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異世界行政書士事務所 ~転生したら許認可チートでした。暴力ではなく「書類」で魔王をねじ伏せる~  作者: れーやん


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第2話 開業届と、窓口の魔女

 商業都市ミサトは、聖司の故郷に似た響きの名前だった。


 ミサト。みさと。


 偶然にしては、出来すぎている。


 街に入った瞬間から、聖司は妙な既視感を覚えていた。


 中央を貫く大通り。その両脇に整然と並ぶ商店。用水路の配置。区画の切り方。どこか、日本の地方都市を思わせる。


 気のせいだろうか。


「先生、あの建物が『ギルド庁舎』です」


 隣を歩くエルフの少女——イリアが、石造りの大きな建物を指差した。


 白い石壁。青い屋根。正面には巨大な紋章が掲げられている。剣と天秤と羽根ペンを組み合わせたデザイン。司法と行政と記録を司る、という意味だろうか。


 奴隷市場から逃げ出した後、聖司はイリアと共にこの街まで歩いてきた。丸一日かかった。三十五歳の肉体でなければ、四十八年分の精神は途中で音を上げていただろう。


 イリアは、なぜか聖司についてきた。


 恩を返したい、と彼女は言った。契約を無効化してくれた礼だと。


 断る理由もなかったので、とりあえず助手ということにしてある。実際、この世界の常識を教えてもらえるのはありがたい。二十年のMMO経験があっても、「リアル異世界」の常識は別物だ。


「よし、まずは開業届だ」


 聖司は庁舎の階段を上った。


 石段は磨り減っていた。何十年、何百年と、人々がこの階段を上り下りしてきた証拠だ。役所というのは、どの世界でも変わらないらしい。重厚で、威圧的で、そして——面倒くさい。



 庁舎の中は、予想通りの光景だった。


 長いカウンター。その向こうに並ぶ窓口。天井から吊るされた番号札。壁に貼られた「届出は正確に」「不備は受理できません」といった注意書き。


 日本の市役所と、驚くほど似ていた。


 違うのは、カウンターの向こうで書類を処理している職員たちの耳が尖っていたり、角が生えていたりすることくらいだ。


 番号札を取り、待合の椅子に座る。


 椅子は木製で、座面が硬い。わざとだろう。長居させないための設計だ。日本の役所でもよく見る手法だった。埼玉県内のいくつかの市役所で、同じ椅子を見たことがある。


 三十分ほど待って、ようやく番号が呼ばれた。


「42番の方、3番窓口へどうぞ」


 聖司は立ち上がり、指定された窓口へ向かった。


 窓口の向こうには、銀髪のエルフの女性が座っていた。


 眼鏡をかけている。髪は後ろで一つに結んでいる。年齢は——エルフの年齢は外見では分からないが、雰囲気からして若くはない。百歳は超えているだろう。


 彼女はこちらを見もせず、手元の羊皮紙に羽根ペンを走らせていた。インクの匂いが鼻をつく。鉄分を含んだ、独特の匂いだ。


「次の方。用件は」


「開業届を出しに来た」


「業種は」


「行政書士」


 羽根ペンが止まった。


 女性が顔を上げる。細い目が、聖司を値踏みするように見た。


 眼鏡の奥の瞳は、冷たい灰色だった。


「……行政書士」


「そうだ」


「そのような業種は、登録簿に存在しません」


「知ってる。だから新規で届け出る」


 女性の眉がぴくりと動いた。


「新規業種の届出には、審査委員会の承認が必要です。最短でも三ヶ月。必要書類は十二種類。保証人も二名。供託金として50ギル」


 聖司は黙って窓口のカウンターに手をついた。


「その審査委員会の根拠規定は」


「……は?」


「業種新設に審査委員会の承認が必要だという規定。世界法の何条何項だ」


 女性の表情が固くなった。


「世界法施行規則第42条に基づく——」


「読んだ」


 聖司は遮った。


「第42条の条文はこうだ。『新規業種の届出は、届出書の提出をもって効力を生ずる。届出書の様式は別表第七に定める』。審査委員会なんて一言も書いてない」


「それは——」


「お前が今言ったのは内規だろう。庁舎内のローカルルール。法的拘束力はない」


 窓口の空気が、一瞬で凍りついた。


 後ろに並んでいた住民たちが、何事かとこちらを見ている。隣の窓口の職員も、手を止めてこちらを窺っていた。


 女性の目が、すっと細くなった。


「……お詳しいんですね」


「詳しくないと、この仕事はできない」


 聖司は懐から羊皮紙を取り出した。


 昨夜、イリアに教わりながら徹夜で作成した届出書だ。インクは街の雑貨屋で買った。羊皮紙はイリアが「以前の雇い主の倉庫から失敬してきた」と言っていた。経緯は聞かないことにした。


「業種名、行政書士。業務内容、官公署に提出する書類の作成、権利義務に関する書類の作成、事実証明に関する書類の作成、及びこれらの書類に関する相談業務。届出者、湊聖司」


 女性は無言で書類を受け取った。


 一字一句、確認していく。その目は、粗を探す目だった。獲物を狙う鷹のように鋭い。


 一分。二分。三分。


 女性が顔を上げた。


「この羊皮紙、等級が規定に足りませんね」


「足りてる」


「いいえ。届出書に使用する羊皮紙は、最低でも『上質』等級が必要です。これは『並』等級です」


「世界法施行規則第44条第2項但書」


 聖司は即座に返した。


「『届出者が経済的困窮の状態にある場合、または届出に係る業種が公益に資するものである場合は、この限りでない』。俺は昨日まで奴隷市場の檻の中にいた。経済的困窮の状態だ。文句あるか」


 女性の頬がぴくりと痙攣した。


 だが、彼女は引き下がらなかった。


「……では、インクの質を確認させてください」


「インク?」


「はい。公的届出書に使用するインクは、世界法施行規則第45条により、褪色防止処理済みのものに限られます」


 聖司は眉を上げた。


 日本の役所でも、黒インク指定か青インク可かで揉めたことがあったな……。どの世界でも、窓口担当者というのは同じ手を使ってくる。


「第45条は『保存を要する書類』に関する規定だ。届出書は保存書類じゃない。受理後に庁舎で転記されるから、原本の保存義務はない」


「転記前に褪色したらどうするんですか」


「受理した瞬間に転記するのが庁舎の義務だろう。施行規則第46条。『届出書の受理後、遅滞なく登録簿に転記しなければならない』。遅滞なく、だ。褪色する暇なんかない」


 女性の目が、さらに細くなった。


 沈黙が流れた。


 彼女は書類をもう一度見た。そして、新たな攻撃を繰り出してきた。


「この綴り方、規定と違いますね」


「何がだ」


「届出書の綴じ方は、左上を起点とする『王国式』が標準です。これは右上を起点とする『帝国式』になっています」


 聖司は、深く息を吸った。


 本質に関係ない。完全に、本質に関係ない指摘だった。


 だが、こういう窓口担当者は日本にもいた。申請を通したくないから、どうでもいい形式不備を延々と指摘してくる。十三年の実務経験で、何度も出会ってきた。


「施行規則第47条」


 聖司は静かに言った。


「『届出書の様式は別表第七に定める。ただし、記載事項に不備がなく、かつ、届出の趣旨が明確である場合は、様式の軽微な相違は受理を妨げない』。綴じ方は『軽微な相違』だ。却下の理由にならない」


 女性は書類を睨みつけた。


 聖司は続けた。


「さらに言えば、施行規則第48条。『窓口担当者は、届出書の形式的不備を理由に、正当な届出を拒んではならない。形式的不備がある場合は、補正を指導した上で受理しなければならない』」


 女性の手が、わずかに震えた。


「お前は今、三回連続で『形式的不備』を理由に受理を拒もうとした。四回目があったら、俺は上位庁に苦情を申し立てる。世界法第198条に基づいてな」


 沈黙。


 窓口の周囲が、完全に静まり返っていた。後ろに並んでいた人々が、固唾を呑んで見守っている。


 女性は長い間、聖司を見つめていた。


 その目には、怒りと——わずかな敬意が混じっているように見えた。


 やがて、小さく舌打ちした。


「……ルシエラ」


「何?」


「私の名前です。ルシエラ・ヴァイスベルト」


 彼女は届出書を手に取り、受付印を押した。


 ゴン、という重い音が、窓口に響いた。


「届出番号は後日通知します。届出済証の発行には三日かかります。届出済証と同時に、あなたの『職印』も発行されます」


「職印?」


「士業の証明印です。魔力が込められた印鑑で、届出書類に押印することで、その書類が有資格者によって作成されたことを証明します。偽造は不可能です。受け取りには本人確認が必要ですので、必ず届出者本人がお越しください」


 職印。


 その言葉を聞いた瞬間、聖司の脳裏に、あの感触が蘇った。


 使い古された、角の少し欠けた士業印。十三年間、何千回と押してきた。朱肉の匂い。印面に刻まれた「行政書士 湊聖司」の文字。最後に握ったのは、過労死する直前の深夜だった。


 あの印鑑は、もう手元にない。


 だが、この世界で新しい職印を手にする。


 四十八年の人生。最後に握っていたのは万年筆だった。だが、行政書士としての魂は、あの四角い印影に宿っていた。


 それは、再び「士業」として生きることの証だ。


「届出済証と職印を受け取るまでは、業務を行わないでください。違反した場合、届出は取り消されます」


「了解した」


 聖司は踵を返しかけた。


 ルシエラが、ぽつりと言った。


「……昔、あんたみたいに理屈にうるさい女がいたんだよ」


 聖司は足を止めた。


「何?」


「この街の名前の由来になった人さ。『ミサト』っていう名の女。数百年前、何もなかったこの土地に現れて、治水と法整備をやって、街の基礎を作った」


 聖司は振り返った。


「……その女は、どこから来たんだ」


「さあね。伝説じゃ、『異界の賢者』だったとか。私も詳しくは知らない。古い話だからね」


 ルシエラは肩をすくめた。


「ただ、あんたを見てたら、なんとなく思い出しただけさ。理屈っぽくて、融通が利かなくて、でも——正しいことを言う。そういうところが、似てる」


 聖司は黙ったまま、窓口を離れた。


 ミサト。


 同じ名前の女が、数百年前にこの街を作った。


 偶然か。それとも——。


 背後で、ルシエラの小さな声が聞こえた。


「門前払いの魔女と呼ばれて十年、初めて負けました。……次に来る時も、覚悟しておきなさい」


 聖司は振り返らなかった。


 ただ、小さく呟いた。


「異世界の役所も、日本の役所も、結局は同じだな……」



 次は事務所だ。


 ミサトの不動産屋を三件回ったが、どこも予算に合わない。


 最低でも月額20ギル。聖司の手持ちは、奴隷市場で解放した人々からもらった感謝の品を換金した15ギルだけだ。


「先生、あの……ひとつ、安い物件があるんですが」


 イリアが遠慮がちに言った。


「言ってみろ」


「……おすすめはしません」


「いいから」


 イリアが連れてきたのは、路地裏の古びた二階建てだった。


 壁は罅だらけ。窓ガラスは割れている。看板は朽ちて読めない。軒先の雨樋は外れかけ、壁には蔦が這っている。


 そして——玄関に、赤い×印が描かれていた。


「事故物件か」


「はい。三年前に、ここで……その、人が」


「分かった」


 聖司は建物に近づき、外壁を確認した。


 罅は表面だけだ。構造体には達していない。基礎は石造りで、傾きもない。建物自体はしっかりしている。


 二階部分を見上げる。


 ——おかしい。


「イリア、この建物の登記情報、確認できるか」


「登記……ですか? 不動産屋さんが持ってきた書類に書いてあると思いますが」


「見せてくれ」


 イリアが鞄から羊皮紙を取り出す。


 聖司は【契約視認】を発動した。



【物件概要書】


所在地:ミサト市第三区画 ロット番号未登録

構造:石造二階建

床面積:1階 42平方メートル / 2階 38平方メートル

所有者:ゲルド商会

管理者:ミサト不動産組合


【登記情報】

建物表題登記:帝国歴389年登記

構造:石造平屋建

床面積:1階 42平方メートル


【備考】相続登記未了



 聖司の目が細くなった。


「三つ問題がある」


「み、三つ?」


「一つ目。所有者がゲルド商会になっている。俺が昨日潰した、あの奴隷商会だ。代表者は逮捕されて、商会は事実上解散している。つまり、この物件は現在、所有者不在だ」


「それは……どういう意味ですか」


「所有者不在の不動産を賃貸する権限が、ミサト不動産組合にあるかどうか疑わしい。賃貸借契約を結んでも、後から『無権限者との契約だった』と言われる可能性がある」


 イリアが青ざめた。


「で、では、借りられないんですか」


「待て、まだある。二つ目」


 聖司は二階を指差した。


「この建物、登記上は『平屋建』になっている。だが、実際には二階建てだ」


「え?」


「登記と現況が一致していない。つまり、二階部分は未登記の増築だ。建築確認を取っているかどうかも怪しい」


 心の中で、聖司は苦笑した。本来、不動産登記は司法書士の職域だ。現実でこんなことをしたら、業際違反で懲戒処分ものだろう。


 だが、この世界には業際がない。


「三つ目。ロット番号が『未登録』になっている。土地の区画が正式に登録されていないということだ。この土地は、法的には『存在しない土地』かもしれない」


 聖司は腕を組んだ。


「これだけ瑕疵があれば、交渉材料には十分だ」


「こ、交渉?」


「不動産屋に行く。家賃、叩き落とす」



 ミサト不動産組合の事務所は、ギルド庁舎の裏手にあった。


 組合長は、太った中年の人間だった。禿げ上がった頭に、脂ぎった笑顔。典型的な「悪徳不動産屋」の風貌だ。


「おや、あの物件に興味がおありで? 月額2ギル、敷金2ギル、礼金1ギル。事故物件ですから、お安くしておりますよ」


「高いな」


「いやいや、これでも相場の十分の一ですよ。あの物件、三年間借り手がいなくて——」


「所有者不在の物件を賃貸する権限が、お前にあるのか」


 組合長の笑顔が、一瞬固まった。


「……は?」


「あの物件の所有者はゲルド商会だ。代表者は昨日逮捕された。商会は事実上解散している。所有者が存在しない不動産の賃貸借契約は、無権限者との契約として無効になり得る」


 組合長の顔から、笑みが消えた。


「さらに言えば、あの物件は登記上『平屋建』だが、実際には二階建てだ。未登記の増築がある。建築確認を取っていない違法建築の可能性がある」


「そ、それは——」


「そしてロット番号が未登録だ。土地の区画が正式に登録されていない。つまり、あの土地は法的には存在しない。存在しない土地の上に建つ建物を賃貸することが、果たして合法かどうか」


 聖司は、静かに組合長を見据えた。


「これらの瑕疵を、ギルド庁舎に公的に申告することもできる。登記の不整合、違法建築の疑い、無権限賃貸。調査が入れば、お前の組合が管理している他の物件にも波及するだろうな」


 組合長の顔が、みるみる青ざめていった。


 額に汗が浮かんでいる。


「……あ、あんた、何者だ」


 その声は、震えていた。


 聖司は表情を変えなかった。


「行政書士だ。届出は済ませた」


「行政……?」


「家賃は月額1ギル。敷金、礼金は免除。さらに、最初の三ヶ月はフリーレントだ。それで手を打つ」


 組合長は、しばらく聖司を見つめていた。


 その目には、恐怖があった。


 単なる知識ではない。相手の逃げ道を、法的に完全に塞ぐ。その静かな威圧感に、組合長は屈したのだ。


「……分かりました。その条件で、契約しましょう」


 聖司は頷いた。


 心の中で、小さく呟いた。


 これが、行政書士の戦い方だ。



 事務所の掃除を始めたのは、日が傾き始めた頃だった。


 埃を払い、蜘蛛の巣を取り、割れた窓ガラスを板で塞ぐ。イリアがどこからか調達してきた机と椅子を並べると、なんとなく事務所らしい形になってきた。


 玄関のドアが乱暴に開いたのは、その時だった。


「おい、お前がここの新しい借り主か!」


 入ってきたのは、巨大な緑色の男だった。


 身長は2メートルを超えている。筋肉の塊のような体躯。顔には古傷。牙が下唇から突き出している。


 オークだ。


 だが、聖司が最初に気づいたのは、その目だった。充血している。睡眠不足だ。そして、腕には擦り切れた腕章。何度も洗濯したのか、色が褪せている。


 その姿が、一瞬、別の誰かと重なった。


 かつて、聖司が救えなかった男。ブラック企業で潰れた若手社員。


 あの時、聖司は書類を完璧に整えた。残業記録、給与明細、就業規則の矛盾点。すべてを揃えて、労働基準監督署に提出する準備をしていた。


 だが、会社側の弁護士が介入してきた。


 「これ以上騒ぐなら、彼の再就職に差し障りますよ」


 脅しだった。だが、若手社員はそれに屈した。「もういいです、先生。これ以上は……」と言って、相談を打ち切った。


 三ヶ月後、彼は自殺した。


 あの時の、疲れ切った目。今、目の前にいるオークの目と、同じだ。


「誰だ」


「俺はバルザック。元帝国軍第三師団長だ」


 元軍人。しかも将軍クラス。その男が、なぜこんなボロボロの姿で——


「その腕章、なんだ」


「あ? これか」


 バルザックは自分の腕を見た。


「ギルド庁舎の警備員だ。不本意だがな」


 聖司は【契約視認】を発動した。



【雇用契約】


雇用主:ミサト・ギルド庁舎

被雇用者:バルザック

雇用形態:日雇い

日給:3ギル

勤務時間:記載なし

休日:記載なし

社会保険:未加入

労災適用:対象外


【実態】

直近30日間の平均労働時間:18時間/日

直近30日間の休日:0日



 聖司は、小さくため息をついた。


 日給3ギル。この世界の物価感覚はまだ掴めていないが、月額1ギルで借りられる事故物件の家賃から逆算すると、おそらく日本円で数百円程度だろう。


 それで、一日十八時間。休みなし。


「おい、バルザック」


「なんだ」


「お前の雇用契約、滅茶苦茶だぞ」


「……何だと?」


「勤務時間の記載がない。休日の記載もない。社会保険未加入、労災対象外。そして——直近一ヶ月、お前は一日も休んでいない。一日平均十八時間働いている」


 バルザックの顔が強張った。


「なぜ、それを——」


「見れば分かる」


 聖司は立ち上がった。


「将軍だった男が、なぜこんな扱いを受けている」


 バルザックは少し黙った。


 その沈黙の間、聖司は彼の姿を観察した。かつての誇りを削り取られた男の姿。不当な労働で疲弊し、それでも歯を食いしばって立っている姿。


 あの若手社員と、同じだ。


 あの時、俺は「不当な圧力」に屈した。相手の脅しに、クライアントが折れるのを止められなかった。書類を完璧に整えても、最後の一歩を踏み出させることができなかった。


 今度は、違う。


 今度は、絶対に負けない。


「……戦争で、部下を大勢死なせた」


 バルザックがぽつりと言った。


「責任を取って除隊した。だが、オークの元軍人を雇う奴はいねえ。ギルド庁舎の警備員が、唯一の仕事だった」


「それで、足元を見られているわけか」


「……そういうことだ」


 聖司は腕を組んだ。


「お前がここに来た用件は何だ」


 バルザックは少し黙ってから、ばつが悪そうに言った。


「……正直に言う。庁舎の窓口で、お前がルシエラを論破したって噂になってる」


「論破なんかしてない。規則通りの書類を出しただけだ」


「それができる奴がいねえから驚いてんだよ。あいつ、庁舎内じゃ『門前払いの魔女』って呼ばれてる」


「知ってる。本人から聞いた」


 バルザックは大きな体を縮めるようにして、言った。


「……俺の雇用契約、なんとかならねえか」


「なる」


「本当か」


「ただし、お前が俺のクライアントになるならな。報酬は——最初の給料の一割でいい」


 バルザックは少し考えてから、大きな手を差し出した。


「契約だ、行政書士」


 聖司はその手を握った。


 今度こそ、救う。



 日が暮れた。


 バルザックの雇用契約書の修正案を作成していると、玄関のドアが静かに開いた。


「……失礼します」


 入ってきたのは、フードを深く被った女性だった。


 背が高い。声は若い。フードの奥から、赤い瞳が一瞬だけ見えた。


「行政書士事務所は、こちらでしょうか」


「まだ正式には営業してない。届出済証は三日後だ」


「では、三日後に正式にご依頼します。今日は……ご相談だけ」


 女性はゆっくりとフードを下ろした。


 黒い髪。白い肌。整いすぎた顔立ち。


 そして——額から生えた、小さな二本の角。


「私、婚姻届を出したいんです」


 聖司は万年筆を置いた。


「相手は」


 女性は少し俯いてから、言った。


「……父です」


 イリアが息を呑んだ。


 バルザックが椅子から転げ落ちた。


「父と言うと」


「はい」


 女性は——魔族の女性は、静かに言った。


「魔王です」


 聖司は、ゆっくりと椅子に座り直した。


 四十八年の人生で、様々な相談を受けてきた。だが、これは初めてだ。


「……座れ。話を聞こう」


 異世界行政書士事務所。


 開業初日の夜は、まだ終わりそうにない。




第2話 完



次回予告


第3話「魔王の婚姻届——または、親族法の深淵について」


「生物学的な父と、法的な父。この世界では、その二つが分離できる」

「つまり……?」

「つまり、お前の父親は——法的には、お前の父親じゃないかもしれない」


——法の抜け穴は、時に人の想像を超える。

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