を巡って二人の間で諍いがあったのではないか

と思います」千寿留は続ける。「その中で市川先生は、彼女との関係

を続けるために邪魔になった鈴原さんを排除することにした。そし

て、鈴原さんの恋人だった益田さんもそれに巻き込まれてしまった

のです」

 それを話している間、彼女はずっと加奈と目を合わさないように

していた。

「藤崎先生、村瀬さんが言ったことは本当なのですか?」井沢が加

奈に尋ねる。

 しかし彼女は、下を向くとじっと押し黙ってしまった。

「何も言われないのは、今の話が否定できないという意味にも取れ

ますが......」

 彼女の返答を待っていた宗像が痺れを切らせて言った。

「待ってください」

 そのとき、加奈ではなく寛子が口を開いた。

「藤崎さんが話せないのであれば、代わりに私がお話します」彼女

は毅然とした口調で言うと、次に加奈を見て話しかける。「それでい

いわね?」

 その言葉ではっとして顔を上げた加奈は、寛子に向かって首を左

右に振る。

「大丈夫です。自分で話せます」

 加奈は寛子にはっきり告げると、今度は宗像たちを見据える。

 表情には翳りが窺えたが、その瞳には堅い意志を感じることがで

きた。

「村瀬さんが言った通り、私は市川先生とお付き合いをしていまし

た」彼女が話しはじめる。「この学校に配属されてから半年ほど経っ

た頃からなので、もう二年近く前になります。最初は彼の方からア

プローチがありました。私は彼が家庭を持っていることを知ってい

ましたが、それを拒むことができませんでした。けれど、だからと

いって彼が私に関係を強要したわけでもありません」

 その場にいた者たちは、そうやって淡々と話す加奈に視線を集め

ていた。

「そんな......」

 驚きを隠しきれないといった表情で結香里が声を漏らす。

「ごめんなさい。私、教職者としては失格よね......」加奈は彼女に

力なく言うと、再び顔を伏せた。

「本当なら、その市川先生もここに集まってもらうにお願いしてい

たのですが、まだいらっしゃっていません」井沢が言う。

「もしかしたら、勘づいて逃げたんじゃ......」

 俊樹がそう呟くと、千寿留は宗像に言った。

「すぐに市川先生を探してください。彼は殺人犯です。刑事さんた

ちも、このまま取り逃がすわけにはいかないでしょう?」

「ええ、その通りです」宗像はそれに同意すると部下たちに指示を

出す。「棚部、お前は校内を探せ。井沢は署に連絡して応援を呼ぶ準

備だ」

「分かりました」

 それに応じた井沢は、棚部に目配せして共に外へ向かおうとする。

「その必要はありません」

 すると、顔を上げた加奈がそれを制した。

 井沢と棚部は、その声に反応すると足を止めて彼女に振り返る。

「彼は絶対に逃げたりはしません」

「どうして、そう断言できるのですか?」宗像が加奈にきく。

「なぜなら、彼は犯人ではないからです」

 彼女は刑事たちを見ると、深呼吸をしてから言った。

「今の村瀬さんの話だと、私たちと鈴原君に何かトラブルがあった

ということですが、そういった事実はこれまで一度もありません。

少なくとも私は、大学を出てから鈴原君とは連絡を取っていません

し、顔を合わせてもいません。今回の教育実習のメンバを知ったと

き、久しぶりに彼の名前を思い出したくらいなんですから」

「ですが、貴女の知らないところで二人の間で何かあったとも考え

られます」

「鈴原君は女性に依存するタイプの子ではありませんから、一度別

れた相手に執着するとは思えません」

 加奈は井沢の意見を否定すると、そのあとで続けて言った。

「それに、彼にはアリバイがあるんです」

 彼女は落ち着いた口調ではっきりとそう告げた。

「それ、どういうこと?」千寿留が怪訝な顔をしてきく。

「鈴原君が襲われた日の夜、私、学校に戻る直前までずっと彼と一

緒だったの」

「えっ!」千寿留が思わず声を上げる。「でも、加奈ちゃんは和氣さ

んと......」

「それは嘘じゃない。私も二人と一緒にいたわ」寛子が言った。

「彼のことは、和氣さんには話していたわ。そして事件のあった夜、

私は市川さんと和氣さんの三人で夕食をしていたの。彼と別れたの

は食事が終わったあとで、私たちはそれからすぐ学校に戻った。だ

から、彼が鈴原君を襲うことは不可能だわ」加奈は千寿留から目を

離さずに話した。

「それは間違いありませんか?」

「はい、本当のことです」

 井沢の質問に寛子が答えた。

「彼との関係はあまり知られたくなかったので、今まで話していま

せんでした。本当にすみません」

 そこで加奈は立ち上がると、宗像たちに深く頭を下げた。

「我々もあとで確認させてもらいますが、それが本当なら、村瀬さ

んの推理は根本的に違っていたことになりますね」宗像が千寿留に

目を向けて言った。その顔には、期待外れだったというような皮肉

なものが浮かんでいた。

 俊樹は、そっと千寿留の様子を窺う。

 彼女は自分の説が違っていたショックと、それを先ほどまで得意

げに話していたという羞恥に耐えるように俯き加減で唇を噛んだま

まじっとしていた。

「少しいいでしょうか?」

 するとそのとき、俊樹の隣にいた凪森が急に口を開いた。

「彼女の話をひと通り聞かせてもらいましたが、そもそも、その推

理には少し無理があるように私は思います」彼は刑事たちとテーブ

ルにいる四人に向けて話した。

 そこにいた全員が、今度は彼に視線を集める。

「どこがおかしいんだ? 今の話がなければ、ちゃんと説明できて

た気がするけど」俊樹が言う。

「彼女は、理科室で使われた凶器そのものについては何も言及して

いなかった。結局、鈴原さんの殺害に使われた物が何だったのかは

不明のままだ」

「それは......」千寿留が言葉を詰まられる。

「それに犯人が美術室のタオルを使った経緯、そして美術室の事件

ではどうして石膏の血痕が中途半端に拭き取られていたのかという

考えも、あれでは説得力に欠けている」凪森は続けて話した。

 その断言するような言い方は、彼の無表情も相まっていっそう批

判的に聞こえた。

「まぁまぁ、そんなに責めるように言わなくても」

 千寿留に辛辣な言葉を浴びせる凪森を棚部が宥める。

「責めてはいません。私はただ疑問点を述べただけです」

 凪森は口調を変えずに言うと、今度は部屋を見渡して全員に話し

かける。

「ここで突然なのですが、皆さんに一つお願いがあります。もしよ

ければ、今回の事件に対する私の考察にも少し付き合っていただけ

ないでしょうか?」

「貴方の話を、ですか?」井沢がきいた。

「はい。自分の考えを披露するのに、これほど適した場面はありま

せんから」凪森は微かに笑みを浮かべる。そして、判断を促すよう

に宗像に視線を送った。

 宗像は彼を見定めるように鋭い目でそれを受け止める。

 俊樹は、他のメンバと同じようにその様子を静かに見つめていた。

「皆さん、恐縮ではありますが、もう少しお時間をいただいても構

わないでしょうか?」

 凪森からふと目を逸らした宗像がそう提案するまでに数秒のイン

ターバルがあった。

「宗像さん」その呼びかけを聞いた棚部が抗議の声を上げる。

「何だ?」

「何だじゃないですよ。もういいじゃないですか。今日はこの辺で

引き上げた方がいいと思います」棚部は宗像に接近すると小声で言

う。

「物のついでに、彼の推理を聞いておくのも悪くない」傍にいた井

沢が呟いた。

「ですけど、彼女みたいになってしまうと、僕らの立場がなくなり

ますよ」

「謝罪するのなら、別々よりもまとめての方が効率がいい」宗像は

二人の部下にだけ聞こえるように囁くと、テーブルに座る人々を見

る。「さあ、いかがでしょうか?」

 彼に促された加奈たち四人は、それぞれ首を縦に振って応えた。

「ありがとうございます」宗像は丁寧に頭を下げて礼を言う。

 その光景を見ていた俊樹は、他の二人の刑事に比べて、棚部だけ

が不満そうにしているのが分かった。

 その次の瞬間、突然理科室のドアが音を立てて開けられる。

 俊樹が反射的にそちらを向くと、廊下には金髪の不良少年が立っ

ていた。

「みんながここで集まってるって今さっき聞いたもんだから」彼は

部屋の中に入りながら言った。

「佐伯雅彦君だね?」凪森が彼に話しかける。「ちょうど良かった。

君にも付き合ってもらうよ」

「あんた誰?」

「僕の友達だよ」俊樹が答える。「これから事件の謎解きをするらし

いんだ」

「ふーん」雅彦は不審そうに目を細めて凪森を見ていた。

「とりあえず君は席に着いてくれ。それに皆さんも、どうぞ寛いで

お聞きになってください」

 凪森は雅彦だけでなく、警察の面々や千寿留たちにも着席を勧め

た。


           6


「私は凪森と言って、そこにいる宮房君と仲良くさせてもらってい

る者です」

 凪森は、まず簡単な自己紹介をする。

 俊樹はその様子を椅子に座って眺めていた。

 片肘を置いているテーブルの向かいには行儀良く席に着いた千寿

留の姿があり、その右隣には加奈たちがいる。そしてそのテーブル

に、今は雅彦も加わっていた。

 結局、刑事たちはテーブルへ移動しようとはしなかった。

 立場的なものなのか、それとも部屋全体を見渡せる位置にいた方

が良いと判断したのかは分からない。

 なので黒板の前にあるテーブル付近には、凪森と県警の三人組が

先ほどと同様に立ったままだった。

「私は、宮房君が体験したことや伝聞したことを教えてもらい、ま

た独自に調べを進めながらこの事件について考えてきました。そし

てその結果、ある程度納得できる結論を導くことができましたので、

ここで皆さんに聞いていただこうと思います。ただし、それはあく

までも頭の中で考えただけのことなので、現実にそれが実現可能な

のか、その確認を交えながら話していきますのでよろしくお願いし

ます」

 凪森は、しっかりと一礼したあとでようやく本題に入る。

「まず理科室の事件のことを知ったとき、私はどうして事件発見時

に一階の出入口だけが開いていたのだろうかと疑問に思いました。

理科室と同じように施錠がされているか、でなければどちらも鍵が

かかっていないのであれば、まだ納得できる状況だったのでしょう

が、片方だけというのは非常に奇妙だとは思いませんか?」

「それは村瀬さんが言っていたように、犯人がたまたま鍵をかけ忘

れたからなのではないでしょうか?」棚部が言う。

「その可能性も否定はできません。ですが、この事件は突発的に起

きたものでは決してありません。犯人はわざわざ無人になった学校

を選んで被害者を襲い、そして怪談に見せかけた偽装まで施した計

画的な犯行だったのです。また、現場から有力な手がかりが発見で

きていないということから、犯人は致命的な証拠が残らないように

細心の注意を払っていたと推測できます。そこまで慎重に計画を進

めていたのに、最後の最後でうっかり施錠を忘れるという初歩的な

ミスをしてしまうものでしょうか?」凪森は話した。

「それは私にも理解できます。けれど、だとしたらあの状況を他に

どう解釈できるのですか?」千寿留が尋ねる。

「難しく考える必要はありません」凪森が答える。「犯人は、単純に

東棟とそれに理科室の鍵も持っていなかったのです。ですから現場

を立ち去るとき、犯人は鍵をかけ忘れたのではなく、施錠したくて

もできなかったわけです」

「けど、鍵を持っていないのならどうやって校舎に入ったのです

か? あの開かずの部屋を使ったとでも言うんでしょうか?」千寿

留はすぐに新たな質問を投げかける。その口調からは、凪森への対

抗心が感じられた。

 だが彼女が言ったことは、その場にいる誰もが思っているはずだ。

 結局侵入方法が判明しない限り、この事件が解決することはない

だろう。

 これでは堂々巡りだと俊樹は思った。

「いいえ。生徒資料室に関しては私も貴女と同じで、あれは犯人の

フェイントだったと思います」

「ならどうやって中へ?」千寿留が追及する。

「東棟へのアクセスはとても簡単なものでした。なぜなら、犯人が

この校舎に入ったときには、まだ施錠がされていなかったのですか

ら」

「へっ?」そこで彼女は、凪森がいともあっけなく話すのを聞いて

間の抜けた声を出した。

「今なんて......」

「東棟のドアは開いていたのです。だから犯人は、なんの障害もな

く普通に校舎へ入ることができました」凪森はもう一度彼女に言っ

た。

「ということは、犯人が侵入したときにはまだ校舎の戸締りをする

前だったと言うのですね?」宗像がきく。

「それは無理です」

 そのあとですぐに寛子が口を開いた。

「学校を閉めるとき、私は全ての校舎の見回りをしました。そして

中は無人だということを藤崎さんと二人でちゃんと確認しているん

です」

「あのとき、東棟には誰も残っていませんでした。それは間違いあ

りません」

 続いて加奈も口調を強めて言った。

「なにも貴女たちが嘘をついているとは思っていません」凪森が二

人に言う。その次に全員に向かって話しかける。「犯人は東棟に入る

と、ある場所に身を隠して彼女たちをやり過ごしました。そして二

人が学校から出ていったあと、鈴原さんを校舎に入れるために内側

からドアを開けると、彼を理科室へ連れていったのです」

「その、ある場所というのはどこなのですか?」井沢が尋ねる。

「それはあとでお話しします。その前に犯人と鈴原さんがどうやっ

て理科室の中へ入ったのかを説明させて下さい」

 凪森はそうやって受け流すと、ひとつ呼吸を置いてから再び話し

だした。

「おそらく犯人は、この部屋に侵入した方法は簡単には見破られな

いという自信があったのではないかと私は推測しています。仮に校

舎に忍び込んだ方法が知られてしまっても、ここへの出入りさえ分

からなければ安全だと思っていたはずです」

「それだけ難しいってことか?」俊樹がきいた。

「着眼点としては思いつきにくいかもしれない。ただ、手法自体は

先ほどと同じでごくシンプルだ」

 すると、凪森は後ろを振り返って理科室の出入口へ向かった。

「事件当夜、廊下に面したこの理科室と隣の準備室のドアには鍵が

かかっていました。そして全ての部屋の窓も施錠されていたため、

校舎の外から侵入することも不可能です。ですからここでの問題は、

それ以外でどこを使えば通り抜けられることができるか、というこ

とになります」

 彼はそう言うと、二枚ある木製のドアの大きな窓ガラスの部分を

一枚ずつ順に触れる。そしてそれが終わると、今度はそのうちの片

方に両手を押し付け、体重を加えるようにして足を踏ん張りはじめ

た。

 俊樹たちは凪森が何をしようとしているのか分からず、その姿を

ただ不思議そうに眺めていた。

 しかし、その中で雅彦のリアクションだけは違った。

「おい、なんであんたが知ってるんだ」彼は急に凪森に言う。

「佐伯君。貴方、何か心当たりがあるの?」加奈が彼に尋ねる。

 しかし雅彦はそれに答えず、唖然とした表情で凪森の様子を見つ

めるだけだった。

「こちら側ではなかったみたいですね」凪森は後ろを振り向いて報

告する。そして雅彦を一瞥してから、次に黒板に近い方のドアにも

同じことを繰り返す。

「あぁ、やっぱりこっちか」

 彼は何かの感触掴んだように独り言を呟くと、その窓ガラスに対

してさらに力を与えてやる。すると、ガラスは徐々に上方向に押し

上げられ、じきにその下辺と枠との間に隙間が現われた。

「えっ! それってまさか!」

 そこで千寿留は、その隙間が意味することに気づいて驚きの声を

上げた。

 だが凪森はその大声を気にする様子もなく、落ち着いて自分の腰

の位置にあるその狭い空間に指を差し入れると、音を立てながらも

慎重にガラスを窓枠から取り外して隣のドアへ立てかけた。

「これで、鍵がなくても部屋を自由に出入りすることができます」

 彼が手を向けたドアの上部には大きな空間が出来上がっていた。

大人が充分に通過できるほどのサイズだ。

「そんな......」

 その一部始終を見ていた加奈が、呆然とした様子で呟いた。

「この校舎の老朽化は、事件を調べていく中で知りました。そうな

ると当然、建物の内部も脆くなっているはずです。そこから私は、

理科室のドアのガラスがはめ込まれている部分も外れやすくなって

いるのではないかという考えに至りました。あとは、ガラスがどれ

くらいの大きさなのかを懸念していましたが、それも申し分ないサ

イズだと分かったことで、犯人の侵入方法にほぼ確信を持つことが

できました。そして今試した通り、このガラスは窓枠よりも若干上

下に長い寸法になっているだけで、はめ込みの部分が緩くなってい

れば取り外しが可能なことが証明されました」

 そう語った凪森は、再びガラスを手にしながら俊樹を見る。

「元に戻すのを手伝ってくれないか?」

 そこで俊樹は彼のもとへ行くと、二人でガラスを持ち上げる。

「このガラス、思ったより重くないな」

「そこまで厚みがないからだろう。サイズがあるから持ちにくいだ

けで、少し時間をかければ一人でも窓枠から脱着できる」

 二人がガラスをドアにはめ込み直すと、凪森は黒板前のテーブル

にまた戻ってゆく。

「これで検証は終わりです」彼が全員に向かって言った。

「犯人はその方法を使って理科室に忍び込んだわけですね。いやぁ、

実に興味深いものを見せてもらいました」宗像は落ち着いた口調で

言った。

 次に彼は加奈たちに問いかける。

「皆さんはこのドアのことはご存知でしたか?」

「いいえ。窓ガラスが外れるなんて今まで思ってもみませんでした」

加奈が首を振って答えた。

「でも、君は知っていた」凪森が雅彦を見て言う。

「......ああ。それを見つけたのはたぶん俺が一番最初だと思う。だ

いぶ前に思いつきで試してみたら意外と簡単に取れたんだ。それで、

先公たちや他の生徒は誰も気づいてなさそうだったから、授業をさ

ぼるときはよくここを使ってた」雅彦が話した。

「君は、このことを誰かにしゃべったりしたかい?」

「うちの仲間には言ったかもしれないけど、いい隠れ場所だったか

らそんなに言いふらしてはいない」

「だとしたら、犯人は佐伯君たちのグループの誰かということ?」

千寿留が凪森にきく。

「凪森はもう犯人の見当がついてるんだろ? 勿体ぶらないでそろ

そろ誰なのか話してくれてもいいだろ」

 彼女続いて俊樹も問い詰めるように言った。

「事件で明らかになっていないことがまだ幾つかある。まずそれを

一つずつ解消させてからの方が納得してくれるはずだ」凪森が二人

に言う。

 そのあとで彼はまた全員に向けて話を続ける。

「犯人が作った密室の方法が分かったところで、今度は理科室の事

件で他に残っている疑問点についてお話します。被害に遭った鈴原

さんは鈍器で殴られた形跡がありましたが、具体的に凶器がなんで

あったのかは今でも明らかになっていません。警察もその認識でよ

ろしいですね?」

「ハンマのような物ではないかと予想していますが、たしかにまだ

実物は発見できていません。現場から盗まれた物もありませんので、

こちらとしては先ほど村瀬さんが話していたように、凶器は犯人が

持参し、逃走のときに一緒に持ち去ったのではないかと考えていま

す」

「果たして本当にそうなのでしょうか?」

 凪森は井沢が説明に異議を唱える。

「ということ?」

「私は、凶器は持ち去られていないのではないかと考えているので

す」彼は鋭い視線を向ける宗像に答える。

「その言い方だと、凶器が何なのかが分かってるみたいですね」千

寿留が彼に言う。

「推測はできています。そしてこの考えが事実なら、同時にもう一

つの疑問も解消されるはずだと思います」

「もう一つの疑問?」

「美術室で見つかったタオルになぜ鈴原さんの血液が付いていたの

かということです」凪森が話す。「仮に、犯人は凶器を持って逃走し

ておらず、またタオルで血を拭き取ってもいなかったとします。そ

の場合、タオルに彼の血が付いたのは一体どのタイミングだったの

でしょうか?」彼はそのあとで寛子に質問する。「教育実習中に、鈴

原さんが美術室を訪れたことはありましたか?」

「今年は美術を専攻している学生はいないので、実習生が美術室に

来たことは滅多にありません。特に鈴原君は、実習二日目であんな

ことになってしまいましたから」寛子が首を振る。

「では、美術室で彼が怪我をしたという事実はないのですね?」

「ええ。短い時間なら鍵をかけないで部屋を空けていたこともあっ

たと思いますから、その間に鈴原君が来ていた可能性はあります。

けれど、私の知っている範囲ではそんなことはありませんでしたし、

そこで怪我をしたということもないと思います」

「そうすると、タオルに血が付いたのは彼が理科室で襲われたとき

くらいしかないってことね」千寿留が言う。

「でも、それじゃあタオルはどこで使われたんだろう?」俊樹はそ

う言ってから横目で千寿留を見る

 しかし彼女は下を向いて考え込んでおり、彼の視線に気づくこと

はなかった。

 俊樹は次に凪森に目を移してその答えを待つが、彼は俊樹たちを

静観するだけで口を開く気配はない。まだ自分の考えを言うつもり

はないらしい。

 すると、千寿留が急に顔を上げる。

「そうか」彼女が呟いた。

「何か分かったの?」

「ええ」

 千寿留は真剣な顔で俊樹に頷くと凪森を見る。

「凶器はあのタオルだったのね」彼女は彼を見据えてそう言った。

「そういうことです」

 凪森は小さく笑みを浮かべてそれに応えた。

「どういうこと?」俊樹が彼にきいた。

 彼は、凪森と千寿留が言っていることがよく理解できていなかっ

た。そして、それは他のメンバも同じらしく、彼らも釈然としない

様子で二人を見つめている。

「犯人は、タオルの中央にある物を詰めて即席の鈍器を作り、それ

で鈴原さんを殴打したのです」凪森が話しはじめる。「そして、その

ある物というのは、おそらく石だったのではないかと思います。学

校の正門脇にある庭には小石がたくさん転がっていました。あれを

集めれば充分凶器として使えます。一回一回はそこまで強くないか

もしれませんが、当たり所が悪ければ相手を気絶させるくらいの威

力にはなるでしょう」彼はさらに続ける。「犯人はその凶器を使い、

鈴原さんの意表を突いて一撃を加えました。そして彼が気を失うと、

さらに殴り続けて致命傷を与えたのだと思います。そしてそれを終

えたあと、タオルは染みついた鈴原さんの血が目立たないように水

洗いでもしてから美術室に片付け、中に入れていた石は庭に返し、

さらに生徒資料室の屋外ドアの指紋を拭き取ったというわけです」

「そういえば理科室の事件のあと、普段は庭に散らばっているはず

の石が、なぜか一ヵ所に固まって置かれていたってあの子が言って

たな」そこで俊樹は、ここに来る前に見かけたあの少年が話してい

たことを思い出した。

「早く学校から逃げたかったのか、それともそこまで気づかれるこ

とはないと思ったのかは不明だが、どちらにしろ、ちゃんと元の状

態にまでは戻していなかったようだな」凪森が俊樹に言う。

「なるほど。たしかに、鈴原さんの後頭部は強い力を一度受けたと

いうよりも、何度も殴打されたような痕がありました。もし凶器が

今の話の通りであればそれにも納得ができます」井沢が言った。

「つまり貴方の考えでは、犯人は最初の事件でも美術室に侵入して

いたのですね?」宗像がきいた。

「そういうことになります」

「なら、美術室の窓ガラスもここみたいに取り外しができるという

ことなのかしら?」次に千寿留が言う。「もしそうだとしたら、それ

は少し説得力に欠けると思います」

「それはどうしてですか?」棚部がきく。

「鈴原さんのときはそれでも構わないでしょうが、二つ目の事件を

考えてみてください。あのとき、美術室の隣にある屋上へ向かう階

段には佐伯君がいたんです。誰もいない静かな校舎の中であんな作

業をしていたら、きっと彼はその物音に気づいていたはずです」彼

女は話したあとで雅彦を見る。

「そんな音は聞こえなかった。美術室から人がいなくなったあとは

ずっと静かだった」それを受けて彼が告げた。

 すると凪森が言う。

「別に私は、美術室に入るときも同じ方法だったとはひと言も言っ

てません」

「え、違うの?」

 その返答は予想外だったらしく、千寿留は思わず声を上ずらせる。

 一方の凪森は、相変わらず涼しげな顔を保ったままだった。

「美術室のドアも同じ状態なのかは、実際に試していないのでまだ

何とも言えません。それに指摘があったように、ガラスを外すとき

はたとえどれだけ気を配っても音は出るでしょうし、なにより手間

がかかります。二つ目の事件があったのは平日の日中です。無人の

夜の学校とは違い、いつ誰かがやって来るか分からない状況でこの

方法を使うにはリスクが大き過ぎる」

「では、別の侵入経路を予め用意していたと?」宗像が言う。

「そうです。それは理科室のときよりも静かでかつ迅速で、その上

簡単なものでした」

「どんな方法を使ったというの?」千寿留がきく。

「分かりませんか? 貴女ならすぐに気づくはずだと思っていたの

ですが」凪森は彼女を試すように言った。

 そのとき、俊樹はあることを思いついた。

「おい、もしかして、犯人は美術室の鍵を使ったんじゃないだろう

な?」彼は自分の意見を半信半疑に思いながら尋ねる。

 すると凪森は、それを肯定するようにゆっくりと微笑みを作った。

「犯人は、美術室の鍵を持っていたって言うんですか?」彼の表情

の変化を見て寛子が咄嗟に言う。「けど私は鍵を失くした覚えは一度

もありません。もちろん学校で管理している鍵もそうです。ですか

ら、それ以外で他の人が持っていることはまず有り得ません」彼女

は困惑した様子で反論した。

「ですが、犯人が日頃から自由に美術室を出入りできたと考えれば、

二つ目の密室の謎は解消されます。また、最初の事件であの部屋の

備品を使ったという思考も、それが前提条件にあれば容易に想像で

きると思います」

「そう言うからには、当然その根拠があると考えてよろしいです

か?」宗像がきいた。

「もちろんです。私はこの事実を知ったことで、犯行に及んだ人物

の特定ができたのです」

 凪森は、そこで一度言葉を区切ってからまた話しはじめる。

「さて、ここで皆さんがお待ちかねにしていた犯人について話して

いこうと思います。私は、事件がこの学校にまつわる怪談を真似て

いることに気づいたときから、学校内部の人物による犯行だと予想

していました。ただ気になっていたのは、その犯行自体は計画的な

ものにも関わらず、事件で使われた凶器が実に行き当たりばったり

な印象を抱かせるものであった点と、犯行に使った密室の手法が非

常に簡素であったということです。そしてもっと不可解だったのは、

両方の事件で使われたタオルのことでした。皆さんは、なぜ犯人が

益田さんの血を拭く必要があったのか説明できますか?」彼が問い

かける。

 しかし、それに答えようとする者は誰もいなかった。

「もしかしたら犯人は、血痕の上塗りができると考えていたのでは

ないでしょうか?」凪森は黙り込む人々を確認したあとで言った。

「上塗り、ですか?」井沢がきく。

「つまり一度誰かの血がついた物に、さらに別の人間の血を付けて

やれば、最初につけた血の跡が紛れてしまうのだと犯人は思ってい

たのです。だから益田さんを襲ったときに、彼女の血をわざわざあ

のタオルで拭いた」

「では、美術室の事件に石膏の血が中途半端に拭かれていたのは、

証拠隠滅の途中だったのではなく、単にその上塗りをするのが目的

だったと?」

「ええ。そうすれば先に付着していた鈴原さんの血は消えしまい、

最初の犯行で使った凶器は分からなくなると思ったのでしょう。で

も実際には、少量でも成分が残っていれば血液反応は検出されるも

のです」

「犯人はそんなことも知らなかったと言うのですか?」棚部が呆れ

たように言った。「そういうのは専門的な知識のない一般人でも、な

んとなく耳に入ってきたりして、ある程度は想像ができる類のもの

だと思いますけど」

「私も同じ意見です。しかし、この事件の犯人はそうではなかった」

凪森が言う。「そこまで考えたとき、もしかすると犯人は、まだそこ

まで人生経験を積んでいない人物ではないかと、私はふと思うよう

になりました」

「要するに貴方は、犯人は子供だと言っているのですね?」

「そういうことです」そこで凪森は宗像の質問に答えた。

「なんですって!」

 その発言を聞いた寛子が甲高い声を上げる。

 彼女だけではなく、凪森と宗像を除く全員が目を瞠っていた。

 しかし、凪森はそれを気にするでもなく淡々と話を進める。

「犯行の手口は一見難解だと思われましたが、いざ蓋を開けてみる

と実に子供騙しなものばかりでした。さらに事件に使われた凶器が

全て現場にあるものだったのは、足が付かないために用意しなかっ

たのではなく、予め準備ができない事情があったからとも考えるこ

とができます」

「子供だから、凶器になりそうな物を手に入れることができなかっ

たってこと?」俊樹が言う。

「案外ありそうな話だろう?」凪森が小さく笑って言うと、表情を

戻してから続ける。「そこで私は、犯人はこの学校の生徒であり、か

つ美術室の鍵を持っている者ではないかと思い至ったのです」

 その次に、彼は寛子に質問する。

「和氣さん。貴女は美術室の鍵が他の人間に渡っていることはない

と言っていましたが、本当にそうだと言い切れますか? 何か隠し

ていることがありませんか?」

 その直後、寛子の顔色が一変する。

 凪森に見据えられた彼女の表情は、あっという間に凍りついたよ

うに固まってしまった。

「もっと詳しく説明してもらっていいでしょうか?」

 寛子の変化を読み取った宗像が凪森に言う。

「彼女は、この学校に在籍しているある生徒に美術室の鍵を与えて

いる可能性があります。それも彼女の独断で、その理由はごくプラ

イベートなものです。これがどういう意味なのかは、皆さんも想像

がつくと思います」凪森は意味深な言い方をした。

「それは本当なの?」千寿留が尋ねる。

 彼女はその意味に気づいたらしく、彼に険しい顔を向けていた。

「先日、彼女とその人物が学校の外で会っているところを偶然見か

けたのです。そのあとで調べた結果、私の想像が間違いではないこ

とが確認できました」彼は寛子を見つめながら答える。

 それに釣られて俊樹もそちらに目を向けると、彼女は自分に降り

かかる視線から逃れるようにして顔を逸らしていた。

「貴方は、その相手が誰なのか知っているのですね?」

 しばらく寛子を見ていた宗像が凪森に視線を移す。

 これ以上待っても彼女は何も言わないだろうと判断したようだ。

「本当なら本人の口から話してもらった方が良いと思うのですが、

この様子なら仕方ないですね」凪森が諦めたように言う。

 そして彼が再び口を開こうとしたそのとき、

「もう、無理みたいですね」

 急にその声が聞こえ、俊樹はそれを発した人物に顔を向ける。

「な、何言っているの」

「何をって、もうこれ以上隠し切れないでしょう」

 動揺を露わにした寛子が声を震わせて言うのとは対照的に、その

返事は非常にさばさばとしたものだった。

「お前......」雅彦が思わず声を漏らした。

「凪森さんが話した通り、僕と和氣先生は何と言うか、さっきの話

の中で出てきた言葉を使えば、とても親密な関係でした」

 谷口稔は、言葉を選びながらしっかりとした口調で言った。

「和氣さんと谷口君が......、そんな......」加奈が呟く。

 大きく開いた彼女の瞳は、寛子と稔の間を何度も繰り返し往復し

ていた。

 稔は加奈の様子を窺うと、次に寛子をちらりと見たあとで言った。

「はじまりは僕が一年生のときでした。運動会の前だったので、二

学期に入ってからあまり経ってない頃ですね。あのときの僕は、そ

れがどういうものか何も理解してなくて、単なるの好奇心で和氣先

生の誘いに乗りました。ただ、誤解の無いように言っておきますが、

別に断ったら成績を悪くするみたいなことは一度も言われたことは

ありませんし、先生はいつも僕に優しくしてくれました。そのうち

に、僕たちは休みの日にも会うようになりました。学校の人たちに

気づかれないように、わざとみんなが行かないような場所を選んで

よく出かけました。そして先生は、校内でも二人きりになれるよう

にという理由で僕のために美術室の鍵を作ってくれたんです」彼は

話を続ける。「ですが二年生の修学旅行のときに、たままた友達と話

をする機会があって、そのとき初めて、自分が先生と何をしていた

のか分かったんです。僕は和氣先生のことが嫌いではなかったです

が、だからといって先生が誰よりも好きで、先生のためならなんで

もできるという気持ちもありませんでした。だからそれを知ったと

き、僕は重大な間違いをしていたんだと気づいてとても怖くなりま

した。それで僕は、先生にもう止めにしたいとお願いしました。そ

れに先生が反対することはなく、僕たちは今までのことは誰にも言

わないという約束をして、その関係を終わりにしたんです。それが

去年の一学期の終わりくらいの話です。今思えば、ちゃんとした判

断ができるように自分でいろいろと調べるなりすればよかったと反

省しています」彼が説明を終える。

 そうやって素直に話す稔の姿を、寛子は信じられないといった表

情で見つめていた。そこには、他人に知られたことへの羞恥や怒り

といった感情が混ざり合っているように俊樹には思えた。

「美術室の鍵は、今までずっと持っていたんだね?」

「和氣先生には捨てると言っていたのですが、なんとなく処分でき

ずにいたんです」稔が凪森を見て言う。「ついこの間も先生に呼び出

されて、本当に鍵は捨てたのかときかれたんですが、それは上手く

誤魔化していました。ですが、どうやらそこを見られていたみたい

ですね」

「ということは、君がそうだったのね?」

「はい。僕がこの事件の犯人です」

 そこで稔は、千寿留の問いかけにはっきりと答えてみせた。


           7


 稔の告白によって、理科室にはしばしの沈黙が訪れていた。

「君が? 本当に?」

 静寂を破ったのは棚部だった。

 彼は千寿留が稔に尋ねたのと同じ内容を繰り返す。

 だが、その気持ちは分からないではなかった。

 なぜなら自白したときの稔の表情はあまりに平然としており、そ

こからは清々しささえ感じていたからだ。

「そうです。不思議ですか?」稔がきく。

「君はまだ子供なんだぞ。それなのにこんな......」

「凪森さんが話した方法を使えば、別に子供でも充分に犯行は可能

です。それに僕は体格も良い方だし、日頃部活で鍛えてますからそ

こら辺の大人よりも運動神経には自信があります。たぶん、鈴原先

生と真正面から喧嘩をしたとしても負けなかったはずです」彼はそ

う言うと、凪森を見てから苦笑いを浮かべる。「でもまさか、あのガ

ラス抜けがばれるとは思っていませんでした」

「佐伯君から聞いていたのかい?」

「はい。雅彦の方はもう忘れてたみたいですけどね」稔が凪森に答

える。

「そんな、谷口君、嘘でしょ......」そこで加奈が呟く。

「嘘なんかじゃありません。藤崎先生、僕が鈴原先生を殺した犯人

なんです」稔は彼女を見てはっきりと告げる。

 加奈はそのひと言で、さらにショックを受けたような顔をする。

「でも......、君みたいな立派な子が、どうして......」彼女は力無く

言う。

「きっかけは今年の初めです。僕は、結香里から鈴原先生の子供を

妊娠したと聞かされました」

「妊娠って......」

 それを聞かされた加奈はぼんやりと言った。

 彼女の後ろに座っていた寛子も驚きのあまり声も出せない様子で、

小さく口を開けたままテーブルの向かいを見つめる。

 そこにいた結香里は硬い表情をしており、結んだ口を解こうとは

しなかった。

「もしかして、他の皆さんは御存知だったんですか?」稔が彼女た

ち以外の者の反応を確かめると言う。

「そのことは、つい最近になって知ったわ」

 代表して千寿留が答える。

「そうでしたか」彼は拍子抜けしたように呟く。

 しかし、そのあとですぐに真顔に戻って話を続ける。

「それを知ったとき、僕は自分と和氣先生とのことを思い出して、

もしものことを何も考えなかった結香里に思わず怒ってしまいまし

た。そして、それ以上に鈴原先生を許せないという気持ちになりま

した。あの人は、結香里よりも自分の責任をちゃんと自覚して行動

しなくてはいけない大人だったんです。けど彼は、最悪の場合、結

香里がどうなるのかを知っていながら見て見ぬふりをしたんです。

あれから半年が経って、結香里の方はもう気持ちの整理ができてる

みたいですが、僕はあの話を聞いたときから、自分の無用心が原因

で結香里に中絶までさせておきながら、何の責任も取ろうとしない

どころか、そのことを忘れたみたいに今まで通りの生活を送ってい

る彼に、いつか必ず復讐をしてやろうとずっと考えていました。だ

から鈴原先生が教育実習生でうちの中学に来ることが分かったとき、

僕はそのチャンスが予想以上に早く来たと思って正直嬉しかったで

す」

「それで君は、彼を襲うことを決めた」凪森が言う。

「あの日、鈴原先生とは夜に学校で会う約束をしていました。だか

ら僕は、校舎が閉まる前までに部活を抜けて東棟に行きました。そ

して持っていた鍵で美術室に入って、美術部の部室の中でみんなが

学校からいなくなるのをずっと待っていました。戸締り当番の先生

も、さすがに部屋の中まで点検することはないだろうと思っていた

ので、見つかる心配してませんでした。けど和氣先生と藤崎先生が

見回りだったのは予想外でした。先生たちが美術室を素通りしたと

きは本当にほっとしました」稔が小さく笑って言った。「そのあとで

僕は鈴原先生と襲うための準備をしました。そのときは、まだ彼を

どうやって倒すのかまでは考えていませんでした。それで美術室で

使える物を探していたときに、正門の庭にある石をあのタオルに詰

めて使うことを閃いたんです。そして時間通りに来た鈴原先生を理

科室に連れて行ったあとで、僕はその武器で後ろから彼を殴ったん

です」

 稔は取り乱すこともなく、実に落ち着いて話していた。

「最初は鈴原先生だけのつもりでした。でも先生は自分が僕と会う

ことを益田さんにも話してたみたいで、彼女は僕が犯人だというこ

とに気づいていました。だから僕は、益田さんがそれを誰かに話す

前にどうにかしないといけないと思って仕方なく彼女も襲うことに

したんです。ただ益田さんにはなんの恨みもなかったので、僕は襲

う直前まで迷っていました。そのせいで、鈴原先生のときのように

はできませんでした。それにあのタオルのことも失敗です。鈴原先

生を襲ったときに付いた血はできるだけ洗い流していたので、念の

ためその上に益田さんの血を付けておけば分からなくなると思って

いたんですが、そうじゃなかったんですね」彼が言った

「益田さんを襲うとき、佐伯君があの近くにいたことは知ってい

た?」

「それもあとで知りました。たぶん雅彦は、僕が美術室に入ったす

ぐあとに通ったんだと思います。少しでも僕が遅いか、雅彦が早く

三階に下りていたら鉢合わせしていたと思います。本当にギリギリ

セーフでした」

 稔は凪森に対してフランクな受け答えをした。

「なんでそんなことをしたの?」

 そこで加奈がまた同じ質問をする。

「藤崎先生、理由は今言いましたよ」

「そういうことじゃない。たしかに鈴原君は、水谷さんに酷過ぎる

ことをしたと私も思う。けどだからといって、彼をあんな目に遭わ

せていい理由なんてないわ」彼女は険しい顔で稔を睨むと、彼をた

しなめるように口調を強めて言った。

「それは僕も分かっているつもりです。けど鈴原先生は注意したと

ころでそれを素直に聞くような人ではなさそうでしたし、結香里も

結局は泣き寝入りしたまま何もしませんでした。きっとあのまま彼

を放っておいたら、また結香里と同じ被害に遭う人が出ていたはず

です。だから、その前に誰かが罰を与えてやらないといけなかった

んですよ」それまで淡々していた稔が、このときだけは熱を込めて

加奈に訴えかける。

 声を荒げるほどではなかったが、そこからは怒りを読み取ること

ができた。

 稔は気持ちを落ち着かせるように呼吸を整えたあとで宗像を見る。

「僕を捕まえれば事件は解決します。抵抗する気はありません」

 そう言って彼は立ち上がると、刑事たちのもとへ歩いてゆく。

 少年の右手の親指には相変わらずスポーツマンらしいテーピング

がされており、それが今の状況には非常にミスマッチだと俊樹には

思えた。

 テーブルを囲むメンバたちは、戸惑いの色を浮かべながらその姿

を眺める。

 しかし、部屋の前で立つ凪森は違った。

 彼は不審そうな目で何かを探るように稔の様子を窺っていた。

「あとの詳しい話は署できかせてもらうよ」

 宗像は手を広げながら、近づいてくる稔を迎える。

「お願いします」

 稔は頷くと、両方の手首を合わせてそれを前に差し出す。

 宗像は、彼が大人しく応じるのを確かめたあとで井沢を呼んだ。

「刑事さん、彼を逮捕するのはもう少し待ってもらえませんか?」

 そこで唐突に凪森が話しかける。

 その声で、手錠を取り出そうとしていた井沢の動きが止まった。

「一つだけお願いしたいことがあります」凪森が言う。

「なんですか?」宗像が尋ねる。

「どなたでも構わないので、今すぐに技術室に行ってもらえないで

しょうか?」

「技術室って、一階のですか?」棚部がきく。

「そうです」

「でも、どうしてですか?」彼は続けて質問する。

「それを話している時間はありません。とりあえずあの部屋を確認

して欲しいのです」凪森はそれだけしか言わない。

 ただ、それにはどこか切迫した響きがあった。

「ちょっと下の様子を見てきてくれ」宗像が棚部に言う。

「宗像さん、ですが......」

「いいから、とにかく行ってこい」彼が声を低くして指示を出した。

「......はぁ、分かりました」

 棚部はそう応えると、よく事情が呑み込めないまま仕方なくそれ

に従うことにした。

「これでよろしいですか?」

 宗像は、部屋を出て行く棚部の背中を見届けてから凪森に言う。

「ありがとうございます」

「技術室がどうかしたのですか?」千寿留が首を傾げてきく。

 しかし凪森はそれを無視すると、次に稔に声をかける。

「それは本当に事件の真相なのかな?」

 彼は少年を見据えて言う。

「何か気になることでも?」井沢が彼にきく。

「ええ。今の話でも辻褄は合うと思いますが、私にはどうも納得で

きないところがあるのです」

「というと?」

「彼の話を聞いても、やはり益田さんを襲ったあとの凶器の処理の

ことが引っかかります」凪森が答える。「たしかに、タオルに充分な

血を付着させるだけなら完全に石膏を拭き取る必要はなかったのか

もしれません。ですが、かといって中途半端な状態で、しかも凶器

を隠すでもなくそのまま放置しておくというのは少し不自然に思え

ます」彼は稔を見ながら話した。

「何か理由があったということですか?」千寿留が言う。

「本当なら、彼は最後まで事後処理をしたかったのでしょう。しか

し、その途中で作業を中断せざるを得ない状況になってしまった。

そう考えた方が自然ではないでしょうか?」

「例えば、谷口君が証拠を消している最中に美術室の近くに誰かが

来ていた。だから、それに気づいた彼は仕方なく逃げることにした。

つまりそういうこと?」俊樹がきく。

「大まかに言えばそうではないかと思う」

「けれど我々は、事件あった時間に東棟にいたという話を先生方お

二人以外では誰からも聞いていません」井沢が言った。

「その人物は、決してそのことを話すわけにはいきませんでした。

もしそんなことをしたら、彼が犯人だということがすぐに発覚して

しまいますからね」

「もしかして、この事件には他に共犯者がいると言いたいのです

か?」

 すると、宗像が冷静な口調でそう言った。

「共犯者って......」千寿留が目を大きくする。

「未だに目撃証言が出ていない以上、現場近くに他の誰かがいたと

するならそれは偶然ではなく、谷口君の犯行を知っている人物だっ

たと考えた方が良いと思います。益田さんが襲われた時間を考える

と、藤崎さんたちが東棟に戻ったときには、まだ彼は美術室にいた

はずです。なのでおそらく、その人物は彼に危険を知らせるために

犯行現場へ行ったのでしょう」

「それは、ちょっと勘ぐり過ぎなんじゃないのか?」俊樹が渋い顔

をして反論する。「いくら事件現場の状況が納得できないからって、

そこまで考えることはないと思うけど」

「もちろん、それだけでは俺も疑わなかった。だが、他にも彼に協

力者がいるのではないかと思った点がある」

 凪森は、彼にそう言ったあとで問いかける。

「谷口君は鈴原さんを襲うときに、彼と約束をしたと言っていたが、

どうして彼は夜の学校という特殊な場所で会うことに応じたのだろ

うか?」

「どうしてって言われても......」

 急に話の焦点が変わって俊樹が口籠る。

「普通なら、少しくらいは怪しむようなシチュエーションだろう?」

「まぁ、そう言われてみればそうだな」彼は相槌を打つ。

「だが谷口君は鈴原さんに警戒されたくはなかった。だから彼は、

鈴原さんが不審に思わないような手段を使ったんだ」

 凪森は話したあとで稔を見つめる。

 井沢に寄り添われた状態の彼は、無言でじっとその話を聞いてい

た。

「それは具体的にどういう方法だったのですか?」千寿留が尋ねる。

「鈴原さんは生前、かなりのプレィボーイだったそうですね。たぶ

ん谷口君は、その性格を利用したのでしょう」凪森が話す。「鈴原さ

んを学校までおびき寄せる際、谷口君はその約束を自分自身ではな

く共犯者にさせることにしました。もし男の彼が誘ったのであれば

鈴原さんはそれを怪しんだのかもしれませんが、相手が女性だった

らどうでしょう? そうなると少し事情が変わってくると思いませ

んか?」

「なるほど。そういう方法ですか」宗像が彼の話を察して言う。

 俊樹たちもそれが何を示しているのか理解していた。

 千寿留と二人の女性教師は、一様に眉間に皺を寄せて険しい表情

を作っている。

「それで、その女性というのは誰なんだ? 俺たちの知ってる人な

のか?」俊樹が核心に迫る。

「学校関係者で女性、そして谷口君との繋がりがあって彼の計画に

協力する理由もある人物といえばかなり限定されるだろう」

「それじゃまさか......」千寿留が呟く。

「鈴原さんを呼び出したのは君だね。水谷さん」

 彼女の声を遮った凪森が結香里に向かって言った。

 しかしその瞬間、これまでのように部屋中が驚愕に包まれるよう

なことはなかった。

 彼の話を聞きていくうちに、ここにいる誰もが信じたくないと思

いながらも、うっすらと彼女のことを連想していたのである。

 その証拠に、声を上げた千寿留の言葉には驚きというよりも諦め

のニュアンスが込められていた響きをしていた。

 凪森に名前を告げられた結香里は彼をじっと見つめていた。無表

情とも取れる落ち着いた顔をして、今はその感情を読み取ることは

できない。

「彼女がどんな口実を使ったのかは分かりませんが、鈴原さんはそ

の申し出を快諾したはずです。いやむしろ、自分から率先して話に

乗ったのだろうと容易に想像がつきます。そして彼女が鈴原さんを

理科室まで連れて行き、事前に部屋に潜んでいた谷口君が頃合いを

見計らって彼を襲ったのです」凪森は変わらない調子で話した。

「ならあの事件では、現場に彼女もいたというのですか?」宗像が

質問する。

「鈴原さんを校舎の中まで入れるには、誰かがそれを手引きする必

要があったと思います。であれば、谷口君ではなく水谷さんが適任

でしょう。彼女一人だと思わせて油断させておいた方が、より確実

に彼を仕留めることができます。また、二人が夜を選んだのは、学

校が無人になるのと同時に、部屋の隠れている谷口君の存在を気づ

かれないようにする狙いもあったのだと思います」

「ですが、あの日の彼女にはアリバイがあります。犯行があった夜、

彼女は近所の学習塾にいたのです」井沢が言う。

「それはたしか、塾長をしている人の話でしたね?」

「ええ。証言では、授業が始まる午後七時前と授業が終わった九時

過ぎに彼女は塾にいたと言っています」

「それは、裏返せばその二回だけしか彼女の姿を見ていないことに

なります」

「たしかにそうです。けれど我々は彼女の授業を受け持っていた講

師にも話を聞いています。そしてその話では、彼女は授業の間ずっ

と部屋にいたと明言していました」井沢が説明する。

 しかしその直後、凪森が即座にこう切り返す。

「もしもそれが嘘だとしたらどうしますか?」

 彼は余裕のある顔で言った。

「嘘......、それはどういうことですか?」井沢が訝しむ。

「私の知る情報では、その高木という大学生のアルバイト講師は、

少し前から恋人と上手くいっておらず、そのせいでこれまでにも何

度か授業中に塾を抜け出すことがあったらしいのです」

「それは本当ですか?」

 困惑気味な顔になってきく井沢に向かって凪森が頷く。

「塾の関係者には絶対に話さないという条件で本人が話したそうで

す。生徒たちには内密にしてもらっていたようですね。彼が担当し

ているクラスは、生徒が自習する形に近いものだったので講師がい

なくてもそこまで影響がなかったのでしょう。だから、これまで塾

側に苦情を訴える生徒もいなかったわけです。そして鈴原さんが襲

われたあの日も、彼は授業を抜け出していました。実際に水谷さん

と顔を合わせたのは、塾長と同じで授業の最初と最後だけだったと

いうことです」

「だとしたら、それは非常に由々しいことです」宗像が険しい表情

で言った。

「自分の発言がここまで重要になるとは彼も思っていなかったので

しょう。ただこの証言によって、犯行があった時間帯の彼女のアリ

バイは成立しなくなります。彼女はその前にも講師がいなくなると

いう経験をしていました。だから、事件当日も同じようになると分

かっていたのです」

「つまり水谷さんは、講師がいなくなったあとで自分も塾から抜け

出して学校に行き、そして犯行が終わったあとでまた塾へ戻ったの

ね」千寿留が結香里を見て言う。

 結加里は相変わらず無表情で座ったまま、降りかかる視線に応じ

る様子はない。

「谷口君は美術室にいたと話していましたが、それだと和氣さんと

出くわす可能性が残ります。そのときにはもう鈴原さんと水谷さん

の間で約束が交わされていたはずですから、犯行を中止する考えも

なかったでしょう。それなのに、そんなリスクのある場所を選んだ

とは私には思えません。おそらく彼は、もっと安全な隠れ場所を確

保していたと思います。そして、そこに入るためには水谷さんの協

力が必要不可欠だったのです」

「そっか......、生徒会室があるわ」

 そこで千寿留は閃いたことをぽつりと口に出した。

「でも、生徒会室には鍵がかかっていたのよ。それは警察の方にも

確認してもらったわ。いくら日頃生徒会の面倒を見ていた水谷さん

でも、あの部屋を開けるのは無理よ」

 その意見に加奈が異を唱える。

 しかし、千寿留は彼女を見て首を左右に振る。

「いいえ、必ずしも不可能というわけではないわ」

 そして次に、彼女は俊樹に向かって話しかける。

「この前、園田さんが話してくれたこと覚えてる? 生徒会長は専

用の鍵を持ってるんだって」

「あぁ、そういえばそんなこと言ってたね」俊樹が言う。

「専用の鍵?」

「生徒会長になった子は、任期中は生徒会室の鍵を個人で持ってい

るらしいのよ」千寿留が加奈に返答する。

「何それ......。そんな話、私知らないわ」彼女が驚いて言う。

「生徒の間だけで秘密にしていたみたいだからね。だから前に生徒

会長をしていた水谷さんも、その鍵を持っていた時期があったのよ」

「その間に、水谷さんはスペアを作っていたのか」俊樹が呟く。

「そういうことだ。学校を施錠するための見回りと言っても、さす

がに一つ一つ部屋を開けて細かく中を確認することはしないだろう。

だから谷口君は、彼女から予め借りておいた鍵を使って生徒会室で

隠れた。その方が美術室よりも気づかれにくいと考えたんだ」凪森

はさらに全員に向けて話を続ける。「私が最初に水谷さんが共犯者だ

と疑ったのは、谷口君が美術室で犯行を終えたあとにどうやってこ

の校舎から逃げたのかという疑問を持ったからです」

「あのとき、谷口君はずっと東棟にいたんじゃないのか?」

「事件当時の時間経過を考えてみろ。藤崎さんは授業が終わった直

後に益田さんに会い行ったが既に彼女の姿はなかった。そして佐伯

君は中棟で彼女を目撃している。このことから、犯行があったのは

昼休みに入ってすぐだったと分かる」

 凪森は俊樹に説明したあとで寛子に尋ねる。

「和氣さんが四時間目の授業が終わってから職員室に行くというの

は珍しいことですか?」

「昼休みに限らず、他に何も用事がなければいつも戻るようにして

います」彼女が答えた。

「谷口君は、貴女のその習慣を知っていたのでしょう。だから授業

後すぐなら美術室には誰もいないと考えたのです」彼はそう言うと、

さらに質問する。「ところで、谷口君が貴女たちのところを訪れたの

は、授業が終わってからどれくらい時間が経っていたのか覚えてい

ますか?」

「警察の方には何度か話してますけど、たぶん二十分くらいだった

と思います」今度は加奈が言った。

「授業を終えた益田さんは、一度控室に戻ってから美術室に向かい

ました。犯行自体には大した時間はかかっていないはずなので、大

きく見積もっても、昼休みになってから十分ほど経った頃には、彼

女は美術室で襲われていたと考えられます」凪森が話した。「ではも

う一つおききます。和氣さんは、あのときどれくらい職員室にいま

したか?」

「鈴原君の話を聞いたあとで、それを藤崎に知らせようと思ってす

ぐ部屋を出たので、たぶん五分くらいだったはずです」

「ということは、そこまでの移動の時間も入れると、藤崎さんと一

緒に東棟に戻ったが十分ちょっとくらいでしょうか。おそらくその

頃、美術室では谷口君が隠蔽作業をしている最中だったと考えるこ

とができます。そして彼は、作業の途中で共犯者から彼女たち二人

が校舎に来たことを知らされてその場を離れた。そう考えると、彼

が理科準備室を訪れるまでには、まだそこから五分から十分程度余

裕があったということになります」

「空白の時間があったってことか」俊樹が呟く。「でも、だとしたら

彼はどうやって外へ出たんだ? 隣の中棟には生徒がたくさんいた

んだから、むしろそっちの方が目撃される危険は高くなるはずだ。

というか、どうしてわざわざ時間を空ける必要があったんだろう?」

「それは、一緒にいた共犯者を無事に逃がすためだろう。彼が第一

発見を装ったのも、自分が容疑者ではないと思わせるためではなく、

騒ぎを起こすことで周りの目を東棟に引きつけておいて、共犯者の

逃走をサポートするのが本当の狙いだったはずだ。彼が校舎に残っ

ていた可能性が全くないわけじゃないが、たぶん共犯者と一緒に外

へ出たあと、素知らぬふりをして東棟の三階と経由して二階へ行っ

たのではないかと俺は思う」

「どちらにしろ、校舎から外へ出る方法が必要だったのね」千寿留

が言う。

「さすがに三階の美術室から逃げることは不可能だと思います。で

すが、もし他の部屋に入ることができたとすればどうでしょうか? 

この校舎は学校のほぼ東隅にあって人目に付きにくく、教室の窓の

外は正門側になってグラウンド側に比べると人通りが少ない。一階

の部屋から出られれば比較的安全に逃げることができるはずです」

「だから生徒会室だと?」

「谷口君は水谷さんが生徒会長だった頃に、彼女があの部屋の鍵を

持っていたのを覚えていた。そして今も生徒会との繋がりがあり、

生徒会長の園田さんとも仲の良い彼女を味方につければ、どういう

形であれ鍵は手に入れると考えたのだと思います。さらに二人は昔

から付き合いが長く、水谷さんは鈴原さんの被害者でもあります。

谷口君は、彼女ならきっと自分に賛同してくれると思ったのでしょ

う」凪森が説明した。

 その直後、今まで黙ったまま一部始終を聞いていた稔が口を開く。

「それは違います。これは僕一人でやったことです。共犯者なんて

いないし、結香里があそこにいるわけがありません」彼がはっきり

と言い切る。

 しかし、そこには今までの冷静な表情は影をひそめ、明らかに焦

りや苛立ちの色が浮かんでいた。

「なら君は、どうして隠蔽作業を途中で止めてしまったんだい? 

そして理科準備室を訪れるまでどこで何をしていたのかな? まさ

か、何もしないで美術室の中にずっといたとか、目撃される危険を

承知で中棟へ戻ったとでも言うのかな?」

 稔は、挑発的な口調で話しかける凪森を不機嫌そうに睨みつける。

だがその力んだ口もとからは、それを論破するだけ言葉は出てこな

かった。

「稔、もういいわ。ありがと」

 それを聞いた稔は、咄嗟に声がした方へ振り向く。

 すると、テーブルの一番前の席に座っていた結香里が彼にぎこち

ない微笑みを見せていた。

「結香里、お前......」雅彦が声を漏らす。

 結香里は後ろにいる彼を一瞥すると、席を立って凪森や宗像たち

に向き直る。

「私が稔の手伝いをしていました。それに元はといえば、これは私

が最初に考えたことだったんです」彼女は緊張した声で言った。

「君が?」俊樹がきいた。

「私、あのことがあってから、鈴原先生のことは全部忘れてしまお

うと決めたんです。だから先生が教育実習に来ると知ったときは凄

くショックでした。学校に行こうなんて気にはなれなかったし、何

も手につかない日が続いていました」結香里はため息をつくとまた

話しはじめる。「本当のことを言うと、そのときまでは先生を一方的

に悪く思ったことは一回もありませんでした。彼の赤ちゃんが出来

たのは、ちゃんと予防をしていなかった自分にも責任がありました

から。それに、先生と別れたのは益田さんのこともありましたが、

一番の理由は、手術が終わってからも彼がそれに注意しようとせず

に相変わらず何度も求めてくるのにうんざりしたからというだけで

した。だけど、何日も自分の部屋でぼうっとしているうちに思った

んです。鈴原先生はたぶん、私がこんな苦しい思いをしていても別

の女の人と一緒に笑って楽しく過ごしてるんだろうなって。そう考

えはじめると急に怒りが込み上げてきて、そこで初めて先生を憎い

と思うようになったんです。そして、その気持ちが強くなればなる

ほど自分が惨めに思えてきて、とても嫌な気分になりました。だか

ら私は、どうすればこの気持ちが綺麗さっぱり消えてくれるのかを

考えるようになりました。それで出た結論が、私をこんな気持ちに

させている先生自体がいなくなってしまえばいいってことだったん

です」

 彼女は一度間を置いてからさらに続ける。

「本当なら、鈴原先生と一生顔を合わせないようにできれば良かっ

たんだと思います。だけど現実には私がまだ子供で、自分の力では

この場所や生活から抜け出すことはできませんでしたし、先生はそ

の中にまた入り込もうとしていました。私はどうすればこの問題が

解決できるのか悩んで、最終的にそのことを稔に相談することにし

ました......、いえ、違いますね。本当は相談なんかじゃなくて頼ん

だんです。私と一緒に鈴原先生を殺してほしいって」

「水谷さん、貴女......」そこで加奈が絞り出すような声で呟いた。

「人殺しをしてはいけないことくらい分かっています。けれど鈴原

先生がいなくならない限り、この気持ちはずっと滅茶苦茶のままで、

そのうち自分がおかしくなってしまうんじゃないかと思ったんで

す」結加里が淡々と言った。「私の話を聞いた稔は、嫌な顔一つしな

いで賛成して、どうすれば上手く彼を殺すことができるのかも一緒

になって考えてくれました。そして私たちは、山本さんの悲劇を真

似て彼を襲うことにしたんです」

 彼女は肩にかかる髪を右手で軽く払うと話を続ける。

「あの日、私は鈴原先生を誘惑して呼び出しました。彼は夜の学校

と聞いただけで興奮しているみたいでした。そして放課後になると、

私は生徒会室に顔を出して執行部のみんながいなくなるまで待つこ

とにしました。ただ、園田さんだけはなかなか帰ろうとしなかった

ので、結局少し強引に彼女を連れて一緒に部屋を出ました。あとは

あの人が言っていたのとだいたい同じです。高木先生が塾を抜け出

すのは前から聞いていたので、私たちはあの日を選ぶことにしたの

です。先生が塾からいなくなったあとで私も学校に戻りました。あ

のとき生徒会室に隠れていたのは、稔じゃなくて私だったんです。

生徒会室の鍵は、会長をしていたときに合鍵を作っていました。あ

の部屋は勉強するには良い場所だったので、生徒会を辞めてもこっ

そり使いたいと思っていたんです。それに、この計画を考えたあと

で稔の分の鍵も作って、校舎が閉まる前にどちらかが東棟に行けば

大丈夫な状態にしていまいた。そして私は部活を抜けてきた稔と合

流して、先生たちが東棟を出て行くのを待ったあとで鈴原先生を連

れて来るために一階のドアを開けて外に出ました。鈴原先生は、理

科室に入った途端私を抱きしめました。そのすぐあとに稔が彼を倒

してくれたので、彼に触れられたのはほんの少しの間だったんです

が、それでももの凄く気分が悪くなって、私はしばらく何もできな

い状態になってしまいました。私たちの予定では、二人で後片付け

をして早く学校から離れるつもりだったんですが、そのせいで作業

は全部稔がすることになったので、結局先生をちゃんと殺せたのか

を確認する余裕もないまま逃げてしまったんです。けど結果的に彼

は亡くなったので、計画通りになって私たち安心はしました」そう

話す彼女の口もとには若干の笑みが見えた。

「そのあとで、貴女たちは益田さんも殺そうとした」千寿留が言う。

「益田さんのことは鈴原先生みたいに恨んではいませんでした。け

ど先生を襲ったあとで、彼があの夜学校に行くことを益田さんに話

していたのかもしれないと思うようになったんです。それに彼女は、

私が先生と付き合っていたときの彼の本命の相手でした。だから正

体がばれたという不安以外の気持ちもあったので、私が益田さんを

襲って欲しいと頼みました。できることならすぐにでもやって欲し

かったんですが、稔の提案で校内が落ち着くまで一週間くらい行動

を起こすのを待ちました。そしてあの水曜日の朝、私は益田さんに、

鈴原先生の事件で伝えたいことがあると言って昼休みに美術室に来

てもらうようにしました。あのときの私は、稔が彼女を襲っている

間に誰かが東棟に来たら、それを彼に伝える役をしていました。先

生たちは授業が終わったら職員室に行くのだろうと思っていたので、

昼休みの直後は東棟が無人になるのは予想済みだったのですが、先

生たちは私たちが考えていたよりも早く校舎に戻ってきてしまいま

した。時間稼ぎのために足止めもしたんですが、それも上手くはい

かなかったので、私は急いで美術室に行きました。そのときは、中

棟の三階にある渡り廊下を通るのを誰かに見られるんじゃないかと

思って緊張していました。けど、ちょうど近くに人がいなくて本当

に良かったです」そこで彼女は肩を竦める。「美術室に行ったとき、

稔は石像についた血を綺麗にしているところでした。私はそれを無

理矢理止めさせたあとで、二階にいた先生たちに気づかれないよう

に二人で生徒会室の窓から外に出ました。鈴原先生を起こしたおか

げで東棟に近づく人は少なくなっていたのと、あの日は雅彦たちの

グループも学校にいなかったので、中棟に戻るときは誰にも見つか

りませんでした。そのあとで私は自分の教室に戻って、稔は先生た

ちに益田さんのことを知らせるためにまた東棟に向かいました。ち

なみに、外に出るときに使った生徒会室の窓は、騒ぎになってから

警察が来るまでの間に、私がもう一度部屋に行って鍵をかけ直して

おきました」

 その説明のあとで結香里が言う。

「実際に鈴原先生と益田さんに危害を加えたのは稔かもしれません

が、それを頼んだのは私なんです。だから、稔より私の方が罪は重

いはずです」

 そこにいた者たちは、彼女の告白を聞くと黙り込んで誰も口を開

こうとはしなかった。

 結香里が話し終えるのを見届けたあとで、目を閉じて小さく息を

漏らす稔。

 愕然とした表情で彼女から目を逸らすことができない雅彦。

 何か言いたげだったが、適当な言葉が見当たらずに困惑した表情

を浮かべている大人たち。

 理科室は今、そんな重苦しい空気に支配されていた。

「とにかく、君たちはまず我々と一緒に署に来てもらおう」

 しばらくしてから、ようやく井沢がその沈黙を破った。

「はい、そのつもりです」

 結香里はそれに応じると、稔と同じく部屋の前に行った。

「これでひとまずは一件落着となりました。凪森さん、そして皆さ

んのご協力に感謝いたします」宗像はそう言って頭を下げる。

 俊樹は、硬い表情でそれを眺めたあとでふと凪森に目を向ける。

 腕を組んでテーブルの脇に立つ友人は、外を気にするように出入

口のドアを見ていた。

「それで、技術室はなんの関係があったんだ?」彼が凪森に尋ねる。

 声に反応した凪森は顔を正面に戻したかと思うと、そのまま俊樹

を通り過ぎて結香里に視線を送る。

「水谷さん、事件を学校の怪談に真似ることを最初に考えたのは、

君ではなくて谷口君の方ではなかったかい?」彼が質問する。

「そうです。そうすれば、他の人たちは山本さんの幽霊の仕業だと

勘違いするかもしれないと稔は言っていました。でも冷静に考えれ

ば、そんな迷信を本当に信じるわけありませんよね」結香里は自嘲

気味に答えた。

 すると、そこで千寿留が口を挟む。

「まさか、事件はまだ終わってないと言うの?」彼女は鋭い声で凪

森にきいた。

「それは絶対にないです。私たちの目的はあの二人を襲うことで、

それ以外の誰かを傷つける理由なんてありません」結香里がそれを

否定する。

「なら、どうして彼はあの怪談を選ぶことにしたのだろうか?」凪

森が彼女に問う。

「それは、山本さんの話が学校で一番有名な話だったからです」

「もちろんそれも一つの理由ではあったが、それにしては発想がと

ても安易なものだと思う。生徒たちには多少効果はあるかもしれな

いが、君の言うように事件を捜査する人間にも通用するとは到底考

えられない。しかし、それでも谷口君はその案を採用しようとした。

おそらくこのカモフラージュには、君が思っているものとは別に、

彼個人のメッセージが込められていたのではないかと私は思った」

「つまり、彼は初めから三つの事件も起こすつもりだったと?」宗

像がきく。

「谷口君は、水谷さんとは違ったゴールを描いていたのでしょう。

そしてそれを成し遂げるために、彼は彼女を利用したのです」凪森

は稔を窺いながら言った。

 そこで俊樹は、暗い顔をしていた稔の表情が変化していることに

気づいた。

「結香里は人が良すぎる。正直に白状しないで黙っていれば、警察

に捕まることなんてなかったのに」

 稔は薄ら笑いを浮かべながら隣にいる少女に言った。

「それに最悪捕まったとしても、上手くいけば俺に騙された被害者

だったってことで済まされる可能性だってなくはなかったのに。逮

捕されたら自分がどんな扱いを受けることになるのか、ちゃんと分

かってるのか?」

「稔......、あんた、何言ってるの......」

 怪しげな顔をした彼を確認した結香里が困惑したように呟く。

 しかし、稔はそんな彼女を無視して今度は凪森と目を合わせる。

「貴方に気づかれたときは正直びっくりしましたけど、たぶんもう

手遅れですよ。その前までにたっぷり時間稼ぎさせてもらいました

から」

「お前、まだ何かやらかしたのかよ」

 雅彦から非難の言葉を浴びても、彼がその笑みを消すことはない。

 そのとき、理科室のドアが乱暴に開けられる。

「宗像さん!」

 室内に響き渡る衝撃音の直後、それを上回るほどの声を発しなが

ら棚部が現れた。

「どうした?」

「大変です! 早く下へ!」棚部は大声で叫ぶ。

「答えになってない。まずは落ち着け」

 取り乱している彼に向かって宗像が冷静に言う。

 その体格にはそぐわない重厚な言葉を返されて、棚部は荒れ気味

だった息を詰まらせる。

 そして彼は、部屋にいる人々を見たあとで落ち着きを取り戻しな

がらゆっくりと告げる。

「やられました......、三人目です」

 そう言ったあとで、棚部は厳しい表情をして稔を睨みつける。

 しかし、稔は動じることなくそれを受け止めると、冗談めいた口

調を使って全員に向けて話す。

「どうやら、僕の方の目的も達成されたみたいですね。これでもう

心残りはありません。あとは煮るなり焼くなり好きなようにしてく

ださい」

 彼はそう言うと、まだ事態を呑み込めていない者たちを見渡しな

がら、安堵したような顔を覗かせていた。

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