第6話 魔王の呪縛——または、契約解除の儀式について
「呪縛契約だと?」
玉座の間に、低い声が響いた。
声の主は、玉座の横に立っていた。
黒いローブを纏った、長身の悪魔。額には二本の角。だが、その角は磨き上げられ、まるで勲章のように光っている。
「魔王軍最高法務責任者、ベリアル・ノクターン」
リーゼロッテが、緊張した声で紹介した。
「父の最も信頼する側近であり、魔王軍の法務を統括する方です」
CLO——最高法務責任者。
聖司は、その男を観察した。
目つきが違う。バルザックのような武人でも、ボーンズのような官吏でもない。法律家の目だ。条文を読み、解釈し、利用する者の目。
同業者だ。
「貴殿が、噂の『行政書士』か」
ベリアルが、聖司を見下ろした。
「奴隷市場を書類一枚で壊滅させ、ギルドを賠償責任で脅し、十七種類の入城許可を三時間で書き上げた男」
「噂が早いな」
「法務部の情報網を舐めるな。——で、『呪縛契約』とは何の戯言だ」
聖司は、魔王を指差した。
「【契約視認】で確認した。魔王には『呪縛契約』がかけられている。術者不明、三ヶ月前に成立。効果は意思能力の剥奪だ」
「ほう」
「この契約により、魔王は『法的死体』——意思能力を失った抜け殻になっている。これは明らかに違法な契約だ」
ベリアルの口元が、わずかに歪んだ。
「違法? 根拠は」
「世界契約法第7条。『意思能力を欠く状態で締結された契約は、取り消すことができる』。契約の取消しを申し立てる」
聖司は、懐から書類を取り出した。
「『呪縛契約取消申立書』だ。受理しろ」
だが、ベリアルは笑った。
「残念だが、その申立ては却下だ。魔王本人の承諾書がある」
ベリアルが、懐から羊皮紙を取り出した。
「三ヶ月前、魔王陛下は自らの意思で、私に『全権代理権』を委任された。呪術的保護措置を講じることへの承諾も含まれている」
聖司は、その書類を【契約視認】で確認した。
魔力署名がある。偽造は不可能だ。
「……なるほど。だが、一つ聞いていいか」
「何だ」
「この呪縛契約、届出は出したのか」
ベリアルの目が、一瞬だけ揺らいだ。
「【契約視認】で見た情報には、『届出:未届』と書いてあった」
聖司は、一歩前に出た。
「魔王軍管理規程第24条。『魔王に対して行使される呪術契約は、法務部に届け出なければならない』。お前は最高法務責任者だ。公的な呪術契約を『未届』で放置した。これは管理規程違反であり——即座の業務停止命令に値する」
ベリアルの顔から、血の気が引いた。
「そ、それは——」
「届出を怠った理由は何だ? 自分が術者だから、届け出れば証拠が残るからか?」
玉座の間が、静まり返った。
聖司は、ベリアルを真っ直ぐに見据えた。
「お前が黒幕だろう。魔王を『呪縛契約』で操り、全権代理人として実権を握る。魔王が死ねば法体系が崩壊するから、魔王を『生ける判例』として固定した。違うか」
ベリアルは、しばらく沈黙していた。
やがて、冷笑を浮かべた。
「……証拠はあるのか」
「これから作る。——バルザック」
「おう」
「軍規第12条。『魔王の意思に反する命令は、いかなる上官からも拒否できる』。この条文、まだ生きてるか」
バルザックが、目を見開いた。
「……生きてる」
「なら、こう解釈できる。『魔王の意思が確認できない状況下では、魔王の意思に反する可能性のある命令は、すべて拒否できる』」
聖司は、ボーンズを見た。
「法務部規則第3条。『法的に疑義のある命令については、上位機関への照会を行う義務がある』。俺の申立てを、魔王本人に照会しろ。照会が保留されている間、ベリアルの全権代理権も停止だ」
バルザックが、獰猛な笑みを浮かべた。
「面白い。お前の言う通りにしてやろう」
ボーンズも、静かに頷いた。
「……我は、法務部規則に従う」
ベリアルの顔が、歪んだ。
「貴様ら、何をしている!」
「最高法務責任者でも、法の上には立てない」
聖司は、冷たく言い放った。
膠着状態の中、聖司はリーゼロッテと共に城の書庫へ向かった。
決定打を探す必要があった。
書庫は巨大だった。古いインクと羊皮紙の匂いが、空気に染み付いている。
聖司の目が、一冊の本に留まった。
背表紙に、日本語で『実務必携』と書かれていた。
ミサトの字だ。
ページをめくる。日本語の注釈が、びっしりと書き込まれていた。
『緊急時における職権代行の特例:本人の意思確認が不可能な場合、利害関係人は「代行解任届」を提出することで、代行者の権限を停止させることができる。ただし、届出には本人の署名または押印が必要』
聖司の心臓が、跳ねた。
「リーゼロッテ。『代行解任届』の書式を探せ」
一時間後。
玉座の間に戻ると、ベリアルはまだバルザックとボーンズに囲まれていた。
「何を持ってきた」
「『代行解任届』だ。お前の全権代理権を、この書類で停止させる」
ベリアルの顔が、蒼白になった。
「馬鹿な……そんな古い規定が……」
「廃止されていない以上、有効だ」
だが、ベリアルはすぐに冷笑を取り戻した。
「無駄だ。その届出には、魔王本人の署名か押印が必要だ。意思のない魔王に、できるはずがない」
聖司は、リーゼロッテから魔王の職印を受け取った。
重い。魔力が、びりびりと伝わってくる。
玉座の間に、古いインクと魔力の匂いが漂っていた。何百年もの間、この場所で交わされてきた契約と誓いの残滓。
聖司は、玉座の魔王を見上げた。
「魔王陛下」
静かに語りかけた。
「あなたは今、呪縛契約によって意思を奪われている。だが、契約の効果は『意思能力の剥奪』であって、『意思の消滅』ではない」
ベリアルが叫んだ。
「無駄だ! 魔王は私の命令にしか反応しない!」
「黙れ」
聖司は、ベリアルを一瞥もせずに続けた。
「魔王陛下。あなたの娘が、助けを求めている。あなたの法——あなたが一万年かけて守ってきた法が、今、悪用されようとしている」
魔王の指が、ぴくりと動いた。
同時に、玉座の間に異様な音が響いた。
ギリギリ、と。
見えない鎖が軋むような音。呪縛契約が、魔王の意思を押さえ込もうとしている。
全員が、息を呑んだ。
「あなたの意思は、まだ死んでいない。呪縛の奥底で、まだ生きている」
聖司は、『代行解任届』と職印を、魔王の手の前に差し出した。
「その指を、動かしてください。この届出に、押印してください」
魔王の手が、震え始めた。
ギリギリギリ——
呪縛の鎖が、さらに激しく軋んだ。空気が震えている。魔力の匂いが、濃くなっていく。
魔王の手が、ゆっくりと持ち上がった。
一センチ。二センチ。
職印に向かって、伸びていく。
ベリアルが、歯を食いしばった。
「動くな……動くな……!」
魔王の手が、止まった。
職印まで、あと数センチ。だが、呪縛が抵抗している。
聖司は、心の中で叫んだ。
頼む、動け。
四十八年間、俺は法律と共に生きてきた。
法に救われたことも、法に裏切られたこともある。だが、それでも俺は法を信じ続けた。
法律は、絶望した者の最後の武器なんだ。
どんなに力のない者でも、どんなに追い詰められた者でも、正しい書類があれば戦える。それが、法の力だ。
だから——動いてくれ。
魔王の指が、震えながら、さらに伸びた。
果たして——意思を奪われた魔王の指は、届出に押印できるのか。
玉座の間に、張り詰めた沈黙が満ちた。
第6話 完
次回予告
第7話「魔王の目覚め——または、一万年の遺言について」
「動け……動け……!」
「無駄だ、呪縛契約は完璧だ!」
「完璧な契約など存在しない。必ず、穴がある」
——魔王の指が、職印に届く時。
一万年の沈黙が、破られる。




