あるラブレターの日の物語
軽い恋愛ものです。読んで楽しんでいただけたのであれば幸いです^^
1
後頭部を思い切り殴られたような、そんな衝撃が一瞬にして頭の天辺から足の爪先まで駆け抜けた。
―――確認しよう。ここは下駄箱だ。そうだ、ここは俺のクラスの、俺の下駄箱の前だ。靴が入ってるはずの箱の扉を開けた。"はず"は"いる"に変わった。靴は今も下駄箱に入って"いる"。間違いない―――
「んじゃこれは、何よ?」
下校時刻を過ぎた人気のない校舎の中、3のDと書かれた札が立て掛けられている下駄箱の前で、一人の少年は一枚の封筒を手にして、心の中で問答しながら硬直していた。
外では下校時刻を過ぎたにも関わらず、夕焼けの橙色に照らされた学生達が小さな白球を追いかけ、はたまた大きな白球を蹴り進み、校舎の中まで聞こえる程に声を張り上げている。
「何、これ……?」
しかし、下駄箱の前で地蔵となった少年の耳には、周りの音など全く入ってこなかった。
原因は一つ。少年の手にした封筒である。
普通の封筒であるならば、固まる事はない。むしろ、すぐにでも中身を確認して、要らなければ力のままに握り潰して、学校のゴミ箱へとダンクをかますところだった。しかし、少年はそれを実行していない。封すら開けていない始末である。
「え、え~……だって、さぁ」
だって、さぁ……ハートマークのシール付きじゃん……
と心の中で呟いた。
少年が手にした封筒は、ピンクのラメ入りキラキラ乙女マーキーで縁取られ、これまたラブリーチャーミーな赤いハートキラキラ星のビーズ付き☆のシールが貼られていた。
少年の脳では、この封筒が何物であるかという解析が行われ、古の書物たる某少女漫画で見たことのある封印されし宝……要するにラブレターであるという結論が出ていた。
「何故……こんな物が、俺に?」
結論が出たところで少年の体が金縛りから解かれる事はなく、何故かという疑問だけが頭の中を回っていた。
「誰からの……」
「樹ぃ!!こんな時間に何してんのさ!?」
「っっっっ、…………!!」
急に背後から響いた声に、樹と呼ばれた少年はコンマ数秒間心臓が止まった。
慌てて手に持ったラブレター紛いの何かをポケットに隠す。しかし、手が上手く動かず、ポケットの中へと入れられなかった封印の書物がヒラリと地面へ落ちた。
「あ……」
「ん……?」
樹と後ろの少年が同時に声を出す。二人の目の前にはキラキラモードムンムンのラブラブ置き手紙が一枚、自らを主張するように夕暮れの光を反射して輝いていた。
「これ、……え?えええええ!?」
後ろの立つ少年が、驚きで声を上げる。
驚きの声を上げるのも無理はない。何せ、樹は女の子に全くモテないからである。
その事実は3年D組のクラスメイトは承知済で、クラスの女子からは、
「樹くん、名前かっこいいし、顔もかっこいいんだけど……ねぇ?」
と明らかなはぐらかしを受ける程、色恋沙汰とは無縁な存在だった。
そう、"だった。"のだ。
今は違う。この一枚のラブレター(と思われる封筒)を手に入れた時から、モテない現実は一変した!と本人は思っている。
「何、誰から誰から?!」
興味津々に覗き込む少年に少し眉を潜めながら、樹は何も言わず封筒を裏返した。
「……M?」
封筒を綴じる為に裏面の真ん中にハートマークのシールが貼られている。そこまでは樹も理解出来たが、その右下、宛名である樹の名前の隣にアルファベットのMと書かれていた。
それも、ゲームや本などでしか見た事のない、足が外に跳ね上がっているMだった。
「イニシャルか?にしても、こんなアルファベットの書き方するやつ見た事ないぞ」
樹は少年の言葉に頷きながら、Mの文字をじっくりと眺めた。
赤色の、マーカーではない何かで書かれ、樹の感覚でば普通にアルファベットのMを書いた時よりも平べったい。
果たしてこれは誰からのものなのか……いまだ封を開けていないにも関わらず、樹の心臓は段々と鼓動を早めていった。
「イニシャルMの女子っつったら、松木、宮本、水野、村瀬、森澤くらいか?」
樹の後ろに立つ少年が、「高橋」と札の貼られた下駄箱から靴を取り出しながら例を挙げる。
確かに、樹のクラスに存在する名字のイニシャルがMである女子は五人。いずれも意外とモテる、学年の人気女子ばかりである。
「いや、でもあいつらが樹って……ないな」
「おい、秀。ないってどういう事だよ?」
秀にヘッドロックをかける樹。そのままの体勢で樹は少し頭の中を整理した。
―――イニシャルがMだろ?名字がMは、さっき秀が言ってた五人だ。学年単位で考えたら十五人はいるか?まぁそれは考え過ぎか……―――
「痛い、あの、まじで痛いんすけど樹さん……」
タップする秀をよそに、樹はまだ思考の海に溺れていた。
―――待て、名前がMだと考えるとどうだ?……いや、これだと選択肢が多すぎる―――
考え込む樹は、まだ秀がタップしている事に気が付かない。
樹の腕の中、我慢の限界を迎えた秀が、指先まで真っ直ぐに伸ばし、痛くない程度で樹の脇腹を小突いた。
くすぐったさに体を捻る樹。その隙を秀が見逃すはずもなく、腕から逃れるついでに樹からラブレター紛いのフォーリン下駄箱置き手紙を奪い取った。
「うへぁ……くそっ、あ、おい秀、何取ってってんだよ!?」
樹の剣幕が変わる。秀が握ったラブレターを奪い返そうと物凄い勢いで腕を伸ばすが、秀の執拗な脇腹狙いのカウンターで思うように近付けない。
「おい、秀やめろ、返せ!それを開けたらお前は……お前は!」
「ん?あ、すまん、普通に開けちゃった」
迫真の演技を見せる樹に対し、秀はあっけらかんと開封した事を告げた。
「何で俺がもらったのにお前が開けんだよ!」
眉を吊り上げ、怒りの表情を見せる樹。
「すまんすまん、ついついな。……まぁとりあえず落ち着いて中身読もうぜ?」
秀は樹から目を離し、ラブレターの本体たる手紙部分を取り出そうとした。
そこへ、樹の神速とも言える突きが、秀の手を捉える。
秀に握られていた人質ならぬ紙質を奪い返し、樹はすぐさまその紙質を鞄の中へと放り込んだ。
「あ、おい!いいじゃねーか減るもんじゃないし」
拗ねたような顔を見せる秀に、落ち着きを取り戻した樹が鼻を鳴らす。
「何でお前に見せなきゃなんないのさ。これは俺がもらったの。だから、中身見るのもまずは俺一人だけなの」
下駄箱から靴を取り出し、同じ場所へ上履きをしまう。
秀も舌打ちをしながら靴を履き替えた。
「まぁまぁ秀さん、とりあえず中身見たらメールすっから。相談乗ってくださいよ?」
手を擦りながら腰を屈める樹。樹がこの体勢に入った場合、冗談ではなく本気の相談を持ち掛けられる可能性が高い。
秀は内心、それ本気のごますりだろ。と思いながら、「お前それ本気のごますりだろ」
言葉のストレートを放っていた。
かくして、色恋沙汰に疎い樹が、初めてラブレターを手にした5月の甘酸っぱい物語が始まる。……事を本人は期待しているのであった。
夕飯で出されたロールキャベツを舌の火傷と引き替えに早々にたいらげた樹は、食器を片付け忘れた樹に突っ掛かる母親を無視して自らの部屋へと帰還した。
「隊長!今日は物凄い収穫を得たのであります!」
ベッドの上で、一際大きな体を構える熊のぬいぐるみに対し、樹は直立不動の最敬礼を見せた。
熊のぬいぐるみの前には、下駄箱で手に入れた封筒が置いてある。
敬礼を終えた樹は、おもちゃに飛び付く子供のようにそのラブレターへ突進した。
「う~、心臓がばくばくするぅ」
手が震え、少し汗ばんでいるのがわかる。耳をすませば、心臓の脈打つ音が一打一打大きくなっていくのがわかる。
樹は、いまだかつて感じた事のない緊張に、少しの恐怖を感じた。
「これ開けんのか……うわーなんなら秀に開けてもらえば……」
言いかけて首を横に振る。
もし秀に開けさせたなら、晒し者にされる事は間違いない。ラブレターが入っていたという事を知られただけで、明日の学校で見せ物状態になる事は簡単に想像がつく。
汗ばむ手を見つめて早三十分。
一向に手は動こうとしてくれない。
「だああ、もういい!」
頭を掻きむしる樹は、その勢いで熊のぬいぐるみが睨むラブレターを手にとって封を開けた。
一度秀に開けられているからか、シールの粘着力があまりなく、思った以上にすんなりと開封された。
恐る恐る覗き込み、中に見えたのはシンプルな白い紙。取り出してみてもシンプルさは変わらず、真っ白な紙に薄い橙色で縁取られ、行を分けられている。
そこにあったのは黒いペンで書かれた文字。文字の形からしても女の子が書いたものと判断出来る。
「なになに、えー、こんにちは……」
―――こんにちは
急にこんな形で手紙を書いてしまって申し訳ありません。
あまり接する機会がなく、話す事もほとんど出来ないので、お手紙を書きました。
単刀直入に言うと、もし成宮くんが良ければ、明日の放課後、体育館裏でお話出来ませんか?
待っていますので、よろしくお願いします。―――
「うん、よろしく……」
樹はあまり驚きを見せず、
「ええええええええ!?」
もとい、むしろ読み終わった直後は驚きのあまり声も出せない状況に陥っていたのであった。
「ちょっ、おまっ、放課後体育館裏って……」
樹の頭を過ったのは、週刊の漫画雑誌で見たヤンキー漫画の一シーン。
体育館裏に呼ばれた主人公を取り囲むヤンキーの集団。この学校は俺様が支配したぜと言わんばかりのヤンキーのボスが、手下を従えて学校の最後の敵勢力のリーダーである主人公をタコ殴る。そんな手に汗握る青春スペクタクルっある。
「いやいや、まさか何で俺がヤンキーに呼ばれんだよ」
首を横に振る樹。そもそも樹の通う学校に、ヤンキーという存在はほぼほぼいなかった。いるとすれば、制服のズボンを腰下までずり下げ、いかにもヤンキーですと言う歩き方をする割に喧嘩は嫌いでサッカーが大好きなやつばかり。
秀もそのサッカー好きの一人だったが、服装は普通で爽やかイケメンな彼は、サッカー好きヤンキーとは違い学校の女子からの人気は相当高かった。
「いや、まじどうしよう……明日、秀に相談しようかな」
とにもかくにも、現状は樹が呼び出されている事に変わりはなく、それが女子だった場合を考えると、呼びつけた女子がかわいそうに思えるのは樹とて例外ではなかった。
「……とりあえずは、明日かな」
ヤンキーに呼ばれているのかもしれないという半分冗談めいた不安は、明日の朝秀に相談してみてから悩む事にして、今日はもうゲームをして寝よう。というプランが一瞬にして頭の中で出来上がった。
さっそくベッドの真ん前に設置されたテレビの電源を付け、やりかけのRPGを進める。
ちょうどボス戦が始まり、荒々しいBGMが部屋を包んだ。戦いに挑む主人公の姿は、樹とは似ても似つかない男らしさを醸し出している。
いつかこんな背中で語るような男になれれば、とちょっとした理想を抱きながら、樹の一日が終わった。
2
目覚ましのけたたましい音に耳をつんざかれて起きる形となった朝、樹はそれでも半分寝惚けた状態でベッドの縁に座り込んでいた。
目の前の小さなテーブルには、昨日開封したイニシエノショモツが神々しく朝日を浴びて光っている。
夜、ゲームの電源を付けて二時間、もはやラブレターの事など頭の片隅からさえも消えていた。目の前のテーブルに置いてあるにも関わらず。
何故、昨日の自分はこんな大事な問題を忘れられてたのだろうか、と頭を悩ませるが、全くもって答えが見つからない。そして、結局はそこまでのめり込まされるゲームの偉大さを痛感するという結論に達したところで壁掛け時計に目を向けた。
「ま、とりあえず学校行くか」
冷静な声で呟く樹だったが、時計の針は午前の八時と十五分を指している。このままでは確実に遅刻するという、まさにデッドラインとも呼ぶべき時間だった。
無表情のまま顔を洗い、髪に水をかけてから一旦ドライヤーで乾かす。寝癖が解かれた事を確認して、今度は制服に着替える。リビングの母親の小言をスルーしながら食パンを加えて家を飛び出した。その間なんと4分ちょい。
「我ながら神速なり」
家を出るタイムアタックという競技があるならば、オリンピックですら目指せるかもしれない。そんな速さを見せた樹は、むしろそんな事考えてないでもっと早く起きるべきだったと後悔した。
商店街を抜け、大通りを越えたところで住宅街に入る。初めて訪れるのであれば迷うであろう曲がりくねる道のりを、毎朝遅刻紙一重で積み重ねた鍛練の成果を見せんとする素早さでかけぬけた。
途中、いつもは見掛ける事のない人影を視界の端に確認した。
「結城さん?珍しいな」
3年B組、女子バスケ部所属、結城早苗(15)。クラスどころか学年全体でのマドンナとも言うべき存在で、容姿端麗、才色兼備、グラマラスなスタイルを持つ非の打ち所のない高嶺の華だ。
一年の時に同じクラスになり、班行動でほんの少し一緒になった程度で、それ以外では全く関係のない存在だった。
樹の記憶によると、確か幼少期に同じ保育園へ通っていたような事実は認められていたが、仲が良かったかどうかまでは定かではない。むしろ目を合わせれば喧嘩ばかりの、まるで態度だけは猛々しいへたれヤンキー同士の喧嘩をするような間柄だった記憶がほんの少しだけ思い出される。
かくして幼少期のほんの一時期を喧嘩ばかりして過ごした二人は、いつしか言葉を交わす事もなくなったまま数年の歳月が流れた。話さなくなった理由までは覚えていないが、同じクラスの時にぎこちない友人関係になってしまっていた事は鮮烈に覚えている樹であった。
「まぁもう何も関係ないし、挨拶する理由もないからな」
早苗が遅刻ぎりぎりの時間に、通学路を樹と同じ速さで走っている事はこの学校に通い初めて今までに一度もなかった。
それでも樹は、特に話しかける様子もなく、走る速度を上げた。
早苗を追い抜き振り返る事もない。
「ってか振り返ってたらまじで遅刻する!」
樹は五月のまだ肌寒い朝の風を浴びながら、校門を目指して一直線に走っていった。
その間、一度も早苗に振り返る事はなかった。
チャイムと同時に立ち上がり、教師の説教に目……いや、耳もくれず、一目散に屋上へと向かう。
これが、樹と秀、それにもう二人、樹と同じクラスの隆史と奈緒の四人組が過ごす昼休みの始まりだった。
いち早く、屋上へ出て右手、天文部の誇る少し小さな半球ドームの手前のフェンス横を陣取る事。これが四人の昼休みの第一の任務であった。
今回は担任の静止に捕まった隆史を見捨て、樹、秀、そして奈緒の三人が無事任務を終えた。次の任務は……弁当を残さず食べる事だ。
「んで、樹、あんた誰に貰ったのよ?」
奈緒がぶしつけに樹へ問いを投げる。
誰からなのか……推理物の小説なら、何かしらのヒントが隠され、樹自身がそれに気付くという展開になる。
「わかったら、苦労しないんですよねぇ」
肩をすくめる樹。警察の捜査員でもなければ、探偵でもない、まして鑑識課の男なんてもっての他なただの高校生である彼にとって、このラブレターの書き手を見つける事は至難の技だった。
実際、樹の中でも"誰からもらったか"という内容より、"ラブレターをもらった"という事実の方が大きな意味を持っていた。つまりは、とりあえずラブレターもらえた!ラッキーだぜこれで学校生活薔薇色だぜ!という事である。
「わかんないって言ってるわりに、あんたニヤニヤしてるわよ、顔」
怪しいものでも見るかのような目で、奈緒が樹を一瞥する。
「でもさ、そのラブレターの、Mちゃん?ってホント誰なんだろうな」
黙々と弁当を突ついていた秀が、ふと気付いたように口を開いた。
樹の知る限りで苗字、名前のイニシャルがMである仲の良い女子は数える程。違うクラスであればまだ候補は増えるが、だからといって樹に矢印を向ける女子を探し出せるわけではない。
「まぁ、あんまり喋る機会がないから手紙にしたんじゃないかなぁ……私なら直接言うけどね」
奈緒が鼻を鳴らす。
「いや、お前直接言っても誰も振り向きゃしないだろ」
担任に拉致されて早十五分、大切な昼休みの時間を大幅に削られながらも解放された隆史が、奈緒の後ろから顔を覗かせた。
「隆史、あんたそれどういう事?」
怒っちゃうぞっプリプリ、と表現するには余りにも冷たい表情で奈緒は隆史を睨んだ。
「いや、だからその表情ね」
と、奈緒の表情を指摘する隆史だったが、樹が見る限りで隆史は奈緒の顔を見ていない。
「とにかく、今日授業終わったらわかる事なんだから落ち着きたまへ、皆の衆」
最後の唐揚げを口にほおり込み、秀は箸を置いた。
確かに、と表情を改める奈緒と隆史。
一瞬の静けさが屋上に広がる。
四人は太陽の光を遮るもののない真っ青な空を見上げた。言葉を交わす事もなく、ただぼぉっと、五月のこの時期にしては珍しい気温の高さを感じながら。
そんな中、樹の心臓が少し強く鼓動を打った。徐々に強さを増し、速度を増す鼓動に、樹はとまどいを隠せなかった。
「やっべ、どうしよう……みんな静かになったら急に緊張してきた……」
ぽつりと樹が呟く。
緊張で少し固くなったその表情を秀が覗き込んだ。
「樹、柄にもなく緊張してるんですか。ほぉ」
面白がっている。確実に。秀はあからさまに笑いを隠すようにして手のひらを口元に当てた。
「やっちゃんみたいなのが来ても、無視しないであげてね?」
奈緒が両手を胸の前で合わせ、上目遣いでおねだりの視線を樹に浴びせた。
ちなみに、やっちゃんとは、三年C組に所属する女子で、本名を八橋美雪と言う。一言で表せば、うるさい。二言で表せば、口が悪くてうるさいという、何ともまぁラブレターをよこすどころか祭り上げて晒し者にしそうな人物である。奈緒と一緒にすると、普段温厚な秀がキレるレベルだった。
「奈緒にお願いされても全くやってやろうって気になりませぬな」
いやいや、あいつは絶対に無理だろ、と心の中で奈緒に突っ込みを入れつつ、樹は弁当の梅干しに手を伸ばした。強い酸味の中に、少しの甘さを感じる。酸味はしその風味と相まって、冷めた白米の甘味ですらいとおしいと感じる程に塩気を増していた。口をすぼめつつ梅干しを頬張る。
樹は、ふと考えた。
高等学校受験を控え、あと一年も経たないうちに中学校を卒業してしまう。それはつまり、一歩大人に近付く事と、かけがえのない今この瞬間を失う事の両方を意味している。
例えば、ラブレターを置いた女の子は、この瞬間に伝えたい事を伝える為、手紙という形ではあるが樹にコンタクトを取ることに成功しているけれど、もしもどこかで手紙を書く事をやめていたら……気持ちを伝える事をやめていたら、その子は後悔をするだろうか?仕方がなかったと諦めるのだろうか?
「俺なら、どうするのかな」
誰にも聞こえない程の小さな声で樹が呟いた。
四人の中での反応は全くない。
樹は、最後に残しておいた卵焼きを口に放り込み、両手を空に挙げて全身を伸ばした。
「まぁ、なるようになるか!」
「何、急に声出さないでよ、びっくりするじゃん」
奈緒が不審者を見るような目で樹を一瞥する。
「奈緒、だから彼氏出来ないんだよ」
横から隆史の低い声が響く。
わなわなと若干ながら震え始める奈緒に、隆史は自分の発言がいかに愚かだったかを考え始めた。
「まぁ、変わったところで男なんて寄ってこないだろうけどな?」
否。全く何も考えてはいなかった。
奈緒の怒りが頂点を迎え、隆史に災悪が降り注ぐのは時間の問題。むしろ、それより怖いのは樹と秀への八つ当たりである。
秀は苦笑しながら、樹の肩を叩いた。
「後悔だけはすんなよ?みんな同じ事思ってるから」
秀の声が樹の中でゆっくりと響いていく。さっきの呟きを聞いていたかのような……むしろ聞いていたからであろう言葉に、樹はこの四人でいられる空間がいかに大切なものか、再認識させられた。
「おう、がんばっ、がっ!」
奈緒が樹に飛びかかる。樹を挟んで逆側には隆史の姿。
「待ちなさいよ隆史!あんたねぇ……」
「おい、痛いから!な、お……ちょ、まじで痛い。……あと、胸が当たってます」
もはや取り返す事の出来ない失言。樹からすれば取り返すどころかもう一度言う機会をもらいたいと思うくらいの役得だったが、それと引き換えに奈緒の渾身の超必―――深く腰を落として重心を下げ、背筋と体を捻った瞬間に出来る遠心力を使って放たれる日本古来の戦闘技術、通称「張り手」が繰り出されるのは、いくら樹といえど耐えるに耐えられなかった。
学校にチャイムの音が響く。屋上にいる四人は、チャイムにも気付かないで、いまだ奈緒の憤怒を静める為の儀式を敢行中だった。
チャイムが鳴っても戻ってこない四人を咎める為に屋上へとやってきた担任の足音にも気付かずに……
3
結局、誰からの手紙だったのかという疑問は解消されず、鞄の中のジッパー付きポケットに大切に保管されたラブレターが樹の頭を常に悩ませた。
赤色の細いクレヨンのようなもので書かれた、Mの文字。中世ヨーロッパの貴族が生やす髭のような形で書かれた文字を、まじまじと見つめる樹は、昼休みと場所を同じくして暖かな陽射しを浴びていた。
ラブレターには体育館裏に来い、という内容しか書かれていない。可愛い女の子がいてくれれば、万歳まじ万歳秀奈緒隆史ざまぁみろイヤッフー!と叫び出すところだろう。
「と言っても、そんな美味しい話があるわけないんですよね」
深い溜め息を一つ吐きながら、ラブレターの中身に再び目を通す。
昨晩から何度も読み直したラブレター。どこの誰が、どんな気持ちで書いたのか、全くわからない手紙。
「なぁ、本当に好きなのか?」
小さな声で呟いた。
風にかき消されそうな程の小さな声は、誰にも届いていない。そう思っていたのは樹だけだった。
「誰に話しかけてんのよ、気持ち悪い」
不意に樹の後ろから声がした。慌てて後ろを振り向く樹に、後ろからレスラーのようなタックルを決める影があった。
「ってえな!なんだ、奈緒かよ。何でここにいんだよ?」
樹の腰に思いきり抱き着く奈緒は、満面の笑みを浮かべて顔を上げた。
「それより、あんた今相当気持ち悪かったよ?」
にやにやと厭らしい笑顔を浮かべる奈緒に、樹は憤りを感じた。
「そりゃ、俺だって悩むだろうがよ。ダメなのかよ?」
語尾を荒げる樹。不機嫌に顔を曇らせる親友に、奈緒は困ったように頭をかいた。
「ああ、こりゃまじな悩みか……ごめんごめん」
顔の前で両手を合わせて、頭を下げる奈緒お決まりの謝罪のポーズ。奈緒の謝罪の仕方の軽さは、誰よりも樹が良く知っていた。
溜め息をついた樹は、バツの悪そうな顔をする奈緒を見つめた。
「な、なにさ?急にそんなじろじろ見だして」
じろじろと言う程視線を送っているわけではなかったが、樹は特に否定する事はなく、思い詰めたような表情を浮かべた。
「なぁ、お前って好きなやついんの?」
唐突な質問に奈緒は驚いた。
「え、急になんですか樹さん……もしかして私の事狙ってました?」
まいったなと頭をかく奈緒に、樹が特別に何か反応する事はなかった。
「いや、好きになるってどうなのかなぁって思って……」
いつもどおりの樹へ少しだけ睨みを効かせる奈緒。
「ちょっとくらい恥ずかしがってくれてもいいじゃん……」
「え、なに?何で目、細くしてんの?」
奈緒の睨みが強くなる。
「睨んでんの!……ほんと、あんたを好きになった子もかわいそうだわ」
奈緒は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「は、何でかわいそうなのさ?」
樹もむっとした表情を見せて奈緒に食い付く。
「そりゃあんたにアプローチかけたって気付いてくれないでしょうからね。鈍感で女心に疎い樹だから……そりゃ彼女の一人も出来ないわ」
手のひらを空に向け肩をすくめる奈緒は、携帯電話をポケットから取り出して時間を確認した。
「ま、精々悩みなさいよ。私はこれから用事あるし帰るから」
手をひらひらと振り、奈緒は屋上から降りるための踊り場へと向き直った。
「ちょ、奈緒、何か用があったんじゃなかったのかよ?」
唐突に体当たりをぶちかましたからには、それなりに何かの用があると樹は考えていた。
しかし、当の奈緒は特に何かある様子を見せない。
ただ、一度だけ立ち止まり、樹の方へと振り返った
「あるとすれば、泣かしたら承知しないっていう事くらいかな?」
にやりと笑みを浮かべると、また再び手を振って踊り場へと消えていった。
「泣かしたら……って、誰をだ?」
樹は首を傾げつつ、自分の住む街を見下ろした。
屋上から見る景色は壮大で、毎日通う道がどこまでも続いている。住宅街を網の目のように広がるこの道の終点はどこなのだろう、そんな疑問が頭を過る。
昼間の生暖かい風とはまるで違う涼しげな風が、優しく樹の頬を撫でた。
「俺、どうすりゃいいんだろ……」
風は、樹の不安までは拭えなかった。
4
空の天辺にいた太陽が地平線の近くまで降り、校庭を茜色に染めた。校舎も例外なく夕日に照らされ、寂しげにたたずんでいた。
樹の喉が一つ音を立てる。
唾を飲み込んだせいか、一瞬心臓の脈打つ音が遅くなった気がした。しかし、次の瞬間には、先程よりも大きく、早く鼓動が叩かれている音が聞こえた。
樹は何度となく目的の地、我らが救済の聖地である体育館裏に近付いたが、恐怖のあまり古の書物を執筆された聖女様の姿を確認する事なく踵を返していた。
「おいおいおい、全くよお、怖いなんて思わなくていいのにこのポンコツはよお……」
言いながら自分の腹を右フック。変に筋へとヒットしたために、樹は膝を付いて痛がった。
「くっそ……怖いのは、俺じゃないよな……」
膝を付いたまま地面を見つめる樹。
―――泣かしたら承知しない
奈緒が最後に言った言葉が、樹の肩に重くのしかかる。
「怖いのは相手だ」
樹がどういう答えを出そうと、その答えを待つ相手の不安は計り知れない。
誠意ない答えをすれば、相手がどう感じるかなど、想像すれば簡単に理解出来る。
「……奈緒はそういう事を言いたかったのか?」
小さく呟きながら、樹は体育館を見た。
体育館を使用する部活は、今日はすでに練習を終えたらしく、木々に囲まれて薄暗い体育館には人気と呼べるものは全く存在していなかった。
「そうだよ、俺が行かなきゃ始まらない……よし、行こう!」
勢い良く立ち上がった樹は、膝を着いた時に落ちた鞄を肩にかけなおして、聖地へと進軍していった。
木が生い茂る体育館の周辺は何をせずとも光が遮られ、明らかに校庭いた時よりも涼しくなった感じた。むしろ、すでに冷たくなった風が吹き抜けて、寒くすら感じる程だった。
樹は意を決して体育館の裏側へと飛び出した。
「遅れてごめん!」
飛び出した瞬間に頭を下げた樹。そこに人がいるかいないかすら確認せず、深々と謝罪する。
数秒間しか経っていないはずであるのに、数分にも数十分にも感じられていた。
しかし、肝心の相手からの反応が返ってこない。
樹は恐る恐る顔を上げた。
「ほんとにごめ……ん……、え?あれ?」
そこには今にも泣き出しそうな顔をして樹を見つめる早苗が立っていた。
「え?あれ!?何で結城さんがここにいるのさ!?」
思いもよらない対面に、樹はあたふたと暴れだした。
静かに樹を見つめていた早苗が、唇を震わせながらか口を開いた。
「わ、私が、樹君に手紙を書いたから……」
元々声がか細いが、今は語尾がすぼんでさらに弱々しい。
樹は困惑した顔をしながら聞き直した。
「何?ごめん、聞こえなかったからもう一回」
早苗は顔を真っ赤にして俯く。そして、急に顔を上げるないなや、スカートの裾を両手で掴みながら樹を睨んだ。
「え?何で睨むんだよ、俺なんかしちゃったのか?」
あたふたと慌て始める樹に、早苗は大きく首を横に振った。
「違う!睨んでない!」
「え、んじゃ目細めてんの?」
驚きのあまりに、細めていた目を大きく見開く。
「上目遣いだもん!男の子はみんな好きなんでしょ!?」
早苗が声を大にして樹の鈍さに噛み付いた。
「大体、いっくんが悪いんだっ!……私は、ずっといっくん大好きだったのに、全然話してくれなくなったんだもん」
声を震わせ、目に涙を溜める。肩も小さく震わせている。
潤んだ瞳に見詰められた樹の心臓が、どくんと大きく脈を打った。
「いや、そりゃ、え……だって」
沈黙を嫌うように口を休ませない樹。真っ直ぐ自分へと向けられた視線に返す事が出来ずに目を泳がせた。
何故、早苗との間が遠くなったのか。樹にとっても不思議でならなかった。
喧嘩したところで次の日にはお互いに忘れていたし、かといって仲が良いと言われる程の交流は消えていた。幼少期であれば共に時間を過ごした休日も、ある時を境に全くなくなった事を樹も覚えている。
「なんで、かな?」
今の早苗と昔の早苗は全く性格が違う。男の子よりもやんちゃだった早苗は、今ではもう学校のマドンナ、容姿端麗で才色兼備な高嶺の華だ。
今と昔で違う事……樹は頭の中で二人の早苗を思い描く。変化した部分しか見付からない今の早苗にあって昔にないもの。その逆も。何が違っているのか考える。そして、樹は顔を上げた。
「そうだ……思い出した。結城さんが昔一回だけ国立公園で迷った時あっただろ?」
早苗は一瞬沈黙し、あっと声を上げて頷く。
「迷って迷って、でかい切り株の上に座って泣いてたのを俺が見つけたんだよな」
懐かしさと少しの切なさを感じながら、樹は過去の記憶を思い返す。
大人でも広いと感じる国立公園の林に迷い込んだ早苗は、真上にいた太陽が姿を消すまで孤独と恐怖に耐えながら座っていた。早苗が歩き回らなかった事が項を奏したのか、そこに運良く樹がたどり着いた。
「その時初めて結城さんが……早苗が泣いてるの見たんだ。やっぱり女の子なんだなって思って」
暗い林の中で一人泣く少女を小さな少年が見付けた時、少女はすぐに駆け寄って抱き付いた。恐怖と嗚咽に体を震わせながら。
「それからずっとさ、早苗は見る度に女の子になってってさ……近寄り難いって言うか、遠くなったなぁって感じてたんだ」
より女性に近付いていく早苗に、樹はいつの間にか壁を作っていた。仲が良かった昔とは違うと、勝手に決め付けていた。
「遠くないよ!私はずっといっくんを見てたんだもん……ずっと大好きだったもん」
真っ赤な頬を膨らませて、樹を見詰める。
「だから、昨日がラブレターの日だからって奈緒ちゃんに言われて……それで、すごい恥ずかしかったけど、書いたんだよ?」
樹は驚いた。早苗と奈緒の仲が良いなんて話は、どちらからも、周りからも聞いた事がなかった。
「奈緒にって……そうか、バスケ部繋がりか。……っつかあいつ、全部知ってたのかよ」
樹はいたずらに微笑み、明日ジャーマンスープレックス決めるわ、と拳を逆の掌にぶつけていた。
「二人が仲良さそうで、いっくんは奈緒ちゃんの事好きなのかなって……それで奈緒ちゃんに聞いたら、逆に相談に乗ってくれて」
奈緒が早苗の話を聞いて、絶対爆笑してただろうなと樹は思った。
「それで、五月二十三日はラブレターの日だから書いてみたらって言われて」
―――半分遊んでただろ奈緒のやつ……
樹は呆れながら爆笑する奈緒を想像した。
「だからいっくん、私はいっくんが大好きだからさ、その……さ」
もじもじと指を回し始める早苗に、樹は少し頬を赤らめながら微笑みかけた。
―――好きだと言ってくれる女の子なんていなかった。好きだと言える女の子もいなかった。何をどうしたら好きなのか。いまだにわからない事ばかりだ。これが恋愛感情なのかそうでないのかなんて、わかりゃしない。
「そっか、それでも……そうだな。……うん、好きだ」
樹が小さな声で呟く。早苗に声は届いていないらしく、反応がない。
樹は一度大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。そして、今度こそ早苗に聞こえるように声を張った。
「早苗、俺も好きだ」
早苗が驚き、顔を上げる。目を点にして樹を見詰め、すぐに俯いた。
「うそ……それじゃあ、その……私と、……付き合って、ほしいな」
早苗の小さな声は、少しの距離を泳いで、樹へとはっきりと伝わった。
樹は顔を真っ赤にしながら、それでも真っ直ぐに早苗に視線を注ぐ。
「うん。俺でよければ、よろしくお願いします」
早苗はゆっくりと顔を上げて樹と視線を交わす。そして、目を細め、口角を上げて、昔の早苗さながらの無邪気な笑顔を見せた。
「あ、ありがとう」
ああ、この笑顔をずっと見たいな、と樹に思わせる程に可愛くて、いとおしい笑顔。
「早苗、好きだよ」
昔の二人へと戻ったように感じながら、樹と早苗は体育館裏を後にした。
夕日が照る帰り道、手を繋いで歩く樹と早苗は、ラブレターの事を思い返していた。
「あのさ、手紙に書かれたMって、なんだったの?字的に早苗のっぽくなかったし……」
先が跳ね、横長に書かれたMの文字。最初、樹はイニシャルだと考えていた。しかし、当の本人の名前は"結城早苗"。Mの文字はどこにも入っていない。
「あ、それか……」
早苗は恥ずかしそうに樹から目を逸らした。
「それね、イニシャルじゃなくて……キスマーク」
「はい?」
樹が驚きの声を上げる。
確かに、上唇だと言われればそう見えなくもない形はしていた。と言うよりも、そもそもキスマークを手紙に付ける程早苗は大胆だったのか、樹にとってはそこが一番驚くところだった。
「いや、でも名前すら書いてなかったのにキスマーク付いてますって言われても」
樹の言葉に頷く早苗。
「五月二十三日はキスの日でもあるって奈緒ちゃんが言ってて、キスマーク付けようってなって……付けてる途中で恥ずかしくなって離しちゃったら上唇だけ付いちゃった」
えへへ、とはにかむ。
どうせ奈緒の入れ知恵に違いない、樹の頭の中に意地悪く笑う奈緒の顔が浮かんだ。
「そっか。意外と大胆だな早苗は」
目尻を下げ、苦笑いを浮かべる樹。それを見た早苗は急に不安げな顔をした。
「あ、いや……いっくんこういうのする女の子嫌いかな?」
樹の一挙一動に、早苗の喜怒哀楽が変化する。なんて純粋な子なんだろう、と樹は感じた。
先程の苦笑から一変し、優しい笑みで樹は早苗に視線を返した。
「大丈夫だよ。好きって想ってくれて、頑張ってくれたんだよね?逆に嬉しいよ」
良かった、と安堵の表情を浮かべる早苗。その手を樹は少し強く握った。
離れないように、離さないように。
それに反応するように、早苗も手に力を込めた。
手を繋ぐ二人は、夕日の沈む方角へと、同じ速さで歩いていった。
5
「懐かしい話ね」
紙を読む手を止めず、女性はゆったりとした声で呟いた。
「うん。あれが一番最初だからね」
女性の隣に座る男性が、懐かしむように反応する。
二人は暖かい日の光を浴びながら、和風に作られた庭を見詰めていた。縁側には丸い木の盆に乗せられた湯呑みが二つ、茶柱を立てている。
「ええ。これで四十五度目になるのかしら?何だかあっという間だったわね」
女性は優しく笑った。手には真っ白な封筒と、文字がびっしり書かれた
「お互いに四十五通か。色々と書いたもんだ」
男性は脇に置かれた箱を開けた。中にはいくつもの封筒が、角を合わせられ几帳面に入れられている。
男性は箱を開くと、蓋を開けた自分の手をまじまじと見詰めた。
「そりゃ皺も増えるってもんだな」
どこか寂しげな、それでいて幸せそうな目をする男性。
女性はそんな男性に不安げな瞳を向けた。
「幸せ……だった?」
いつもと変わらない、いつまでも変わらないか細い声。その声は、何度聞いても男性に懐かしさを感じさせた。
ゆっくりと女性と向き合い、男性は皺の多い掌で女性の髪を撫でた。
「幸せだった……いや、幸せだよ。これから先も、君と、早苗といられれば幸せさ」
早苗は頬を赤らめ、頭を撫でる手を優しく握った。
「そう、良かった。私も樹さんがいれば幸せです」
改めて向かい合って言うには少し恥ずかしい台詞だったが、二人はそんな少しの酸っぱさも、幸せそうに味わっていた。
四十五度目のラブレター。それは、変わらない幸せの形。
「そうそう、奈緒ちゃんと隆史さん夫婦揃って来月温泉に行くらしいのよ。私達も行きませんか?」
他愛のない会話に、何気無い時間が過ぎる。
「そうだな、あいつらと同じ日に同じ宿取って驚かせてやろうか。あと、秀も呼んで」
ゆっくりとした時間の流れの中で、ぼんやりとした幸せが続く。
「みんなで旅行は本当に楽しい。まぁ、二ヶ月前に行ったばかりだけどね」
早苗は立ち上がり、机から一本のペンを取って和室の壁と向き合った。
―――何が幸せか、言い表す事は難しいけれど、確かに幸せはそこにある。
二人ともに歩んで来た道に、一人一人が感じた心に、仲間との間ではしゃいだ時間に―――
壁にはカレンダーが一枚。五月二十三日に赤い丸が付けられ、余白には"伝える日"と書かれている。
カレンダーを見た早苗は、ふと思い出したように縁側に座る樹の元へと駆け寄った。
「私とした事が……忘れてたよ、樹さん」
樹の名を呼び、振り向かせる。
「これは、四十四度目」
その瞬間、早苗は樹の唇へ自分の唇をあてがった。
目を瞑り数秒。二人の頬は徐々に赤く染め上げられていった。
そして、優しく唇を離す早苗は満面の笑みを浮かべた。樹が何度も守りたいと感じた笑顔。
「今日はキスの日でもあったね」
昔と変わらない、無邪気な笑顔を。