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邂逅(かいこう)の音(おと)

 第一章 邂逅(かいこう)(おと)


            1


 宮房俊樹(みやふさとしき)は迎えを待っていた。

 駅前の大通りにあるコンビニエンスストアの前。

 そこで彼は、腕を組んだままじっと微動だにせずに立っていた。

 新年になってまだ間もない休日。

 ここ数日に比べると暖かな陽気と言えなくもなかったが、今が真

冬であることには変わりない。

 寒さに弱い彼は、ダウンジャケットに厚手の手袋、さらにマフラ

を口もとが隠れるくらいまで巻いてできるかぎり肌の露出を小さく

していたが、それでも寒さを凌ぐには不充分に感じていた。

 市内の、いや県内の中心部と言っても差し支えないこの通りには、

他の休日と同じように沢山の人々が行き交っている。ただいつもと

違い、この日はスーツ姿や着物を身に着けた男女が多いように思え

た。

(あぁ、成人の日か)

 しばらくその光景を眺めていた俊樹は、そこでようやく今回の休

みの主旨を理解する。

 年始から仕事の連続で、今日が今年初めて取れた休暇だった。

 だが、多忙なのは今に限ったことではない。社会人になって三年

が経とうとしている俊樹には、既に曜日感覚がほとんどない状態だ

った。そのことを再認識して、彼は苦笑いを浮かべるしかなかった。

 俊樹は腕時計を見る。

 店の中で連絡を受けてからもう十分ほど経っている。

 そろそろ到着してもいい頃だろうと思い、彼は顔を上げて歩道の

先にある道路を見る。中央分離帯の役目も兼ねている路面電車の駅

には電車を待つ列ができており、またその脇を走る車も渋滞までと

はいかないがそれなりに混雑していた。

 そのとき、彼の視界を横切ったうちの一台がスピードを落となが

ら近くの歩道に寄せた。

 赤を基調としたデザインで、屋根の部分は白一色の真新しい車だ

った。俊樹はその車の名前までは分からなかったが、それが外国産

メーカのものということだけは知っていた。

 彼がその車を観察していると、運転席のドアから男が現れる。

 サングラスをかけたその男は、無精髭を生やし、肩まで伸びた髪

を後ろで一つにまとめている。そしてジャケットを羽織っただけの

姿は、俊樹には寒々しく映っていた。

 男はドアを閉めると、次に俊樹の方へ一直線に向かってくる。

 その風貌に心当たりがなかった俊樹は訝しげにそれを眺めていた

が、近くに来た男がサングラスを外すと、急に表情を変えて自分か

らそちらへ歩み寄った。

「一瞬、誰だか分からなかった」

「ん? そうか?」

「そうだよ。髪伸ばして髭があって、さらに目まで隠されたら、久

しぶりに見た奴は誰も凪森(なぎもり)だとは思えない」俊樹は笑いながらそう

言った。

 凪森健(なぎもりけん)と俊樹は大学で同じ学科を専攻していた仲だった。

 当時の凪森は見た目もよく、その珍しい苗字もあって周囲から注

目を集めていた。当然女子にも人気があるだろうと俊樹は思ってい

たが、異性どころか彼の他には凪森に近づこうとする者はほとんど

いなかった。

 俊樹は、その原因は彼の目にあるのではないかと思っていた。

 凪森は感情を表に出すタイプではなかったので、他人には無機質

な印象を与え易かった。また彼の左目は、右に比べると色彩が多少

黄色がかっている。本人の話では、それ昔からそうなのだという。

気にしなければどうということでもなかったが、間近で見るとその

差異は顕著で、人によっては異様だと感じるのも分からないではな

い。

 今の凪森は、以前に比べるとかなり胡散臭い外見になっていたが、

その瞳から受ける印象は何も変わりがない。

 俊樹が彼だと確信できたのも、それを目にしたからだった。

「なんとなく、気分でな」

 凪森は曖昧に答えると、俊樹から目を逸らして辺りを一瞥する。

「今日は、なんだか似たような恰好した人が多い」

「たぶん成人式だと思う」

「なるほど」凪森が言う。

「俺たちのときは、もう少しが先だった気がするけど」

「いつからなのかは忘れたが、たしか日付が変わったはず」

「ふうん......、そうだったかな」

 俊樹は呟くと、自分が新成人だった頃のことを思い浮かべる。

 彼は式には参加していなかった。

 大学進学を機に実家からこの土地にやって来たとき、彼は住民票

もこちらへ変更していた。なので、会場に行っても旧友たちに会え

るわけでもなく、また大学の友人たちは県外の出身者が大半でその

ほとんどが各々の地元に帰省していたため、彼にはわざわざ出席す

るだけの意義はないと判断していたのだった。たしか式当日は、普

段通りアルバイトをしていたはずだ。

「そういえばさ、毎年テレビ局が新成人にインタビューすると、『こ

れからは自分に責任を持ちたいです』なんて言う奴が必ずいるだ

ろ?」俊樹は、思い出したように言う。「そういうのに限って、結局

酔っぱらったりして警察のお世話になったりするんだよな。この時

期のニュースを見てると、口で言うわりには全然責任持てないんだ

なっていつも思う」

「ああいうのに出るのは目立ちたがり屋が多いからだろうな。ちゃ

んと言動に気をつけている人間は、そもそもあんな取材は受けない」

「そうそう。自分の言ったことが公の場で流されるのかと思うと、

普通はぞっとするもんだよな」俊樹は陽気な声でそれに同意した。

「とりあえず中に入ろう。世間話は移動中にすればいい」

 彼はそう言って車へ引き返してゆく。

 そのあとに続いた俊樹は、助手席に座ったところでまた凪森に話

しかける。

「それにしても本当に久しぶりだな。二年振りくらいか?」

「だいたいそれくらいだな。俺がここを離れたのは、春先だったは

ずだから」凪森は、大通りへ車を出しながら言った。

 学部の四年生になったとき、凪森は他の学生とは違い、就職活動

をしている様子はなかったので、俊樹はてっきり彼は大学院に上が

るものだと思っていた。だが、その予想に反して凪森は大学に残る

こともなく、卒業と同時にふらりとどこかへ消えてしまっていたの

である。

 そのときは俊樹も新生活のことでばたばたしており、やっとひと

段落ついたときには既に彼の姿はどこにも見当たらなかった。

「あれにはびっくりした。下宿先に遊びに行ったらもう部屋が空に

なってたし、電話しても繋がらなかったし」

「急に決まったんだ。だから連絡する余裕もなかった」凪森が言う。

 結局、凪森とはそのまま音信不通の状態が続いていたのだが、つ

い先日になって突然、俊樹のもとに彼から連絡が入ってきたのであ

る。

「今はどんな仕事をしてるんだ?」

「何もしてない」凪森は、俊樹の質問に素っ気なく答える。

「何もって......」

 予想外の返答を聞いた俊樹は少し戸惑う。

丘山(おかやま)に戻ってきたのは転勤とかじゃなかったのか?」

「違う」凪森は前を向いたまま言う。「つい最近までしてた仕事に区

切りがついたんだよ。それでまとまった金も稼げたから、当分の間

はゆったりしようと思ってここに来たんだ」

「えっと......、要は会社を辞めてきたわけ?」

「どこかの企業に所属していたわけではなかった。細かく説明する

とややこしくなるから簡単に言わせてもらうと、俺はフリーランス

に近い立場で働いていた」

「そうなのか」俊樹は、釈然としないまま相槌を打つ。「それで、当

分ってのいうは具体的にどれくらいなんだ?」

「来たばかりだからまだ何も。今の時点では、気が向いたらまた働

けばいいくらいにしか考えてないな」凪森は軽い口調で言った。

 その様子を見て俊樹は呆れたような顔をする。

「贅沢な奴だな。俺なんか毎日死ぬ気になって働いて、それでなん

とか食い繋ぐのがやっとなのに。凪森みたいなことをしてたら、き

っと生活ができなくなる」

「他人が決めた時間までに決められた場所に出勤して、決められた

仕事をして、決められた時間になるまで拘束される生活なんてして

いたら、たぶん半年も持たないだろうと俺は前から自覚していた。

だからそういう形態ではなくて、できるだけ自由の利く働き方をし

ながらこれから生きていこうと考えたんだ」

「それができれば誰でもやってるって」

「誰だってできることだ。それをしないのは、単に特定の企業に就

職して働いた方が受け取る報酬とその安定性が高い場合が多いとい

うだけで、ほとんどの人が本気になって考えていないだけの話だろ

う」凪森が真面目な顔をする。「もう、この話はやめにしないか? 宮

房だって、休みの日にまで仕事の話したくないだろう?」

 そこで、凪森は俊樹の方を向いて続ける。

「今の俺は少し長めの休暇を取っている。だからあまりそういうこ

とは考えたくないんだ。分かるだろう?」

「それは、うん、まあ......」俊樹が呟く。

「なら、これで終わりだ」

 凪森はそう言うと、強引に話を切り上げる。

 俊樹は、凪森がどんなことをして働いていたのか大いに興味があ

ったが、嫌がる相手に対して無理に尋ねるのも気が引けたので、そ

れ以上詮索するのをやめた。

「なら、別ことはきいていいか?」彼が話題を変える。

「何?」

「俺たちは今どこに向かってるんだ?」

 凪森から連絡があったとき、俊樹は彼と会う約束をした。

 その際俊樹が指定した日、つまり今日は、凪森には先約が入って

いて出かける必要があった。だが彼は、用件は短時間で済むからと

言って、俊樹に一緒について来ないかと誘ったのである。

 俊樹はそれを二つ返事で快諾しただけだったので、自分がどこに

連れて行かれるのかを全く把握していなかった。

「行ってみれば分かるよ」

 凪森は、笑顔を浮かべてそう言った。


            2


 車は、市街地を出てから二十分ほど経ったところで公道を外れ、

砂利の敷かれた広場に入っていった。

 どうやらそこは駐車スペースらしく、車が何台か並んでいる。

「ここ?」

「ああ」

 空いていたスペースに車を停めた凪森は、俊樹の問いに応じると

エンジンを切って外へ出ていった。

 俊樹も助手席のドアを開ける。

 街外れにある神社だった。

 この地域には、県内でも知名度の高い神社が三つある。

 俊樹たちがいるのはそのうちの一つで、ある有名な昔話との関わ

りが深いと言われている場所でもあった。

 ただここは、他の二つに比べると規模が小さく、見た目のインパ

クトも地味だった。俊樹は、これまでに三つとも訪れたことがあっ

たが、この神社は他よりも参拝客の数が少なく、そこまで有名な場

所なのだろうかという印象くらいしか持っていなかった。

「用事って、もしかして初詣?」俊樹はきく。

「違う」凪森が首を振って答える。「ここの宮司とは知り合いなんだ。

それで、ちょっと顔を出さないといけないことがあってな」

「知り合い?」

「端的な表現をすればそうだな......、遠縁、みたいなものかな」凪

森は言葉を選びながら答えると、そのまま神社へと向かいはじめる。

 俊樹は、黙って隣に並びながら考える。

 たしか凪森は中部地方の出身で、この辺りに親族はいないと以前

本人が話していたような記憶が彼にはあった。

 俊樹は少し疑問に思いながら凪森を見るが、彼はそれに気にする

様子もなく前を見て歩いていた。

 神社の裏には山が広がり、また表を通る道の傍では川が流れてい

るため、ここはその先にある住宅地とは区切られた場所にあった。

さらに、今は俊樹を含めても数えるほどしか参拝者がいないことも

あって周囲はとても静かだった。

 駐車場を抜けて境内に入った二人は、右側にある短い石段に向か

う。

 そして、それを上がりきったところで凪森が口を開いた。

「俺はあっちに行ってくるから」

 彼は、本殿左側の奥にある木造の建物を見ていた。

「どれくらいかかる?」

「本当に顔を出すだけだから、かかっても五分くらいだと思う。す

ぐに終わる」凪森は、そう言うと建物に向かっていってしまった。

 俊樹はそれを確認したあとで、自分は本殿へと足を運ぶ。

 賽銭箱に小銭を投げ入れると、彼は目を閉じて両手を合わせる。

 特別に何かを祈願したいわけではなかったが、今年はまだ初詣を

していなかったので、とりあえず拝んでおこうと思っただけだった。

 正直な話、こんなことで願いが叶うと思っている人は滅多にいな

いだろう。本当に強く望むことがあるのならば、わざわざこういっ

た場所まで出向く時間と消費する金銭を、目標としていることに注

ぎ込んだ方が明らかに有意義なものとなるに違いない。ただ、その

過程で何か不利益な事態が発生した場合、ふと願掛けをしていなか

ったことを言い訳にしたくなる瞬間はたしかにあるはずだ。多くの

人はきっと、そんな精神的な逃げ場を作っておきたいがために神頼

みをするのではないだろうか。

 俊樹は、そんなことを考えながら形だけの参拝を終えると、石段

の右隣にある休憩所に足を向ける。

 休憩所の手前には一本の大きな木が立っていた。その太い幹には

しめ縄が巻かれており、誰にも触れさせないように周りはロープで

囲まれている。

 おそらく、この神社の御神木なのだろう。

 俊樹は木の前で足を止めると、なんとなくそれを眺めることにし

た。そして、木の傍に立てある看板の説明文を読むなどしてしばら

く時間を潰していると、彼は凪森が向かった建物の方から人がやっ

て来る気配を感じて反射的にそちらを向いた。

 だがそこにいたのは凪森ではなく、小柄な中年の男性だった。

 グレィのスーツを着た細身の男で、この寒空の中をコートも着な

いで歩いていた。

 男は俊樹の視線に気づいて顔を上げたが、軽く一瞥するだけです

ぐに目を逸らした。

 俊樹の方も、じろじろ見るのは失礼だと思って視線を外す。

 石段に辿り着いた男は、そのまま階段を降りていく。

 するとそのとき、突然悲鳴に近い女性の声がひっそりとした神社

に響き渡った。

 俊樹は、それに反応して本殿を見る。

 声はそちらから聞こえたが、彼のいる位置からでは何も確認でき

なかった。

「今のは何でしょうか?」

 俊樹は、不意に隣から発せられた別の声に気づいて咄嗟に振り向

く。

 すると、そこには先ほどの男の姿がいた。

 どうやら、彼も声に気づいて引き返してきたらしい。

「さぁ......」

 俊樹は首を傾げながら言うと、その男を間近で観察する。

 若い頃はきっとハンサムだったと容易に想像できる顔立ちをして

おり、白髪交じりの短髪が良く似合っていた。ただ男の目つきは鋭

く、その体格とは裏腹に俊樹は威圧的な印象を受けていた。

「少し様子を見てきます」

 男は俊樹にそう告げると、早足で声のした場所へと近づいていく。

 そして本殿の左に回り込んだかと思うと、すぐにこちらに戻って

きた。

「どうでしたか?」

「ただの口喧嘩みたいですね。放っておいても大丈夫でしょう」男

は安心したように小さく微笑む。「では、私はこれで」

 彼は俊樹に会釈をすると、今度こそ石段を降りて出口へと歩いて

いった。

 俊樹は途中までその後ろ姿を眺めながらも、未だに静まらない声

が気になっていた。

 彼は少し左に移動して、その先をそっと覗いてみる。

 本殿の左脇には木の棒が二本立てられ、そこに張られた紐には沢

山の御神籤が結ばれていた。そしてその少し奥にあるスペースでは、

お互いに声を張り上げる一組の男女の姿があった。

 距離が遠くてよく分からなかったが、そこにいるのは大学生風の

金髪の男と、高校生くらいの少女のようだった。

 さらに、視界の左端には凪森の姿もあった。

 凪森はその二人組をちらりと見ただけで特別気にする様子もなく、

一定のテンポを保ったまま俊樹の前までやって来る。

「あれ、喧嘩?」俊樹は小さな動作で指をさす。

「みたいだな」

「恋人同士かな?」

「そんな雰囲気だったが、別に俺たちには関係ない」凪森は興味が

なさそうに言う。「用件は終わった。まずはここを出よう」

 俊樹はもう少し彼らの様子を見ていたかったが、神社を去ろうと

する凪森に置いていかれるわけにもいかなかったので彼のあとを追

うことにした。

「これから何か予定はあるか?」

 石段を降りたところで凪森が俊樹にきく。

「別にないけど」

「だったら、ちょっと早いがウチで一杯やるか?」

「お、それいいな。昼間からアルコールなんて、なんだか贅沢な気

分」凪森の提案に俊樹は機嫌を良くする。

「じゃあ決まりだな」

「なら善は急げだ。早く行こう」俊樹は楽しげに言うと、自然と駐

車場に向かう速度も上がった。

「そこまで機嫌が良くなるものか?」それを見た凪森は尋ねる。

「酒なんてかなり久しぶりなんだよ。普段は、そんな余裕があった

ら全部睡眠時間に回さないと身体持たなくなるくらい忙しいんだ」

俊樹が言う。「それに、凪森がどんな所に住んでるのかも見てみたい

しな」

 車に乗り込む頃になると、俊樹はもうあとに控えるイベントのこ

としか考えられなくなっていた。

 こうして、彼がそこで見た出来事は記憶の片隅へと追いやられて

いった。


            3


 少女は、机から目を離すと深く息をついた。

 部屋には彼女しかいない。

 二時間ほど前までは、他のメンバもそこで一緒に雑談をしていた

のだが、彼女は帰宅する直前になって締め切り目前の仕事が残って

いたことを思い出した。そのため彼女は、仲間たちを見送ったあと

で一人部屋に残ってそれを片付けていた。

(締め切りに追われるなんて、まるで大人になったみたいだ)

 少女は疲れていたが、そう思うと少しうっとりとした気分になっ

た。

 中学一年生の彼女は、テレビドラマに出てくる女優さんたちを見

る度に、自分もあんなふうに仕事をこなしながら恋愛も両立させて

みたいと思い、ディスプレィに映る大人の女性に憧れを抱いた。い

ろんな規則に従わないといけない不自由な子供ではなく、早く大人

になりたいといつも願っていた。

 正面の壁に掛けられている時計を確認する。

 もうすぐ十八時を回ろうとしていた。

 作業を終えた彼女は、机の上を片付けてから学校指定の紺色のバ

ッグを肩にかけて部屋を出る。

 校舎の中は真っ暗だった。

 これまでも日没後に下校した経験は何度かあったが、そのときは

いつも誰かと一緒だった。

 暗闇に包まれた校舎に独りでいるのだということを妙に意識して

しまい、彼女は急に怖くなる。

 彼女がいた部屋は校舎の出口からは遠い位置にあったが、それで

もドアまではそこまで距離があるわけではない。走ってしまえば数

秒で外へ出ることができる。

 しかし、出口に辿り着くまでには一つだけ難関があった。

 階段を挟んだ隣には小さな部屋があった。

 そこは現在使われておらず、その扉が開かれたところは在校生の

中では誰も見たことがないと言われている曰くつきの部屋だった。

 さらに彼女たちの間には、そこにまつわるある怪しげな噂が広ま

っていたのである。そのため、生徒たちはその小部屋を開かずの部

屋と呼び、暗くなると一人では誰もそこに近づこうとはしなった。

 彼女はずっと、その噂が単なる作り話だと思っていた。

 みんなの怖がる様子を見て面白がるために、誰かがでっち上げた

嘘に決まっていると信じていた。

(でも、もしあれが本当のことだったら?)

 そう思い直すと、少女は前に一歩踏み出すのを躊躇う。

 彼女は、もうこれ以上それを考えないように何度も首を振って自

分に言い聞かせると、勇気を振り絞って歩き出す。

 本心では、外まで全力で駆け抜けたかった。でも、それをすると

本当に噂通りになるのではないかと思ってしまい、彼女はその本心

とは裏腹にゆっくりとしたペースで出口へ向かった。

 できるだけ窓際に沿って歩いていた彼女は、階段を通り過ぎ、問

題の小部屋の前まで来たところでふと足を止める。ほんの僅かでは

あったが、その部屋の中から声が聞こえたような気がしたのだ。

 彼女は緊張した面持ちでそちらに目をやると、耳をすませてもう

一度確かめる。

 たしかに、扉の奥から声がしていた。

 しかもそれは、まるで何かが呻いているような不気味な声だった。

 次の瞬間、少女は耐え切れなくなって短い悲鳴を上げた。

 恐怖で足は震え、壁にもたれかかるように彼女は座り込んでしま

う。今すぐにでも逃げ出したいのに、金縛りにでもあったように身

体が言うことをきかなかった。

 すると、あるところで呻き声は聞こえなくなる。だが今度は、板

張りの床が軋む音が部屋の奥から扉へと一歩一歩に近づいてきた。

(何かが来る!)

 少女は、全身が総毛立つのを感じた。

 ただ、そのショックのおかげで身体の自由が戻った。

 彼女はそれに気づくと、四つん這いの姿勢のままでもがくように

して必死になって外へ逃げ出した。

 それは一月。

 冬休みが明けたばかりの、ある真冬の日に起きた出来事だった。

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