第7話 魔王の目覚め——または、一万年の遺言について
魔王の指が、職印に触れた。
その瞬間——
玉座の間を、閃光が貫いた。
ギャリィィィン——!
見えない鎖が、弾け飛ぶ音。呪縛契約が、根本から崩壊していく。
ベリアルが、絶叫した。
「馬鹿な……! あり得ない……!」
魔王の体から、黒い霧が噴き出した。三ヶ月間、彼を縛り付けていた呪縛の残滓だ。それが空気中に溶けていく。
そして——
魔王の目に、光が戻った。
一万年を生きた者の、深い知性を湛えた瞳。
聖司は、その目を見つめた。
魔王が、ゆっくりと口を開いた。
「……その書類、様式が少し古いな」
聖司は、一瞬、言葉を失った。
一万年の眠りから覚めた第一声が——書類への指摘だと?
「『代行解任届』の様式は、三百年前に改訂されている。お前が持っているのは、それ以前の旧様式だ」
魔王の声は、低く、落ち着いていた。古風だが、論理的。大御所の法律家が、若手の書類をチェックする時の口調だ。
聖司は、小さく笑った。
「知っている」
「知っていて、あえて旧様式を使ったのか」
「ああ。旧様式には、新様式にない条項がある」
魔王の眉が、わずかに上がった。
「……『魂の重さ』条項か」
「そうだ。旧様式の第7条。『本届出に虚偽の記載をした者は、その魂の重さをもって責任を負う』。新様式では削除されたが、旧様式では生きている」
聖司は、ベリアルを一瞥した。
「呪縛契約を仕掛けた術者が、この届出に抵抗すれば、『魂の重さ』条項が発動する。つまり、お前の全権代理権が無効になるだけでなく、お前の魂そのものが法的拘束を受ける」
ベリアルの顔が、蒼白になった。
「だ、だから私は……抵抗できなかった……」
「そういうことだ。新様式なら、お前は最後まで抵抗できた。だが、旧様式を使ったから、魔王が指を動かした瞬間、お前は『負け』が確定した」
魔王が、深く頷いた。
そして——ニヤリと笑った。
「……『実務必携』を読んだな」
「読んだ。ミサトという女が書いた本だ。旧様式の価値について、詳しく書いてあった」
「彼女らしい。手続きの細部にこそ、法の本質があると常々言っていた」
魔王は、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
三メートルを超える巨体。四本の角。だが、その動きには、威厳と知性が宿っていた。
「お前、名は」
「湊聖司。行政書士だ」
「ギョウセイショシ……聞いたことのない職業だな。だが、腕は確かなようだ」
魔王は、聖司を見下ろした。大御所が中堅の実務家を値踏みする目だ。
「私と同じ土俵で戦える者は、一万年で数えるほどしかいなかった。お前は——その一人に加わる資格がある」
魔王は、玉座の間を見回した。
その視線が、ベリアルで止まった。
「……ベリアル」
ベリアルは、膝をついていた。顔は蒼白で、体が震えている。
「へ、陛下……私は……」
「お前が私に呪縛をかけた理由は、分かっている」
魔王の声は、静かだった。怒りはない。ただ、深い疲労があった。
「私が死ねば、魔王軍の法体系が崩壊する。お前はそれを恐れた。だから私を『生ける判例』として固定しようとした」
「陛下、私は……法を守るために……」
「法を守るために、法の頂点を私物化したのか」
ベリアルが、言葉を失った。
聖司が、一歩前に出た。
「魔王陛下。処分について、意見を述べてもいいか」
「言え」
「処刑は、やめた方がいい」
リーゼロッテが、驚いた顔をした。バルザックも眉を上げている。
「ベリアルは有能だ。法務の知識は本物だし、組織を回す能力もある。問題は、条文の『読み方』だ」
聖司は、ベリアルの前に立った。
「お前は条文を愛している。それは分かる。俺も同じだ」
「……」
「だが、お前は条文を『文字通り』にしか読んでいない。法は、文字通りに読めば冷たい。無機質な記号の羅列だ」
聖司は、静かに言った。
「だが、条文の余白には——情がある」
ベリアルが、顔を上げた。
「条文と条文の間、行間、但書の裏側。そこには、その法律を作った者の『意図』がある。誰かを守りたい、何かを正したい、そういう想いが込められている」
「……」
「お前は条文だけを見て、その余白を見なかった。魔王という『生きた存在』を、条文の中に閉じ込めようとした。それが、お前の過ちだ」
四十八年の人生で培った、重みのある言葉だった。
ベリアルの目に、何かが揺れた。
「法務部で再教育を受けろ。条文の余白にある情を、読み取る訓練をしろ。それが、お前への罰であり——お前への期待だ」
魔王が、小さく頷いた。
「……良かろう。ベリアル、法務部での再教育を命じる。二度と、同じ過ちを犯すな」
「……はっ」
ベリアルは、深く頭を下げた。その目には、涙が滲んでいた。
玉座の間から、ベリアルが連行されていった。
残ったのは、聖司、リーゼロッテ、バルザック、イリア、そして魔王。
「さて」
魔王が、聖司を見た。
「本題に入ろう。お前は、娘の依頼で来たのだな」
「ああ。婚姻届の提出だ」
「私との婚姻を、まだ望むか」
リーゼロッテが、一歩前に出た。
「父上。私は——」
「待て、リーゼロッテ」
聖司が、手を上げた。
「魔王陛下。一つ確認したい。この婚姻、本当の目的は『永続的法人化』だな」
魔王の目が、鋭くなった。
「……詳しく言え」
「単なる相続対策じゃない。あなたは、魔王軍という巨大組織を『永続的持株会社』に変えようとしている」
聖司は、指を折りながら説明した。
「通常の相続では、支配権は分散する。四十七人の異母兄弟がいれば、財産は四十七分割される。だが、婚姻を使えば話が変わる」
「続けろ」
「あなたとリーゼロッテが婚姻すれば、二人は法的に『一つの経済単位』になる。夫婦共有財産制度だ。この状態であなたが死ねば、財産は『配偶者』に優先的に相続される。継承戦は発生しない」
魔王は、黙って聞いていた。
「だが、それだけじゃない。婚姻届の特約欄に、『魔王軍の法人格継続条項』を入れるつもりだろう」
「……」
「『魔王軍は、魔王の死後も法人格を維持し、配偶者がその代表権を承継する。代表権は、配偶者の指名により次世代に継承できる』——こんな内容だ」
聖司は、魔王を真っ直ぐに見た。
「これで、魔王軍は『永続的持株会社』になる。支配権は分散せず、代表者の指名で継承される。他国からの解体要求も、『法人格の侵害』として退けられる。——完璧なコーポレート・ガバナンスだ」
玉座の間が、静まり返った。
魔王が、深くため息をついた。
「……一万年生きてきて、初めて会った。私の構想を、ここまで正確に読み解いた者は」
「行政書士だからな。届出書類の裏を読むのが仕事だ」
魔王は、小さく笑った。
「気に入った。お前を、私の『公認アドバイザー』に任命したい」
話が一段落したところで、聖司は立ち上がった。
「魔王陛下。一つ、試したいことがある」
「何だ」
「厨房を借りる。あんたに、まともな飯を食わせてやりたい」
厨房で、聖司は料理を始めた。
まず、水だ。
昨日設置させた簡易濾過装置で、魔王城の硬水を軟水化する。透明な水が、ゆっくりと壺に溜まっていく。
次に、出汁。
携帯出汁パックの残りを、軟水に浸す。鰹節と昆布の香りが、ふわりと立ち上った。硬水の時とは、まるで違う。柔らかく、深く、体に染み渡るような香りだ。
そして、粥を炊く。
この世界の穀物を、出汁でゆっくりと煮込む。火加減を調整し、焦げないように、だが芯まで火が通るように。
塩で味を調え、刻んだ野菜を散らす。
シンプルだが、心を込めた一品だ。
玉座の間に戻ると、魔王は椅子に座って待っていた。
聖司は、湯気の立つ椀を差し出した。
「これは?」
「粥だ。俺の故郷の料理に近いものだ」
魔王は、椀を受け取った。
湯気が、ゆらゆらと立ち上っている。出汁の香りが、玉座の間に広がった。
魔王は、匙で粥をすくい、口に運んだ。
一口。
舌の上で、穀物の甘みと出汁の旨味が溶け合う。
二口。
温かさが、喉を通り、胃に落ちていく。
三口。
その温かさが、体の芯まで染み渡っていく。三ヶ月間、呪縛に囚われていた体が、ゆっくりと解きほぐされていく。
魔王の手が、止まった。
「……」
「どうした」
「……一万年、生きてきた」
魔王の声は、静かだった。だが、その奥に、微かな震えがあった。
「豪華な宴は、数え切れないほど経験した。珍しい食材、高価な調味料、名のある料理人。だが——」
魔王は、椀を見つめた。
「腹の底から温まるものを食べたのは、これが初めてだ。食べることが、こんなに嬉しいと思ったのも」
聖司は、小さく笑った。
「出汁と軟水の力だ。この世界には、まだその概念がない。俺が広めてやる」
食事を終えた後、魔王は静かに語り始めた。
「……お前は、『ミサト』という名を知っているな」
「ああ。この世界の法体系を作った、伝説の転生者だ」
「彼女は、私の友人だった。八百年前のことだ」
聖司の目が、わずかに見開かれた。
「彼女はこの世界に現れ、法律という概念を持ち込んだ。私は、彼女に協力した。共に法体系を整備し、この大陸に秩序をもたらそうとした」
魔王の目が、遠くを見ていた。
「だが、彼女は失敗した」
「何を誤った」
「手続きを軽視した」
聖司は、黙って聞いていた。
「彼女は『民主主義』という理想を、この世界に持ち込もうとした。すべての種族が平等に参加する議会。多数決による意思決定。美しい理想だった」
「……」
「だが、彼女は『届出』を怠った。各種族の長への根回し、段階的な制度導入、反対派への説明——そういう『手続き』を、彼女は『面倒だ』と言って省略した」
魔王は、深くため息をついた。
「結果、民主主義は拒絶された。種族間の対立を煽る道具として利用され、大陸は戦火に包まれた。ミサトは責任を感じ、姿を消した」
「理想を持ち込んだが、それを実現する『手続き』を怠った——ということか」
「そうだ。彼女が遺したのは、不完全な法体系と、『実務必携』という一冊の本だけだ」
魔王は、聖司を見た。
「お前は、彼女と同じ場所から来たのだろう。同じ過ちを、犯すつもりか」
聖司は、首を横に振った。
「俺は、理想なんか持ち込まない」
「では、何を」
「手続きだ」
聖司は、真っ直ぐに魔王を見た。
「一枚の届出書から始める。一つの許可申請から始める。小さな手続きを積み重ねて、少しずつ世界を変える。それが、行政書士のやり方だ」
「……」
「ミサトは理想家だった。だが、俺は実務家だ。俺なら——手続きを省略しない。だから、もっとうまくやれる」
魔王は、長い間、聖司を見つめていた。
やがて、懐から小さな箱を取り出した。
「これを受け取れ」
「何だ」
「魔王軍『公認アドバイザー』の職印だ。これがあれば、魔王軍の全ての部署に自由に出入りできる。書類の閲覧権限も与える」
聖司は、その箱を受け取った。
開けると、中には小さな金属の印鑑が入っていた。魔力が込められている。偽造不可能な、本物の職印だ。
「期待している。『行政書士』——いや、『公認アドバイザー』湊聖司」
聖司は、職印を懐にしまった。
「……まずは、婚姻届を提出する。ミサト市のギルド窓口に、正式に届け出る」
「ルシエラか。手強い相手だぞ」
「知っている。だが、今度は——魔王の公認アドバイザーとして乗り込む」
聖司は、窓の外を見た。
魔王城から見下ろす大地の彼方に、ミサト市がある。
窓口の魔女が、待っている。
第7話 完
次回予告
第8話「婚姻届の提出——または、ギルド窓口の最終決戦」
「魔王の公認アドバイザー? だからといって、不備のある届出は受理しません」
「不備はない。完璧な書類だ」
「それは、私が判断します」
——帰還したミサト市。
窓口の魔女ルシエラとの、最後の書類バトルが始まる。




