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罪咎(ざいきゅう)の点(てん)

第三章 罪咎(ざいきゅう)(てん)


           1


 村瀬千寿留は、とにかく前向きで明るい人物のようだ。

 宮房俊樹は、職場での彼女を見てそんな印象を受けていた。

 社内の、特に未婚男性従業員の間では、彼女がしばしば見せるそ

の屈託ない笑顔に癒されると口にする者も多くいた。そして、それ

と同時に彼女と一番コミュニケーションを取っている俊樹に対して、

羨望と嫉妬の眼差しが向けられていることも、彼はひしひしと感じ

ていた。

 教育係なのだからしかたがないと俊樹は思う。

 だた、決して悪い気分ではなかった。

「何にやにや笑ってるの?」

 隣を歩く千寿留に話しかけられて、彼はようやく我に返った。

「いや、なんでもない」

「どうせ、脳内妄想でもしてたんでしょ。嫌らしい」

 彼らの前で汐見と並んでいた柏木が冷めた目で言った。

 以前から俊樹、汐見、柏木の三人で昼食に出かける機会は多かっ

たが、そこに千寿留が加わってからというもの、その頻度はさらに

上がっていた。

 この日は、飲食街にある小さなレストランに入った。

 四人は空いたテーブルに腰掛けると、全員がスパゲティのランチ

セットを注文する。

「それでどうなの? 進展のほどは」

 サラダを食べていた柏木が、正面にいる汐見に話しかける。

「とっても良好」

「えっと、和氣さんだっけ?」俊樹が言う。

「そう、寛子ちゃん。もう最初に顔合わせたときにこう、ビビッと

きたんだよ。やっぱ直感って大切だよな」汐見は惚気た顔で言った。

「でもね、和氣ちゃんって昔は結構遊んでたんだよね。引き合わせ

た私が言うのもなんだけど、ちょっと注意しておいた方がいいかも」

「大丈夫大丈夫。俺たち相性良いみたいだし、彼女、今は俺に夢中

だから」

「どこからその自信が湧いてくるのか、俺にはさっぱり理解できな

い」俊樹は首を左右に振った。

「そういえば、三田があの子にまた会いたいって言ったな。名前な

んだったっけ? あの地味な子」

「藤崎加奈ちゃん」千寿留が答える。「そういう言い方はないと思う

な。彼女、可愛いじゃない」

「悪い意味じゃないよ。ただ、あんまり記憶に残っていないだけ」

汐見が苦しい弁解をする。

「彼女みたいな大人しい感じの子って、結構もてるんだよね。でも

そっかぁ、私はてっきり、三田君は和氣ちゃんみたいなタイプが好

みだとばかり思ってたよ」

「またセッティングしてやったら?」

「そうねぇ、どう思う?」柏木は、隣でスープを飲んでいた千寿留

に目を向ける。

「あのときは、和氣さんにどうしもって頼まれたから参加したって

言ってたわ。昨日電話で話してたときも、別にそこまでして彼氏が

欲しいわけでもなさそうだったし」

「あれ? 連絡先知ってるんだ」俊樹がきく。

「二次会のときに交換してたの」

「なんだ、お前も彼女狙いだったのか。乗り気じゃないって振りし

といてしっかり目をつけてるなんて、むっつりした奴だな」汐見が

スパゲティをフォークに絡ませながら笑った。

「どちらにしろ今は難しいと思う。昨日から教育実習が始まったっ

て言ってたから、仕事が忙しくてそれどころじゃないみたい」

「だって。三田君無念」

「宮房もな」

「俺は違うって」俊樹は汐見を睨む。

「宮房君はあたしと仲良くすればいいのよ。そりゃあ、加奈ちゃん

みたいに清純ではないけどさ」

 そのやり取り見た千寿留は、面白くなさそうに呟いた。

 すると、柏木と汐見がにやにやした顔で交互に話す。

「おっと、ここで突然の告白です。解説の汐見さん、この状況をご

覧になってどう思われますか?」

「村瀬選手の奇襲は、奥手な宮房選手には非常に効果的だと思われ

ます。彼がこれをどう対処するか、私は大いに興味があります」

「なるほど。青春が炸裂しております」

 彼らは面白半分で俊樹たちを茶化すと、反応を窺うように二人を

眺める。

 俊樹はその視線を気にしながら、困った顔で千寿留をちらりと見

る。しかし彼女の方は特に恥ずかしがる様子もなく、彼のことを上

目遣いでじっと見つめているだけだった。


           2


「先生さようならぁ」

 職員室から出た藤崎加奈は、すれ違う生徒たちに声をかけられる

と、それに応えて笑顔を見せる。

 放課後の校内は、制服や体操服、部活のユニフォーム姿の少年少

女たちで賑わっている。

 先週末まで中間テストが実施されていた。まだその解放感に浸っ

ているせいもあるのか、廊下で雑談を交わす彼らは普段以上に明る

く見えた。

 そのとき、彼女は廊下の奥に制服姿の女子生徒たちを見つける。

そちらに進路を向けると、生徒の方も彼女に気づいた。

「藤崎先生」

「水谷さん、もう落ち着いた?」

「はい。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」水谷と呼ばれた女

子生徒が頭を深く下げる。

「別に謝らなくてもいいのよ。水谷さんがこれまで通り元気になっ

てくれただけで私は嬉しいわ」加奈が微笑む。

 少女は、傍に誰もいないことを確認しながらさらに加奈に近づく。

「実は、凄くショックなことがあったんです。でもそれが分かった

ときは、全然平気と思っていたんです。けど、時間が経つうちに自

分が想像してた以上に落ち込んでいって、それで学校にも行きたく

なくなってしまいました」水谷が言う。「けど今は、落ち着いて考え

るようになって、少しだけ気持ちの整理ができるようになっていま

す。だからとりあえず大丈夫だと思います」

「そう......。私もね、貴女くらいの頃は浮き沈みが激しかった。ち

ゃんと気持ちを静めて考えればたいしたことじゃないのに、そのと

きはもうこの世の終わりみたいな気分になったこともあったでも大

丈夫、人間って意外と頑丈にできてるわ。心も、身体もね。ただ私

個人の経験だと、一人でずっと抱え込むよりも、誰かに打ち明けた

方が気が楽になることが多かった。だから、もしまた何かあったら、

友達でもいいし、家族の方でもいいから勇気を出して話してみるの

もいいんじゃないかな」加奈が話す。

「それは、例えば先生でもいいんですか?」

「もちろんよ。と言っても、私は聞くだけしかできないかもしれな

いけど」彼女は冗談っぽく言った。

 それを見て少女が笑う。

「分かりました。もし何かあったら、今度は先生に相談します。そ

れじゃあ私は、これから生徒会室に行ってくるのでこれで失礼しま

す」彼女はそこで一礼すると、背を向けて歩き出した。

 加奈は、その姿を見て安堵の息を漏らす。

 水谷結香里(みずたにゆかり)は、この学校では一番の有名人だと言っていい。

 成績優秀で容姿端麗。そして、一年生の頃から生徒会の運営にも

関わり、昨年度は上期と下期連続で生徒会長を務めていた。生徒会

役員は、毎回全校生徒による投票で決められる。年間を通して圧倒

的な大差で選ばれるのは、この学校では異例な出来事だった。なの

で、当然彼女は一般の生徒や執行部のメンバからも人気があり、任

期を終えた今でも頻繁に生徒会に顔を出して後輩たちにアドバイス

をしてくれていた。

 そんな校内自慢の生徒である結香里が登校拒否になるとは誰も予

想していなかった。それが判明したとき、職員室の中に衝撃が走っ

たのを加奈ははっきり覚えている。学校としては、他の生徒たちへ

の影響を考えて、表向きは体調不良での欠席というアナウンスをす

るほどの事態になった。さらに定期テスト目前ということもあって、

教員たちもかなり気を揉んでいたが、テストが始まる直前に彼女が

無事に登校するようになると、全員が一様に胸を撫で下ろした。

 しかし加奈だけは、結香里の復帰を谷口稔から聞いて以来、なぜ

彼女が突然不登校になり、そして同じような急展開でその状態から

抜け出すことができたのか疑問に思い、正直なところあまりしっく

りしていなかった。ただ、本人から無理にきき出すのも良いとは思

えず、またすぐにテスト期間に入ったせいでもあって、ちゃんと話

をする機会もなかった。

 加奈は、ようやく結香里と話すことができてほっとしていた。

 そこで思う。おそらく自分は、他人の伝聞ではなく本人の口から、

問題ない、平気だという確約の言葉を聞いて安心したかっただけだ

ったのかもしれない。結局、彼女が不登校になった理由は分からな

いままだったが、加奈抱いていたわだかまりの大半はもうなくなっ

ていた。

 おそらく結香里は、思春期特有の不安定な精神状態に陥っただけ

だったのではないのだろうか? 彼女はまだ中学生の子供なのだ。

時には大きな感情の波に飲み込まれることもあるだろう。

 そう解釈した加奈は、この件についてこれ以上考えるのを止める

ことにした。

 気持ちを切り替えた彼女は、結香里とは逆方向に歩きはじめる。

一度外へ出て隣の校舎に移動すると、近くにあった階段を上る。

 西棟の二階、その一番西端に位置する視聴覚室を目指していた。

そこは現在、教育実習生の控室として使われている。

 今年は、九人の大学生が実習にやって来ていた。

 基本的に実習生の面倒を見るのは、各々が担当する科目の教員や

部活動の顧問である。だがK中学ではそれとは別に、毎年必ず彼ら

全員を監督する人間を配置していた。当初の予定では、今年はこの

学校に長く勤めるベテラン教員がその役割を担うはずだったが、半

月ほど前に加奈へと変更された。教頭からは、実習生たちの生活態

度に問題がないかをチェックするだけなので難しく思う必要はない

と言われていたが、それでなくとも忙しい彼女にとっては、その役

目は更なる負担でしかなかった。

 加奈は視聴覚室のドアを横にスライドさせる。

 次の瞬間、彼女は危うく手に持った書類を落としそうになってし

まった。

 室内には机が均等に並び、入り口の右側には教壇とホワイトボー

ドがある程度のシンプルな部屋だった。そしてそこには今、スーツ

を着た男女が一組いるだけだった。

「あなたたち何やってるの!」加奈は二人を見て怒鳴り声を上げる。

 窓際の一番奥にある机の上に座った彼らは、お互いの身体を必要

以上に密着させていた。

 それだけではない。

 女の背中に回っていない方の男の手には煙草が挟まれており、そ

の先端から出た煙が開け放たれた窓の方へゆらゆらと流れていた。

 加奈に気づいた男女が身体を離す。

「あ、すみません」

 隣の机に無造作に置いていた上着のポケットから携帯用の灰皿を

取り出した男は、煙草を捻じ込みながら言う。一つも気持ちが込め

られていない謝り方だった。

「ここは学校なのよ。自分たちが、今何をしていたかちゃんと分か

っているの?」

「はぁ、授業が終わったんでつい」

「それが言い訳になるとでも思ってるの? 教師を目指す者として

の姿勢以前に、仮にも成人した大人が持つべき常識ではありないこ

となのよ」

「ええ、だからすみませんって」男が少し苛ついたように言った。

 加奈は険しい表情で二人を見据える。

 女の方も邪魔をされたのがよほど不満だったのか、先ほどからむ

っすりとした表情のまま黙って彼女を見ていた。

「分かりました。今見たことは、ちゃんと大学に報告させていただ

きますので」

 湧き上がる怒りを必至で堪えながら、彼女は事務的な口調で彼ら

に告げた。

 すると、二人の顔色が一変する。

「ちょ、ちょっと待ってください」

「何を待てばいいかしら?」加奈は冷ややかに言う。

「いや......、その、本当にすみませんでした!」

 彼らは慌てた様子で加奈にすり寄ると、途端に腰を低くして頭を

下げはじめる。

「もうこんなことは絶対にしません。だから、どうかここだけの話

にしてもらえないでしょうか?」

「それ、誓える? 本当に?」

「誓います。だから、お願いします」男は上半身を床と平行になる

くらいまで曲げたままで言った。

 彼の頭頂部には、黒く染めきれていない金髪の部分がちらほらと

確認できる。

 それを見た加奈は、いっそう眉をひそめる。

「貴女はどうなの?」次に女の方を見る。

「はい、これからは自分の立場を自覚して行動しようと思います」

 緊張した表情の女は、俯き加減で返事をした。

「私だって説教みたいなことはしたくない。けどさすがにこれは酷

過ぎるわよ。だけど、まだ実習も始まったばかりだから今回だけは

見逃してあげる。でも次はこんなことあったときは、分かってるわ

ね? ここには仕事場よ。そして、いろんな影響を受けやすい子供

たちがいるってことを常に意識しなさい」

「分かりました」

「本当にすみませんでしたぁ」

「これ、実習の詳しい日程表だから、みんなが戻ってきたら渡して

おいて」加奈は、安心した表情をする二人を見ると、呆れながら手

に持っていたプリントを渡す。「そんなことをしている余裕があるの

なら、今日のレポートをまとめておきなさい」彼女はそれだけ言う

とすぐに部屋を出た。

 今の二人、鈴原太一(すずはらたいち)益田仁美(ますだひとみ)は、どちらも国立O大の教育学部

生である。国立大の学生と言えば質素かつ堅実というイメージが加

奈にはあったが、彼らからはそれとは正反対の印象を受けていた。

 人好きのする顔をした鈴原は、初日から女子生徒の目を惹いてい

たが、いかにも軟派だというようなだらしない雰囲気を醸し出して

おり、ちょっと息を吹きかければ遠くへ飛んでいってしまいそうな

軽い感じの青年だった。一方の益田は、濃い化粧と舌足らずな話し

方が特徴的な女性で、あまり物事を深く考えないタイプのようだっ

た。

 加奈は今回以外にも、彼らには責任感というものが欠如している

ように思わせる場面を既に幾つか目撃していた。来春には社会人に

なろうとしているのに、これでは十四歳の結香里の方がよっぽどし

っかりしていると彼女は思った。

 また鈴原と益田は、加奈とそこまで歳は違わない。

 きっと世間では、こういった若者を一人でも見つけると、世代と

いう言葉を使って全てひと括りに非難するのだろう。

 そう考えた彼女は、軽くため息をつくと苦笑いするしかなかった。


           3


 水谷結香里は、窓から差し込む光の変化に気づいて顔を上げる。

 太陽は、日中の彩度ない色から深みのあるオレンジ移行していた。

「そろそろ帰ろうか?」彼女は向かいの席に座る園田梨穂子(そのだりほこ)に声を

かける。

 しかし梨穂子は、真剣な顔で机に置かれたノートに書き込みを続

けていた。

「梨穂ちゃん」

「あっ、はい!」

 結香里が身を乗り出してもう一度呼びかけたところで、彼女はよ

うやく声に気づいた。

「今日はこのへんにしとこ」

「え、でも、あとちょっとで区切りがつくんです」

「あとちょっとって、何分くらい?」

「何分、ですか? うーん」梨穂子が小さく唸る。

「私、これから塾があるの。だから、できればもう帰りたいなって」

結香里は、壁にかけられた時計を見上げながら言う。「それとも、真

っ暗になるまで梨穂ちゃん一人で残る?」

 彼女がそう言うと、梨穂子は急に顔色を変えて首を小刻みに左右

に振る。

「帰ります。私も先輩と一緒に帰ります」

 二人は東棟の一階にある生徒会室にいた。

 この四月に会長の任期を終えた結香里は、もう生徒会の一員では

なかったが、余裕があるときはできるだけここに顔を出すようにし

ていた。それは、今の執行部のメンバのほとんどが彼女が会長だっ

たときにいた仲間であったのと、現会長が梨穂子だったからだ。

 今期の役員選抜はごたついていた。会長に立候補する予定だった

生徒が転校することになり、候補者に空席ができてしまったのだ。

一時は結香里に三期連続でという声も上がっていたが、受験に専念

したかった彼女はそれを断り、代わりに副会長に立候補する予定だ

った梨穂子を推薦したのである。

 自惚れているわけではなかったが、自分は周りから注目されてい

るのだという自覚が結香里にはあった。だから、梨穂子はその自分

が推した人物として全校生徒にその一挙手一投足を見られることも

想像できた。二年生になったばかりで、どちらかといえば引っ込み

思案の彼女には少し荷が重いかもしれない。梨穂子のことは気に入

っていたし、敢えて彼女を指名した以上、自分にも少なからず責任

があるはずだと思った。そういった経緯から、結香里は会長職の引

継ぎという名目で彼女のサポートをすることにしたのである。

 二人は片付けを終えると廊下に出る。

 日が完全に沈むまでにはまだ時間があったが、それでも校舎の中

は薄暗い。

 結香里は、部屋に鍵をかける梨穂子を確認してから先に歩き出す。

「先輩、待ってください」

 すると梨穂子は、慌てて結香里のところまで駆け寄ると彼女の腕

を掴む。

「何? どうしたの?」

 彼女は訳が分からないまま、梨穂子に引っ張られるようにして校

舎を出る。そして中棟にある下駄箱の前まで来たところで、梨穂子

はようやくその手を離した。

 そこで、結香里は梨穂子を見てはっとする。

「梨穂ちゃん、顔が真っ青だよ」

 隣にいる後輩は血の気が失せ、怯えた表情を浮かべていた。

「......私、聞いちゃったんです」梨穂子が小さな声で言う。「三学期

が始まってすぐのときに、卒業生を送る会の準備をしていたせいで

私だけ遅くまで残っていたことがあったんです。それで、それが終

わって帰ろうとしたとき、開かずの部屋の中から、誰かの声と、そ

の次にこっちに近づいてくる足音が聞こえたんです」

「開かずの部屋って、あの生徒資料室?」

 梨穂子がこくりと頷く。

 生徒資料室は、K中では有名な怪談話の舞台になっていた。

 あの部屋は地獄と繋がっており、夜になるとそこから魔物が現れ

る。その魔物は生贄を探して夜が明けるまで校内を徘徊し、それに

見つかった者は部屋の中へ引きずり込まれて、もうこの世には帰っ

てこれなくなる。

 学年の違いや誰から聞いたのかによって多少内容は異なっていた

が、要約すればだいたいこのようなあらすじだった。

 結香里も一年生の頃に生徒会の先輩から聞いていた。

 他にも学校の怖い話と分類されるものは幾つかあったが、その中

でも比較的ポピュラーな話である。

「凄く、怖かったんです......。だから、あそこを通るときは、いつ

もそれを思い出しちゃって。あの声を聞いてから、校舎が明るいと

きでも、怖くて一人であの前を通れないんです」梨穂子は今にも泣

きそうだった。

「あれは、意地の悪い誰かが作った迷信だよ。人間ってね、一度怖

いと思っちゃうと、あとは自分の中でどんどん想像を膨らすんだっ

て。そうなると、本当は起こってないことでも起こったように思い

込んじゃうらしいよ」

「でも私、本当に聞いたんです。空耳なんかじゃありません」梨穂

子が断言する。

 彼女は周りからの影響を受け易く、また頑固な一面もあった。き

っと、学校で毎年必ず噂になる怪談話を聞いて信じ込んでしまった

のだろう。

 結香里はそう考えたあとで、深刻な顔でこちらに向ける梨穂子の

手を握る。

「大丈夫だよ。そのときは梨穂ちゃん一人だったかもしれないけど、

今は私も一緒にいるから」彼女は優しく言う。「それに、怖いのなら

もっと暗くなる前に早く学校を出た方がいいよ。そうでしょ?」

 結香里がそう言うと、梨穂子は首を縦に振った。

 まだ怖がっているが、それでも少しは落ち着いてきたようだ。

 結香里は梨穂子の手を取って校門を出てゆく。

 落ち着きを取り戻して素直に隣を歩く梨穂子を見て、彼女はひと

まずほっとした気分になっていた。


           4


 その数時間後。

 闇夜に包まれた町の中を一人の少年が歩いていた。

 彼は街灯の明かりを頼りにして、アスファルトの上を丹念に調べ

ながら進んでいる。

 うっかり落し物をしたのに気づいたのは、つい一時間ほど前のこ

とだ。それを探すために、彼はこの日通った道を引き返している最

中だった。初めはすぐに見つかるものと踏んでいた。だが時間をか

けて逆戻りしてきた道も、そろそろ終点に近づいている。

 失くした物は別に大切にしていたわけではない。買おうと思えば

比較的簡単に手に入る物だ。それでも彼は止めようとはしない。今

ではもうその目的は脱線しており、ここまで手間をかけたのだから

最後までやり遂げなければならないという意固地な気持ちになって

いた。

 ふと顔を上げると、そこには彼の通う中学校があった。

 探している物は、少なくとも学校にいた時点ではたしかに持って

いた。だとすれば、校内で落としたのかもしれない。

 彼は辺りを見渡す。ここは大通りから一本裏に入った場所だった

ので暗くなるとあまり人が通ることはない。自分以外誰もいないこ

とを確認すると、彼は軽い身のこなしで閉ざされた正門を越えて中

へ入っていく。

 校内はひっそりと静まり返っていた。

 学校では、少し前からある噂話が広まっていた。なんでも、一人

で夜の校舎に残っていた女子生徒が幽霊を見たというのだ。

 少年は、それを思い出して身体が強張っていくのを感じる。

 仲間たちには恥ずかしくて黙っていたが、実はその手の話は苦手

だった。

 彼は少し心細い気持ちになりながら、正門の左脇から東棟の近く

まで続く庭の中へと入った。学校の傍で立っている街灯のおかげで

視界は悪くない。

 彼は木々の間を掻い潜って細かく調べてみたが、地面には木の葉

や折れた枝、それに小さな石しかない。そのうちに、庭と道を区切

る縁石が目の前に現れた。

 落としたとすれば、ここが一番有力だった。

 彼は、庭の外に出てから腕を組んで考える。

 即座に、もういいか、と思った。

 長い間下を向いていたせいで疲れていたし、気づけば空腹感もあ

る。そう感じると、今まであった意欲が一気に減衰していった。

 これだけ探しても見つからないのであればしかたない。

 そこでようやく諦める決心ができた。

 するとそのとき、少年は目の端で何かを捉える。

 彼は正門に引き返す足を止め、異変を感じた場所へ顔を向ける。

 視線の先には東棟があった。

 そして、その入口のドアの辺りでは何かが光っていた。

 ドアの上部には照明があったが、今そこに明かりは点いていない。

また、その光は照明よりずっと低い位置にある。

 不思議に思った彼は、じっと目を凝らして観察する。

 緑か青に近い色を発しているその光は、校舎の中で宙を浮いてい

るように見えた。

 それを眺めているうちに、彼はあるものを連想して身体にひやり

としたものを感じる。そして思考が停止し、彼は半ば放心状態にな

ってしまう。だがそれでも、双眼はその怪しげな光を見つめ続けて

いた。

 光は少しの間同じ場所に留まっていたが、そのあとで小さな前後

運動をしながら校舎の奥へと消えていった。

 そこで彼は、そのあとを追うようにして東棟まで駆け寄る。

 だが、ドアのガラス部分から校舎の中を覗いてもそこにはもう何

もいなかった。中に入ろうとドアノブを動かしてもびくともせず、

ただドアが軋む音だけが響く。

 彼はドアから離れると、今度は校舎の右側へ回り込んだ。そして

窓ガラスに沿って歩きながら中の様子を窺う。

 しかし、それでもやはり光は見当たらない。

 ただの錯覚だったのだろうか、と彼は思う。

 しかし、あれは見間違いなどではない。

 たしかに、ついさっきまで炎のような光がゆらゆらと漂っていた

のだ。

(だとしたら、やっぱりあれは......)

 彼は足を止めると素早く周囲を確認する。

 目の前には真っ暗な校舎、そして背後には生い茂った木々が佇ん

でおり、自分の周りには明かりが一切届いていない。さらにガラス

越しに校舎の中を見ると、正面には開かずの部屋があった。

 それを自覚した途端、彼の中にあった恐怖が一気に溢れだした。

 彼は急に取り乱しはじめ、逃げるようにそこから走り去る。

 一度でも後ろを振り向いたり、速度を緩めてしまったらそれで終

わりだと思い、必死の思いで正門を目指した。

 そして乱暴に門を飛び越えた彼は、息つく暇もなく全力疾走で学

校から遠ざかっていった。


           5


「すみません、わざわざ寄ってもらって」

 車の助手席に座っていた加奈が頭を下げる。

「いいのいいの。学校なんて通り道みたいなものだし」それを見た

和氣寛子が前を向いたままで言う。

「ありがとうございます」加奈は、もう一度寛子に礼を言った。

 今夜は、仕事が終わったあとで寛子と一緒に夕食に出かけていた。

 K中の教員では彼女たちが若手の筆頭であり、その次に若い教員

とは一回り近く離れている。また、他の女性教諭も二人を除いて全

員が既婚者であったので、加奈が赴任して以来、歳が近い者同士と

いうことで寛子とは公私共に仲良くしていた。

 食事を終える頃になって、加奈は職場に忘れ物をしたことに気づ

いた。そして、それを寛子に告げると、彼女は帰りに学校へ引き返

してくれると申し出てくれていたのである。

「で、何を忘れてきたの?」

「教育実習関係の報告書です。家に帰ってやろうと思ってたんです

けど、準備室に置いてきたみたいで」

「なんだ仕事か」寛子が呆れたように言った。

「今日は仕事が捗らなくて、まだ完成できてなかったんです」

「この前も言ったと思うけど、そんなに一日中仕事のことばっかり

考えてると、あっという間に老け込むんだぞ。ほら、よくスポーツ

選手とかが言ってるじゃない。常に全力を出すんじゃなくて、七割

八割くらいの力を出した方がむしろ良い結果になるんだって。仕事

なんて、多少不真面目でいい加減なくらいがちょうどいいのよ。少

しくらいゆとりを持った方が余計な負担もかからなくて済むしね」

「私だって、仕事だけの生活なんて嫌です。でもお給料をもらって

る以上、手の抜いたことはできません。だから、周りがちゃんと納

得する仕事をしないといけないと思ってるんです」

「あら、優等生な発言ですこと」寛子はからかうように言う。

「違いますよ。私はただ、自分が上手く仕事をこなせているように

はとても思えないんです」加奈が反論する。

「そうかなぁ。私からすれば、加奈ちゃんは充分に働いているわよ。

貴女が真面目な性格なのは分かってるけど、それはちょっと考えす

ぎだよ。加奈ちゃんは、もう少し遊びの部分も作った方が良いと思

う」

「......そういうものでしょうか?」

「そうだよぉ」寛子が言う。「あっ、そういえばこの前、柏木のやつ

が言ってたよ。連休明けに飲んだメンバの中で、加奈ちゃんを気に

入ったって人がいるんだって。なんなら、一回くらいデートしてや

あげたら?」

「デート、ですか」そこで加奈は渋い顔を見せる。

「あれ? あの飲み会は結構楽しんだって言ってなかったっけ?」

「それはそうですけど、でもこの前少し会っただけの人と今度はい

きなり二人でっていうのはちょっと......。それに、とりあえず実習

を無事に乗り切るまでは、やっぱり仕事に集中したいですし」

「そう? まぁ、私も無理にとは言わないけどね」寛子はそこで引

き下がった。

「私はともかく、和氣さんの方はどうなんですか?」

「うん、まずまずって感じかな。今は相手の方から積極的に来てく

れてるし。でもまだ猫被ったままだから、これからどうなるかまで

はなんともね」

 口ではそう言っていたが、寛子の表情は自然と緩んでいた。

「ところで、実習生はどんな感じ? 今年は私のところに誰も来て

ないから、あんまり接点がないのよね」

「真面目な子が多いですよ。まだみんな緊張気味ですけど」

「ただし約二名は除いて、でしょ?」寛子が横目で加奈を見る。

「やっぱり知ってましたか」彼女は表情を曇らせる。

「職員室では今一番ホットな話題だもん。鈴原君と益田さんって、

加奈ちゃんの大学の後輩なのよね?」

「私が四年の頃入ってきた子たちなので、一年被ってますね」

「聞いた話でしかないけど、ちょっと態度に問題ありみたい。担当

の先生も、教育実習をただの社会科見学くらいにしか思ってないん

じゃないのかって言ってたわ」

「私のところにも早速苦情が来ましたよ」加奈は苦笑いを浮かべる。

「あの二人って恋人同士なんでしょ? 校内で手なんか繋いで歩い

てたら、そりゃ誰だって怒るわよ」寛子は顔をかめる。

「それだけじゃないんです。あの、ここだけの話にして欲しいんで

すが、いいですか?」

「いいわ」

「今日の放課後に控室に行ったんですが、そうしたらあの二人、教

室の中で抱き合ってたんです。しかも鈴原君は煙草まで吸っていま

した」

「......それ、本当?」

「はい。まだ実習に入ってすぐのことなので、その場で注意するだ

けにしましたけど」加奈が言う。

「呆れた......、本当にどうしようもないわね」寛子は顔をしかめる。

「その調子だと、これからもたぶん加奈ちゃんに文句を言う先生は

出てくるでしょうね。けど、そういうのは馬鹿正直に相手しないで、

はいはいすいませんって適当に合わせておけばいいわ。どうせ教頭

なり校長なりに意見するだけの勇気がないから、せめて溜まったス

トレスだけでも発散させようとしてるだけだもの。あの学生はどう

かと思うけど、そういう中年にもなりたくないわね」

「はぁ」

「いい? 実習生が今度そんなことしてたら、すぐに上に報告する

こと。もし言いづらいようなら、私でもいいから絶対に話すのよ。

そんなことで神経すり減らす必要ないんだからね」寛子は、口調を

強めて加奈に言った。

 大通りを逸れ、中学の正門の前に来たところで寛子が車を停める。

 加奈は車内の時計を見る。

 もうすぐ二十一時を回ろうとしていた。

「それにしても、私が当番でラッキィだったね」寛子がシートベル

トを外しながら言う。

「ええ、他の先生だったら絶対にお願いできませんでした」

 校内の施錠は、教員が当番制で行っていた。そして偶然にも、今

日の当番は寛子だったのである。

 寛子は鍵を取り出すと、それを使って正門の隅にある小さなドア

を開ける。そこから中に入った二人は、まず職員室の壁に掛けられ

たボックスの中から別の鍵を取り出す。そのあとで中棟の階段を使

って二階の渡り廊下に向かう。 

 目的の理科準備室は、そこを真っ直ぐ行った先にある。

 渡り廊下と東棟を隔てるドアは、先ほど職員室で手に入れた鍵で

開ける。そして東棟の一番奥にある理科室の前に到着すると、加奈

はあらかじめ持っていた鍵でその左脇にある部屋を開けた。彼女は

壁際の電気のスイッチを押して明かりを点ける。

「あった?」

「ちょっと待ってください」加奈は窓際の机の引き出しから書類を

探し出すと、バッグの中にあったクリアファイルにそれを綴じる。

「オッケィ?」

「はい、どうもありがとうございました」

 加奈は寛子に礼を言うと、入口の近くで待っている彼女のもとへ

引き返そうとする。

「あれ?」

 すると、そこで彼女が立ち止まる。

「どうしたの?」寛子がきく。

「ここのドアが開いてるんです。おかしいですね」加奈は、そう言

って指をさす。

 机のすぐ右側にある壁には、理科室と準備室を内側で繋ぐドアが

設置されている。そして他の教室と同じように横にスライドして開

けるタイプの木製のドアは今、ほんの少しだけ開いていた。

「鍵はかけてたの?」

 加奈の傍までやって来た寛子がドアを見ながら尋ねる。

「いえ、ここは昔から鍵が壊れていて施錠はできません」加奈が答

える。「でも授業がないときはだいたい私がいますし、出かけるとき

は理科室と準備室の外の鍵はかけるので、今のところ管理上の問題

はないことになってます」

「これくらい直してくれればいいのにね。ケチな学校」寛子が舌打

ちする。

「だからせめてドアだけはと思って、毎日帰るときには必ず閉める

ようにしているんです」

「でもそれが開いてるってことは......、例えば誰かが忍び込んだと

か?」

「え、そんな......」

「ちょっと言ってみただけよ。たぶんドアの建てつけが悪くなった

だけでしょ。他の棟もこれぞ公立って感じに古いけど、東棟はそれ

に輪をかけてオンボロだもんね」寛子が苦笑いを浮かべる。「でも気

になるから、念のために異常がないかの確認だけはしておこう」彼

女は、そう言うとドアを開けて理科室へ入る。

 加奈もそれに続くと、まずは部屋全体を見る。準備室からの明か

りだけでは隅々までは分からなかったが、少なくとも窓ガラスが割

られていたり、中が荒らされているということはなさそうだった。

「加奈ちゃん、電気点けて」寛子は部屋の奥へ進んでゆく。

 加奈が黒板の横にあるスイッチを押すと、一斉に天井の照明が起

動した。

「ぎゃっ!」

 理科室が明るくなったのとほぼ同じタイミングで、寛子の大きな

叫び声が一瞬だけ部屋に響き渡った。

 それに反応した加奈は、寛子が歩いていた場所に目をやる。

 しかしそこに彼女の姿はない。

 ただ、その方角から呻くような声だけが聞こえている。

 加奈は急いでそちらに向かうと、目の前に広がる光景を目にして

言葉を失ってしまった。

 手前には、尻餅をついた寛子が言葉にならない小さな声を漏らし

ている。彼女は加奈に背中を向けた状態で、その奥にあるものをず

っと見ていた。

 そして加奈も、同じようにそれから目が離せないでいた。

 部屋の片隅。

 一番奥にあるテーブルとその一つ手前のテーブルの境界付近で、

人がうつ伏せになって倒れていた。体格と身に着けているスーツか

らすぐに男性だと分かる。

 しかし、一番注目すべき点はそこではない。

 その男は、頭から血を流していたのだ。

 顔と囲うように折り曲げられた両腕の中には血溜まりができてお

り、また男は先ほどからぴくりとも動いていなかった。

 じっとその姿を凝視していた加奈は、その途中であることに気づ

いてさらに動揺する。

 男の髪は黒かった。

 ただ、それに混じってちらほらと顔を出す金髪に、彼女は心当た

りがあった。

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