聖女は男友達のようなものだそうですので、失言の訂正業務は殿下へお返しします
隣国ドルヴァル王国の第二王子を迎えた晩餐会で、聖女ニノンは朗らかに言った。
「第二王子様なら、お兄様が死なない限り王様にならなくていいのですよね。気楽そうです」
銀食器の触れ合う音が、一斉に止んだ。
向かいに座るセヴァス・ドルヴァル第二王子は、杯を持ったまま表情を変えなかった。
けれど、その隣に控える使節団の面々は違った。
ドルヴァル王国の王太子は、数年前から病を得ている。
命に関わるほどではないと公表されているものの、王位継承に関する噂は絶えない。
外交の席で、気軽に触れてよい話ではなかった。
王太子アモーリが何か言うより先に、オーランス・ヴァレニエ公爵令嬢は微笑んだ。
「聖女様は、王位への野心を示されることなく、御兄君をお支えしながら国政に尽くされる殿下のお姿に、深い敬意を抱いておられるのです」
「あ、そうです。私、それが言いたかったんです」
ニノンは嬉しそうに頷いた。
言いたかったはずがなかった。
王位への野心も、兄王子を支える姿勢も、国政へ尽くす責任も、ニノンの言葉には一つも含まれていなかった。
けれど、オーランスがそう説明した瞬間、それが聖女の意図となる。
アモーリは安堵したように笑った。
「さすがオーランスだ。ニノンの言いたいことをよく分かっている」
「長くお側におりますので」
オーランスはそう答え、次の料理を運ばせた。
表情は崩さない。
ニノンの杯を空にしないよう侍女へ目配せをし、ドルヴァル側には話題を移すため、北部交易路の再開について尋ねる。
晩餐会は何事もなかったように進んだ。
それがオーランスの役目だった。
正式な職名はなかった。
王太子の婚約者であり、聖女と年齢が近く、言葉に長けている。ただそれだけの理由で、いつしか彼女の仕事になっていた。
聖女庁から辞令を受けたことはない。
王太子府から権限を与えられたことも、予算を割り当てられたこともない。
それでも何かが起きれば、皆がオーランスを見るようになった。
彼女が言葉を与えれば問題は消え、公式記録には慈愛深い聖女の言葉だけが残った。
何事かが起きても、何事もなかったように見せる。
聖女ニノンが王宮へ迎えられてから、三年間ずっと。
晩餐会が終わり、招待客がそれぞれの客室へ戻る頃。
オーランスは回廊の窓辺で呼び止められた。
「ヴァレニエ公爵令嬢」
振り返ると、セヴァスがいた。
侍従も護衛も少し離れたところに控えている。
「先ほどは、聖女様の非礼をお詫び申し上げます」
「あなたが謝ることではありません」
「しかし、わたくしが言葉を補いましたので」
「補った」
セヴァスは、その言葉を静かに繰り返した。
「今のは、本当に補足でしたか」
オーランスは答えなかった。
「聖女殿の言葉に、兄を支える責任への敬意が含まれていたようには聞こえませんでした」
「聖女様は、貴族の言葉に慣れておられません」
「言葉遣いの問題ではないでしょう」
セヴァスの声に、怒りはなかった。
ただ、事実を確かめようとしていた。
「あなたは聖女殿の意図を説明したのですか。それとも、あの場に必要な意味を新しく与えたのですか」
オーランスはしばらく黙った。
やがて、回廊の先に誰もいないことを確認してから答えた。
「外交上、あの意味で受け取っていただく必要がございました」
「そうですか」
セヴァスは追及しなかった。
それだけで、オーランスは少し驚いた。
多くの者は、彼女の説明に納得する。
聖女様はそのような意味でおっしゃったのだ。
ならば、問題はなかった。
そう思うことを選ぶ。
だがセヴァスは、問題が消えたとは考えなかった。
「あなたは、いつもこのようなことを?」
「何のことでしょう」
「言われなかったことを、言われたことにするのですか」
オーランスは微笑んだ。
「夜も遅うございます。明日の会談に差し支えますので、お休みくださいませ」
答えになっていないことを、セヴァスは指摘しなかった。
「では、また明日」
「お休みなさいませ、殿下」
彼が去ったあと、オーランスは窓の外へ目を向けた。
中庭に灯された篝火が、風に揺れている。
ニノンが王宮へ来た最初の年。
彼女は貧民街の視察で、住民たちに笑いかけた。
「皆さん、持ち物が少なくて、お掃除が楽そうですね」
オーランスは、その場で言い換えた。
「聖女様は、限られた生活資源の中で暮らす方々へ、住環境の支援を拡充すべきだとお考えです」
獣人自治区では、ニノンが驚いたように言った。
「皆さん、意外と普通にお話しできるんですね」
オーランスは言った。
「聖女様は、種族や文化の違いを越えて対話できることを、心から喜んでおられます」
戦没者慰霊式では、泣き続ける母親へ、ニノンが励ますつもりで言った。
「いつまでも悲しんでいても、死んだ人は戻りませんよ。前を向かなくちゃ」
オーランスは母親の手を取り、代わりに言った。
「悲しみを急いで終わらせる必要はありません。失われた方々のお名前を、私どもも共に記憶してまいります」
その言葉は、翌日の新聞に載った。
慈愛深い聖女の言葉として。
ニノンは新聞を読んで喜んだ。
「私、あんなに上手に言えていたんですね」
アモーリも満足そうだった。
「民に寄り添う立派な聖女だ」
オーランスは、否定しなかった。
否定すれば、慰霊式の言葉が聖女のものではないと認めることになる。
それは王宮の失態となる。
聖女庁の威信を損なう。
王太子の監督責任を問われる。
そして何より、あの母親の前で語られた言葉が、偽物だったことになる。
だから、オーランスは何も言わなかった。
言わないまま、三年が過ぎた。
ドルヴァル王国の使節団が滞在している間も、アモーリはニノンを連れて公務へ出た。
本来なら、オーランスと共に北部交易使節との会合へ出席する予定だった日。
約束の刻限になっても、アモーリは現れなかった。
代わりに届いたのは、王太子府の侍従からの短い伝言だった。
「殿下は聖女様と慈善院へ向かわれました」
「予定の変更は、いつ決まったのですか」
「今朝でございます」
今朝。
オーランスには、会合の直前まで知らされなかった。
「慈善院で、何かございましたか」
「子供たちが聖女様に会いたがっているとの申し出がありまして」
「アモーリ殿下が同行なさる必要は?」
侍従は困った顔をした。
「聖女様が、殿下にも来ていただきたいと」
「そうですか」
オーランスはそれ以上聞かなかった。
北部交易使節との会合には、一人で出席した。
王太子の不在を詫び、王家が交易再開を軽視しているわけではないと説明し、会談を予定どおり終えた。
翌日。
慈善院から、王太子府へ抗議が届いた。
ニノンが、足の不自由な子供へこう言ったらしい。
「座ってできる仕事なら、疲れなくていいですね」
アモーリはオーランスへ書簡を送ってきた。
聖女の意図が誤解されている。
慈善院へ説明し、公式記録を修正してほしい。
オーランスは書簡を持ったまま、王太子の執務室へ向かった。
アモーリは、ニノンと茶を飲んでいた。
「オーランス。ちょうどよかった」
アモーリは手元の書類を示した。
「慈善院が、ニノンの言葉を悪く受け取ったらしい」
「どのように説明なさるおつもりですか」
「それを君に頼みたい」
「なぜ、わたくしが?」
アモーリは一瞬、質問の意味が分からないような顔をした。
「君はニノンの言いたいことを一番よく分かっているだろう」
「聖女様ご自身は、何をお伝えになりたかったのですか」
ニノンが口を開いた。
「足が悪くてもできる仕事があるなら、いいことですよねって」
「慈善院の子供は、働ける年齢ではございません」
「でも、いつかは大人になるでしょう?」
「それを、本人が幸運だと感じているかは確認なさいましたか」
ニノンは眉を寄せた。
「オーランス様は、いつも難しく考えすぎです。私は元気づけたかっただけです」
「では、そのまま慈善院へお伝えになりますか」
「それでは、また怒らせてしまうでしょう?」
当然のように言われ、オーランスはアモーリを見た。
「殿下は、どのようにお考えですか」
「ニノンに悪意がないことは、君にも分かっているはずだ」
「悪意の有無について尋ねているのではございません」
「またその話か」
アモーリはため息をついた。
「君は最近、ニノンとの距離を気にしすぎている」
「距離ではなく、責任の所在を確認しております」
「ニノンは、男友達のようなものだ」
アモーリは、安心させるように笑った。
「恋愛感情などない。彼女は気取らず話せる、ただの友人だ。君が嫉妬するような関係ではない」
オーランスは静かに息を吸った。
「では、聖女様の発言について責任を負うのは、どなたですか」
「大げさだな。今まで大きな問題にはなっていないだろう」
「今まで、問題にならなかったと?」
「そうだ。君が少し言葉を補えば、皆も理解してくれる」
「殿下は、聖女様が実際に何をおっしゃっているのか、ご存じですか」
「報告書なら読んでいる」
アモーリは迷いなく答えた。
「慈愛に満ちた、立派な言葉ばかりだ」
オーランスは、そこでようやく理解した。
アモーリは本当に知らない。
報告書に書かれているのが、ニノンの言葉ではないことを。
彼が読んできた「聖女の慈愛」も、「聖女の思慮」も、「聖女の優しさ」も、その多くをオーランスが書いていたことを。
そして知ろうともしてこなかった。
「承知いたしました」
オーランスは一礼した。
「慈善院への説明は、今回を最後にお引き受けいたします」
「最後?」
「ええ」
それだけ言い、執務室を出た。
三日後。
王太子府の会議室へ、十二箱の文書が運び込まれた。
アモーリは、積み上がった箱を見て顔をしかめた。
「これは何だ」
「聖女様の対外発言に関する記録でございます」
オーランスは、一冊目の綴りを机へ置いた。
「過去三年間の原発言、公式記録、修正理由、先方への説明、謝罪、贈答、面会調整、再発防止案をまとめております」
「こんなにあるのか」
「はい」
アモーリは最初の頁を開いた。
そこには二つの文章が並んでいた。
原発言。
『北部の方は、嫌なら暖かい場所へ引っ越せばいいのではありませんか?』
公式記録。
『厳しい気候の中でも故郷を守り続ける北部の方々へ、長期的な支援が必要です』
アモーリの眉が動いた。
次の頁。
原発言。
『貧しい方は税金をあまり払わなくていいのですよね。少し羨ましいです』
公式記録。
『生活に困窮する民へ過重な税負担を課さぬよう、徴税制度を見直す必要があります』
次。
原発言。
『獣人の方にも結婚の決まりがあるのですね。動物みたいに自由なのかと思っていました』
公式記録。
『異なる文化の婚姻制度を尊重し、相互理解を深めるべきです』
「これは」
アモーリが顔を上げた。
「言葉遣いを直したという程度ではない」
「はい」
「ニノンは、本当にこのようなことを言ったのか」
「日付、場所、同席者を記しております。必要であれば確認なさってくださいませ」
アモーリは綴りをめくった。
めくるたびに、顔色が変わっていく。
「なぜ、私に報告しなかった」
「報告書は毎回、王太子府へ提出しております」
「この原文ではない」
「原文を記載した最初の二回は、王太子府より差し戻されました」
オーランスは、別の文書を差し出した。
余計な混乱を避けるため、聖女様の真意のみを記載すること。
原発言を残すことは、聖女様の名誉を損なう。
そう記された指示書だった。
署名は、王太子府長官。
承認欄には、アモーリの印がある。
「私は、細部まで読んでいなかった」
「存じております」
アモーリは黙り込んだ。
やがて、綴りの端に記された署名へ目を止めた。
「修正した者の名まで残してあるのか」
「はい。修正担当者の欄には、すべてわたくしの名を記しております」
「君自身の責任まで認めるつもりか」
「当然でございます」
オーランスは、積み上げられた十二箱を見た。
「わたくしが命令に従い、三年間これを続けた責任まで、殿下へお返しするつもりはございません。必要な調査には応じます」
「それでは、君まで処分の対象になるかもしれない」
「存じております」
オーランスは目を逸らさなかった。
「だからこそ、原文も、修正文も、指示書も、わたくしの署名も残しました。誰が何を言い、誰が何を命じ、誰がどのように書き換えたのか。すべてを確認できる状態でなければ、責任を負うこともできません」
アモーリは何も言わなかった。
やがて、手で額を押さえた。
「今後は私がニノンを指導する」
「さようでございますか」
「訪問先について事前に学ばせる。発言にも原稿を用意する。これほどの状態だとは知らなかった」
「お願いいたします」
「この記録は、外へ出すな」
アモーリの声が低くなった。
「公式記録はすでに残っている。過去の言葉を掘り返せば、聖女庁だけではなく王家の信用にも関わる」
「承知しております」
「ならば、この原文は処分しろ」
「できません」
オーランスは即答した。
「なぜだ」
「その記録まで廃棄すれば、誰が何を言い、誰が命じ、誰が書き換えたのかを確認できなくなります」
「だから何だ」
「わたくしは、自分の責任を隠すために証拠を消した者となります。できません」
「君は婚約者だ。王家を守る立場だろう」
「本日までは」
オーランスは、もう一通の書類を机へ置いた。
婚約解消申請書。
アモーリの目が、その文字へ落ちる。
「何の冗談だ」
「冗談ではございません」
「ニノンのことで怒っているのか。だから男友達のようなものだと説明しただろう」
「はい。ですから、お返しするのです」
オーランスは十二箱の記録を示した。
「聖女様は、殿下の男友達のようなものだそうですので、今後の失言訂正業務は殿下へお返しいたします」
「婚約を解消する必要はない」
「ございます」
「私はニノンと結婚するつもりなどない」
「わたくしも、そのような話はしておりません」
オーランスはアモーリをまっすぐに見た。
「殿下は、わたくしとの婚約によって与えられていた労務を、婚約者本人より重く見ておられます」
「違う」
「では、わたくしが今後一切、聖女様の発言を修正せず、謝罪文も書かず、先方への説明も行わなくても、わたくしとの婚約を望まれますか」
アモーリは口を開いた。
だが、言葉は出なかった。
その沈黙だけで十分だった。
オーランスは一礼した。
「婚約解消については、父からも王陛下へ申し入れております」
「待て、オーランス」
「三年間、大変お世話になりました」
彼女は振り返らなかった。
アモーリは、本当にニノンを指導し始めた。
聖女庁から教師を呼び、訪問先の歴史や風習を学ばせた。
発言してはならない話題を一覧にし、式典では原稿以外の言葉を口にしないよう命じた。
ニノンも最初は不満を訴えた。
「私らしく話してはいけないのですか」
「その話し方で、何人傷つけたと思っている」
「でも、オーランス様がいつも説明してくれていました」
「もう彼女はいない」
アモーリの声に、ニノンは黙った。
十二箱の原本は廃棄されず、王太子府の封印庫へ移された。
オーランスが調査への協力を明言し、ヴァレニエ公爵家からも記録保全の申し入れがあったため、アモーリにも原本そのものを消すことはできなかった。
王家と聖女庁による調査も始まり、オーランスは呼び出しのたびに出頭した。
彼女自身が公式記録の修正へ関わった事実も、調査記録から除かれることはなかった。
それでも王太子府は、各部署に残されている写しを回収するよう通達を出した。
聖女の発言について、一部不正確な記録が存在する。
公式記録以外の文書を複写し、流布してはならない。
だが、すでに遅かった。
孤児院長は、あの日のことを日誌へ書いていた。
北部領主は、聖女の発言とオーランスの説明の違いを家臣への書簡に残していた。
獣人自治区の代表は、王都から届いた公式記録を見て、自分がその場で聞いた言葉と違うことを記録していた。
ドルヴァル王国の使節団も、本国への報告書へ原発言を記載していた。
そして何より、王太子府の官吏たちが十二箱の記録を見た。
「これは、本当に同じ発言なのか」
「ここまで意味が変われば、訂正とは言えないだろう」
「では、新聞に載っていた言葉は」
「ほとんどヴァレニエ公爵令嬢が書いたものらしい」
最初は、王太子府の一室だけで交わされた囁きだった。
それが聖女庁へ伝わり、外務府へ伝わり、出入りの商人へ伝わった。
やがて社交界では、聖女の原発言と公式発表の差が話題になった。
「聖女様が、貧しい者は税を払わず羨ましいとおっしゃったそうよ」
「公報では、徴税制度の見直しを提案したことになっていたわ」
「では、どちらが本当なの?」
「口にしたのは前者で、後者を書いたのはヴァレニエ公爵令嬢ですって」
「それなら、私たちが感動していたのは誰の言葉なのかしら」
アモーリは噂を止めようとした。
公式記録こそが、聖女の真意である。
言葉の一部だけを取り上げるべきではない。
そう声明を出した。
だが、その声明によって人々は新たな疑問を抱いた。
聖女の真意を決めたのは、誰なのか。
本人が口にしなかった思慮を、誰が補ったのか。
アモーリが答えれば答えるほど、オーランスの名が広まった。
その頃、オーランスはセヴァスと王都の植物園を歩いていた。
ドルヴァル王国の使節団は、予定より一月長く滞在していた。
北部交易路に関する追加交渉のためである。
婚約を解消したオーランスは、もう王太子妃候補として交渉へ同席していない。
それでもセヴァスは、彼女へ何度か私的な招待状を送った。
仕事の依頼ではなかった。
外交文書の相談でもない。
花が見頃だから。
新しい菓子店が評判だから。
図書館へ珍しい詩集が入ったから。
そのような理由ばかりだった。
「公務のご相談ではないのですか」
三度目の招待で、オーランスは尋ねた。
「ありません」
「わたくしにお尋ねになりたいことも?」
「あります」
「どのようなことでしょう」
セヴァスは、温室の花を見ながら答えた。
「あなたは、何色の花が好きですか」
オーランスは足を止めた。
「お部屋へ飾るのでしたら、淡い色の方が」
「部屋にふさわしい色ではありません」
「ドルヴァル王国では、どの色が好まれますか」
「我が国に好まれる色でもありません」
セヴァスは彼女を見た。
「あなたが好きな色です」
オーランスは答えようとして、言葉を失った。
王家の色。
ヴァレニエ公爵家の色。
季節にふさわしい色。
相手へ失礼にならない色。
いくつも候補は浮かんだ。
けれど、自分が好きな色を、すぐには思い出せなかった。
「難しい質問でしたか」
「いいえ」
「では、急がなくていい」
セヴァスは先へ進んだ。
答えを要求しなかった。
正しい答えを示すこともしなかった。
温室の奥に、薄い紫色の花が咲いていた。
オーランスはしばらく眺めてから言った。
「あの色が、好きかもしれません」
「かもしれない」
「まだ、よく分からないのです」
「では、分かるまで一緒に見ましょう」
セヴァスはそう答えた。
翌週、二人は王都の小さな劇場へ出かけた。
演目は、地方出身の青年が王宮で失敗を重ねる喜劇だった。
観客たちは笑っていた。
オーランスも、何度か口元を緩めた。
終演後、セヴァスが言った。
「あの主人公は、正直で好感が持てました」
オーランスは反射的に答えかけた。
身分に不慣れな者が失敗する姿を、正直という美徳でまとめることには問題がある。
失敗によって迷惑を被った周囲の者が描かれていない。
けれど言葉にする前に、セヴァスが続けた。
「今のは、よくありませんでした」
「何がですか」
「正直ならば、他人を傷つけてもよいような言い方でした」
彼は少し考えた。
「失敗を隠さず認めたところに、好感を持った。そう言うべきでした」
オーランスは、何も言えなかった。
セヴァスは彼女に直させなかった。
自分の言葉を、自分で振り返った。
間違いに気づけば、自分で言い直した。
「オーランス?」
「いいえ」
彼女は小さく首を振った。
「そのままで、結構です」
それからセヴァスは、晩餐会でのニノンの発言について尋ねた。
「あの日の言葉を、あなた自身はどう思いましたか」
オーランスは、いつものように答えを組み立てた。
ニノンには王位継承の知識が不足していた。
庶民として育ったため、王族の立場を理解する機会がなかった。
悪意はなく、親しみを示そうとしただけで。
「誰も守らなくてよい答えを聞きたいのです」
セヴァスが静かに言った。
「聖女殿も、アモーリ殿下も、王家も、我が国との関係も。今は何も守らなくていい」
「ですが」
「私が聞きたいのは、あなたがどう思ったかです」
オーランスは、しばらく黙った。
やがて言った。
「無礼でした」
それだけだった。
理由も説明もつけなかった。
言葉を美しくしなかった。
セヴァスは頷いた。
「私もそう思いました」
胸の奥で、何かがほどけた。
とても小さなことだった。
誰の役にも立たない一言。
けれどオーランスは、その日初めて、自分の言葉を自分のまま受け取ってもらった気がした。
アモーリの指導によって、ニノンは原稿を読むことだけは上達した。
北部代表団を迎えた会合では、用意された文章を一度も間違えず読み上げた。
「厳しい気候の中でも故郷を守り続ける北部の皆様へ、王家として継続的な支援をお約束いたします」
以前なら、感動的な言葉として受け止められただろう。
だが今では、多くの者がその文を知っていた。
三年前、オーランスが作成した公式発言だった。
北部代表の一人が尋ねた。
「聖女様は、なぜ我々が故郷を離れないとお考えですか」
予定にない質問だった。
ニノンは、原稿から顔を上げた。
「なぜ、と言われましても」
彼女の視線が、隣のアモーリへ向く。
アモーリは小声で何かを告げた。
ニノンは頷き、代表へ向き直った。
「故郷とは、苦しい時にも心の拠り所となる大切な場所だからです」
代表は、しばらくニノンを見つめた。
「それは、ヴァレニエ公爵令嬢が三年前に書かれた言葉ですね」
会場が静まり返った。
アモーリの顔が強張る。
代表は続けた。
「三年前、聖女様は我々に、嫌なら暖かい土地へ移ればよいとおっしゃった」
「それは誤解です」
アモーリが割って入った。
「聖女の意図は、今述べたとおりです」
「その意図は、誰のものですか」
代表は静かに尋ねた。
アモーリは答えられなかった。
その会合を境に、隠蔽は完全に失敗した。
聖女が失言を重ねていたことよりも、人々は別のことを恐れるようになった。
自分たちが愛していた聖女の言葉は、本当に聖女のものだったのか。
祈りの場で聞いた言葉。
新聞に載った声明。
慰霊式で涙を誘った言葉。
あれらを語ったのは、誰だったのか。
アモーリがヴァレニエ公爵邸を訪れたのは、それから間もなくのことだった。
オーランスは客間で彼を迎えた。
以前なら、アモーリの好みに合わせて茶葉を選び、室温を調整し、話しやすい席を用意していた。
今日は家令に任せた。
「ニノンには、今後も教育を受けさせる」
アモーリは座るなり言った。
「発言責任者も正式に設置する。訂正業務には予算をつける。君には王太子府の文書監督官として、相応の地位と報酬を用意する」
「さようでございますか」
「婚約解消も撤回できる」
アモーリは真剣だった。
彼なりに、問題を理解しようとしたのだろう。
以前のように、ただ戻れとは言わない。
役職。
報酬。
責任部署。
教育制度。
どれも必要なものだった。
「今度は、君の働きを正当に評価する」
「ありがとうございます」
「ならば」
「ですが、婚約へ戻ることはございません」
アモーリの表情が硬くなった。
「なぜだ。君が求めていたものを、すべて用意すると言っている」
「わたくしが求めていたのは、報酬だけではございません」
「では何だ」
「殿下は今も、わたくしに何ができるかをお尋ねになっています」
「当然だろう。君の能力は、国に必要だ」
「わたくし自身は?」
アモーリは黙った。
オーランスは続けた。
「殿下は、わたくしがいなくなったことで、聖女様の発言が問題になったとお考えです」
「事実だ」
「いいえ」
オーランスは静かに首を振った。
「わたくしがいたことで、聖女様は何をおっしゃっても構わない状態になっていたのです」
「だから、今後は教育を」
「殿下が取り戻したいのは、婚約者ではございません」
オーランスはアモーリを見た。
「聖女様の言葉を、国民が愛せる形へ変える機能です」
「違う」
「では、もう一度お尋ねします」
以前と同じ問いを、今度はゆっくり口にした。
「わたくしが今後一切、聖女様の発言を直さず、原稿も書かず、先方への説明も行わなくても、わたくしとの婚約を望まれますか」
アモーリは、すぐに答えなかった。
「それは」
長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「王太子妃として、国を支える責任があるだろう」
オーランスは微笑んだ。
「それが、殿下のお答えです」
「オーランス」
「わたくしが何を思い、誰を愛し、どのように生きたいか。殿下は最後までお尋ねになりませんでした」
「では、あの第二王子は尋ねるのか」
アモーリの声に、初めて感情が滲んだ。
「セヴァス殿下なら、君の能力を利用しないとでも?」
「いいえ」
オーランスは正直に答えた。
「わたくしの能力を必要とされることもあるでしょう」
「ならば同じではないか」
「同じではございません」
オーランスは、少し考えてから言った。
「セヴァス殿下は、わたくしの言葉を必要としてくださいます」
「私も必要としている」
「誰かの言葉へ置き換えるためではなく、わたくしが何を思っているかを知るために」
アモーリは何も言わなかった。
オーランスは立ち上がった。
「お話は以上でよろしいでしょうか」
「君は、彼を選ぶのか」
「はい」
今度は迷わなかった。
半年後。
オーランスは、セヴァス・ドルヴァル第二王子との婚約を正式に発表した。
ドルヴァル王国では、外交補佐官としての職位も与えられることになった。
責任範囲。
予算。
決裁権。
休暇。
すべて文書に記された。
婚約者だから無償で行う仕事は、一つもなかった。
婚約発表の日、長い式典を終えて部屋へ戻ると、セヴァスが尋ねた。
「今日は何を言いたいですか」
オーランスは、いつものように考えた。
式典への感謝。
両国関係への抱負。
出席者への謝意。
いくつもの言葉が浮かぶ。
だが、セヴァスが聞きたいのは、それではない。
「疲れました」
オーランスは言った。
誰の役にも立たない。
何の問題も解決しない。
公的な意味を持たない言葉だった。
セヴァスは頷いた。
「では、休みましょう」
それだけだった。
オーランスは椅子へ腰を下ろした。
沈黙を埋める必要はなかった。
美しい言葉を探す必要もなかった。
彼女が疲れたと言えば、それは疲れたという意味のまま受け取られた。
同じ頃。
アモーリ王太子は、王宮の大広間でニノンの演説を見守っていた。
今回の原稿は、彼自身が教師たちと相談して作ったものだった。
過去にオーランスが書いた表現も、いくつか組み込まれている。
ニノンは、一度も言葉を間違えなかった。
「貧困を個人の怠慢として片づけることなく、誰もが尊厳を失わずに暮らせる社会を築いてまいります」
拍手が起きた。
以前ほど大きくはない。
演説の後、記者の一人が手を挙げた。
「聖女様ご自身は、現在の救貧院制度について、どのようにお考えですか」
原稿にない質問だった。
ニノンは口を開いた。
だが、すぐに閉じた。
隣に立つアモーリを見る。
アモーリは微笑んだまま、彼女へ小声で言葉を教えた。
ニノンも微笑み、同じ言葉を繰り返した。
「支援を受ける方々の声を聞き、制度を継続的に見直す必要があると考えております」
会場の後ろで、誰かが囁いた。
「今度は、王太子殿下が言葉を与えるのか」
拍手は起こらなかった。
アモーリは微笑んだまま、次の言葉をニノンへ教えた。
ニノンも微笑んだまま、それを繰り返した。
けれどもう、誰もそれを聖女自身の言葉だとは思っていなかった。
婚約者が聖女を優先する話は、ずいぶん見かける題材です。
けれど今回は、恋愛感情そのものよりも、その関係を成立させるために、誰が何を引き受けていたのかを書いてみました。
誰かの失言を言い換えること。
傷ついた相手へ説明すること。
問題が起きなかったように記録へ残すこと。
正式な職名も、権限も、予算もないまま続けていれば、それは親切なのか、婚約者としての役目なのか、それとも仕事なのか。
オーランスは、これから先の労務を返しました。
けれど、自分が三年間その仕組みに関わった責任まで、誰かへ返したわけではありません。
最後に彼女が言えたのは、立派な言葉ではなく、ただの「疲れました」でした。
お読みいただき、ありがとうございました。




