既成(きせい)の虚(うつろ)
第七章 既成の虚
1
「今日はハードだったね」
俊樹は向かいに座る千寿留に話しかける。
K中学での調査を終えたあとで、二人は少し早い夕食を摂ること
にした。手頃な場所が良いという千寿留の提案で、彼らは運動公園
の近くにあるファミリィレストランを選んだ。
その傍には、俊樹がかつて在籍していた大学がある。そしてこの
店は、彼が学生時代によく利用していた馴染み深い場所でもあった。
俊樹と千寿留は、窓際にあるテーブルに落ち着いていた。
店内は、混み合っているというほど埋まってはおらず、客は案の
定学生ばかりだ。スーツを着た二人は完全に周囲から浮いていた。
食事の間は他愛のない世間話に終始して、どちらからも中学での
話題は出なかった。
俊樹はあとでじっくり話そうと思っていたし、千寿留も同じよう
に考えていたに違いない。そして店員がテーブルの食器を下げたタ
イミングで、彼は満を持して話を切り出したのである。
「この前は時間も短かったしね」千寿留が応える。その表情には、
つい数十分前とは違って余裕が感じられた。
「時間だけじゃなくてさ、話の中身も凄かったよ」俊樹が言った。
佐伯雅彦が語った水谷結香里の妊娠の話は衝撃的だった。
結香里がそれに気づいたのは今年の初め、三学期になった頃だっ
たという。彼女はそんなに簡単に妊娠するとは思ってもみなかった
らしく、その事実を知ると酷く動揺して、すぐに当時の交際相手で
あった鈴原太一に相談した。ところが、太一から投げかけられた言
葉は、医者を紹介して費用も出すから中絶しろというあまりにも無
残なものであった。ただ彼女は一人でこの問題を解決しようとした
らしい。しかし最終的には彼の指示通りに、彼の知人が勤める病院
で堕胎手術を受ける他なかった。
結香里が太一と別れたのは、その一件に加えて、彼の口から彼女
と付き合う以前からずっと交際している女性がいることを知らされ
たのが原因だったようだ。
太一の女癖の悪さを知人から聞いていた雅彦は、以前から早く彼
と別れるよう結香里に忠告していた。だがそれを聞き入れなかった
彼女は、その結果として太一に弄ばれる形になってしまったのであ
る。
俊樹からすれば、そんな話はテレビドラマでしか実現しない、す
なわち架空のものでしかないとずっと考えていた。
正直なところ、今でもそれが現実に起きた出来事だとは思えてい
ない。
「あたしも、あれにはびっくりした」千寿留が言う。「ただね、有り
得ない話でもないと思った」
「普通は考えられないよ」
「でも鈴原君は大学生で、しかも佐伯君の話ではかなり遊んでたん
でしょう? だったら、そういうことが起きてもおかしくはないは
ず。それに水谷さんの歳なら、もう赤ちゃんを産める状態にはなっ
ているものだしね」
「僕だってそれは分かってるよ。そういう意味じゃなくて、モラル
の問題を言ってるんだ」
彼女が言っているケースは俊樹も理解しているつもりだった。
だが、それは絶対にあってはならないことなのだ。
(いや、違うな)
彼は思い直す。
正確には、あってはならないものだ、とただ彼が願いたいだけ。
そんなごく感情的な意見でしかない。
「あたしも気持ちとしては宮房君と同じだよ。だけど、それは大人
から見た考え方であって、子供がそれを理解しているとは限らない
わ」
「けど少なくとも、彼の方は大学生だったんだよ。それくらいの分
別があってもいい歳じゃ......」
そこで俊樹は言葉をふと止める。
またこの話だ、と彼は思いつつ改めて考えてみる。
結香里は未成年だ。
しかし彼女が見せる素振りなどを評価すれば、街中でたむろして
いる高校生や、場合によってはだらしない大学生たちよりも大人か
もしれない。
では太一はどうだろう。
雅彦が以前話していたように、成人している彼は大人と見なすこ
とができる。ただ彼は、未成年の恋人を持ちながら迂闊な行動をと
り、挙句の果てには無責任な態度を取ったと言える。
そんな者を、果たして大人と言っていいのだろうか?
「宮房君?」千寿留が不思議そうに俊樹を見つめる。
「子供と大人の差って、結局のところ何になるんだろうね?」彼は
言う。「前にね、水谷さんたちに会ったときにそういう話が出たんだ
よ。未成年と成人は、年齢以外では何が違うのかって。それでいざ
考えてみると、どこまでが子供でどこからが大人なのか、その線引
きがよく分からなくなってしまったんだ」
そう言って彼が苦笑する。
「そうねぇ、お侍さんの時代だと元服なんて儀式があって、あの時
代は成人とされる歳は今よりも若かったわけだから、それを考える
とやっぱり年齢の差ではないんでしょうね。それなら自分で働いて
自活できれば大人なのかというと、それもまた違う気がするし」千
寿留は手元に置かれたアイスコーヒーのグラスに挿されているスト
ローを触れながら言う。「あたしが思うに、大人とは、先を見る力が
ある人のことを言うんじゃないかしら?」
「先を見る力?」
「別に透視とか予知能力があるって意味じゃないわよ」彼女が笑顔
で冗談を言ったあとで話しはじめる。「極端な話、子供の頃は、明日
は何が起こるのか予想できないって感覚を持っていると思うの。ま
してや、一年後とか十年後の自分がどうなっているかなんて全然分
かりもしない。だから子供は、自分は何にでもなれるんだと思って、
みんな大きな夢を思い描いたり、別の生物になりたいなんて言う子
だっている。それはとても良いことだし、どんどん夢は膨らませて
いけばいいんだと思うわ。けれど違う見方をすれば、それは将来へ
の見通しが不透明だってことになるわ。ただ、年齢を重ねていくと
少しずつ、自分にできること、できないことを自覚するようになる。
そうなると、無限に思えた可能性は狭まっていく。こういう言い方
とするとネガティブに聞こえるかもしれないけど、言い換えればそ
れは、自分がこれからどうやって生きれば良いのか、その先が冷静
に見えている証拠ということになるわ。そうやって人は、未来を予
測しながら最良だと思えるものを選び取って生きてゆく。それがで
きるのが大人なんだろうと思うの。そして、その予測ができるよう
になるには、それ相応の経験則が必要になってくる。だからまだ長
く生きていない子たちよりかは、年齢が高い人ほど大人の割合は多
くなる」
「なるほど」
「それと、先を見るためには経験の他にもう一つ必要な要素があっ
て、それが責任なのだと思う」そう言うと、千寿留はストローに口
をつけてひと呼吸入れる。
(そういえば、凪森も同じようなこと言ってたな)
俊樹は、友人が責任の意味について話していたのを思い出した。
「責任っていうのは、それまでに選んできたものの成果物とか履歴
のようなものだわ。物事を経験することで先の見通しは良くなって
いくけど、それが一本道で見えることは滅多にないと思うの。だか
ら分岐点に来ると、そこからどの方向に進んで行けばいいのか迷っ
てしまう。もしくは、最初は寄り道程度の気持ちで選んだ道だった
のに、気づいたら引き返せないところまで進んでしまう場合だって
あるはず。そんなとき責任というものがあると、選択肢がさらに限
定されて次の進路が分かりやすくなったり、何か迷いがあったとし
ても事前にブレーキをかけてくれるのだと思う。つまり、自分が今
までに選んできた道から脱線させないための制御システムみたいな
ものね」彼女は話し終えると小さく微笑んだ。
「村瀬さんって凄いな」俊樹が呟く。
「どうして?」
「だって、僕なんかそんなに深く考えたこと今までほとんどないか
らさ。だから偉いなって」彼は感心したように言う。
「そんなことないわよ。あたしは、単にそういうことを考える機会
があっただけの話だよ」
千寿留は謙遜して言うが、実はまんざらではないというような顔
つきになっていた。
「話を戻すけど、佐伯君が最後に言っていたことはどうなのかし
ら?」彼女は真顔に戻ってから話を変える。
「水谷さんが犯人かもしれないって話?」
俊樹の問いに彼女が頷く。
雅彦が結香里から話を打ち明けられたのは、ひと月ほど前のこと
だった。当時の結香里は、太一が教育実習でK中学にやって来るこ
とを知ったせいで以前の苦しい出来事を蘇られてしまい、そのため
自分の部屋から外に出られないほどのショックを受けていたらしい。
長い間学校に行くことができず登校拒否に近い状態だったようだ。
しかし、何があったのは不明だが、彼女は突然これまで通り学校に
出席するようになった。
それから少ししたあとで太一が襲われ、約一週間後には彼の恋人
である仁美も被害に遭った。警察から美術室の事件を聞かされた雅
彦は、そのとき真っ先に結香里の顔を思い浮かべたのだと話してい
た。
ただ彼は、結香里のことを疑っているというわけでもないらしい。
警察から事情聴取を受けたとき、雅彦がその話を口にはしなかっ
た。それは、何の確証もない自分の発言が元で警察が動きだし、そ
れによって彼女に不自由な思いをさせたくなかったからであった。
だから彼は、警察以外でこの事件を調べている俊樹たちに接触し、
その情報を提供すると、その代わりに事件の真相を突き止めて欲し
いと二人に懇願した。その助けを乞うような眼差しから、俊樹は雅
彦の切実な想いをひしひしと感じていた。
「ああいった事態を起こしてしまったことについては彼女にも責任
はあるけど、堕胎で身体的にも精神的にもかなりの負担になったこ
とも確かでしょうね。しかも鈴原君にとって、自分はただの遊びで
しかなかったのだから、彼女が彼を強く恨んでいてもおかしくはな
い。彼だけじゃなくて、もう一人の彼の交際相手も一緒にね」
「ならやっぱり、二つの事件の犯人が彼女だと思ってるんだね」
「ううん、あたしは、水谷さんがやったとは思ってないわ」千寿留
は首を振って否定する。「だって、一つ目の事件では、彼女は塾にい
たというアリバイがあるわ。それに今回の事件で使われた凶器のこ
ともあるわ」
「そうだね。水谷さんは背が低いわけじゃないけど、長身だった益
田さんとはそれなりに身長差はあるだろうし、あの華奢な身体つき
で重い凶器を持つのは難しいよ」
「動機から犯人を推測する方法もあるけど、この場合は、物理的に
犯行が可能だった人物から絞った方が犯人を限定できるはずだわ」
「なら水谷さんのことは置いておいて、美術室の事件を考えてみよ
うよ」
俊樹がそう提案すると、千寿留はすぐ彼に質問する。
「だったら、犯人はどうやって鍵のかかった部屋に入ったと思う?」
「可能性は二つあると思う」
「どんな方法?」
俊樹が即座に言ったので、千寿留が普段より高い声を出した。
彼女を見据えてみると、その瞳には彼が予想した以上に興味が込
められていた。
そのせいで、俊樹は一瞬言葉を詰まらせる。
「......えっとね、一つ目は犯人が合鍵を持っていた場合だね。鍵さ
えあれば、部屋には自由に出入りできる」彼は恐る恐る千寿留の顔
を窺いながら言う。
するとその言葉で何かを悟った彼女は、急に白けた顔になる。
「ふーん、ならもう一つは?」
冷たい口調で先を促す彼女見て、俊樹は自分の思わせぶりな発言
に後悔しながら仕方なく続ける。
「二つ目は、施錠されていなかったケース、かな?」彼が自信なさ
そうに言う。
そのあとで、千寿留は彼に聞こえるように息を漏らした。
「もう、期待してたのに」彼女が口を尖らせると軽く睨みつける。
「ごめん......。でも、現実的に考えたらそれくらいしか方法はない
と思うんだよね」
「鍵はボックスの中でしっかり管理されていて、そのボックスの鍵
は簡単にコピィできるものではないでしょ。それに和氣さんの話だ
と、益田さんを見つけたときには美術室は鍵がかかっていたし、隣
の準備室も警察があとで施錠を確認してるから、その二つは無理だ
わ」
「たしかに合鍵の可能性は低いかもしれない。けど、実は和氣さん
が鍵をかけ忘れていたってことはない? 個人的には意外とありそ
うな気がするんだけど」俊樹が食い下がる。
「そんなことってあるのかしら?」千寿留は懐疑的な目になる。
「だって、鍵をかけるなんて絶対に習慣になっている動作なんだか
ら、普段敢えて意識することではないでしょ? 誰だって、家から
出て少し経ったあとで、本当に部屋に鍵をかけたのかどうか不安に
なってくる経験はあるはずだよ」
「あぁ、それは分かるわ。いつも時間がないときに限って妙に気に
なって、結局引き返して確認しちゃうのよね」彼女は納得したよう
に頷く。
「だから和氣さんは、自分ではちゃんと鍵をかけたつもりでも、本
当はうっかりかけ忘れてた箇所があったのかもしれない」
「美術室は谷口君と加奈ちゃんも確認していたみたいだから、もし
それがあるとすれば準備室が有力になるわ」
「犯人の計画では、初めは具体的な部屋は決めてなくて、ただ東棟
に益田さんを呼び出してから襲うくらいのことしか考えてなかった
のかも。それで偶然美術準備室の鍵がかかっていないことに気づい
たから、急遽美術室の中で犯行することにした」
「そうすると、もし準備室が閉まっていたら廊下で彼女を襲うつも
りだったことになるわね。それはちょっと不用意すぎるんじゃない
かしら?」
「事件が起きたのは昼休みで、東棟には生徒たちの教室はない。さ
らに、最近はあそこに近寄る人はほとんどいないって話だった。と
いうことは、授業が終わって教室に戻っていく生徒たちさえやり過
ごせば、当分の間はほぼ無人に近い状態になる。だから、学校の他
の場所よりかは見つかる危険はないと考えたのかもしれない。それ
に、佐伯君がいたって言う屋上に行く階段の踊り場とかを使えば、
簡単には発見されなかったと思うよ」
「だけど警察が事件現場を調べたとき、あの部屋は全て施錠されて
いたのよ。仮に宮房君の説が正しいとしたら、鍵を持っていない犯
人は、どうやって部屋をロックしたの?」
「僕の予想では、警察がやって来る前に犯人は一度現場に戻ってい
たはずだ。藤崎さんは、和氣さんが警察に連絡を入れに行ったあと
で、他の職員も事件現場に駆け付けたって言ってた。おそらく犯人
はその中にいた。そしてどさくさに紛れて、準備室のドアを施錠し
たんだ」
「その準備室の鍵は、事件が分かって混乱していた職員室から持ち
出した」千寿留はそう言うと、アイスコーヒーを飲む。「宮房君は、
学校内部の人間の犯行だと考えているのね?」
「この前の事件では、まだよく分からなかった。でも今回は、学校
に大勢の人がいる平日の昼の時間帯に事件は起きている。その状況
からして外部の人間だとは考えにくい。東棟の状態を知っていたの
も含めると、今の学校の事情はある程度把握できている人物だと思
う。そうじゃないと、あの密室は上手く説明できないはずだよ」
「そうよね。誰だってそう思うわよね」千寿留が呟く。どこか浮か
ない顔をしていた。
「村瀬さんは、外部の犯行だと思ってるの?」彼女を気にしながら
俊樹がきく。
「そうじゃないわ。あたしも内部の人間の可能性が高いとは思って
いる。ただそうなると、あたしはどうしても和氣さんのことを疑っ
てしまうのよ」表情を曇らせたままで千寿留が言った。
「それは、和氣さんが美術室の鍵を持っていたから?」
「彼女が犯人なら、何も不自然なところがないもの」千寿留が話す。
「和氣さんは、益田さんを事前に美術室に呼び出しておくと、自分
は奥の通路に隠れて彼女を待った。そして彼女が来たところで後ろ
から石膏で殴った。和氣さんは益田さんより背が高いから、重い石
膏をそれほど高く持ち上げなくてもないだろうし、部屋の責任者な
のだから指紋の隠蔽とかも他の人間より短い時間で処理できるはず
だわ。そして後始末が終わると、部屋を施錠してからアリバイを作
るために職員室に出かけたり加奈ちゃんと一緒にいたりしたのよ。
それでしばらくして谷口君に呼ばれると、何も知らない振りをして
美術室に戻っていったのよ」
それは、俊樹も少し思っていたことだった。
あまり考えたくはないことではあるが、一番シンプルですんなり
と説明がつく推理である。
あとは、和氣寛子に犯行の理由があればより現実味を帯びてくる
のだが、さすがにそこまでは思い浮かばなかった。世の中、そんな
に単純なものではないはずだ。
「あたし、和氣さんの動機もなんとなく想像できるの」
「え!」そこで俊樹は思わず叫ぶ。
すると、その大きな声を耳にした他の客たちが彼らのテーブルに
目を向ける。
それに気づいた俊樹が居心地を悪くする。
そして周りの視線がなくなったところで、千寿留が話を再開した。
「それが正しいとしたら、主犯はきっと加奈ちゃんなんだわ」彼女
は真剣な顔をする。「初めは加奈ちゃんと鈴原君、それに益田さんの
三角関係が原因だったんだと思う。詳しいことは分からないけど、
それで加奈ちゃんがあの二人に殺意を抱くようになってしまったん
じゃないかしら。だから彼女と仲の良い和氣さんがそれに手を貸す
ことになった」
「つまり、最初の事件は二人がやったってこと?」
「あの日、校舎の鍵は和氣さんが持っていたわ。だから二人の共犯
だとすれば、理科室の件も不自然な点はなくなるはずよ」
「だとすると、あのときは藤崎さんが夜中に彼を呼び出して、和氣
さんが持っていた鍵で校舎を開けたことになるわけか」
「犯行があったのは、学校の戸締りをする直前だったのかもしれな
い。二人はそのあとで食事に出かけて、時間を空けてから第一発見
者を装うために学校に戻って警察に連絡した」
「それだと辻褄も合うと思う。一階のドアが開いていたのは、一度
学校から離れるときに施錠を忘れてしまったんだろうね」俊樹が言
う。
汐見の話では、寛子は理科室の事件があってから少し情緒不安定
気味だったらしい。それは事件に遭遇したショックだと彼は言って
いたが、本当は自分が犯人だという後ろめたさや、いつかばれてし
まうのではないかという不安が原因だったのかもしれない。
「益田さんは、犯人の正体に気づいていたのかもしれないわ」千寿
留が言った。
「藤崎さんに連絡したのは、それを確認するためってこと?」
「ええ。警察に言わなかったのは、確証がなかったからだと思う。
そして彼女は、自分一人で対面するのは危険だとも考えていた。だ
から、もし何かあってもすぐに助けを呼べる学校の中で加奈ちゃん
と会おうとしたのよ」
「けど実際には、その前に襲われてしまった」
「二人が犯人なら、事件のシチュエーションが学校の怪談に似てい
るのも納得ができる。たぶん警察や学校の人間たちの気を少しでも
別の方向に逸らしたかったのだと思う」
「カモフラージュってことだね」俊樹が言った。
千寿留はそこで一度目を閉じると、ゆっくりと大きく息を吐いた。
「あたし、初めてこの事件を加奈ちゃんから聞いたときは、本当に
怪奇現象が起きたんだと思ってはしゃいでた。だけど、そのせいで
加奈ちゃんと鈴原君の関係や水谷さんの触れられたくない過去まで
知ってしまって、今は少し後悔しているの」彼女がまた溜め息をつ
く。「もちろん、加奈ちゃんたちが犯人だなんて本当は思いたくない。
けど考えれば考えるほど、それが一番現実的に思えてしまうのよ」
彼女はそこまで言うと口をつぐんだ。
その姿を前にした俊樹は、彼女にかける言葉が思いつかなかった。
自分たちは、不用意に事件に首を突っ込んでしまったのだろう。
これは幽霊の祟りなどではなく、実在する人間同士の生々しい感
情が入り混じっている凶悪事件なのだ。そういったドロドロとした
ものに触れる以上、本来なら知る必要のない他人の事情を目にして
しまうことは、少し考えれば想像できることだった。また、事件に
関わることで自分たちに危険が及ぶことだって充分に有り得る。お
そらく自分たちは、そういったものを予め全て自覚した上で行動す
べきだったのだ。
「今落ち込んでもしょうがないよ」
沈黙のあとで俊樹は口を開く。
「こう言うのは村瀬さんに失礼かもしれないけど、それはあくまで
も僕ら素人が考えた推論の一つだよ。あの二人が犯人だっていう証
拠は出てないんだから、そう思い込むのだけはやめよう」彼は千寿
留に言った。
「......そうだよね。まだ決まったわけじゃないんだもんね」彼女は
無理に微笑んでみせてから続ける。「あたしね、この話を警察に伝え
ようと思ってるの」
「警察に?」
「宮房君の言う通り、あたしたちの推理を成立させる証拠は何一つ
ないわ。そして、今の状態ではあたしたちだけでそれを見つけるの
も難しい。だから警察に協力して、次の事件が起こる前に少しでも
早く犯人を見つけて、加奈ちゃんたちじゃないことを証明したいの」
「ちょっと待って」俊樹は片手を前に出すと、千寿留が今話したこ
とを整理する。「村瀬さんは、まだ事件が起こると思ってるの?」
「二つの事件があった場所を考えると、犯人は悲劇の山本さんをモ
チーフにしているように思えるわ。だとしたら、もう一度事件を起
こすことだって考えられる」千寿留が真剣な目で言う。
「けどあの学校には、もう襲われるような人はいないはずだよ」
俊樹は、生徒会室で結香里が話していたことと同じ意見だった。
もし太一と仁美に恨みを持つ人物が犯人なのだとすれば、その恨
みを晴らした今、さらに誰かを襲うとは考えられない。
少なくとも彼の知る範囲では、被害者の二人と関わりがあり、な
おかつ同様の恨みを持たれるような人物は思い当らなかった。なの
で、事件はこれ以上起こることはないだろうと思っていた。
「犯人の目的があの二人を襲うだけなら、どうしてわざわざあの怪
談を連想させるような真似をしたのかしら? 話を知っている以上、
悲劇が三つあったことも当然分かってるはずなのに」
「敢えてそうしたのかもしれないよ」俊樹は言う。「怪談に似せた犯
行が続けば、学校の人たちは三つ目もあると思ってしまう。犯人は
その心理を逆手に取って、起こりもしない次の事件に気を取られる
うちに時間稼ぎをしているとか」
「時間稼ぎって言っても何をするの? それで事件の捜査が遅れる
ことはないでしょうし、犯人が内部の人間なら、突然姿を消したり
するのは逆に危険じゃない?」
「逃走じゃなくても、時間が必要なことは他にあるかもしれない」
「具体的には?」
「そこまでは考えれてないけど......」俊樹は口籠る。「ただ、そうい
うフェイントを使って相手の気持ちをすかしてやりたいと思う奴が
いてもおかしくはないと思うな」
「......そんなことって、あるのかしら」
千寿留は俊樹から目を逸らすと、懐疑的な表情を浮かべて呟いた。
2
指定された場所は、繁華街にあるごく一般的な大衆酒場だった。
店の中は、飲食店としての最低限の清潔さは保たれていたが、い
かにもアルバイトらしい店員の杜撰な態度やアルコールで感覚が麻
痺した客たちから放たれる無遠慮な話し声からは、明らかに上品さ
というものが欠如している。
凪森健はそのように評価ながら、カウンタの隅に一人静かに座っ
て店内の雰囲気を味わっていた。
しかし、彼はこういった場所が嫌いではない。
この混沌とした場の中に身を置くことで、自分と周囲の温度差を
明確に認識することができた。それを知ることは、自分が現在どう
いった状態にあるかを確認するためには必要不可欠な作業であると
彼は考えていた。
孤独とは、まず連帯という概念があり、それを経験したあとで、
そうでない状態との差異を実感して初めて定義されるものである。
それと同じように、彼は他人とのギャップから己の位置を定義しよ
うといつも心がけている。現代社会を生きていくには、主観的な位
置感覚よりも、相対的な手法を採用した方がはるかに容易だ。そう
いった意味では、このロケーションは彼にとって非常に使い勝手の
良いコンパスだと言ってもいいかもしれない。
「遅くなりました」
左斜め後方、八時の方角から声が聞こえる。
凪森がそちらに身体を向けると、目の前には一人の青年が立って
いた。
黒いパーカにブルージーンズ、スニーカの色は白。肩にはエナメ
ルのスポーツバッグを掛け、反対の手には青いタオルを握りしめて
いる。その顔は紅潮し、額からは汗が噴き出していた。
「久しぶりだ。何年振りかな?」
「二年も経っていません。一年半くらいじゃないですかね」青年は
持っていたタオルで汗を拭くと、凪森の隣の席に腰掛ける。「バスに
乗り遅れてしまって、駅からここまで持久走ですよ」
「調子の方はどうかな?」凪森が尋ねる。
「おかげさまで、この通り元気です」青年は笑顔で答えると、右の
太腿を叩いてみせた。
凪森は青年のために飲み物を注文すると、あっという間にジャッ
キグラスがテーブルに届いた。
彼はそれを青年に渡す。
「ありがとうございます」青年は礼を言ってグラスを受け取る。
二人は控えめにグラスを合わせた。
互いの連帯を確認するための通過儀礼である。
「こんなところに呼び出してすみません」乾杯のあとで青年が詫び
る。「本当ならもっと静かな場所にしたかったんですが、いろいろと
手際良くできませんでした」
「構わない。むしろここの方が好都合だ」凪森が言う。「それにして
も、予想以上に連絡が早くて正直驚いている」
「学生は基本的に暇ですから」
青年小さく笑うと、座席に下に置いていたバッグから一冊のファ
イルを取り出した。
「これである程度は網羅できているはずです」
「少し目を通してもいいかな?」
「どうぞ」
青年から了解を得たあとで、凪森はそのファイルを開いた。
この青年には、市立K中学で起きている連続殺傷事件の情報収集
を頼んでいた。彼の本分は大学生であるが、それと同時にこういっ
た活動を行っている。
凪森が彼に仕事を依頼したのは昨日のこと、友人の宮房俊樹から
二つ目の事件の知らせを受けたあとだったので、まだ丸一日ほどが
経過したばかりである。
しかしその報告書かれていたのは、一週間前と一昨日起きた事件
に関する内容で、一般向けの報道では公開されていないような現場
の状況や関係者のプライベートな話題、さらには非公式で調べを進
めている俊樹たち調査員についても触れられている。とてもこの短
い時間内で入手できるような情報量ではなかった。
「一日でよくここまで調べたものだ」凪森が感心して言う。
「うちの近所なんですよ。ですから、最初の事件があったときから
個人的な趣味でいろいろと調べていたんです」青年が言う。
下準備があったということか。
だが、それを差し引いても期待以上の成果であることはたしかだ。
「君が優秀だということがよく分かった。こちらとしても非常に助
かる」
「そう言ってもらえると嬉しいです」青年が安心した表情を浮かべ
る。「ですが、本当はわざわざ僕に任せるより、ご自分で調べられた
方が有益な情報が手に入るのではないですか? もちろん、僕は貴
方のお手伝いできるのは光栄だと思っていますが」
「お世辞を言っても何も出てこないよ」凪森が笑った。「俺はここに
戻ってまだ日が浅い。自分でも手に入れられる情報は集めるつもり
だが、このあたりの情報なら、君の方が持っている引き出しは多い」
「地域密着型みたいなものですか」
「そういうことだ」凪森は頷いてから続ける。「それにしても、生徒
たちが通っている学習塾の中まで探ってくれるとは思わなかった。
どうやってこんなことを調べたんだい?」
「それは企業秘密ということでお願いします」青年が軽く頭を下げ
る。
「あぁ、詮索は不要だったな。すまない」
「お気になさらないでください」青年が爽やかに応えた。「それにし
ても、調べていくうちに、何というか、僕は驚かされましたよ」
「そうみたいだな」凪森は持ったファイルを彼に示した。
「あんなことが自分の身近にも起きていたとしたらと思うと、あま
り気持ちいいものではないですね」青年はそう話すと、グラスを掴
んで中のビールを飲む。
ファイルの中には、ある人物のスキャンダラスな一面も記述され
ていた。全くあり得ない話ではないだろうが、一般的なものの見方
をすれば、理解に苦しむような内容ではあるだろう。
凪森はそこで店内を眺めてみる。
従業員や他の客たちは目の前の作業や会話に忙しい様子で、店の
片隅で交わされているやり取りに気づいている者はいないようだっ
た。
「それと、現場の密室についてはこれといった情報が出て来ません
でした。警察も手こずっているみたいで、今は事件現場の鍵を所有
していた人間に焦点を絞っているようです」青年が言う。「また何か
あればいつでも連絡してください。もう少し時間をいただければ、
その辺りについても調べれるはずです」
「これだけあれば充分だ。きっと現状では、これ以上調べても何も
出てこないだろう」凪森は断言するような口調で言う。
青年はそれに違和感を持つと、鋭い視線で隣を見つめる。
「もしかして、貴方は犯人が誰なのかもう分かっているのではない
ですか?」彼は声をひそめて尋ねる。
「そこまではさすがに分からないな」
凪森はそう言うだけで、あとは笑顔を浮かべるだけだった。
「そこまでは、ですか」彼を見た青年は小さく苦笑した。
二人がそれ以上事件の話題に触れることはなかった。
そして、しばらく店で飲み交わしたあとで凪森は青年と別れた。
まだそれほど遅い時間帯ではない。
金曜日ということもあり、この小さなビルが乱立しているエリア
には顔を赤らめたスーツ姿の男女が大勢いた。彼らは放置自転車の
せいで通れなくなっている歩道を外れて、車道の中を傍若無人に闊
歩していた。歩行者天国ではないので、その間を縫って車が走り抜
けてゆく。
なぜ彼らは、このように自分の危険を冒すような真似ができるの
だろうか、と凪森は考えてみる。
人は適度な刺激を欲しがる傾向にある。しかし単調な生活の中で
はなかなかそういった機会に巡り合うことはなく、またできるだけ
波風が立てたくないという、欲求とは相反する理性が働くことで無
難な方向へと流されていく。そうすることで気づかないうちにスト
レスが溜り、その結果、アルコールによって理性が緩和された隙を
狙って、彼らは無意識のうちにスリルと興奮を味わって自分を保っ
ているのだろう。そしてそれは、つい出来心で悪さをする子供の心
理と根本的には同じである。
人間とは、普段は平穏な日常を望む一方で、非現実的だと実感で
きるものが大好きなのだ。
そして誰の心の中にも、そんな一時のイリュージョンに魅了され
ることを欲している部分があるに違いない。
凪森は、覚束ない足取りで車を避けようとする人々を一瞥すると
無表情のまま先へ進んだ。
そして繁華街を抜ける直前まで来たとき、彼はたまたま視界の中
に映ったものに気づいて急ブレーキをかける。次に数メートル道を
引き返し、自分が見たものをもう一度確認する。
そこは小さな喫茶店だった。ガラス張りの向こうには、繁華街で
酒を傾けたような人々が小休止を取っている姿を多く窺うことでき
る。
凪森は反対側の歩道からその光景を観察していた。
そのあとで携帯電話を取り出した彼は、手元を見ることなく操作
して発信ボタンを押す。数回のコール音のあとで相手が出たときも、
その視線は店内に釘付けのままだった。
3
その次の日、俊樹は午前中のうちに自宅を出た。
特に予定のない休日である。
こういうときにしっかりと身体を休めなければならないのは理解
している。しかし、暇を持て余して貴重な休みを無為に過ごすのも
忍びなく思ったので、これといった目的もなく外出することにした。
その行動は、衝動的な焦燥感に駆られた結果であった。
電車に乗って丘山駅に来た俊樹は、昼食のあとで凪森に連絡を入
れてみる。だが残念ながら応答はない。彼は中心街の散策でもしよ
うかと一度は考えたが、急に思い立って職場に顔を出すことにした。
彼の会社が入っているビルは、休日になるとセキュリティカード
がない限り出入りすることができないようになっている。しかし、
休日出勤をすることが珍しくない彼の職場では、社内と連絡が取れ
さえすれば、大体の場合は中に入ることが可能だった。
俊樹はビルの通用口で会社へ電話をかけると、案の定出勤してい
た社員にドアのロックを解除してもらうように頼む。
そして数分ほど待っていると、内側から通用口が開いた。
「なんだ、お前もいたのか」
俊樹の前に現れたのは後輩の三田だった。
「はぁ、ちょっと環境構築で手間取ってまして......」三田は疲れた
顔で言った。彼はスーツを着ている。
「それで出勤か。ご苦労さん」
「宮房さんもそうなんでしょ?」
「俺は顔出しに来ただけ。だから私服だろ」俊樹は自分の衣服を指
して言った。
サーバ室に戻る三田とは途中で別れ、俊樹は居室へ向かう。
フロアの中は部分的にしか照明が付けられていない。節電という
名目だが、本当は自分のデスク周り以外のエリアの電気を点けるの
が面倒なだけである。
部屋には汐見がいた。
他には誰も見当たらない。きっとサーバ室で作業をしているのだ
ろう。
「お疲れ」俊樹は声をかける。
「おう、そっちも休出か?」
ディスプレィから顔を離した汐見がきく。
「家にいてもやることないからなんとなく来ただけ。少しだけ作業
したら帰るつもり」
「お前、大丈夫か?」
「何が?」
「もしかして、ワーカホリックってやつじゃないだろうな?」汐見
が眉をひそめる。
「そんなわけあるかよ」俊樹が笑って答える。「そんなこと言ったら、
休み無視して働いてるうちの人間は、みんな仕事依存症になるじゃ
ないか」
「それもそうか......。でも、休日のときくらいは仕事のこと忘れな
いとな」
「人のこと言えないだろう。休みの日ぐらい彼女と一緒にいてやれ
ばいいのに」
自分のデスクのパソコンを起動させながら俊樹が言った。
汐見も私服姿だった。正規の手続きで休日出勤をしている人間は、
原則平日と同じくスーツでの出勤となるので、彼も自主的に会社に
来ていることになる。
「そうしたいのは山々なんだが、木曜日休んだせいで仕事が溜まっ
て完全に身動きが取れない。本当は昨夜も顔を見たかったけど、結
局終電まで残るはめになってメールしかできなかった」汐見がうん
ざりした顔で言う。
「彼女の調子はどうなんだ?」
「とりあえず落ち着いてる。完全に立ち直れてるかどうかは分から
ないけど、それでも周りにはそう見させていないのは立派だよ。そ
ういう健気さも良いんだよなぁ」
「惚気話はやめてくれよ」俊樹は予め汐見に釘を刺した。
「そういえば、そっちの方はどうなんだよ?」汐見が肩越しに俊樹
を見る。二人は、背中合わせの向かいの席同士だった。
「俺?」
「昨日、村瀬さんと一緒に休んでたじゃないか。そっちのチームで
いろいろ噂になってたぞ」
「げっ、マジでか」俊樹が小さく呻いた。
「どうなんだよ? 結構いいところまで進展してるんじゃないの
か?」
「そういうのとは違う。俺は半強制的に付き合わされているだけだ」
「ってことは、やっぱり昨日は一緒だったんだな」汐見がにやりと
笑う。
そこでようやく自分が鎌をかけられたことに俊樹は気づいた。
「そっちがどうなのかは知らないけど、村瀬さんの方はお前に気が
あると思うけどな」
俊樹はそう話す汐見を無視すると、デスクの引き出しからバイン
ダを取り出してから立ち上がった。
「サーバ室に行ってくる」
「逃げたな」汐見は愉快そうに言う。
俊樹は彼を軽く睨みつけると、そのまま無言で部屋を出た。
そしてエレベータを待ちながら、彼は昨夜の千寿留との話を思い
出していた。
(あの事件は、藤崎さんと和氣さんが仕組んだものなのだろうか?)
千寿留が話した推理は、俊樹にはとても現実的なもののように思
えていた。だから寛子の身を案じている汐見を目にして、彼は酷く
いたたまれない気持ちになっていた。
サーバ室のドアを開けると、正面にあるラックの前には三田がい
た。彼は椅子に座ってじっとディスプレィ上のコンソールを見つめ
る。
「どう? 順調?」
「データベースに入れるテストデータのファイルがおかしかったの
で、中身を修正して今もう一度データを流しているところです」三
田は椅子ごと回転させて俊樹の方を向く。
「そう。よかったじゃん」
俊樹は、三田の隣にある椅子に座って作業を始める。
「昨日はどうだったんですか? 村瀬さんとデートだったんですよ
ね?」三田がきいてくる。
隣を見ると、彼はにやついた顔でこちらを見ていた。
「変な噂を流したのはお前か」
「誰もそんなことしてませんよ。ただ、課長が冗談半分で言っては
いましたけどね」三田が言う。「でもデートしてたのは本当なんです
よね? こっちは柏木さんから聞いてるんですから」
「まぁ、一緒にいたのは事実だけど」
「良いですよねぇ。宮房さんは、何もしなくても村瀬さんから積極
的にアプローチしてもらってるんですから。それに比べると僕なん
て、藤崎さんにメールしても良いリアクションなんか全然返ってこ
ないんですよ」
「連絡先、交換してたんだ?」
「柏木さんに頼み込んで、なんとかゲットしました」三田が親指を
立てる。
そうやって嬉しそうにする後輩を見て、俊樹は小さく息を吐いた。
「返信が遅いのは、たぶんそういう余裕がないからだと思う」
「なんでですか?」
「藤崎さんが勤めてる学校で事件が起きてるんだよ」
「え、事件って、どんな事件なんです?」
「やっぱり知らなかったか」俊樹が言う。「傷害事件だよ。警察が出
入りして大きな騒ぎになってるんだ」
「初めて知りました。彼女のメールにも、そんなことひと言も書い
てませんでした」
「そりゃあ、軽々しく人に話せることじゃないからな」
「だったら、どうして宮房さんは知ってるんですか?」三田が疑問
を口にする。
「村瀬さんから聞いたんだよ。彼女、藤崎さんと仲が良いから」俊
樹が誤魔化す。「だから、藤崎さんもいろいろと忙しいんだろう」彼
はそう言うと、前を向いてパソコンの操作をはじめる。
そのあとも三田は不満そうにぶつぶつと独りごちていたが、俊樹
が相手をしてくれないと分かると、パソコンの処理が終わるまで休
憩を取ると言って席から離れていった。
加奈は気分転換のためにあの合コンに参加と話しており、俊樹の
印象では早急にパートナを求めている雰囲気ではなかった。また、
彼女は大人しい性格をしているようなので、もしかしたら、三田の
ようにガツガツ来るタイプは苦手なのかもしれない。
(あいつに脈はないかもな)
俊樹はぼんやりとそう思いながら仕事に取りかかった。
作業を進めていくうちに、彼は目の前の仕事だけに思考力を割り
当て、先ほどの汐見や三田を話した内容や事件のことなどは一切考
えなくなっていた。
世の中には、何かに夢中なっている時間は楽しいと語る人間がた
くさんいた。しかし、俊樹にはその感覚がいまいち理解できなかっ
た。
彼は仕事であれ遊びであれ、何かをしている最中に面白い、楽し
いといった満足感や充実感を持ったことがない。そこにあるのは、
せいぜい自分の意識が一つに集中している感覚か、もしくは適度な
緊迫感くらいのものだろう。それ以外の感情というのは、その行為
を終えたあと、自分の記憶を振り返りながら感傷的になることで初
めて得られるものだというのが彼の認識だった。だから何かをしな
がらそんなものを感じれる人というのは、よほど心に余裕があるか、
でなければ物事に集中していない、つまり夢中になっていない証拠
である。
だから彼は、そういった話を聞く度に、しばしばそこに潜む矛盾
を感じずにはいられなかった。
そして今、俊樹は自分が作業に集中していると自覚する。
仕事そのものについてはネガティブなイメージがいつも付き纏っ
ていたが、余計なものが排除された盲目的と言えるこの狭い思考に
支配されることは嫌いではない。この状態が続くのであれば、もっ
と仕事があってもいいと思ってしまうときさえあった。
汐見が言う通り、自分には少し依存症の傾向があるかもしれない。
そのとき、突然ジーンズのポケットが振動をはじめる。
俊樹は作業の手を止めると、その中に入っていた携帯電話を取り
出してみる。
それは凪森からの着信だった。
4
「俺も、それが一番スマートな考えだと思う」
煙草を吸っていた凪森は、煙を吐きだしたあとで正面のソファに
座る俊樹に言った。
凪森から連絡を受けた俊樹は、すぐに作業を切り上げて彼のマン
ションを訪ねていた。
どうやら彼は、また事件の情報を仕入れてきたらしい。
俊樹は凪森の話に興味があったら、その前にまず自分が昨日体験
してきたことを彼に話した。そして最後に千寿留の推理を聞かせた
ところだった。
「彼女たちが犯人なら、事件現場を密室にすることは簡単にできる
だろうな」ソファの背に深くもたれかかった凪森がそこでゆっくり
と腕を組む。「ところで、凶器の石膏に付着していた血が途中まで拭
き取られていたことは知っているか?」
「和氣さんから聞いたよ」俊樹が言う。「でもどうしてそんなことを
したんだろう? 普通に考えれば、最後までちゃんと血を拭くか、
でなければそのままにして誰にも見つからないうちに美術室から逃
げた方がいいはずだ。もし犯人が和氣さんだとすれば、別に凶器に
指紋がついていてもそこまで気にする必要もないだろうし」
「石膏からは、和氣寛子を含めた多数の人間の指紋が検出されたら
しい。彼女の話では、あれは以前から部活動で使われていて、日常
的に生徒たちが触れていたということだ」
「やっぱりな。だとしたら、彼女は警察を混乱させるためにわざと
そういう意味不明なことをしたのかもしれないな」
「それも否定はできない。だが、そうしている間にも誰かが現場の
近くにやって来る可能性だってあった。現に、あの谷口という生徒
が現場を通りがかったことで事件は発見されている。いくらあの校
舎を訪れる人間が少なくなっているとは言っても、犯行を目撃され
る危険と引き換えにするほどその攪乱に価値があるようには思えな
い。彼女が犯人だとすれば、隠蔽工作をするよりもいち早く現場を
離れてアリバイでも作っておいた方が得策だろう」
「ってことは、犯人は和氣さんではない?」
「物理的には可能かもしれないが、動機が薄いように俺には思える」
凪森が言った。「それと、現場には被害者の血痕が付いたタオルが残
されていた。それは美術室にある備品の一つで、授業などで生徒た
ちが共用しているものらしい」
「それを使って血を拭き取ったんだな」俊樹が言う。
「で、ここからが興味深いんだが、そのタオルからは益田仁美と他
の人物の血液も検出されたというんだ」
「彼女以外も? それは誰なんだ?」
「最初の被害者の鈴原太一だ」凪森が答える。「彼の血もタオルに染
みついていた。ただ検出された量が少なかったことから、益田仁美
の血を拭く前に一度洗い流されたという見方が強い」
「これで二つの事件は、同一人物による犯行だって確定されたな」
「正確には信憑性が高まっただけだ」
「別々の犯人が偶然同じものを使うなんて出来過ぎてる。それに、
同一犯でないとしたら、理科室の犯人がわざわざ美術室のタオルを
使った説明もできない。ほぼ間違いないだろ」俊樹が言った。
凪森は、煙草を吸うだけでそれにコメントする気配はない。
その様子を見てから俊樹が続ける。
「となると次に疑問が出てくるのは、犯人はどうして、そしてどう
やって美術室に入り込んだのかってことだ」
「彼女たちの犯行ではないとすると、結局は教室までの侵入経路の
話に戻ることにもなるな」
「でもさ、二つの事件の犯人が同じなら、益田さんに話を聞けばそ
れで解決にならないか?」そこで俊樹が言った。
寛子の話では、仁美は無事だということだった。そして彼女は、
自分を呼び出して襲った犯人の顔は覚えているだろう。つまり彼女
の証言があれば事件はほぼ解決したようなものなのだ。
「それは無理だったらしい」凪森が煙草を灰皿に入れながら口を開
いた。「警察も彼女の意識が回復したあとで事情聴取をしたが、頭を
殴られたショックで、彼女には襲われる直前の記憶がなくなってい
た。だから彼女は犯人の顔も覚えてないし、誰に呼び出されたのか
も分からないと話している」
「そうか......、それが頼りだったのになぁ」俊樹が残念そうに呟く。
凪森は余裕のある表情でそれを観察していた。
「もしかして、あの密室のトリックが分かっているんじゃないだろ
うな?」俊樹は友人の顔を窺いながら質問する。
「ある可能性については考えている」
「どんな?」
「今話すのは止めておく」
「何でだよ?」俊樹が問い詰める。
「考察中で、まだ披露できるレベルではない」
「不完全でもいいよ。俺はただ凪森の意見を聞きたいだけなんだか
らさ」
「駄目なものは駄目だ。俺が納得するまで誰にも話す気はない」
俊樹はそのあとも凪森にせがんでみたが、彼は頑なにそれを拒ん
だ。
「別に減るもんじゃないんだから話せばいいじゃないか」俊樹は少
し不機嫌になる。
しかし、凪森は口を横一文字に固定して無言を貫いたままだ。
「頑固な奴」俊樹は彼に向かって言うと、説得するのを諦めて自分
もソファに深く身体を沈める。
そして、ぼんやりと天井を見上げたあとでぽつりと言う。
「もしかしたら、本当に幽霊の祟りだったりして」
「急にどうしたんだ? この前まで有り得ないと言っていたのに」
凪森がきく。その口調から、彼が少し面白がっているのが分かった。
「昨日、中学で男の子に会ったんだ。一年生くらいだと思う。それ
で別れ際にその子が言ってたんだ。あそこにはいるって」
「あそことは?」
「はっきりとは言わなかったけど、たぶん東棟のことじゃないかと
思う。でも、あの子は単に、いる、としか言ってないから、実際に
何のことを指していたのは分からない。例の怪談のことだと思った
のは俺の単なる勘だしな」俊樹が話す。
(あの少年は、自分に何を伝えたかったのだろうか?)
俊樹には彼の意図が分からなかった。
「何て名前の子だったんだ?」凪森が質問する。
「それは知らない。あの子の友達には、ベッチャンとかゲッチャン
とか呼ばれてたような気がするけど......、それがどうかしたのか?」
「ただきいてみただけだ。特に他意はない」凪森はそう言ったあと
で別の話をはじめる。「あそこの生徒と言えば、水谷結香里について
分かったことがある」
「中絶の話か?」俊樹がきく。
「なんだ、知ってたのか」
「佐伯っていう、彼女の幼馴染みの子に教えてもらったよ」
「佐伯雅彦か。彼も二つ目の事件では、警察に目をつけられている」
「彼は、水谷さんのことで亡くなった鈴原って人を恨んでるみたい
だった。けど俺が見た感じでは、あの子はどうも思えないんだよな」
「俺も同じ意見だ。もし彼が犯人なら、そのあとの行動は非常にお
粗末なものだからな。現時点では目撃証言以外の物的証拠もない。
それに動機だけで考えるなら、彼よりも彼女の方がよっぽど疑わし
い」
「なんで彼女、あんなことになったんだろうな」俊樹は、結香里の
身に起きたことを考えて言う。
「彼女と鈴原太一の両方の認識が甘かったのか、もしくは鈴原は故
意に配慮しなかったかだろうな」凪森が冷静に言った。「以前話した
欲求のことは覚えているか?」
「人には他人に影響を及ぼしたいってやつだろ?」
凪森がそれに頷いてから話す。
「その欲求を満たすためには、本当に相手が影響を受けているのか
を確認する必要がある。他人の反応や変化を知るためにはどこに注
目すればいいと思う?」
「それは、相手の表情とか身振りとかだろう」
「つまり身体の変化だ。それが一番分かり易い」
「ちょっと待て。もしかして彼は、そんなことのためだけに水谷さ
んを妊娠させたって言うのか?」俊樹は顔をしかめる。
たしかに妊娠は、身体の変化が顕著に現れる現象ではある。しか
し、ただその変化を見たいという安易な理由で、そこに至るまでの
プロセスを踏むものでは決してないはずだ。
「彼がそれを自覚していたかどうかまでは分からない。ただ、前に
も言ったように他人に影響を及ぼすというのは人が持つ大きな欲求
の一つだ。またそれは同時に、相手に対する支配欲を満たすことも
できる。男性がああいった行為を好む傾向にあるのは、第一に肉体
的な快楽をその理由として挙げることが多いが、本来はそう言った
精神的充実を図ることが根底にあるのではないかと思う」
「だけど、それはただのエゴだろ。そんなものに無理矢理付き合わ
された相手は堪ったもんじゃない」
「まったくその通りだ」凪森が言う。「彼女の身に降りかかった一因
の中には、それを抑制できなかった彼の未熟さがあった。要するに、
まだ子供だったということだろう」
「子供か」
「そういえば、責任の意味については考えたか?」
そこで凪森が尋ねる。
「というか、大人と子供の線引きを自分なりに少し考えてみた。明
確な区別とはいかないかもしれないけど、それはたぶん、社会に順
応できるかどうかではないかと思う」俊樹は答える。「今の社会では、
人は必ずどこかの集団に所属している。それは学校とか、企業とか、
住んでいる地域みたいにたくさんの種類があって、それを全部ひっ
くるめた社会も一つの集団だと考えられる。生まれたばかりのとき
はまだ少ないけど、歳を重ねていく毎に自分が属するものの数は自
然と増えていくようになっている。そして集団には、それぞれに個
別の決まりが作られていて、人はそれを知りながら常識とか分別を
覚えていくのだと思う。ただ集団によってその内容は異なっている
から、その時々で自分が今どの集団の一員として行動しているかを
認識して、その立場に則った立ち振る舞いができるように切り替え
をする必要がある」
「それができるのが大人?」
「決められたこと、禁止されていることを自覚して問題なく生きて
いくことが社会では重要だ。子供というは、決まりを知らなかった
り、知っていても守らなかったり、もしくは適切に自分の立場を切
り替ることができない人たちを指すのだと思う。そして、そういっ
た子供が大人になるために必要なのが責任ではないかって俺は考え
た」俊樹が話を続ける。「人間は生きているうちにいろんな誘惑に出
会う。そこで自分の欲求に負けてしまうと、場合によっては集団の
決まりを破る場合もある。そして決まりを破ってしまった者は、そ
の集まりから仲間はずれにされてしまう。それは突き詰めていけば、
社会に順応できないということにもなり、結果的に社会の中で生き
ていけなくなる危険も出てくる。責任とは、それを防止するための
ものではないかと思う。人は責任も持つことで慎重に行動するよう
になって、誘惑に負けそうになる自分の心を律しようとする。それ
ができれば社会から外れることはなくなって、安全な生活を送るこ
とができる。要するに、責任というのは社会から仲間外れにされな
いために持つ足枷のようなものなんじゃないかな」
俊樹はそう説明すると、テーブルに用意されたマグカップによう
やく手につける。コーヒーは少し冷めていたが、そこまで気にする
ほどではなかった。
「社会の中で生きるためか。なるほどな」
彼の話を黙って聞いていた凪森は、少ししてからそう呟いた。
「さぁ、俺はちゃんと言ったんだから、次は凪森の番だぞ」
カップから手を離した俊樹が催促する。
すると凪森が話しはじめる。
「大人と子供の違いは責任にある。以前そう言ったと思う」
俊樹は首を縦に振ってそれに応える。
「ならその責任とは何かだが、それは覚悟ではないかと俺は考える」
凪森が言う。「人が発言や行動をする際には、それに対してのメリッ
トとリスクが必ず生まれる。その種類や重さは、その人間が身を置
く立場によって異なってくる。ただそれがどんなものであっても、
その言動によって生じたものは全て受け入れる覚悟を持たなければ
ならない。それは子供であっても大人であっても同じことだ。そし
て、その中でも事前に自分の言動で起こり得ることを予測し、その
想定した結果について予め覚悟した上で行動に移せるのが大人と呼
ばれる人間だろう」
俊樹は、その話を真面目な表情で聞いていた。
「ただ、洗い出したメリットとリスクの全てを受け入れるだけの覚
悟を持つのは容易なことではない」凪森が続ける。「例えば、車道を
横切って向こう側の歩道まで行きたいとしよう。目の前にはすぐに
渡り切れるくらいの横断歩道があって信号の色は赤だ。そして今、
偶然にも道路を走る車は見当たらない。さらにこちらは急ぎの用件
があって、少しでも早く目的地に着きたいと思っている。さて、こ
の状況だと宮房はどういう行動をする?」
「そうだな。悪いことなのは分かってるけど、たぶん信号無視をし
て渡っちゃうと思う」俊樹が答える。
「おそらく、大多数の人間はそれと同じことを考えるだろう」凪森
が言う。「では次に、その行動によって生じるメリットとリスクは何
だろうか?」
「メリットは信号待ちの時間ロスがなくなること。それでリスクは
警察に見つかったら怒られることとか、安全ではないこと、かな?」
「つまりこの場合だと、違法行為に加えて自分の命を危険に晒して
まで、たかだか数秒ないし十数秒程度の時間短縮の方が重要だと判
断したことになる」
「違法行為と命って......、そういう言い方は、ちょっと大袈裟なん
じゃないか?」俊樹は眉間に皺を寄せる。
「だが信号無視は立派な法律違反だ。それに、もし横断している途
中で急に車が現れたら、最悪轢かれてしまう可能性も充分にあるは
ずだ。そしてもしそうなってしまったとき、事故の責任は歩行者と
運転者のどちらにあるだろう? もちろん現行の考え方では、歩行
者を確認せず停車しなかった方に非がある。だが本当に運転者が加
害者だと言い切れるのか?」
「そりゃあ、歩行者が無茶をしなければそういうことは起こらない
んだろうけど」
「極論を言ってしまえば、歩行者は赤信号の状態で横断をした時点
で、一方的に社会的制裁を受けても構わない、最悪の場合、死んで
しまっても仕方がないと決断したのだと見なすことができる」凪森
が俊樹をしっかりと見据えて言う。「これが幼い子であれば、そこま
で考えるだけの分別を身につけていないかもしれない。でも中学生
や高校生くらいになれば、一般的にはそれは理解できるレベルのこ
とだと思う。だから大人とは、その後の社会的な責任の所在はどう
あれ、そういった場合には自分に非があると認めることができる者
ではないだろうか」
「凪森の言いたいことは分かるよ。軽率な行動で自分だけじゃなく
他人も迷惑をかけちゃいけない。でもな、ちょっとした行動の一つ
一つをそこまで重大なものだと思う人はほとんどいない。そんなこ
とをいつも考えながら生きていたら、尻込みしてしまって結局何も
できなくなるだろ」
「今のは極端な話だと言ったはずだ。ただ、言動とは本来、それだ
け重たいものなんだ」凪森が言う。「当事者は、他人からリスクの予
測ができると見なされた時点で常に言動の責任を問われることにな
り、何かしらのアクションをした途端、最大限のリスクを受け入れ
るだけの覚悟があるものだと判断される。そしてそれは、本人が実
際にどこまでのレベルで意識できているのかは全く関係がない」
「そこまでの自覚と覚悟を持っているのが大人ってことか......。だ
とすれば、凪森が定義する大人は少ないだろうな。普段そこまで考
えている人なんてきっとほとんどいない。その基準は、かなりハー
ドルが高いと思う」
「それは考えることを放棄しているだけだ。物事の良し悪しと、行
動から起こりうる結果を推測する思考力の基礎は、物心ついたとき
にはほぼできあがっている。それ以降で得るものといえば、具体的
なケースを体験して、その実用例を学習するだけの些細なことに過
ぎない。ただ子供は、自分が推測したものにどれだけの価値がある
のかを正確に判断することまではできない。メリットとリスクを天
秤にかけたのちに、それに見合った言動をするが大人であって、子
供のとの差は、物事を評価できるか否かの違いだけだ。もしある程
度の年齢に達しても適切な判断ができないというのは、自分から己
の行為を評価しようとしていないだけのことで、それは単なる怠惰
でしかない」凪森が断言する。「ちなみに、子供を作る、またはそれ
に準ずる行為には社会的にも肉体的にも大きなリスクがある。これ
を回避したいときには、できる限りリスクを軽減させる手段を取ら
なければならないが、どれだけ対策を取ってもそれが完全に消える
ことはない。もし当事者が大人であるなら、万が一を想定して、自
分たちの行為によって生じる責任と、それを全て受け入れるだけの
覚悟を持って臨むべきだろう。特に経済的自立ができていない若者
がそこに至るまでには相当な決意が必要だと思う。だが鈴原太一と
水谷結香里は、これからしようとすることが自分たちにどういった
責任をもたらすのかを考えず、覚悟のないまま行為に及んでしまっ
た。だから彼らはまだ子供だったと言ったんだ」
そこまで話し終えると、凪森は再び煙草に火をつける。
「そうだよな、ああいうのは自分の人生に大きく関わってくるもの
だから、本当に慎重にならないといけないよな」俊樹が言った。
「繰り返しになるが、彼らのケースに限らず、全ての言動について
同じような意識を持つ必要がある。だから俺は、成人式のテレビ中
継で、自分に責任を持つ、なんてコメントする新成人を見ていると
とても矛盾を感じたりする。そんなことを公衆の面前で堂々と発言
できる時点で、責任なんてこれっぽっちも持てていない証拠だから
な」凪森は皮肉な笑みを浮かべた。
「なら凪森はさ、この事件の犯人は子供と大人のどっちだと思って
るんだ?」そこで俊樹が質問した。
「凶悪犯罪をする人間のほとんどは、そのリスクの見積もりが甘い
か、でなければ感情的になりすぎて全く考えていないかのどちらか
だろう。仮に考慮できていたとしても、それはどうやって自分が犯
人だと断定されないのか、どうすれば警察から逃れることができる
かまでの話で、それ以外のことを視野に入れていないのだと思う。
だいたい、逮捕されて受刑する自分の姿や服役後のことを考えられ
る人間はそもそも犯罪をしようとは思わないはずだ」
「どうして?」
「犯罪という行為は、それだけ割に合わないからだ。そして、それ
には罪の重さは関係ない」凪森が答える。「もう一つ例え話をする。
ある家に窃盗犯が侵入したとしよう。そのとき、犯人が考えるべき
最大のリスクとは何だ?」
「警察に捕まることだろ」俊樹は当たり前だという顔で言う。
しかし凪森は首を横に振った。
「え、違うの? なら何だろうな、盗みに失敗するっていうのはリ
スクだけど、最大ってわけじゃないし......」俊樹は独り言を言いな
がら考える。だがすぐには思いつかない。
すると、その途中で凪森が言う。
「一番のリスクは、自分が殺されてしまうことだ」
「殺される? それ、どういうことだよ?」
それを聞いた俊樹は思わず目を瞠った。
「住民か誰かに見つかった末に、過剰防衛を受けて命を落としてし
まうというケースが最も危険だ」凪森は無表情のまま話す。「犯罪を
するのであれば、最悪そういったことが起きても仕方ないというく
らいの覚悟が必要ではないかと思う。もちろんそれは、凶悪犯罪だ
けではなく、万引きなどの軽犯罪でも同じだ」彼はそう言ったあと
で煙草を吸いはじめる。
俊樹は口を閉ざすと、また難しい顔を作ってその友人の姿を見つ
めていた。
「さっきのもそうだけど、それはやっぱり度が過ぎた考えじゃない
かと俺は思う」彼が話す。「たとえ罪を犯したとしても、それはほん
の気の迷いだったのかもしれないし、誰にでも更生の余地はあるは
ずだろう? それなのに、その言い方だとまるで犯罪者は死んでし
まわないといけないという風に聞こえる」
凪森の話は、俊樹がイメージし易いようにわざとそう言っている
のだとは理解しているつもりだった。そして、きっとその考え方も
間違っていないだろう。だがそれでも、俊樹は反論せずにはいられ
なかった。
「それは誤解だ。これはあくまでも、犯罪をしようとする当事者か
ら見た視点での話だ。俺が言いたいのは、できることならメリット
よりもリスクに注目した上で言動を起こした方が当事者としては安
全だという心構えみたいなものだよ。だから別に、他人に対してそ
れを主張するつもりはないし、ましてや犯罪者は全員死ぬべき者だ
なんて思ったことすらない。この社会おいては、彼らは然るべき罰
を受けることで一定の償いができるようなシステムになっているか
らな」凪森が淡々と答える。
「あぁそういうことか......。少し感情的になった。すまん」
俊樹は、その説明を理解すると彼に謝った。
「話を戻そう」凪森が続ける。「犯罪をしてしまう人間には、自分の
言動に責任が持てない、つまり子供が多いと俺は考えている。しか
し、ごく稀にそうではないケースもある」
「自分が背負うリスクをしっかり把握して、その上で犯行をする人
間もいるってことか?」
「それだけ達成時の期待値が大きいのか、でなければ捨て身という
やつだな。特に後者のときは、リスクを一切無視した行動に出るこ
とが多いと予想できる。無視というよりは、本来リスクであるもの
が既にリスクではなくなっているわけだが」
「今回がそうだって言うのか?」
「今のは、犯人が俺の考えるところの大人だったときに有り得るだ
ろうと思ったタイプを説明しただけだ。犯人がどんな考え方をして
いるかは分からない。俺は占い師じゃないからな」凪森が笑みを漏
らした。
「犯人は美術室で益田さんを襲ったあとで逃走してるんだから、俺
はそこまでの覚悟ができてなかったんだと思うな。もし犯人が捨て
身だったら、二番目の犯行が終わった時点で目的は果たしたわけだ
から、自首してもおかしくない気がするけど」
「なぜ二人を襲うことが目的だと言い切れる?」
「だって、犯人はあの二人に恨みを持っていて、それを晴らしたい
から事件を起こしたんだろ?」俊樹が逆に問いかける。
しかし凪森は、片手で顎鬚を触りながら無言を通した。
「もしかして、凪森もまだ何か事件が起こると思ってるのか?」
「そこまではなんとも言えない。そう考えてる人がいるのか?」
「ああ、村瀬さんがな。彼女は、犯人が学校の怪談をモチーフにし
たことには意味があるはずだから、三つ目の事件があってもおかし
くないって言ってたよ」
「へぇ」
俊樹の話を聞いた凪森は小さく呟いただけだった。
彼は短くなった煙草をゆっくり吸い込むと、横を向いて同じくら
いの時間をかけて煙と吐き出す。
そこには、口もとを緩ませたにこやかな表情があった。
5
村瀬千寿留は、露出した肌にまとわりつくこの時期特有の空気か
ら、粘着質のある陰湿さを連想していた。
外は、歩くごとに発汗を促すほどの蒸し暑さだ。
肌寒さは衣服を着込めば解消できるが、暑さだけは薄着になった
ところで寒さほどの効果を得ることはできない。また高温多湿とい
う状況下では、自分の意識とは関係なく身体の細胞が余計な運動を
はじめてしまい、知らず知らずのうちに体力が奪われてゆく。
これから苦手な季節がやって来ると思うと、彼女はうんざりした
気分なった。
丘山駅から少し離れた場所にある商店街の周辺を歩いていた。そ
こは少し古びた印象はあるものの多くの店舗が並び、また最近にな
って商店街の近くに若者向けの商業施設が相次いで出来たため人通
りも多くなったようだ。市内の繁華街といえば、主に駅前とここの
二ヵ所に限られると言っても良い。
今日の天気は曇りがちだ。
しかし、空から降り注ぐ紫外線はきっと強いに違いない。
日傘を持って来ればよかった、と千寿留は少し後悔した。
そもそも今日は街中に出るつもりはなかったので、うっかり忘れ
てしまったのだ。そんな言い訳をしながらも、彼女はペースを変え
ることなく前に進む。
日曜日の午後である。
商店街へ続く狭い歩道は人々の群れでごった返している。すれ違
う人の多くが彼女と同じか、もしくはそれよりも若い世代のようだ。
数人連れのグループやカップルが比較的多いが、彼女のように一人
で黙々と歩いている者もいる。
そこで千寿留はふと思う。
自分はこの中に溶け込んでいるだろうか?
この光景を俯瞰する者はいるとすれば、個人ではなく、この群衆
を構成するただの要素として自分を認識しているだろうか、と。
そのことは、この頃になって折に触れてよく考えていた。
一般的に、人は他人から特別な目で見られたいと思っている。
性別や民族、所属する組織というような大きな括りではなく、自
分という単一の人格を認めてもらうことが存在意義なのだと感じて
いる者も多い。そのために人は他の誰かの人生に介入しようと試み
る。そして、その介入を受けたことで自分の中で変化が訪れた者は、
それが好意的だったかどうかに関わらず、変化をもたらした者を特
別な存在として記憶に焼き付けることになる。その結果、介入した
者は自分が他人から認められているのだと実感して心を満たすので
ある。またそれとは逆に、自分から他人への介入を求めることで、
己を認めてもらおうとする者も存在するようだ。
人間がこのような互いを補完するシステムを本能的に持っている
のだと千寿留が気づいたのは、比較的最近のことである。
そしてそれは、彼女が持つ志向とは異なるものだった。
特定の誰かに認められたいという気持ちが全くないわけではない。
だが彼女は、どちらかといえば集団に埋もれていたいと願ってい
た。特別な存在として見られるよりも、大勢の中に紛れ、自分を隠
して生きている方が安心できた。
きっとこういった感覚は少数派なのだろう、と彼女は皮肉に思っ
て小さく苦笑する。
商店街に入った千寿留は、急に広くなった通路を真っ直ぐ進む。
この地域ではブランド力のある百貨店を横切り、その先の横断歩道
を渡ってすぐの場所にある喫茶店を見つけると、今まで考えていた
内容とは別の話題に思考を切り替えることにする。
この土日は、結果的にどちらの日も少し変わった形で人と会うこ
とになっていた。
昨日の土曜日、千寿留は益田仁美が入院している市内の病院へ出
かけた。
本当は宮房俊樹にも一緒に来て欲しかったのだが、これまで彼の
予定など関係なしに、ときには会社を休ませてまで事件の調査に付
き合せていたので、彼女もそう度々強引に連れ出すは気の毒だろう
と思い今回は自重することにしていた。
仁美は面会謝絶をしている可能性もあったが、彼女の友人を装っ
て受付に見舞いに来たと告げると、特に怪しまれる様子もなくすん
なり彼女のいる部屋番号を教えてもらうことができた。
仁美の部屋は個室だった。もしもの場合を考えて警護しやすいよ
うにという配慮だと千寿留は思ったが、部屋の周りに警察らしい人
間は一人もいなかった。
千寿留が部屋に入ると、それまで寛いでファッション雑誌を読ん
でいた仁美は、初対面の彼女を見て警戒していた。頭に巻かれた包
帯は痛々しかったが、その姿勢は弱々しいどころか非常に攻撃的な
ものだった。そこで千寿留は、自分は教育委員会に派遣された事件
の調査員だと告げることで彼女に理解を求めた。そのときの丁寧な
話し方と手土産で持ってきたケーキとシュークリームが効いたのか、
仁美は騒ぎを起こすようなことはぜず比較的落ち着いた様子で応じ
てくれた。
千寿留は仁美に、事件の日は誰に呼び出されたのか、また加奈に
何を話すつもりだったのかを尋ねた。だが彼女は、頭を殴打された
ショックで断片的に記憶を失ってしまったらしく、それらの質問に
対しては覚えていないの一点張りだった。そのあとで犯人の心当た
りをきいてみても、彼女の反応が薄いのは変わらなかった。
その面会で分かったことと言えば、仁美の鈴原太一に対する愛情
と彼を死に追いやった犯人への憎しみくらいのものだった。
「もし犯人が分かっていたら、たぶん太一の代わりに私が復讐をし
ていたと思います。その気持ちは今も変わりません」
彼女は千寿留の質問に終始首を振り続けていたが、それだけは、
はっきりとした口調で話した。
そこで見せた無機質な表情は、おそらく怒りを堪えていたからだ
ったのだろう、と千寿留は推測した。
仁美に会うことで多少の収穫があると期待していた千寿留は、そ
れが空回りに終わったことで少なからず落胆した。
そんな彼女の元に一本の連絡が入ったのは今朝のことだ。それは
唐突かつ、思わぬところからのアプローチであった。
自動ドアが開くと、千寿留は躊躇なく店の奥へと向かう。
すると、壁際にある二人掛けの小さなテーブルに座っていた男が
それに気づいて腰を浮かせるのを彼女は捉えた。
そこにいたのは谷口稔だった。
彼はやや緊張した面持ちで千寿留と目を合わせる。
「急に呼び出してすみません」
「気にしないで。今日はちょうど暇だったから」
稔が頭を下げると、彼女は微笑んでそれに応えた。
テーブルにあるグラスの中身は、既に半分ほど消費されている。
アイスコーヒーかと思ったが、どうやら炭酸ドリンクのようだ。
席に腰掛けた千寿留がアイスミルクティを頼む。そして注文を聞
き終えた店員が席から離れたあとで、彼女は目の前に座る稔をまじ
まじと見つめると、自分たちはどんな関係だと思われたのだろうか
と少し想像してみる。
Tシャツに上着を羽織り、ジーンズにスニーカという私服姿の稔
は中学生には見えない。店内に人々は、彼が高校生か、もしかした
ら大学生だと思っているかもしれない。
一方の千寿留は、Tシャツにジーンズという格好で、稔と似たよ
うな服装をしている。
歳の離れた姉弟か、でなければ学生のカップルあたりが妥当では
ないだろうか。
そう思った彼女は口もとを綻ばせる。
当然ながら稔に対して特にこれといった感情は持ち合わせてはい
ない。だがそれでも嬉しいような、少し気恥ずかしい気分になる。
また、この考えが苦笑せざるを得ないものであることも彼女には分
かっていたので、なんとも複雑な心境だった。
「あの、どうかしましたか?」稔が不思議そうにきいた。
「ごめんなさい。なんでもないの」千寿留は笑って誤魔化す。「それ
にしても、君から連絡があるとは思わなかったわ。よく私の番号が
分かったわね」
「雅彦......、佐伯から教えてもらったんです」
「そっか、幼馴染だもんね」
千寿留は、再びやって来た店員がグラスを置くのを確認しながら
稔に言う。
千寿留が連絡を受けたとき、稔は緊張した様子で、しどろもどろ
な話し方だった。それを要約すると、話があるから今から会いたい
というもので、それ以上のことは何も教えてくれていなかった。
「話というのはどんなことかしら? あたしは事件に関することだ
と勝手に思っているけど」千寿留は店員がいなくなると早速話を切
り出した。
「実は、僕にも事件と直接関係あるのかよく分かってないんです。
でも、もしかしたらと思って......」稔が口籠る。
「とりあえず、具体的な中身をきかせてもらってもいいかな? そ
うじゃないと、あたしも判断できないから」千寿留がなるべく優し
い口調を心がける。
「あぁ、そうでした。すみません」
彼女に謝った稔は、ドリンクをひと口飲んで間を置いたあとで話
しはじめる。
「......藤崎先生のことなんです。たぶん、このことは僕しか知らな
いと思います。最初は学校の先生に話した方がいいのかもしれない
と迷っていたんですけど、それよりも村瀬さんたちに言った方がい
いと思って......」
少しもったいぶった前置きをすると、彼はそのあとでようやく本
題を口にした。
「えっ?」
彼の話を聞いた千寿留は、一瞬自分の耳を疑った。
それを見ていた稔は、一度だけ頷いてみせるとさらに話を続ける。
彼女は、その大人びた外見を持つ少年から発せられる言葉をただ
呆然と聞くしかなかった。
「僕が知っているのはそれだけです」稔が話し終える。
「......それは、本当なの?」
「はい、間違いありません」彼がすぐに答える。その声には確固と
した自信が感じられた。
千寿留は深呼吸をして冷静さを取り戻そうとする。
そして次に稔の表情を窺う。
彼女はその話を素直に信じることができなかったが、彼が嘘をつ
いているようにも思えなかった。
「ありがとう、とりあえず話の内容は理解したわ」彼女は稔に礼を
言った。「それと、この話は......」
「もちろん、もう誰にも言いません」稔は真剣な顔で言い切った。
千寿留はそれを確認すると、既に結露してしまっているグラスに
手を伸ばして喉の渇きを癒そうとする。
(この話がもし本当だとするなら、事件をもう一度考え直さないと
いけない)
彼女はストローに口をつけながら、停止していた思考を再び稼働
させはじめた。