第5話 魔王城の門——または、入城許可申請について
魔王城『アイアン・ゲート』は、想像を超えていた。
黒い岩山を削り出して造られた巨大な城塞。城壁の高さは優に五十メートルを超え、その頂には無数の見張り台が並んでいる。
だが、聖司が最初に目をつけたのは、城壁ではなかった。
門の脇に、古びた金属板が埋め込まれていた。
錆びて読みにくくなっているが、刻まれた文字は——漢字だ。
「安全第一」
聖司は、その文字を凝視したまま、動けなくなった。
三郷の工事現場で嫌というほど見た、あの緑十字と文字。なぜ魔王城に、この世界の文字ではなく「日本語」で刻まれているのか。
先駆者ミサトは、行政だけでなく「現場の安全管理」まで持ち込んでいたのか?
背筋に、冷たいものが走った。
彼女は一体、この世界でどこまで足跡を残したのだ。街の法体系、土木工事の仕様書、そして魔王城の安全標語。その影響範囲は、聖司の想像を遥かに超えていた。
「先生? どうかしましたか」
イリアの声で、我に返った。
「……いや、何でもない。行くぞ」
門の前には、骨だけで構成された兵士たちが整列していた。
スケルトン。
だが、普通のアンデッドとは雰囲気が違う。全員が同じ形式の鎧を着用し、同じ角度で槍を構えている。統率が取れている。
その中から、一体のスケルトンが前に出てきた。
他のスケルトンより背が高い。頭蓋骨には、小さな角のような装飾がついている。階級章のようなものだろう。
「止まれ。ここは魔王城『アイアン・ゲート』である。入城の目的と、許可証の提示を求める」
声は、骨の軋む音のように乾いていた。
「許可証?」
「入城には、目的に応じた許可証が必要である。許可証なき者の入城は、魔王軍法務部規則第1条により、固く禁じられている」
聖司は眉を上げた。
「法務部?」
「然り。我は魔王軍法務部第三課、入城管理担当官ボーンズである」
法務部。
魔王軍に、法務部がある。
聖司は、思わず小さく笑った。
「……どこの世界でも、組織ってのは似たようなもんだな」
「何か?」
「いや、こっちの話だ。——入城の目的は三つある。一つ、魔王との面会。二つ、婚姻届の提出。三つ、後見人選任の申立て」
ボーンズの頭蓋骨が、わずかに傾いた。
「三つの目的……それぞれに、異なる許可証が必要である」
「何種類だ」
「面会許可証、婚姻届提出許可証、後見申立許可証。さらに、外交目的の入城には外交許可証、資材搬入には搬入許可証、宿泊には宿泊許可証……目的が複合する場合は、すべての許可証を個別に取得する必要がある」
「全部で何種類だ」
ボーンズは、淡々と答えた。
「十七種類である」
バルザックが絶句した。
イリアが青ざめた。
リーゼロッテでさえ、困惑の表情を浮かべている。
「……父上の城なのに、私でも十七種類の書類が必要なのですか」
「規則は規則である。魔王の血族であっても、例外は認められない」
聖司は、腕を組んだ。
十七種類。
普通なら、途方に暮れるところだろう。
だが、聖司は笑っていた。
「書ける」
「……は?」
「十七種類だろうが、二十種類だろうが、書ける。全部書ける」
聖司は鞄から羊皮紙の束を取り出した。
「様式を見せろ。『登城理由書』『魔力特性申告書』『兵站負担金免除申請書』……そのあたりからだな」
ボーンズが、わずかに動揺したように見えた。
「……なぜ、様式名を知っている」
「知らん。だが、官僚組織が作る書類なんて、どこでも似たようなもんだ」
聖司は羊皮紙を広げた。
俺は二十年間、MMOのギルドマスターをやっていた。数百人のギルドメンバーの加入申請、脱退届、役職変更届。外交協定書、資源分配合意書、領地管理規約。
それだけじゃない。『PK被害申告書』『利用規約違反異議申立書』『不正行為調査報告書』。運営とプレイヤーの間に立って、数千件の書類を捌いてきた。
この程度の定型文、息をするより容易い。
三時間後。
聖司は、十七種類の許可申請書を書き上げていた。
門の前に設置された仮設の机。その上に、整然と並べられた書類の山。
ボーンズが、一枚一枚を確認していく。
「面会許可申請書……記載事項に不備なし。婚姻届提出許可申請書……様式は旧式だが、但書により許容範囲内。後見申立許可申請書……」
骨の指が、書類の上を滑っていく。
「……驚くべきことに、すべての書類に不備がない」
「当然だ」
聖司は、万年筆を懐にしまった。
「俺は行政書士だ。書類を書くのが仕事だ」
ボーンズは、しばらく聖司を見つめていた。
スケルトンに表情はない。だが、その空洞の眼窩には、何かしらの感情——敬意のようなものが宿っているように見えた。
「……我が魔王軍法務部に配属されて三百年。これほど完璧な書類を見たのは、初めてである」
「三百年で初めてか。光栄だな」
「仮入城を許可する。ただし、正式な許可が下りるまでは、城内での行動に制限がある。宿舎から出る際は、必ず護衛をつけること」
「了解した」
魔王城の内部は、外見から想像するよりも「官僚的」だった。
廊下には、等間隔で松明が灯されている。壁には、部署名を記した案内板。すれ違うスケルトンたちは、全員が書類の束を抱えて歩いていた。
「……まるで、役所だな」
聖司が呟いた。
「実際、そうなんだよ」
バルザックが肩をすくめた。
「魔王軍ってのは、見た目は軍隊だが、中身は完全な官僚組織だ。軍団長たちの序列も、武力じゃなくて『職務規定』で決まってる」
「職務規定?」
「ああ。誰がどの部署を管轄するか、誰が誰に報告義務を負うか、全部が文書で決まってる。だから、派閥争いも『規定の解釈』を巡って行われる」
聖司は、小さく笑った。
「日本企業の派閥争いと変わらんな」
「日本……?」
「俺の故郷の話だ。気にするな」
仮の宿舎に案内されたのは、日が暮れる頃だった。
石造りの質素な部屋。だが、清潔に保たれている。
そして、夕食が運ばれてきた。
銀の皿に盛られた料理。見た目は豪華だ。
肉の塊。色とりどりの野菜。パンに、スープ。魔王城の客人としてもてなされているのだろう。
だが、一口食べた瞬間、聖司の眉が寄った。
「……何だ、これは」
不味い。
いや、不味いという表現では足りない。味が「噛み合っていない」のだ。
肉には塩が効いていない。野菜は火が通りすぎて、食感が死んでいる。スープは、何かの出汁を取ろうとした形跡があるが、バランスが崩壊している。
聖司は、スープを一口含み、舌の上で転がした。
……そうか。水だ。
「リーゼロッテ」
「はい」
「この城の水源は、地下水か」
「え? ええ、城の地下深くから汲み上げていると聞いています。なぜ……」
「硬水だ。ミネラル分が多すぎる」
聖司は、スープの皿を置いた。
「硬水では出汁が出ない。肉も柔らかくならない。野菜の色も悪くなる。この料理が不味い根本原因は、水の硬度だ」
バルザックが首を傾げた。
「水の……硬さ?」
「水に含まれるカルシウムやマグネシウムの量だ。多すぎると、料理の味が死ぬ。日本の水は軟水だから、繊細な味が出せた。この城の水は、その真逆だ」
聖司は、懐から小さな袋を取り出した。
旅の途中で作った「精製塩」だ。海水を煮詰め、不純物を取り除いて作った。
肉に、塩を振る。
一口、食べる。
……まだ足りないが、さっきよりはマシだ。
「厨房はどこだ」
「え? 先生、何を——」
「料理人に話がある」
魔王城の厨房は、予想以上に大きかった。
巨大な竈が並び、スケルトンの料理人たちが忙しく働いている。
聖司は、料理長らしきスケルトンの前に立った。
「お前が料理長か」
「然り。何か問題でも?」
「問題だらけだ」
聖司は、先ほどの料理の欠点を、一つ一つ指摘した。
塩分濃度の不足。火加減の問題。出汁の取り方。食材の組み合わせ。
そして——
「根本的な問題は、水だ」
「水?」
「この城の水は硬すぎる。ミネラルバランスが崩れている。これでは、どんな食材を使っても、味が死ぬ」
料理長のスケルトンは、困惑したように頭蓋骨を傾けた。
「しかし、水は地下から汲み上げるしか——」
「軟水化の方法を考えろ。煮沸して上澄みを使う、濾過層を通す、あるいは魔法陣で不純物を除去する。方法はいくらでもある」
聖司は、腕を組んだ。
「いいか。魔王は一万年近く生きている。体が弱っているなら、なおさら食事が重要だ。硬水とミネラルバランスの崩れた食事を続ければ、体調は悪化する一方だ」
「……」
「俺は行政書士だ。料理人じゃない。だが、クライアントの健康に関わることなら、口を出す」
聖司は、精製塩の袋を料理長に渡した。
「これを使え。そして、水の問題を解決しろ。軟水化の魔法陣を厨房に組ませる必要があるなら、俺が申請書を書いてやる」
深夜。
聖司は、宿舎の窓から魔王城の中庭を眺めていた。
明日、いよいよ魔王との対面だ。
養子縁組契約書、婚姻届、後見申立書。すべての書類は準備してある。
だが、一つだけ懸念があった。
リーゼロッテの話では、魔王の「意思能力」が問題になる可能性がある。寿命が近く、判断力が低下しているかもしれない。
意思能力のない者との契約は、無効になる。
どこまで魔王が「正常な判断」を下せるのか。それを確認しなければならない。
コンコン。
扉がノックされた。
「先生、よろしいですか」
リーゼロッテの声だった。
「入れ」
扉が開き、リーゼロッテが入ってきた。
その顔は、緊張で強張っていた。
「明日の……父との面会について、お話があります」
「聞こう」
「父は……最近、意識がはっきりしないことが多いのです。話しかけても、反応がないことがある」
「認知症のような症状か」
「にんちしょう……? 分かりませんが、以前の父とは、明らかに違います」
聖司は、椅子に座り直した。
「最後に、まともに会話ができたのはいつだ」
「……三ヶ月前です」
「三ヶ月。それ以降は?」
「ほとんど、反応がありません。玉座に座っているだけで……まるで、抜け殻のように」
聖司の目が、鋭くなった。
「抜け殻」
「はい」
「それは、本当に『衰弱』なのか」
リーゼロッテが、首を傾げた。
「どういう意味ですか」
「自然な衰弱と、人為的な原因。両方の可能性がある」
聖司は立ち上がった。
「明日、魔王に会えば分かる。【契約視認】で、魔王の状態を確認する」
翌朝。
聖司たちは、玉座の間へと案内された。
巨大な扉が開く。
その先に広がっていたのは、暗い空間だった。
天井は見えないほど高い。壁には、古い紋章が並んでいる。そして、奥には——玉座。
玉座に座っているのは、巨大な人影だった。
魔王アスモデウス。
四本の角を持つ、巨大な魔族。体長は三メートルを超えている。
だが、聖司が見たのは、その「目」だった。
開いている。だが、何も見ていない。
焦点が合っていない。意識がない。
まるで——
「……法的死体」
聖司が、小さく呟いた。
「え?」
「意思能力を失った抜け殻だ。これは、自然な衰弱じゃない」
聖司は【契約視認】を発動した。
魔王の体に、青白い文字が浮かび上がる。
【呪縛契約】
術者:不明
対象:魔王アスモデウス
効果:意思能力の剥奪。対象は外部からの命令にのみ反応する。
解除条件:術者の死亡、または解除の儀式
【契約成立日】三ヶ月前
【届出】未届
聖司の目が、鋭く光った。
「……誰かが、魔王に呪いをかけている」
玉座の間に、緊張が走った。
第5話 完
次回予告
第6話「魔王の呪縛——または、契約解除の儀式について」
「この呪い、解除できるのか」
「呪いも契約だ。契約なら、解除条件がある」
「解除条件は……術者の死亡、または解除の儀式」
「術者を探す。必ず見つけ出す」
——呪いすら、行政書士は「契約」として読み解く。




