針の跡
人差し指に巻かれた絆創膏は、端が捲れて丸くなっていた。その左手をベッドで横になりながら天井にかざす。ピントをずらして眺めた。
保人は手を洗う時に左手人差し指が水に触れないよう細心の注意を払った。蛇口のコックをわずかに持ち上げ、細く貧弱な滝を右手の盃に溜めて、左手人差し指に掛からないように流した。風呂でも同様に右手で頭や体を洗い、足の裏は床にボディソープを垂らして、その上を前後に擦って泡立てた。湯船に浸かっている間は左手を空に浮かせていた。
午後の授業が終わり、クラスメイトと共に机を全て後ろに下げる。空けた場所にモップをかけ、裁縫道具を横に置いて腰を下ろした。友人同士で小さな輪になるクラスメイトたち。学級委員と実行委員がプリントと、ポリエステルが混紡された光沢のある生地を配って回る。男子は黒色で、女子は白色だった。そこには体育祭で使用する衣装の縫製図が描かれていた。
「ミシンで縫えば早いのに、めんどくさいな」
女子生徒の一人が実行委員に文句を飛ばす。
「手縫いでもすぐ縫えるから我慢してください」
「はーい」
女子生徒は裁縫箱を膝の上で広げて、待ち針を取り出した。縫製図の通りに縫えば腰巻きが完成する。腰巻きは応援合戦の最後に振り回して、四方に投げる予定になっていた。
保人の布は、黒い糸の走り幅が不均一で蛇行していた。縫い始めの玉留めを切って、最初からやり直す。
「とりあえずあと、五分で今日は終わりにします。明日も放課後に時間を取ります。なので、まだの人は焦らずに頑張りましょう」
委員長が教卓の前で声を上げた。
「お前、全然だなぁ」
「痛っ」
保人は急に話しかけられて指を針で刺した。左手人差し指から血が滲む。指を咥える。友人は手を合わせて頭を下げた。
口の中で血が広がり続けていた。隣で、どのグループにも属さずに裁縫していた幸が、絆創膏を差し出していた。絆創膏は剥き出しの状態で巻かれる指を待っている。今まで、保人は彼女と会話をしたことがなかった。口から指を抜いて彼女の前に差し出す。血はすでに引いている。彼女の目は保人の目から、揺れる指先に移る。指先に力を込めると血が滲み出す。彼女の指が絆創膏越しに保人の人差し指に触れる。保人は会釈した。彼女は手の中で丸めたフィルムを胸ポケットにしまって、裁縫に戻った。
絆創膏のある人差し指を閉じた目に添わせた。
その先には幸の横顔がある。横に長く引かれた睫毛が白い生地に伏せられる。クラスメイトの群れから逸れた彼女。無表情の中にこわばりと虚勢がある。保人は彼女の正面に屈んで抱きしめる。黒髪を梳くと指の間を抵抗なく滑り落ちた。彼女は布に真っ直ぐな道を敷く。白い大地に黒い道が規則正しく続いていく。
虚構の世界ではすべてが問題なく調和を保ち、理想通りに展開されていく。
目を覚ますと、左の指先に巻かれていた絆創膏がなくなっていた。絆創膏はしわだらけになり、サックスブルーの枕カバーに転がっていた。手に取るとべたつきはしたが、粘着力は失せている。保人は絆創膏を机の隅に置き、大学ノートの下に隠した。
身支度を済ませ、救急箱の蓋を開ける。絆創膏を一枚抜き取り、学生手帳の間に挟んで蓋を閉じた。もう一度、蓋を開けて絆創膏を一枚抜き取り、学生手帳に挟んで蓋を閉じた。
放課後、机を下げて昨日と同じように裁縫箱を床に置く。クラスメイトの何人かは家で仕上げてきたのか、人数が減っていた。保人と幸の物理的距離は離れていた。
「ねぇ、委員長。どうして、わざわざ机を下げて縫い物しなきゃならないの?」
女子生徒が委員長に言葉を投げた。
「こうする方が、一致団結してる感が出ていいじゃないですか」
「なにそれ」
「安直すぎない」
問いかけた女子生徒たちの笑い声につられて、周りのグループからも笑いが漏れる。保人は玉留めから伸びた余計な糸を鋏で切った。
「あと五分で終了です。できなかった人は家に持ち帰り、ミシンを使っても構わないので体育祭当日までに用意してください」
「ミシン使っていいのかよ」
「おかんを使ってもいいですか?」
「いいですよ」
「おとんは」
「かまいません」
「うちにはいません」
「じゃあ、いつもいる、あの小汚いおっさん誰だよ」
「弟です」
「ねじれてるー」
教室は、みな帰り支度をしながら言葉を交わしている。幸は縫う手を休めていない。喧騒の中、保人は立ち上がって、ズボンのポケットにある学生手帳に指をかけ、幸の前へと歩み寄った。
「これ、昨日ありがとう」
学生手帳を開き、絆創膏を手に幸に声をかけた。
「あっ」
二人の音が重なった。彼女の肩が小さく跳ね、針で左手の指先を刺した。指を口に含み、保人を見上げる。保人は片膝をつき、絆創膏のフィルムを剥がそうとしたが、上手くいかなかった。丸めた残骸をズボンに押し込んで、もう一枚の絆創膏を学生手帳から引き抜いた。彼女の目尻がほんの少しだけ下がったように見えた。
「指だして」
彼女は促されるままに左の人差し指を差し出した。保人はフィルムをニトログリセリンを運ぶように剥いて、濡れた指先に巻く。浮いた端を軽く握りしめた。
「あれ、二人は仲良しさんだ」
髪を過剰に巻いた女子生徒が、二人に声をかけた。保人は振り向かなかった。
「いいな」
「いいな」
「青春って」
「いいな」
周りの生徒が囃し立て、保人の頬に熱がこもる。幸は表情を崩さなかった。その刹那、鈍い衝撃音が教室に響く。教卓が薙ぎ倒されていた。女子生徒が悲鳴を上げる。男子生徒が戸を力任せに引いて、外に出て行った。教室には、衣服の擦れる音しか残されていなかった。
「なにあれ」
「さぁ」
誰かが口を開く。保人は幸の視線の先を追う。その瞳には、男子生徒が去った戸口に縫いつけられたままだった。保人は両手で頬を二回打つ。幸の視線が、保人に向けられた。
「今日、一緒に帰らない?」
「はい」
彼女の小さな返事だけが、保人の鼓膜を震わせた。




