第22話 再起動——または、日常という名の戦場について
事務所に戻ったのは、日が暮れてからだった。
聖司は、いつもの椅子に座った。
机の上には、処理待ちの書類が積まれている。
何も変わらない。
何も変わっていないはずだ。
「先生、お茶をどうぞ」
イリアが、湯気の立つカップを差し出した。
軟水のお茶。いつもの味。
聖司は、それを受け取った。
「ありがとう」
「どうしたんですか? なんだか、元気がないみたいですけど」
「いや。少し疲れただけだ」
嘘だった。
イリアの笑顔を見るたびに、あの文書が脳裏をよぎる。
『支援要員の存続は、転生者の精神的安定度に依存する』
『目的外利用の場合、支援要員は消去される』
イリアは、何も知らない。
自分が「消える」かもしれないことを。
——笑え。
聖司は、自分に言い聞かせた。
——俺が笑わなければ、この日常は崩壊を始める。
無理やり口角を上げた。
「大丈夫だ。明日から、また忙しくなる」
翌朝。
事務所のドアが、元気よく開いた。
「湊先生! お久しぶりです!」
トーマス・ベッカー。
開業初期に聖司が助けたパン屋だったが、今は木工所を経営している。
数年前にパン屋から木工職人に転身し、今では立派な工房を構えていた。
「トーマスか。どうした」
「営業許可の更新の時期が来まして。『更新手続き(リニューアル・プロセージャ)』をお願いしたいんです」
聖司は、トーマスを見つめた。
この男が、恩師の手紙を預かっていた。
この男が、恩師の万年筆を隠していた。
なぜだ。
「先生?」
イリアの声で、聖司は我に返った。
「ああ。すまない。——トーマス、書類を見せてくれ」
トーマスは、鞄から書類の束を取り出した。
営業許可証の写し。事業報告書。従業員名簿。
聖司は、一枚一枚を確認していった。
行政書士の仕事だ。
どんな状況でも、まずは書類を見る。
書類は嘘をつかない——はずだった。
「トーマス。一点、確認がある」
「はい?」
「事業報告書の『仕入先』の欄。ここに記載されている『北方森林組合』——これは、いつから取引を始めた?」
「えーと……三年前からですね。良質な木材が安く手に入るんで」
「登録番号は?」
「え?」
「北方森林組合のギルド登録番号だ。取引先の正当性を確認するために、番号の記載が義務付けられている」
トーマスの顔が、わずかに強張った。
「それは……すみません、確認してませんでした」
「確認していない?」
聖司の目が、鋭くなった。
「お前は三年間、登録番号も確認せずに取引を続けていたのか」
「いや、その……信頼できる紹介だったので……」
「誰の紹介だ」
沈黙が流れた。
イリアが、不安そうに二人を見ている。
トーマスは、俯いていた。
「……『夢』で、教えてもらったんです」
「夢?」
「変な話だと思うでしょうけど……夢の中で、声が聞こえたんです。『北方森林組合を使え。それが、この世界のルールだ』って」
聖司の心臓が、跳ねた。
——また、「この世界のルール」。
「トーマス。『実地調査』を行う」
「実地調査?」
「お前の工房を見せてもらう。書類だけでは、判断できないことがある」
聖司は、立ち上がった。
「イリア、お前も来い。バルザックは留守番を頼む」
「わかりました」
イリアが、すぐに準備を始めた。
トーマスは、困惑した顔で聖司を見ていた。
「あの……湊先生。何か、怒らせてしまいましたか?」
「怒っていない」
聖司は、トーマスを真っ直ぐに見た。
「ただ、確認したいことがある。——行政書士には、『作為の義務』がある。依頼人のために、なすべきことをする義務だ」
「お前のために、俺は動く。だから、お前も俺に正直に話せ」
トーマスの工房は、ミサト市の外れにあった。
木の香りが漂う、清潔な作業場。
壁には、完成した家具が並んでいる。椅子、テーブル、棚。どれも丁寧な仕事だった。
「立派な工房だな」
「ありがとうございます。全部、先生のおかげです」
トーマスが、少し照れくさそうに笑った。
「あの時、先生が営業許可を取ってくれなかったら、今の俺はいませんでした」
聖司は、工房の奥を見た。
木材が積まれている。確かに、良質な材だ。
「北方森林組合の木材か」
「はい。品質は確かです」
「……トーマス」
聖司は、振り返った。
「お前が見た『夢』のことを、もっと詳しく教えてくれ」
トーマスは、作業台の前に座った。
その目は、どこか遠くを見ていた。
「最初に夢を見たのは、三年前です」
「三年前」
「はい。夢の中に、老人が現れたんです。日本人——先生と同じ、黒い髪と黒い目の」
聖司の拳が、握りしめられた。
「その老人は、何と言った」
「『湊聖司を助けろ』と」
「俺には意味が分かりませんでした。でも、その老人は言ったんです。『お前は、かつて彼に救われた。今度は、お前が彼を救う番だ』って」
トーマスは、聖司を見た。
「それから、時々夢を見るようになりました。北方森林組合のこと。手紙を預かること。万年筆を渡すこと。全部、夢で教えられたんです」
「その老人の名前は」
「……言ってました。確か——『タカハシ』と」
聖司は、目を閉じた。
——教授。あなたは、この世界から去った後も、まだ「物語」を紡いでいるのか。
トーマスを通じて、聖司にメッセージを送り続けている。
だが、なぜこんな回りくどい方法を——
「先生」
トーマスの声が、聖司を現実に引き戻した。
「その老人——タカハシさんは、最後にこう言ってました」
「何と」
「『彼に伝えてくれ。物語の結末は、まだ書かれていない。だから、恐れるな』と」
工房を出た時、太陽は傾き始めていた。
聖司は、空を見上げた。
紫がかった空に、二つの月が浮かび始めている。
「先生、大丈夫ですか?」
イリアが、心配そうに聖司の顔を覗き込んだ。
「ああ。大丈夫だ」
今度は、嘘ではなかった。
恩師は、まだ見守っている。
「物語の結末は、まだ書かれていない」。
それは、聖司への励ましであり、同時に——警告でもあった。
結末は、まだ決まっていない。
つまり、「最悪の結末」もあり得る。
イリアが消える結末も。
世界が崩壊する結末も。
全ては、聖司の選択次第——
「湊!!」
突然、叫び声が聞こえた。
振り返ると、ルシエラが息を切らして走ってきた。
窓口の魔女。いつもは涼しい顔をしている彼女が、今は汗だくだった。
「ルシエラ? どうした」
「大変よ! 王都から……監査院が……!」
「監査院?」
「あなたの事務所の『過去10年分の業務記録』を差し押さえに来るって!」
聖司の体が、凍りついた。
過去10年分。
だが、聖司がこの世界に来たのは——11年前だ。
事務所を開いたのは、10年前。
つまり、聖司の事務所の「全ての記録」が対象になる。
「理由は」
「分からないわ。ただ、監査官が言ってたの。『湊聖司の業務に、重大な不正の疑いがある』って」
「不正? 俺が?」
「それだけじゃないわ」
ルシエラの顔が、青ざめていた。
「監査官の名前……ヴィクトール・ランゲよ。禁書庫の——」
聖司の目が、見開かれた。
ヴィクトール。
禁書庫の司書長。
昨日、聖司に「真実」を見せた男。
あの男が、なぜ今度は「監査官」として——
「先生! 事務所に人が!」
イリアが、ミサト市の方を指差した。
事務所の前に、黒い服を着た集団が集まっている。
その中心に、白髪を後ろで束ねた、痩せぎすの男が立っていた。
ヴィクトール・ランゲ。
彼は、聖司の方を見た。
そして——
薄く、笑った。
第22話 完
次回予告
第23話「監査——または、記録という名の罠について」
「湊聖司。お前の事務所の全記録を、押収する」
「令状は?」
「ここにある。——王立監査院の正式な命令書だ」
「……見せろ。俺は行政書士だ。書類の不備を見逃すほど、甘くはない」
——禁書庫で真実を教えてくれた男が、今度は「敵」として現れた。
ヴィクトールの真意は何か。
そして、「10年分の記録」の中に、何が隠されているのか。




