第9話 王都への道——または、憲法とは何かについて
出発の朝、聖司は事務所の鍵をイリアに預けた。
「リフォームの監督、頼んだぞ」
「はい、先生。お任せください」
「軟水化装置の設置位置だけは、絶対に変えるな。図面通りにやらせろ」
イリアは、少し得意げに笑った。
ルシエラも見送りに来ていた。
「王都か。気をつけろよ」
「何かあるのか」
「中央政府の連中は、地方のギルドとは比べ物にならないくらい狡猾だ。条文の裏を読むのは得意だろうが、政治の裏を読むのは別の技術だぞ」
「忠告、覚えておく」
聖司は、移動事務所に乗り込んだ。
バルザックが御者台に座っている。
「出発するぞ」
「おう」
馬車が、ゆっくりと動き出した。
王都への街道は、整備されていた。
だが、道の両脇に広がる村々には、明らかな格差があった。豊かな村と、貧しい村。その差が、あまりにも激しい。
「おい、ミナト。あれを見ろ」
バルザックが、前方を指差した。
検問所だ。
王国の紋章を掲げた兵士たちが、村人たちを取り囲んでいる。荷車いっぱいの穀物を、村人たちは青い顔で差し出していた。
「止めろ」
聖司は馬車を降り、検問所に近づいた。
「何をしている」
兵士の一人——隊長らしき男が振り返った。
「見ての通り、王国への供出だ。国王陛下の命令でな」
「その『非常時供出令』、根拠法は何だ」
「根拠法? 国王陛下の命令だ。それ以上の根拠があるか」
聖司は、冷静に切り返した。
「世界法第15条。『徴税及び供出は、法律の定める手続きによらなければならない』。その供出令、ギルド庁舎への届出は済んでいるのか」
隊長の顔が、わずかに強張った。
「届出……?」
「施行規則第89条。『非常時供出令の発動には、管轄ギルドへの事前届出と、対象地域への七日前の告知が必要』。この村に、七日前に告知は来たか」
村人の一人——老人が、震える声で言った。
「い、いえ……今朝、突然来て……」
「つまり、手続き違反だ。この供出は無効。徴収した物資は、全て返還しろ」
聖司は、懐から魔王の職印を取り出した。
金色の光が、検問所を照らす。
「俺は魔王軍の公認アドバイザーだ。この件、王都で法務大臣に直接報告する。お前の名前と所属、控えさせてもらうぞ」
隊長の顔が、蒼白になった。
「……分かった。今日のところは、引き上げる」
兵士たちは、荷車を置いて去っていった。
村人たちが、聖司を囲んだ。
「あ、ありがとうございます……!」
「助かりました……!」
聖司は、小さく頷いた。
「当然のことをしただけだ。法に反する徴収は、どこでも無効だ」
だが——その夜、全てが崩れた。
野営の準備をしていた時、空が赤く染まった。
来た方角だ。
あの村の方角だ。
「……何だ、あれは」
バルザックが、立ち上がった。
「火だ。村が燃えている」
聖司は、馬車に飛び乗った。
「戻るぞ」
村に着いた時、全てが終わっていた。
家々が燃えている。
村人たちが、地面に座り込んでいる。
そして——昼間の隊長が、馬上から村を見下ろしていた。
「ああ、『公認アドバイザー』殿。お戻りでしたか」
隊長の声には、嘲笑が滲んでいた。
「何をした」
「何も。ただ、この村から『反逆の兆候』が報告されたのでね。王国軍として、適切な対処をしたまでだ」
「反逆の兆候だと……? お前が捏造したんだろう」
「証拠はありますか? ああ、そうだ。『手続き』はちゃんと踏みましたよ。緊急時における治安維持活動——これは、事前届出なしで実行できる。世界法第18条、ご存知でしょう?」
聖司は、歯を食いしばった。
第18条。知っている。治安維持のための緊急措置は、事後届出で足りる。
法の抜け穴だ。
「それと、村長と、昼間あなたに話しかけた老人は、『尋問』のために連行しました。反逆の疑いがありますのでね」
「……」
「ああ、これも手続き通りですよ。『反逆容疑者の拘束』は、治安維持活動の一環として認められています」
隊長は、馬を寄せてきた。
聖司の耳元で、囁いた。
「いいか、『書類屋』。この世界じゃ、条文なんて飾りだ。力のある者が、力のない者を踏みにじる。それが現実だ。お前の『法律』とやらは、俺たちの剣の前じゃ、ただの紙切れだ」
隊長は、笑いながら去っていった。
聖司は、燃える村を見つめていた。
その時——
「あんただ」
声がした。
振り返ると、村人の一人——若い女が、聖司を睨んでいた。
「あんたが、余計なことをしたから……!」
「……」
「あんたが来なければ、穀物を取られるだけで済んだ! 家を焼かれることも、父さんを連れていかれることもなかった!」
女の目から、涙が溢れていた。
「あんたの『法律』とやらが、何の役に立った!? 私たちを守ってくれたか!?」
聖司は、何も言えなかった。
女は、聖司の胸を叩いた。
「帰れ……帰ってくれ……! もう関わらないでくれ……!」
馬車の中で、聖司は座り込んでいた。
バルザックが、黙って馬を走らせている。
沈黙が、重かった。
「……俺が書いたのは」
聖司が、ぽつりと呟いた。
「ただの紙だ」
「……」
「法が機能している場所でしか価値を持たない、無力なインクの跡だ」
四十八年の人生で、聖司は法律を信じてきた。
完璧な書類があれば、どんな権力者の前でも戦える。そう信じていた。
だが——
「行政書士という立場じゃ、目の前の命すら救えない」
声が、震えていた。
「届出を出して、許可を取って、契約書を作って……それで何になる。暴力の前じゃ、全部無意味だ」
バルザックが、静かに言った。
「……お前のせいじゃない」
「俺のせいだ。俺が介入したから、あの村は焼かれた」
「あの隊長が悪い。お前じゃない」
「結果は同じだ。俺が関わらなければ、あの人たちは——」
「関わらなくても、いずれ同じことが起きていた」
バルザックの声は、低く、重かった。
「俺は軍にいたから分かる。ああいう連中は、いつか必ず暴走する。今日じゃなくても、明日。この村じゃなくても、別の村で。お前がいなくても、同じことが起きていた」
「……」
「問題は、お前の『法律』が無力だったことじゃない。法律を無視できる『力』を、あいつらが持っていることだ」
聖司は、顔を上げた。
「……ああ」
そうだ。
問題の本質は、そこだ。
末端の手続きを守るだけじゃ、この世界の悲劇は止められない。
法そのものに「牙」を持たせなければならない。
権力者を真に縛る構造を作らなければならない。
「……憲法」
聖司は、呟いた。
「憲法改正」
王国中央政府からの召喚状。
憲法——国家の最高法規。王でさえ従わなければならない、最上位の法。
もし、そこに「牙」を仕込めるなら——
行政書士の職域を、遥かに超えている。
だが、もう「職域」に拘っている場合じゃない。
翌日の夕方、王都が見えてきた。
巨大な城壁。その向こうに聳える王城。
聖司は、燃える村の光景を、まだ忘れられなかった。
あの女の言葉が、耳に残っている。
——あんたの『法律』とやらが、何の役に立った!?
城門をくぐり、王都の大通りに入る。
活気がある。だが、街角には武装した兵士が立っている。
この国は、病んでいる。
法があっても、機能していない。権力者が法を無視し、民衆が踏みにじられている。
聖司は、王城を見上げた。
敗北感が、胸の奥で燻っている。
だが、同時に——怒りも。
「……憲法改正、か」
行政書士として、書類を書くだけでは足りない。
この国の「構造」そのものを変えなければ、あの村の悲劇は繰り返される。
聖司は、静かに呟いた。
「報酬は高くつくぞ。——俺の『無力さ』を思い知らされた分も、上乗せしてもらう」
移動事務所は、王城へと進んでいった。
第9話 完
次回予告
第10話「法務大臣——または、権力者の孤独について」
「湊聖司殿。貴殿に、王国の未来を託したい」
「俺は行政書士だ。国を変える力なんてない」
「だからこそ、貴殿が必要なのだ。『力のない者』の視点で、法を書ける者が」
——王城の奥で、法務大臣が語る「憲法改正」の真意。
そこには、聖司の想像を超える陰謀が隠されていた。




