初動(しょどう)の策(さく)
第四章 初動の策
1
五月最後の水曜日。
宮房俊樹は、会社の入っているビルのロビィでエレベータを待っ
ていた。
市内のあるユーザ先からの帰りだった。
俊樹の所属するチームでは企業向けのコンピュータシステムを開
発している。最近までは、彼も開発部門の一員として実際にプログ
ラムを組む機会もそれなりにあったが、今はそういった仕事ではな
く、開発部門が製品を作る前の準備と作り終えたあとの作業をする
ようになっていた。
彼のチームが担当しているシステムは、基本的に納品先の企業が
システムを使っていないときでないと機器のメンテナンス等はしな
いことになっている。そのため、ユーザ先での作業は企業が休みに
なる土日や大型連休、平日であれば夜間から行われるのが一般的で
ある。今回もその例に漏れず、昨日の夜からユーザのもとへ出向い
ていた俊樹は、ほぼ徹夜に近い状態で作業をしてきたところだった。
いつだったか、サービス業というのは、他の人が休んでいるとき
に働くものだと誰かが言っていたことを思い出す。そういう意味で
は、自分の仕事はまさにサービス業そのものではないかと、彼は身
を持って実感していた。
ただ今日は、事後処理さえすればすぐに帰れることになっている。
今の俊樹は、その希望だけで容赦なく襲いかかってくる睡魔に対抗
しているような状態だった。
エレベータのドアが開くと、その中はほぼ満員だった。外に出る
人たちによって、ロビィの人口密度が急激に上昇する。
昼休みの時間帯である。これから食事にでも出かけるのだろう。
エレベータが空になるのを待っていた俊樹は、その最後尾に村瀬
千寿留の姿を見つける。
「おかえりなさい」千寿留は明るい口調で声をかける。
「ただいま」俊樹がそれに応じる。
彼の会社は、男性従業員にはスーツの着用を義務付けていたが、
女性は華美にならなければ特に服装の規定はない。
今の千寿留は、カーディガンに綿のパンツという格好をしていた。
千寿留と入れ替わりでエレベータに入ろうとした俊樹は、すれ違
いざまに彼女に腕を掴まれる。
「ちょっといいかな?」
そう言うと、彼女は俊樹をロビィの隅に連れてゆく。
「宮房君、今日は早く帰れるんでしょ?」
「うん。やることやったらさっさと帰るよ。もう眠くって眠くって」
「そう......、あのね、あたし、今日は定時であがろうと思うの。そ
れで、できたらそのあとで会いたいんだけど、どうかな?」
「えっ」俊樹は声を漏らす。
その瞬間、いろいろな想像が彼の中を駆け巡った。体温が上がる
ような感覚と共に、今まで感じていた眠気も途端に消え去る。
「何かあるの?」彼は平静を装いながらきく。
「加奈ちゃんがね、ちょっと大変なことになってるみたいなの」
「藤崎さん?」
「ええ。どうも昨夜、何かの事件に巻き込まれたらしいの」彼女は
俊樹だけに聞こえるように小声で言う。「加奈ちゃん、それでショッ
クを受けてるみたい。だから、ちょっと様子を見に行こうと思うの。
でも、あたし一人だとなんとなく心細いから、できたら宮房君にも
一緒に来てほしいなと思って」
「なんだ」俊樹がぽつりと呟く。
「何がなんだなの?」
「あ、いやなんでもない......」彼は慌てながら言う。「別に俺は構わ
ないけど、たぶんなんにも役には立てないと思うよ」
「いてくれるだけでいいの。加奈ちゃんも宮房君ならって言ってい
たし」
「分かった。なら帰る頃に連絡してもらえる?」
「了解」千寿留は最後に小さく微笑むと、俊樹から離れてビルの外
へ出ていった。
俊樹はその姿を眺める。場の流れで安請け合いをしてしまったが、
彼は千寿留が話した内容をあまり呑み込めていなかった。
それから二時間ほどで帰宅した彼は、ひとまず眠ることにした。
深夜作業の合間にも短い仮眠は取っていたが、硬いパイプ椅子に座
りながらの睡眠と使い慣れたベッドで横になるのとでは違いは歴然
としており、数時間後に目を覚ましたときには随分クリアな状態に
戻っていた。
シャワーを浴びているうちに、携帯電話に千寿留からメールが入
る。彼はメッセージを確認すると、すぐに出かける準備をした。
俊樹が待ち合わせ場所に行くと、そこには既に千寿留と加奈の姿
があった。
彼を見つけた千寿留が手を振る。加奈は軽く会釈をした。
「本当は加奈ちゃんの家まで行こうかと思ってたんだけど、本人が
こっちに出てくるって言ったの」千寿留は、俊樹と加奈を順に見て
言った。
「部屋に閉じこもっても鬱々とするだけだから」加奈が言う。その
顔には疲れの色が窺えた。
三人は、とりあえず近くの喫茶店に場所を移した。
「加奈ちゃん、その、大丈夫なの?」
注文した物がテーブルに届いたところで千寿留が尋ねる。
「昨日は混乱していたし、深夜まで警察から事情をきかれていたか
らかなり疲れていたけど、少し眠れたおかげで今は落ち着いている
わ」加奈が微笑む。
「村瀬さんからは、事件に巻き込まれたって聞いてるんだけれど」
俊樹が二人を見て言う。
「あたしも今朝携帯電話を見たら、加奈ちゃんからそういうメール
が来てただけだから」千寿留はそう言うと、向かいの席に座る加奈
にきく。「昨日、何があったの?」
すると加奈は、周りに聞こえないように声のトーンを落として話
す。
「昨夜の九時くらいかな。私、学校に忘れ物をしたのに気づいて、
一緒にいた和氣さんとそれを取りに戻ったの。そうしたら、理科室
で人が倒れていたのよ。頭から血を流してた」
それを聞いた俊樹と千寿留が目を合わせる。
「私も和氣さんも本当にびっくりした。それで慌てて警察に通報し
たの。警察の人が来たあとで、私たちは別の教室でずっと質問をさ
れたわ。だからよく知らないけど、教頭先生たちも呼び出されたり、
騒ぎに気づいた近所の人たちが学校に集まってきたりして大変だっ
たみたい」
「そうだったんだ......」
「倒れていた人は藤崎さんの知ってる人?」俊樹がきく。
「鈴原君と言って、教育実習に来ていたO大の学生さんでした」
「血を流してたっていうことは、もしかして......」
「いいえ、救急車で運ばれたときにはまだ息はあったみたいです。
ただ、意識のない状態だったのでそれからどうなっているのは分か
りません」加奈暗い顔をする。
「それで犯人は捕まったの?」
「まだだと思う。少なくとも私たちが鈴原君を見つけたときは、他
には誰もいなかった。理科室も隣の準備室も鍵はかかっていたし、
窓が開いていたり、ガラスが割られていた跡もなかった。ただね、
一階の校舎のドアだけは開いていたみたいなの」
「だったら、犯人はそこから校舎に出入りしたのね」千寿留が言う。
しかし加奈は、首を振ってそれを否定する。
「昨日、学校の戸締りをしたのは和氣さんで、私もそれを手伝った
の。そのときには校舎中に誰も残っていないことを確認して、二人
で鍵をちゃんと閉めているわ。だから、普通ならあのドアから中に
入ることはできないはずなの」
「だったら、その大学生か犯人がそこの鍵を持っていたのかもしれ
ない」
「それも無理だと思う」加奈が言う。「校舎の鍵は、基本的に職員室
にある専用のボックスの中で保管されているの。それにボックスに
も鍵がついていて、勝手には持ち出せないようになっているわ」
「そのボックスの鍵は誰が持っているの?」
「朝と夜は当番の先生が持っているから、昨日は和氣さん。それ以
外の日中は職員室にいる誰かが持っていることになっている。あと
は校長先生と教頭先生が個々に常備しているけど、それは非常用だ
から滅多に使うことはないの」加奈が答える。「学校は、夜の段階で
臨時休校を決めたわ。とりあえず今日は休みで、明日には保護者向
けの説明会をして、問題がなければ明後日から授業を再開するみた
い」
「こういうとき、学校の先生は大変だよね。生徒の精神面も注意し
ないといけないだろうし」俊樹が言う。
「それは教師として当然の仕事だから、別に負担だとかは思ってい
ません。ただ、生徒の間で変な噂が広まりそうな気がして、それが
少し心配で......」
「変な噂?」
「鈴原君、頭の怪我以外に顔にも火傷をしてたんです。彼が倒れて
いた近くのテーブルの下から空になった薬品の容器が見つかったら
しくて、たぶん塩酸か何かをかけられたんだと思います」
「悪質ね」千寿留が眉をひそめる。
「実は最近、学校で流行っている怖い話の中にそれと似たような場
面があるんです。だから、子供たちの中には過敏に反応してしまう
子もいるじゃないかと思って」加奈が説明する。
「それはあるかもしれないね。中学生くらいの年頃って、そういう
話は特に好きだし、それに何でもすぐに影響されやすいから」俊樹
が言う。
「なるほど。幽霊の仕業かぁ」
そのとき、千寿留が感慨深い声を出した。
「......村瀬さん、なんで納得したみたいな顔してるの?」
「分かってると思うけど、単なる作り話なんだからね」
「分かってる分かってる。あたしって、自分の目で見たものしか信
用しない方だから大丈夫だって」彼女は訝しげな顔をする二人に手
を振りながら言う。
「でも、今の言い方は......、ねぇ?」
俊樹が加奈に同意を求めると、彼女もそれに頷く。
「だって、怪談とかそういう類の言葉を聞くと、とっても神秘的な
気分になるんだもの。こればっかりはどうしようもないわ」
千寿留は目を細めると、嬉しそうな顔を浮かべていた。
2
木曜日の夜、俊樹は会社帰りに凪森健の自宅を訪れた。
翌日は先日休日出勤をした代わりの休みだったので、今夜は凪森
と飲み明かす約束をしていたのだ。
凪森の住居は、俊樹の会社からさほど遠くない場所にある。年始
に再会して以来、俊樹は何度かここに来たことがあったが、同年代
の単身者にしては贅沢なくらい広い部屋だった。
働きもしていない凪森がどうやってこの生活を維持しているのか
俊樹には疑問だったが、凪森本人がその詳細を話す気配はなく、彼
もそれを問い詰めるようなことは一度もしていない。誰にだって、
他人には知られたくない事柄の一つや二つはあるだろう。
「そんな事件が起きてたのか」グラスを手にした凪森が呟く。
「部屋には鍵がかかっていたのに、その中に人が倒れてたなんて不
思議だろう?」
彼の正面のソファに座っていた俊樹が笑顔で言った。
昨日、加奈から聞いた話を凪森にも話したところだった。
彼女の心情を考えると、こうやって気楽な雰囲気で話すのには若
干の気後れもあったが、正直なところ俊樹にとっては直接関係のな
いことであり、それに酒の肴にはもってこいの話題だった。
「合鍵があれば不思議ではないな」凪森が平然と言う。
「部屋の鍵は普段職員室で保管されているから、誰にも気づかれず
に持ち出すのは難しいらしい。たぶん合鍵なんて作ってたら、すぐ
に誰かにばれるんじゃないかな?」
「だが、絶対に作れないわけではない」
「それは、たぶんそうなんだろうけど」俊樹が不満げに言った。
「それに、鍵がなくても校舎に入る方法はある」
「本当か? どんな方法?」彼が尋ねる。
「鍵のタイプにもよるが、一般的なものであれば、針金のような細
い棒を使って鍵穴のロックを外すことはできる」
「漫画とかに出来る泥棒が使うやつか」
「ピッキングと言われる手法で、鍵を持っていない場合には有効な
手段だ。ただし、鍵の機構を理解して、手先も器用でないと開ける
のは難しいらしいけどな」
「つまり犯人は、昔から窃盗癖のある人間ってことか?」
「あくまでもその可能性があるという話をしているだけだ。たまた
まそういう技術を持った人物が、偶然被害者と一緒に校舎に忍び込
んだと考えるには都合が良すぎる」
「けどさ、犯人とその実習生はもともと窃盗仲間で、学校にある何
かが欲しかった。それで夜中の学校に侵入したんだけど、最後にそ
の取り分で揉めてしまって突発的に起きたとか意外とありそうじゃ
ないか?」
「もしそうなら、現場から何かが盗まれているはずだ。そういう話
も聞いているのか?」
「いいや。たぶん、藤崎さんもそこまでは知らないんだと思う」俊
樹が言う。
「あまり現実的な考えではないがそれも否定はできない。だが、そ
れなら別の可能性だってあるだろう」
「例えば?」
「もともとは、被害者の方が犯人を襲おうとしたというケースだ」
「なるほど。その場合は被害者が鍵開けの名人ってことか」俊樹が
頷く。「でも逆に返り討ちにされてしまった。なんだ、こっちの方が
それっぽいな」
「ただその場合は、どうして犯行場所をわざわざ中学校にしたのか
という疑問が残る」
「あ、そっか」
「今の話だけでは情報が少なすぎて、そこまでの判断はつかない」
凪森が言う。「ちなみに、凶器はなんだったんだ?」
「さあな。被害者の子は後ろから殴られたらしいってことだけで、
あとのことはなんとも」俊樹は首を傾げると、胸の前で両手を広げ
てみせる。
「つまり分かっているのは、犯人はその大学生と共に学校へ忍び込
んで何らかの理由で彼を襲った、というただそれだけでしかない」
「だとすれば、犯人は被害者の知り合いだと考えるのが妥当だよな。
じゃないと、誰もいない夜の学校なんかには普通行かないだろうし」
「被害者とある程度面識があって、事件当日に被害者と会っていた
人物というだけでかなり絞り込むことができる。それに、事件を起
こした直後はおそらく普段より挙動不審な部分もあるだろう。それ
だけの条件が揃えば、警察はすぐに犯人を突き止めるはずだ」
「でも、うちの会社の人経由で今日聞いた話では、まだ犯人は捕ま
ってないらしい。事件があってから二日くらいしか経ってないから、
これからなのかもしれないけど」
「もしかしたら、犯人は幽霊だったりしてな」
「幽霊だぁ?」
凪森の発言があまりにも突飛だったので、俊樹は声を上げた。
「さっき言ってただろう? その学校では今、怪談が流行っている
って」凪森は無表情で言う。「事件が発見されるまで、現場は教室と
校舎で作られた二重の密室ができていた。被害者がどんな方法で侵
入したのかまでは分からないが、犯人が幽霊であればその状態を維
持したまま姿を消すことは可能だ。なにせ、あっちには実体がない
んだからな」
「そりゃあ、藤崎さんがちらっとそんなことを言ってたけど、さす
がにあり得ないだろそれなら、犯人が元窃盗犯だっていう方がまだ
現実的だ」俊樹が真面目に反論する。
「そんなにむきになるなよ。ただの冗談だ」すると凪森が笑う。
「凪森が真顔で言うと冗談に聞こえないんだよ。そういうの苦手な
んだから勘弁してくれよなぁ」俊樹は、険しい表情のままで言った。
「とにかく、これだけでは事件を解決するのは極めて困難だ」
「俺もちょっと聞いただけだし、最初から犯人を推理しようなんて
これっぽっちも考えてない。だた妙な話もあるもんだなと思っただ
け」俊樹が言う。
「たしかに面白そうな事件ではあるな」凪森が言う。「また、何か新
しいことが分かったら教えてくれよ」
「ああ、それは構わないけど」俊樹が応える。
そのとき、テーブルの上に置いていた彼の携帯電話が光を点滅さ
せながら振動をはじめた。
「電話だ」無表情に戻った凪森がそちらを見る。
「残念。メールだよ」俊樹は凪森に向かって笑ったあとで、携帯電
話を手に取る。「村瀬さんからだ」
「それが、例の新しく会社に入ってきた子か」
「そうそう、村瀬千寿留さんっていう可愛い子だよ。そういえばこ
の前、村瀬さんからパソコンのメールが送られてきて分かったんだ
けど、彼女のファーストネームって、アルファベットだと頭文字が
CじゃなくてTなんだよ。少し変わってるだろ?」
「アルファベット表記は、たしか本人の自由だったはず」
「そうなんだ。いろいろ物知りだよな」
「その子とは連絡を取り合ってるのか?」
「たまにね。あ、勘違いしないように言っておくけど、普通の友達
だからな」
「別にそこまで聞いてない」
俊樹は受信したメッセージを開く。
「悪い。俺、明日早めに帰るわ」彼は凪森を見て言う。
「どうした?」
「村瀬さんが、二人で出かけたいところがあるらしいんだ」
「デートか。宮房が消極的な分、相手が積極的なのはバランスが取
れていて良い」
俊樹は愉快そうに笑いながら言う凪森を軽く睨むと、そのあとで
もう一度ディスプレィに並ぶ文字列を眺めて怪訝な表情を浮かべた。
3
翌日。
朝早く凪森の家を出た俊樹は、一度自宅に戻って着替えを済ませ
てから再び出かける。
千寿留との待ち合わせ場所は、市内にある運動公園だった。
彼は公園のベンチに腰掛けると、携帯電話を確認する。約束の時
間よりも五分ほど早い。
空を見上げてみる。晴天ではないが、雨の降りそうな気配も感じ
られなかった。
公園には、小さな子供たちと母親と思われる女性の集団や犬と散
歩をしている老人、スポーツウェアを着て熱心にウォーミングアッ
プをしている者もいる。その長閑な風景を目にすると、彼は自分が
いかに浮いた存在であるかを認識して少し気恥ずかしくなった。
彼は、昨日と同じようにスーツを着ていた。
決して千寿留と二人だけで会うからという理由で気合いを入れて
いるわけではない。もしそういったシチュエーションなら、もっと
気の利いた服装を考えるだろう。
これは、千寿留からの要望だった。
昨夜、彼女から届いたメールを確認する。その文末には、はっき
りとスーツ着用という文字が書かれていた。
こんな格好をして一体どこに行くつもりなのだろうか。
俊樹は、彼女の意図が分からなかった。
「おまたせ」
画面を覗き込んでいた俊樹が顔を上げる。
「わっ」彼は目に映ったものを認識すると思わず声を出した。
「もう、こっちを見た途端に変な声出さないでよ」
正面に立っていた千寿留が口を尖らせて言う。しかし、その顔に
は笑みがこぼれている。
「ごめんごめん」俊樹は立ち上がると、彼女をまじまじと観察する。
彼女はグレィのパンツスーツを身に着けていた。さらに、黒いク
レームのメガネまでかけている。
「似合うでしょ?」
彼の視線に気づいた千寿留は、やじろべえのように両手を広げて
言った。
今の彼女は、普段職場見かける私服姿とは印象が大きく異なって
おり、俊樹には新鮮に映っていた。
とても似合っている、と彼は思った。ただし、その率直な感想が
表に出ることはない。
「それ、伊達眼鏡?」彼は冷静な口調を装いながら尋ねる。
いつの頃からか、何事も受け身に回るという姿勢が基本になって
いた。だからこの反応も彼にとってはいつものことであり、つまる
ところ、それは一種の防御であるとも言えた。もし自分が格闘家に
でもなっていたら、ボクサではなく間違いなくレスラを選んでいた
だろう、と彼は思っている。
「本物だよ。あたし、実は凄く目が悪いの。仕事のときはコンタク
トにしてるんだけど、それ以外はだいたい眼鏡なの」
「そうなんだ」
「だから、新しいものを買うときはいろいろ手間がかかるのよね」
千寿留は、フレームの側面を指で軽く触れながら上目遣いをする。
「それで、出かけたいところって?」
その魅力的な仕草に対しても彼はポリシィを貫き通し、話を切り
替えることで対処する。
「うん、ここから少し行ったところ。車で来てるからすぐに着くわ」
彼女が言う。素っ気ない俊樹に気を害した様子はなかった。
すると彼女は、いきなり俊樹の腕を取って歩きはじめる。
彼は事情をよく飲みこめないまま、強引に引っ張る彼女に従うし
かなかった。
彼女の車は赤いマーチだった。
俊樹は車に詳しい方ではないが、道路でよく見かけるこの車の形
状と大きさには以前から好意的な印象を持っていた。
俊樹は、こじんまりしたものを好む傾向がある。これは、自分の
目の届く範囲で全てが把握できるという安心感、裏返せば、未知へ
の不安からの逃避とも言えるのかもしれない。
そして、彼がここ丘山に住んでいることにもそれは起因していた。
彼が生まれ育った場所は、その地方一帯では代表する大都市だっ
た。大学四年生で就職活動をしていたとき、彼には地元に戻ると選
択肢もあったのだが、それでも、お世辞にも都会とは言い難い丘山
から離れるつもりは毛頭なかった。それは一人暮らしではないもの
の、実家通いとは違ってある程度自分の自由に生活ができるという
気楽さを切り捨てたくなかったこともある。だがそれよりも、栄え
過ぎず、かと言って廃れ過ぎてもいない適度なバランスを保ち、か
つ半日もあれば街の主要部分を網羅できるこの土地の程よい規模に
惹かれたのが一番大きかった。
車は、五分も経たないうちに大通りから逸れて路地に入る。
俊樹の座る助手席からは、緑のフェンスに囲まれたグラウンドが
見えていた。その奥には、横に三つ並んだ建物も確認できる。
そのとき、彼は藤崎加奈が勤務先の中学校で巻き込まれたという
事件を思い浮かべた。それと合わせて、千寿留がその事件に興味を
示していたことも思い出す。
「これって、学校だよね?」
「うん。加奈ちゃんが勤めている中学校」
予想通りの返事だった。
「まさか、ここに行く気?」
「そうだよ。これから私たち二人で乗り込んで、事件のことを独自
に捜査するのよ」
「捜査っ!」
俊樹は、平然とそう言い放つ彼女を見つめる。
彼が思っていたのは、せいぜい事件のあった場所などを見学する
程度のものだった。それだけでも、部外者である自分たちが単なる
興味本位でやって良いことではない。しかし千寿留の口から出た言
葉は、その想像をさらに上回るものだった。
「勝手に連れてきてごめんなさい。でも先に話したら、たぶん断っ
たでしょう?」
「当たり前だよ」俊樹は不貞腐れて言う。
「あたし、どうしても加奈ちゃんが言っていた事件のことが気にな
るのよ。ただ、正確な情報は加奈ちゃんに聞くだけじゃ不充分だわ。
だから、この際自分で調べてみようって思ったの」
何がこの際なのか、彼にはさっぱり分からない。
「だったら、一人で調べればいい。なんで僕まで行く必要があるの
さ」
「二人の方が物事を客観的に分析できると思ったから。それに宮房
君は優しいから、ちゃんと協力してもらえるんじゃないかなって」
千寿留は悪びれもせずそう言うと、彼に微笑みかける。
「あり得ない。こんな人を騙すみたいなやり方」
「本当にごめんなさい......。それと、お願いだから協力して」
彼女の視線は、先ほどから正面の道路と俊樹の間を何度も往復し
ている。
俊樹は険しい顔で千寿留を睨む。その強引な方法に不快感を抱い
ていた。
「もちろん、無許可でそんな真似しようなんて考えてないわ。ちゃ
んと学校から了承はもらうから、そこは安心してくれていいわ」
「そんなの無理でしょ」俊樹が冷たく言う。
普通に考えて、そんな許可は絶対に下りるはずがないと思った。
ただ千寿留の表情には余裕があった。
「そう。普通なら、ね」彼女は含みのある言い方すると、ハンドル
を切って車を校内に入れる。
彼はその言葉が気になったが、彼女はそれ以上何も言わなかった。
校門から見て右隅に駐車スペースがあった。職員のものだと思わ
れる乗用車が秩序ある列を作って綺麗に並んでいる。
千寿留は、外壁の近くに空いていたスペースに車を滑り込ませる。
「これから、ここの校長と会うことになっているの。できれば、宮
房君もそこに来てほしい」彼女は俊樹を見つめる。「でもどうしても
嫌だって言うのなら、それはしかたがないと思ってる。あたしも卑
怯な手を使ったんだから無理にとは言えないから」
俊樹は、黙って彼女と目を合わせる。
そして、しばらくそれを維持したあとで小さく嘆息した。
「......今回だけだからね」
「本当っ!」
「ここで断ったら、歩いて帰らないといけなくなるし」彼はむっす
りとしたままで言った。
「ありがとう」千寿留は両手で彼の手を握って礼を言う。
「その代わり、もうこんなことはしないでよね」
「絶対しない。約束するわ」千寿留は何度も頷く。その顔は嬉々と
していた。
騙されたというショックは残っていたが、実際のところ、俊樹は
そこまで腹を立てているわけではなかった。元来、他人に怒りをぶ
つけるのは苦手な方である。
また、千寿留がこんなことを平気でするような人間にも見えない。
人を欺くまでして彼女が強く望んでいるのだから、少しくらいは付
き合っても良いのではないかと彼は思った。また、彼女がどんなに
頼み込んだとしても、学校側がそれを素直に聞き入れることはまず
ないだろうという予想もしていた。
車を出た二人は、三つ並ぶ校舎のうちの真ん中の棟へ向かう。
その校舎の一番西側には来客用の玄関があった。千寿留はガラス
扉の横に設置されていたインターフォンを押す。
少しして、建物の奥から中年の女性が現れる。
千寿留がその女性に用件を告げると、女性は玄関のすぐ左隣にあ
る部屋に二人を案内する。そして二人が部屋に入ると、女性はすぐ
に出ていった。
「今のは用務員の人かな?」
「たまたま授業がなかった先生かもしれないわ」
二人は部屋にあったソファに座って待つ。
そしてしばらくすると、ドアをノックされたあとで初老の男性が
中に入ってきた。
俊樹と千寿留は立ち上がると頭を下げる。
「校長の嬉野と申します」男も軽く会釈をする。「どうぞ、おかけに
なってください」
嬉野校長は、豊かな白髪と口髭を蓄えた紳士的な雰囲気を持った
人物だった。高級そうなスーツを着ている。
「お久しぶりです。ご無沙汰しております」
三人が席に着くと、まず千寿留が丁寧な口調で正面に座る嬉野に
言う。
「いえいえ、私もここ最近は全くご挨拶ができてなくて恐縮してい
ます。えっと......」にこやかに話していた嬉野の目が泳ぐ。
「村瀬です。村瀬千寿留」彼女が名乗る。
「おぉそうでした。どうもこの頃、人の名前を忘れやすくなりまし
てな。そろそろ呆けてきたのかもしれません」嬉野が笑った。「貴女
にお会いするのは何年振りでしょうか?」
「十年ほど前だと、私は記憶しています」
「当時も可愛らしいお嬢様でしたが、お目にかからない間にさらに
お美しくなられたようだ」
「ありがとうございます」千寿留が微笑む。
そのやりとりを見ていた俊樹は、不思議そうな顔をする。
すると嬉野がこちらに目を向けたので、彼はすぐに真顔に戻した。
「そちらは?」
「宮房さんと言って、私の親しい友人です」
「宮房俊樹と言います」俊樹は座ったまま礼をした。
「そちらのご用件は聞いています。火曜日に起きた事件について調
査をしたいとか」嬉野が早速本題に入る。
「はい。お手数をおかけするのは重々承知していますが、どうかお
許しいただけないでしょうか?」
「うむ」嬉野は小さく呟くと、二人から目を逸らす。
しばしの沈黙ができる。
「外部の人間に校内を動き回ってもらうのは遠慮していただきたい。
ましてや警察でもない部外者の方に探偵ごっこみたいな真似をされ
るのはもってのほかです」
膝の上で両手を組み難しい顔をした嬉野は、重みのある声でゆっ
くりと言った。
そこで俊樹は安心する。
思っていた通りの反応ということもあったが、場合によっては怒
鳴り声を上げられて追い出されるのではないか、と内心穏やかでは
なかったのだ。しかし、どうやらこの校長は、過激な態度を示す人
物ではなさそうである。きっと、このまま穏便に体良く断られて終
わりだろうと思った。
ところが、そこから嬉野の口調が途端に優しくなる。
「......本来なら、そう言わせてもらうところです。しかし、貴女か
らの強いご要望とあれば、無下に断ることはできませんな」彼は表
情も緩める。「職員たちには、貴女たちのことを教育委員会の依頼で
来た事件の調査員とでも言っておきましょう。それである程度は自
由に行動できるはずです」
「ご無理を言ってすみませんでした。ご厚意に感謝します」千寿留
が深々と頭を下げる。
「ただし、この件は他言無用でお願いします」嬉野が言う。「ここに
は年頃の子供たちが大勢います。今日は授業が再開したばかりで、
まだ動揺している生徒もいるはずですので、そのこともお忘れのな
いように。また分かっているとは思いますが、授業の妨げになるこ
とも決してしないようにお願いします」
「もちろんそのつもりです」千寿留は嬉野に微笑みかけた。
彼女の隣で聞いていた俊樹は、予想外の展開になり目を丸くする。
状況が把握できていなかった。
否。正確にはある程度は理解している。
つまり自分たちは、事件を調べることを学校側から内密に承認さ
れたことになる。
だが、なぜ嬉野校長は偽装までして千寿留の要求をすんなりと受
け入れる必要があるのか、それが彼には全く分からなかった。
嬉野は、授業が終わるまで待機するように二人に言い残して部屋
から出ていった。
「どういうこと?」俊樹は困惑した表情で千寿留に尋ねる。
「あたし、あの校長とは遠縁の親戚なの。それに、教育委員会にも
少しだけ顔が利いたりするのよね」彼女は得意げに言う。
「何それ?」
「ちょっとしたコネってやつかな。予めいろいろと根回しはしてい
たから、実は最初から勝算はあったのよ」
「でも、コネって言っても、普通こんなことまで......」
「それについてはあまり気にしないで。女には秘密がつきものって
言うでしょ?」
俊樹は、話をはぐらかそうとする千寿留を納得のいかない様子で
見る。しかし、どうやら彼女は、もうその話をする気はなさそうだ
った。
「協力、してくれるよね?」彼女が改めてきく。
「......さっき、オーケィしたからね。それにもう引き返せないとこ
まで来てるみたいだし」
彼は諦め気味に言うと、後ろを振り向いて窓の外を眺める。
そこには数人の生徒たちが大きなノートを片手に持ち、熱心に大
きな紙に向かってペンを走らせていた。
写生でもしているのだろうか、と全く関係ないことを考える。
そうやって少しの間現実逃避していた俊樹は、外から聞こえる無
邪気な声を耳にしながら、自分が置かれている状況とのギャップを
認識して大きく息を吐く。
(厄介なことになった)
それが率直な感想だった。
4
俊樹と千寿留は、授業の終わりを告げる懐かしいチャイムが鳴っ
たのを確認してから部屋を出た。
二人が自由に動き回れるのは、この昼休みの間までという制限が
ついていた。これは、放課後にやって来る予定の警察と鉢合わせに
ならないためだと千寿留が説明した。
要するに学校には事前に話が通っていたのだ、と俊樹は思った。
先ほどまで無人だった廊下には、生徒たちがちらほらと姿を見せ
ていた。彼らは、物珍しそうに俊樹たちを見ている。
「とりあえず理科室に行きましょう。そうすれば加奈ちゃんにも会
えるだろうから」生徒たちの視線を気にしながら千寿留が言う。
「だったら、ここで待っていればいいんじゃない?」
俊樹は、廊下の左側にある大きな部屋に目をやる。その部屋の両
端にあるドアの上には、職員室と書かれたプレートがあった。
「加奈ちゃん、普段あまり職員室にはいないって言ってた。だいた
い理科準備室にいるんだって」
「ってことは、理科室の隣?」
「そう。だから一石二鳥」
理科室の場所は、既に嬉野校長から教えてもらっている。
二人は職員室を素通りすると、放送室と生徒用の下駄箱の前を通
過する。そして校舎の端までやって来ると、左側には階段、正面に
はアルミ製のドアが開けっ放しにされていた。ドアの先は一旦屋外
へ出るようになっており、その数メートル先には別の校舎へ通じる
ドアが同じように開かれていた。東棟と呼ばれているその校舎の二
階、その東端が理科室である。
ドアを通って外へ出た二人は、東棟の方からこちらへやって来る
生徒の集団を避けるために左側に膨らんで迂回する。楽しそうにお
喋りをしていた生徒たちは、俊樹たちを見た途端静かになり、じっ
と彼らに注目していた。
俊樹は、その視線から逃れるために左を向く。
そちらは正門のある方角で、敷地を仕切っているフェンスの脇は
縁石で囲まれた庭があった。そこには、フェンスよりも背の高い木
と逆に足元くらいしかない低い木が植えられており、他には大きな
石が幾つか置かれていた。正門の傍に同じような場所があったので、
おそらくそれが続いているのだろう。
そのとき彼は、庭の近くに数人の生徒が集まっているのに気づく。
「不良グループだね」千寿留も同じ場所を見ていた。
そこには派手な外見をした少年たちが、だらしない姿勢で寛いで
いた。そのうち、グループの一人がこちらに気づくと俊樹を睨みつ
ける。彼はすぐに目を逸らす。
「今でもいるんだね、やっぱり」千寿留に話しかける。
「どうして小声になるの?」
「いやぁ、なんとなくそうしないといけないような気になって」
「もしかして、怖いの?」
「怖いというか、苦手なんだよ。ああいう威圧的な態度をする子た
ちって」
「やっぱり怖いんだ」千寿留が悪戯っぽく笑う。「でも、あの子たち
は中学生なんだよ」
「それは分かってるんだけど、どうもね......。それに最近は、不良
じゃなくても制服を着てる集団を外で見かけるとちょっと怖いな」
「なんで?」
「街中は基本的に年齢も服装もばらばらな人間たちばっかりなのに、
その中に同じ服を着た同じくらい歳の子が群れになって歩いてるん
だからね。個人的にそれは凄い光景だと思う。それに小さい子供と
かだったらまだ、可愛いらしいで済まされるけど、最近の中高生は
大人それよりも体格の良い子が多いから、余計異質に映るんだよね」
「なるほどね。そう考えると、学校ってその異様な集合の最大単位
みたいなものだから、人によってはかなりずれた場所に見えるのか
もしれないわね」
「それは言えてるかも」
「でも、だとしたらおかしいよね」千寿留が言う。「学校って集団行
動を学ぶための場所なんだから、言ってみれば将来大人になって所
属する会社とか一般社会のミニチュア版というか、予行演習場みた
いなものでしょ? それなのに、そこ学んでいる子たちが一歩外に
出たら、大人から変わったものとして見られるなんて」
「子供は少数派だから余計目につくのかもしれない。それに社会人
になったら大勢で一緒に行動することって少ないし、上から下まで
全く同じ服装になる機会なんて滅多にないから」
二人が東棟に到着する。
そして校舎の中に入った途端、俊樹は辺りの雰囲気が変わるのを
感じ取った。
「急に暗くなったわね」千寿留が周囲を見る。
「外が雑木林みたいになってるからかな」彼は窓の外を眺めながら
言った。
先ほどの校舎とは違い、東棟の傍には沢山の木々が視界を遮るよ
うに立っていた。そのせいで陽射しはあまり届かず、校舎の中は全
体的に薄暗かった。
「それだけじゃない。建物自体も古いわ。あっちの校舎は床が白い
タイルだったのにここは板張りだし、壁も汚れが目立ってる」
通路の奥に階段を見つける。この校舎には階段が一つしかなく、
建物の規模も隣の校舎より小さかった。
二階に上がってすぐ左折すると、その正面に理科室のドアが現れ
る。さらにその左側には隣接した部屋があり、理科準備室というプ
レートが掲げられていた。
千寿留はその部屋をノックし、奥からの返事を聞くとドアをスラ
イドさせた。
「やっほぅ」
「千寿留ちゃんっ!」
窓際に置かれた机にいた加奈が千寿留を見て驚く。
「こんにちは」俊樹も千寿留の後ろから声をかける。
「宮房さんも......。でも、どうして?」
「ちょっとね。例の事件を調べることになったの」
「事件って、鈴原君の?」
「そうだよ。教育委員会から依頼があったの。宮房君は、あたしの
アシスタント」千寿留が言う。その表情は至って自然だった。
「え? でも、なんで......」加奈が呟く。やはり話が呑み込めてい
ない。
「あんまり気にしない方が良いと思うよ。女性には秘密がつきもの
らしいから」俊樹は、肩を竦めると皮肉っぽい笑みを浮かべてそう
言った。
5
「鈴原君はこの辺りで倒れてたの」加奈が床を指しながら言う。
理科室には、縦横三列ずつテーブルが均等に並べられ、黒板の前
にも同じものが教壇の代わりに置かれていた。
そして俊樹たちは今、教壇から見て一番右側の列の中央と一番奥
のテーブルの間に立っている。
「こう、仰向けになっていたわ」加奈は胸の前に水平に上げた両手
で円を作ると、そこに顔を埋めるようなポーズを取る。
「頭を怪我してたんだよね?」千寿留がきく。
「ええ、後頭部から血が出ていて、顔の周りにも血溜まりができて
いたわ」
「なら、やっぱり犯人は後ろから殴りかかったんだね」俊樹が言う。
「凶器は何だったの?」
「そういうことは全然。詳しいことは教えてもらってないんです」
「あ、もしかして何か盗まれた物はなかった?」
彼は、昨夜の凪森との話を思い出す。
「盗難はなかったみたいです。ただ、空になった塩酸の容器が一つ、
そこのテーブルの下に転がっていました」加奈は一番奥のテーブル
を見る。
「この前言ってた火傷のやつだね」
「鈴原君は顔に塩酸をかけられていました。すぐに水で洗い流せば
大丈夫だったんですが、皮膚に触れてから時間が経っていたんです」
「塩酸って、どれくらい放っておくと火傷になるのかしら?」千寿
留がきく。
「ここにあった溶液の濃度だと、一時間くらいはかかると思うわ」
「塩酸の容器は、どこに置いてあったものなの?」
「あそこよ」加奈が部屋の奥にある大きな棚を指す。
壁際に置かれた棚の中には、天秤などの器具や薬品のガラス容器
が入っていた。
「本当なら、そこの鍵は、全部理科室の鍵と一緒に職員室で保管し
ておかないといけなかったの。でも以前、実験の度にいちいち鍵を
取りに行くのは面倒だって話になって、最終的には部屋を空けると
きは部屋を施錠するから大丈夫だろうってことで、準備室の引き出
しの中に置くようになっていたわ。でもそのせいで、鈴原君があん
なことになってしまって......」加奈が俯く。
「それはちょっと考え過ぎだと思う。たしかにしっかりした管理は
できてなかったみたいだけど、それは犯行とはまた別の問題。だか
ら、加奈ちゃんがそんなに責任を感じることではないわ」千寿留が
加奈の肩に手を添えて宥める。
「つまり犯人は、準備室にあった棚の鍵を使ったということ?」俊
樹がきく。
「はい。棚には無理矢理開けられた跡はありませんでした。それで
警察が引き出しにあった鍵を調べてみたら、指紋が綺麗に拭き取ら
れていたらしいんです。普段、鍵を使っている私たちの指紋も全部」
「そうかぁ。ということは、犯人は鍵が準備室にあることを予め知
ってた人物なのかもしれない」
「そうかな? もし鍵を探すとしたら、誰だって最初は引き出しと
かを見るのが普通だと思うけど」千寿留が反論する。「ちなみに、そ
この鍵はかかっていたの?」彼女は、三人が理科室に入ったときに
使った、準備室と理科室を繋ぐドアを見た。
「あそこの鍵は前から壊れてるの。これもさっきと同じで、理科室
と準備室の鍵はかけるからって理由でずっと直してなかった。だか
ら一昨日も、帰るときにドアを閉めるだけしかしてなかったわ」
「なら犯人は、準備室か理科室のどちらかに入りさえすれば塩酸を
手に入れることができたわけね」
「もしかすると、塩酸をかけるのは犯行のあとで思いついたのかも
しれないよ」俊樹が言う。
「どういうこと?」
「例えば理科室に侵入したときに、犯人はたまたま準備室のドアに
鍵がかかっていないことに気づいた。それで机の中を探ってみたら
棚の鍵を見つけたってことも有り得ると思う」
「そうか。その場合だと、犯人は薬品を使うつもりはなかったこと
になる」
「それとも、最初から無理をしてでも塩酸を取ろうと思っていたけ
ど、鍵があったからそれを使ったのかもしれない」加奈が付け加え
る。
「どちらにしろそんなものを顔にかけるくらいだから、犯人はその
鈴原って子にかなりの恨みを持っていたはず」千寿留が言う。「ねぇ
加奈ちゃん、確認なんだけど、ここと準備室はどちらも鍵がかかっ
ていたのよね?」
その質問に加奈が頷く。
「あの夜、私たちが学校に戻ったときには準備室の施錠はちゃんと
してあったわ。鈴原君を見つけたときは、準備室から理科室に入っ
たのだけど、警察の人が来たとき、理科室の鍵がかかっていたせい
で皆さんが中に入れなくて、そこでようやく気づいて鍵を開けたの。
だから、ここの戸締りはちゃんとできていたはず」
「けど校舎の鍵は開いていたんだよね?」
「うん。私と和氣さんが学校に戻って来たときは、二階の渡り廊下
のドアしか開けなかった。でも警察が来たときには、鍵がかかって
いるはずの東棟の一階のドアが開いていたらしいの。そのあとで刑
事さんから聞いた話だと、それ以外に人が出入りできそうな場所は
全部施錠されていたらしいわ」
「だとしたら、犯人は逃げるときにだけそこを使ったのかもしれな
い。ただ、その場合はどうやってこの部屋まで入ったのかが分から
なくなるけど」千寿留が首を傾げる。「他に、警察が見落としている
ような場所に心当たりはない?」
「校舎の出入り口は、一階から三階までの各階の一番西側に一つず
つあるわ。二階と三階は中棟へ続く渡り廊下になっていて、一階は
外に出られるようになっていて、今はそこだけしか使われていない
と思う。ただ......」加奈はそこで言葉を止めると、右手を頬に当て
て考え込むような仕草をする
「ただ?」
「この校舎には、それ以外にもう一つだけ外と出入りできる場所が
一応あるにはあるのだけど......」
彼女は、千寿留を見ながら歯切れの悪い返事をした。
6
理科室を出た三人が階段を下りる。
加奈が口にしたもう一つの出入り口は一階あるのだという。
「そういえば、理科室は綺麗だったね。少しくらいは警察が調べた
跡とかが残ってるのかと思ってたけど」俊樹が言う。
「理科室は、昨日のうちにひと通り調べ終えたらしいんです。なの
で普段通りあそこで授業もしています。ただ昨日の今日なので、生
徒たちはあまり理科室を使いたくはなさそうですね」
「そうでしょうね。事件があった場所だって思うだけで、なんとな
く気味が悪くて近づきたくなくなると思うわ」
「あの子たちの気持ちを考えると、当面は使用禁止にすればいいの
でしょうけど、普通の教室で実験をするのは難しいですし、代替の
場所もないので、どうしてもあそこを使わないと授業が消化できな
くなるんです」
「そっか。だからこの校舎も全体的静かなのね」千寿留が言う。
隣の校舎では生徒たちの姿もあったが、東棟に入って以来、俊樹
たちはまだ、加奈以外には誰とも会っていない。この三人しか中に
いないのではないか、というくらい校舎はひっそりとしていた。
「東棟は特別教室しかないから、授業がないと人はあまり来ない場
所なの。でも普段なら、授業の合間とかお昼休みになると準備室に
も生徒が何人かやって来て、授業の質問だったり一緒に食事をした
りするんだけど、さすがに今日は誰も来てないわ」
一階に下りると、先頭を歩いていた加奈が階段のすぐ右側にある
部屋の前で立ち止まる。
俊樹たちもそちらに目をやる。
小さな部屋だった。
理科準備室や他の教室は、スライド式の木製のドアが二枚あった
が、この部屋は幅の狭いドアが一枚あるだけで、他とは違いドアノ
ブが付いていた。そしてドアに嵌め込まれたガラスもここだけ擦り
ガラスになっており、中を見通すことはできない。
「生徒資料室という部屋で、昔は生徒会が使っていた倉庫だったら
しいんですが、今は何も使われていません」加奈が説明する。「この
部屋の突き当りには扉があるんです。以前はそこからも外に出るこ
とができました」
「以前は?」千寿留が言う。
「正確に言うと、この部屋は使わなくなったのではなくて、使うこ
とができなくなっているのよ」
加奈は、ドアノブに手をかけて開けようとする。しかし扉はびく
ともしなかった。
「私が赴任した年に部屋の鍵がなくなって、もうこのドアを開けら
れなくなったの」
「それは紛失? それとも盗難?」
「分かっていないの」加奈が首を振る。「ここは私が来る何年も前か
ら使っていない部屋だったから、誰も気を留めていなくて、気づい
たときにはもう鍵は保管場所から消えていたのよ。それでね、その
ことにみんなが気づいたとき、学校では隣の技術室を改装するって
話が出ていて、その計画で生徒資料室もなくなることになっていた
の。だから、もう使う予定のない部屋の鍵を取り替えるのは費用が
勿体ないってことになって、結局そのまま放置されているわ」
「その工事はいつからするの?」
「今年の夏休みらしいわ」
「だったらこの際、校舎自体を綺麗にすればいいのにね」千寿留が
辺りを見てから言う。
「私もそう思う。現に学校も何度か申し出てはいるんだけど、そこ
までの費用は出せないって言われて毎回却下されていたの。それで
代替案として、少しずつ部分的に改装する方向で話が纏まったらし
いわ」
「うちの会社でも似たような話はよくあるよ。お金の余裕がないの
って、やっぱり切実な問題だよなぁ」俊樹がうんざりした顔をする。
「それで、こっちが技術室ね」千寿留は、生徒資料室の左隣にある
部屋の前まで行くと、窓から中を覗きながら言った。
「技術って、たしか日曜大工だったり、金属を加工したりする授業
だったよね?」俊樹が尋ねる。
「そうです。この部屋には金槌とか鋸とか、危険な道具がたくさん
あるので特に施錠はしっかりしていますし、人の出入りも、授業と
掃除のときくらいしかありません。私も掃除の当番引率をするとき
くらいしか中に入りませんね」
「外に出て、その扉がどんなものなのか見てみましょ」
彼らはそのまま校舎の外へ向かう。
そして、校舎と外の境界となっている出入口まで来たところで、
千寿留がそれを指さして言う。
「ここが開いていたっていうドアね?」
それは、どこにでもあるアルミサッシのドアだった。校舎の外側
のノブには鍵穴、内側には施錠するためのつまみが付いている。そ
して今、その二面あるドアは通行しやすいように両方が開け放たれ
ていた。
「私たちが学校を出る前には、間違いなくここの鍵はかけた」加奈
が言う。
「これも結構古いね」ドアに触れながら俊樹が言った。「ちょっとガ
タがきてるみたいだから、鍵がかかっていても意外とちょっと蹴っ
たりすれば開いたりしてね」
「衝撃を与えたはずみで鍵が閉まるのならあるかもしれないけど、
さすがにその逆のケースはないと思う」千寿留が冷ややかに言った。
グラウンドの方から時折大きな声が聞こえる。休み時間を利用し
て遊んでいる生徒たちでもいるのだろう。
三人は正門側の外壁に回り込む。
加奈が話していた通り、規則的に並んでいた大きな窓はある地点
からぷっつりと途切れ、代わりに生徒資料室のドアと同じくらいの
大きさの金属製の扉が配置されていた。
「かなり汚れてる」扉を見た俊樹が言う。
おそらく、初めは校舎と同じアイボリーホワイトだったのあろう。
しかし、長い間使われず外に晒された扉は随分汚れており、もはや
本来の色が薄らと分かる程度でしかなかった。
千寿留がその扉に近づいて観察する。
「ここだけ綺麗だわ」彼女が言う。
俊樹は、千寿留の隣まで行く。
扉は全体的に黒ずんでいたが、そこに埋め込まれた円形のドアノ
ブには汚れがなくてシルバーがより際立っていた。
「生徒たちがたまに開けようとするの。特に一年生の子たちがこの
辺りに集まって遊んでいるのを何度か見かけたことがあるわ」加奈
が言う。
「ここの鍵は、校舎のドアとは別物?」俊樹がきく。
「そうです。でも生徒資料室の鍵は一つにまとめていたから、一緒
になくなってしまいました」
「やっぱりその、いつの間にか鍵がなくなってたっていうのが引っ
かかるね」
「誰かが意図的に鍵を盗んだかもしれないわね」千寿留が言う。
「つまり、この事件を起こすために?」
「それは違うわ。加奈ちゃんが先生になったのは二年も前の話だか
ら、鍵がなくなったのもだいたいそれくらいでしょ? そんな前か
ら盗んでいたら、それまでの間に鍵を交換されてしまう可能性があ
るじゃない」彼女が小さく笑った。「たぶん、初めは別の目的があっ
て鍵を盗んだ。それで今になって、例の鈴原君を襲うことを考えた
ときに、ふと昔自分が盗んだ鍵のことを思い出した。そして幸い鍵
も交換されてないから利用することにしたとか」
「それなら、例えば鍵を盗んだ人と今回の犯人は別人で、犯人はこ
この鍵を譲ってもらったとか、鍵を盗んだ人が誤って鍵を落として
しまって、それを犯人が偶然拾ったとかも考えられる」
「それもあるかもしれない。ただそうなると、どうして逃げるとき
は校舎のドアから出たのかが説明できなくなるわ。鍵を持っている
なら、またここを使えばいい話だもの」
「結局よく分からないね」俊樹が言う。「こういうときに事件の目撃
者とかがいれば話は変わってくるんだろうけど」
そう言って彼は加奈に顔を向ける。
「さぁ......、私もそれは分かりません」彼女は首を振った。
俊樹は、次に千寿留に視線を戻す。
彼女は人差し指でメガネを押し上げると、口許に手を当てたまま
考え込んでいる。そして、しばらくその状態を維持していたかと思
うと急に顔を上げた。
「いいこと思いついた」
彼女は小さく笑ってみせると、扉に背を向けて正門の方を見る。
「あの子たちに話をきいてみよましょ」
彼女の視線には、東棟に行くときに見かけた不良グループが同じ
場所でたむろしている。
「なんで?」俊樹がきく。
「ああいう子たちって、他の子より夜中に外を出歩いてそうじゃな
い?」
「けど、たぶん学校には近寄らないと思うな」
「でもたしか、あの中にはこの近所に住んでいる子もいたと思う」
加奈が言う。
「だったら、何か目撃しているかもしれないわね」
「家には寄りついてないと思うけど」
「宮房君は単に怖いだけでしょ」
否定的な言い方をする俊樹に、千寿留が口もとを上げて言った。
「大丈夫ですよ。外見は変わってますけど、元は大人しい性格をし
た子ばかりですから」
「大の大人が見た目で判断したら駄目だよ」
千寿留と加奈は、俊樹に向かって交互に言ったあとで少年たちへ
近づいてゆく。彼は数秒ほどその背中を眺めていたが、ひとつ息を
吐くと二人のあとを追った。
不良にはあまり良い思い出がなかった。
実際に彼らに絡まれた経験はなかったが、中学生の頃はいつもそ
の存在に怯えていた記憶がある。それは、彼自身が気弱な性格とい
うこともあったが、同世代の中で自分を含む大多数の生徒とは一線
を画した行動を取っている者がいることに、彼は少なからずショッ
クを受けていた。彼らは、どんな目的があって平和な学校生活から
敢えて外れようとするのか全く理解できなかった。そのため、彼ら
は自分とは別の世界に住んでいるのだと思うようになり、極力関わ
らないように心がけていた。しかしその反面、平均的で画一的なも
のに立ち向かおうとする彼らに憧れを持っていたのも事実だった。
今考えれば、あれは未知なるものに対して抱く気持ちと同種であ
ると言える。そういう意味では、当時の俊樹の中では不良も幽霊も
同じグループに分類されていたのかもしれない。
ただ今はもうそういった認識はいない。それなのに、同じような
姿をした少年たちに警戒するのは、過去に作り上げた幻影が記憶の
片隅に残留しているからだろう。そして、おそらくその感情へと至
るメソッドは昔から確立されており、それはいつ実行しても良いよ
うに引数がやって来るのをいつも待っているのかもしれない。
庭の向かいには生徒用の下駄箱があり、そこを監視するような形
で六人の少年たちがいた。
大半は髪の毛を染めている。黒髪は一人で金髪が二人、赤と緑に
しているのが一人ずつで坊主頭もいた。詰襟の学生服も、その身体
とは釣り合わないくらい丈が短いものや長いものを着ており、スラ
ックスも全体的に膨らみがあって、足元で裾が細くなっているデザ
インのものだった。
彼らは縁石に腰掛けたり、庭にある大きな石に寄りかかったり、
または膝を深く屈伸した状態で前傾姿勢を取ったりしている。
その定番の座り方に、かつては恐怖を感じた俊樹であったが、改
めて見ると、正面から描かれたカエルのイラストに似ていなくもな
い。そう思って、少し緊張している自分を和ませてみる。
少年たちは、三人が自分たちに向かって来るのを察知したときか
ら、会話をやめてじっと彼らを睨み続けている。
「ちょっといいかしら?」加奈が声をかける。
しかし彼らからは返事がなく、依然として凝視するだけだった。
「私たち、一昨日起きた事件について、いろいろと調べさせてもら
っているの」千寿留が話す。「もし貴方たちの中で、火曜日の夜にこ
の近くを通ったって人がいたら、少し話をきかせてもらいたいのだ
けど」
「......あんたち、マッポかなんか?」
縁石に座っていた白に近い長い金髪をした細身の少年が尋ねる。
「違うわ。教育委員会から派遣された者よ」
「やっぱりな」そこで坊主頭の少年がにやりと笑う。「俺の言った通
りだろ? 昨日ここに来たときは、もっとそれっぽいオッサンだっ
たんだって」彼が仲間たちを見て言う。
するとそれが合図だったかのように、今まで黙っていた少年たち
が急に声を出しはじめる。
「ちぇっ、佐伯さんと臼井の勝ちかよ」
「お前はまだマシだろ。俺なんか、この前も負けてるんだぜ」
「警察でもないのに何を調べようっていうんだよ?」
「どうせただのフリだよフリ。エライ人が『詳しく調べてみました
が、その結果私たちは何も悪くありませんでした』って言い訳する
ための材料作りだろ? 俺知ってるぜ。そういうの、お役所仕事っ
ていうんだろ」
おそらく、俊樹たちを警察の人間だと疑っていたのだろう。そし
てそうではないと知った途端、彼らは安心した表情を浮かべていた。
「火曜日の夜に、学校の近くにいた子はいないの?」千寿留が繰り
返す。だがちゃんとした返事は聞けそうにはなった。
俊樹は、冷静な口調で話す彼女と薄ら笑いを浮かべている少年た
ちを見比べる。
「俺はあの日、学校には行ってない。近くも通ってない」
そのとき、最初に質問をした少年が答えた。
彼だけは一つも笑っていない。顔を緩めていた少年たちも、彼に
気づくとしだいに真顔に戻ってゆく。
「みんなはどうだ?」彼が他のメンバにきく。
「おい佐伯、何答えてるんだよ?」黒髪の少年が言う。だがよく見
ると、それ自然な黒ではない。染髪のあとで黒に戻したのだろう。
「いいだろ。別に話したところで損するわけでもねぇし」佐伯と呼
ばれた少年が言う。「誰か、事件で知ってることはないのか?」
だがそれを聞いた少年たちは、不思議そうにお互いに目を合わせ
るだけで何も言わない。
「誰も知らないってさ」佐伯が、少年たちを代表して答えた。
どうやら、彼がこのグループのリーダのようだ。
「そう、分かったわ。答えてくれてどうもありがとう」千寿留は、
彼ら全員に目を向けたあとで頭を下げる。
「もし何か分かったことがあれば、教えてもいいけど」
「本当に?」千寿留は目を大きくして言う。
佐伯少年がそれに無言で頷く。
「じゃあどうしようかな......」彼女は両手を使って身に着けている
衣服のポケットを上から下へ触れていく。そして、そのあとで俊樹
を見ると笑顔になる。「宮房君、名刺。持ってるでしょ?」そう言っ
て彼に手のひらを向ける。
そこで俊樹は、上着の内ポケットからアルミケースを取り出すと、
その中にある名刺を一枚だけ渡す。
「ちょっとこれも貸してね」
名刺を受け取った千寿留は、さらに彼からケースも取り上げると、
スーツのポケットにあったボールペンを使って名刺の余白に何かを
書き込んでゆく。ケースは下敷き代わりにされていた。
「これを渡しておくわ。何かあったらここに連絡してもらえるか
な?」彼女が佐伯に名刺を差し出す。
「分かった」
それを受け取った彼は、その両面を珍しそうに眺めてからズボン
のポケットに仕舞った。
「よろしくね」千寿留は彼に微笑みかける。
最後に加奈が少年たちにひと言ふた言声をかけたあとで、三人は
その場を離れることにした。
「あの子は?」
東棟に戻る途中で俊樹が加奈にきく。
「三年生の佐伯雅彦君という生徒です」
「ちょっとクールだったね」千寿留が言う。
「一年生の頃は真面目で、成績も上位だったわ。けど二年生になっ
てから突然あんな風になってしまったの」
「彼があそこの大将なんだ」
「はい。他の子たちは、その場の勢いでかなり無茶をすることが多
いんですが、佐伯君はその中では珍しい物静かなタイプで、もとも
と頭も良かったせいなのか、いつの間にかグループのまとめ役みた
いなポジションになってました」
「他の子は嫌がってるみたいだったのに、どうして彼だけは自分か
ら協力しようとしたのかしら?」
「ひと目惚れだったりして」俊樹が千寿留を見て言う。
「え、あたし?」千寿留の声が半音上がる。
「僕に惚れられても困る」彼が笑う。「あれくらいの歳の男子は、お
気に入りの女子にお願いされたらそれが無理でも引き受ける奴らば
かりだからね」
再び東棟に入る。そして生徒資料室の前を通ると、誰が言うでも
なく自然と三人の足が止まった。
「さっきから思ってたんだけど、この部屋、なんだか不気味よね」
千寿留が腕組みをしてドアを見つめる。
「ここが薄暗いのもあるけど、怖い話とかに出てきてもよさそうな
雰囲気はある」
そう言った俊樹は、背後から気配を感じた気がして振り向く。
誰もいない。
窓の外に聳える木々が風に靡いているだけだった。
「現にそういう話もあります」そこで加奈が話す。「生徒たちはこの
部屋を開かずの部屋と呼んでいて、うちの学校では有名な心霊スポ
ットの一つなんです」
「そういえば、そんな話もしてたような気がする」
「ねぇねぇ、どんな話なの?」千寿留が楽しそうな顔で加奈に尋ね
る。
「えっと、それがね......」
加奈が話しはじめようとしたちょうどそのとき、校舎の入り口か
ら声が聞こえてくる。
三人がそちらを向くと、そこには二人の女子生徒がいた。
髪の長い少女と眼鏡をかけた少女だった。
彼女たちは彼らと目を合わすと、話を止めて小さく会釈をする。
「生徒会室?」加奈が少女たちに微笑む。
「はい」髪の長い方の少女が答える。他の生徒とは違い、俊樹と千
寿留を見ても表情は変わらない。
「もう役員でもないのに、手伝ってもらって悪いわね」
「いえ、私も好きでやってますし、それに今は園田さんとお喋りし
ようと思って来ただけですから」彼女は笑顔を見せてから、隣にい
る少女に顔を向ける。
その小柄な少女は、少し緊張した面持ちで小さく頷いた。
「先生は何をされてるんですか?」
「この人たちに、この部屋の話をしていたところなの」加奈はそう
言うと、俊樹たちに手を向ける。「こちらは村瀬さんと宮房さん。私
のお友達なんだけど、今日は教育員会からの依頼で学校のことを調
べてきているの」彼女は次に少女たちを紹介する。「三年生の水谷結
香里さんと二年生の園田梨穂子さん。園田さんは今の生徒会長さん
で水谷さんは前任の会長さんだったの」
「初めまして、水谷と言います」髪の長い少女が丁寧にお辞儀をす
る。落ち着いた雰囲気があり、とても中学生には見えなかった。
「学校を調べてるって、火曜日のことですか?」彼女がきく。
「そうなの。あんなことがあったから、教育委員会としても学校の
管理体制を検証しないといけなくてね」千寿留はもっともらしいこ
とを言った。
「そうだ。貴女たち、良かったら二人にあの話をしてもらえないか
しら?」
「開かずの部屋ですか?」結香里が加奈きき返す。
「私もなんとなくは知ってはいるけど、貴女たちの方が詳しいと思
うの」
「簡単なあらすじくらいなら知ってますけど、私も詳しいことはち
ょっと......」そこで結香里が横を向く。「そういえば、梨穂ちゃんこ
の前言ってたよね? ここで何か見たって」
俊樹は、彼女の隣にいた園田梨穂子という少女を見下ろす。
大人しそうな子だった。先ほどからはきはきと話す結香里に対し
て、彼女はまだ言葉を発していない。肩まで伸びる髪が俯き加減の
顔を隠しているせいでその表情を見ることはできなかった。
「梨穂ちゃん?」結香里が梨穂子を覗き込む。
「私、......たんです」
そのとき、梨穂子が掠れるような声で言う。
「園田さん、どうかしたの?」加奈も声をかける。
「私、見ちゃったんです......」彼女は、周りに聞こえるボリューム
で言い直す。その声は震えていた。
異変に気づいた結香里が咄嗟に彼女の肩に手を回すと、梨穂子は
大きく深呼吸をしたあとでゆっくり顔を上げる。
彼女はひどく怯えていた。
「何を見たの?」千寿留が慎重な面持ちできく。
すると梨穂子は、はっきりとした口調でひと言だけで答える。
「......山本さんの幽霊」