第19話 恩師の影——または、世界を跨ぐ手紙について
手紙を受け取ってから、聖司は一睡もできなかった。
『湊君、元気にしているか。——会いたい』
たった一行。
だが、その筆跡は間違いなく、あの人のものだった。
深夜の事務所。蝋燭の灯りが、羊皮紙の上で揺れている。
聖司は、何度も何度も、その文字を見つめていた。
高橋誠一郎。
日本の大学で、聖司が師事した文学部の教授だった。
法律ではなく、文学。
しかし、高橋教授の専門は「法と物語」という異色の領域だった。
『法律の条文一つにも、それに関わる人間の人生が宿っている。条文を読むとは、無数の物語を読むことなのだ』
その言葉が、聖司の人生を変えた。
小説家になりたかった。物語を紡ぎたかった。
だが、才能がなかった。三度の司法試験に落ち、小説の新人賞にも落選し続けた。
結局、「中途半端な自分」は、行政書士という道を選んだ。
高橋教授は、十五年前に亡くなった。
葬儀には行けなかった。合わせる顔がなかった。
期待を裏切った自分が、最後の別れを言う資格などない。
「先生」
イリアの声で、聖司は我に返った。
「朝ですよ。一晩中、起きてたんですか」
「ああ。少し、考え事をしていた」
聖司は、手紙を机の引き出しにしまった。
「イリア。今日は、飛脚ギルドに行く」
「飛脚ギルド?」
「この手紙の『発送元』を突き止める」
飛脚ギルドは、ミサト市の東端にあった。
石造りの重厚な建物。正面には、翼のついた足のマークが掲げられている。
聖司は、受付で職印を見せた。
「行政書士の湊聖司だ。『記録保持』に基づく情報開示請求をしたい」
受付の若い男が、目を丸くした。
「記録保持……ですか」
「ああ。飛脚ギルドには、発送記録を五年間保存する義務がある。新憲法下の『行政手続法』第42条に基づく、正当な請求だ」
聖司は、請求書を差し出した。
「この封書の発送記録を開示してくれ。発送人、発送日時、発送場所——全てだ」
しばらく待たされた後、奥から白髪の老人が現れた。
背中が曲がり、目は細く、手には古びた台帳を抱えている。
「記録保管員のグスタフだ。お前さんが、記録を見たいという行政書士か」
「ああ。この封書の発送元を知りたい」
グスタフは、封書を手に取った。
封蝋を確認し、紙質を確かめ、しばらく眺めていた。
「珍しい封蝋だな。この紋章、見たことがない」
「分かるか」
「いや。だが、発送番号は読める。こっちだ」
グスタフは、聖司を地下へと案内した。
地下記録庫は、迷宮のようだった。
石の棚が無限に続き、そこに膨大な台帳が積み上げられている。
埃っぽい空気。蝋燭の灯りが、暗闇をわずかに照らしている。
「過去の記録こそが、この世界の全てだ」
グスタフが、独り言のように呟いた。
「人は忘れる。嘘をつく。記憶を捏造する。——だが、記録は嘘をつかない」
聖司は、その言葉に頷いた。
「同感だ。俺も、そう思って生きてきた」
「ほう。お前さん、分かる男だな」
グスタフは、棚の奥から一冊の台帳を引き出した。
「これだ。三日前の発送記録」
台帳を開く。
聖司の目が、一点に釘付けになった。
発送日時——三日前の午後。
発送場所——ミサト市中央郵便所。
そして、発送人の欄には——
「トーマス?」
聖司の声が、かすれた。
トーマス・ベッカー。
開業して間もない頃に助けたパン屋の男だ。
営業許可の更新を手伝ったのが縁で、以来、何かと頼りにしてくれている。
なぜ、トーマスが。
「先生、どうしました?」
イリアが、心配そうに覗き込んできた。
「この発送人……知っている人ですか?」
「ああ。知っている。——だが、だからこそ、分からない」
聖司は、台帳を睨みつけた。
トーマスは、ただのパン屋だ。
高橋教授とは、何の接点もないはずだ。
日本のことなど、知るはずがない。
なのになぜだ。
「もう一つ、確認したいことがある」
聖司は、グスタフに向き直った。
「この封書の筆跡を、『筆跡鑑定』にかけたい。鑑定魔法の使い手を紹介してくれ」
「鑑定魔法か。ギルド庁舎に、専門の鑑定士がいる」
ギルド庁舎。
鑑定士は、中年の女性だった。
彼女は、封書を丁寧に広げ、魔法陣の上に置いた。
「『筆跡鑑定』。書き手の個性——筆圧、傾き、リズム、癖——を魔力で解析し、本人性を特定する実務よ」
魔法陣が、淡い光を放った。
文字の一つ一つが、拡大され、分析されていく。
「これは」
鑑定士が、眉をひそめた。
「どうした」
「この筆跡、非常に特殊ね。この世界の文字なのに、『書き方の癖』がこの世界の人間のものではない」
聖司の心臓が、跳ねた。
「つまり?」
「書いた人間は、この世界の文字を『後から学んだ』人よ。生まれた時からこの文字を使っている人間とは、根本的に筆致が違う」
間違いない。
高橋教授は、日本人だ。
この世界の文字を、後から学んだ。
だとすれば——教授は、この世界に来ていた?
聖司は、事務所に戻らなかった。
日が暮れ、夜の帳が下りる中、彼はミサト市の路地を走っていた。
向かう先は、トーマスの家。
パン屋の裏手にある、質素な住居だ。
聖司は、裏口のドアを叩いた。
「トーマス。いるか」
しばらくして、ドアが開いた。
トーマスが、青ざめた顔で立っていた。
「……湊先生」
「話がある。中に入れてくれ」
トーマスの家は、狭かった。
簡素なテーブルと椅子。壁には、家族の絵が飾られている。
聖司は、トーマスの前に座った。
「単刀直入に聞く。三日前、お前は飛脚ギルドから手紙を送ったな」
トーマスの顔が、さらに青ざめた。
「はい」
「なぜだ。あの手紙は、誰から預かった」
「それは……」
トーマスは、目を伏せた。
その手が、震えている。
「トーマス。俺はお前を疑いたくない。だが、あの手紙には——俺の過去に関わる、重大な秘密が含まれている」
「……」
「頼む。教えてくれ」
沈黙が流れた。
やがて、トーマスが口を開いた。
「……奥の部屋に、来てください」
トーマスは、聖司を家の奥へと案内した。
小さな物置部屋。
そこに、一つの木箱が置かれていた。
トーマスが、震える手で蓋を開けた。
中には——
「これは」
聖司の声が、凍りついた。
古びた万年筆。
黒い軸に、金色のペン先。
間違いない。高橋教授が、いつも胸ポケットに入れていたものだ。
「湊先生」
トーマスが、震える声で言った。
「その万年筆を、あなたに渡すように言われたんです」
「誰に」
「分かりません。夢の中で……声だけが聞こえたんです」
トーマスの目に、恐怖が滲んでいた。
「『これをミサト市の行政書士に届けろ。それが、この世界のルールだ』と」
聖司は、万年筆を手に取った。
冷たい金属の感触。
十五年前、最後に見た時と、何も変わっていない。
「……この世界の、ルール」
聖司は、呟いた。
高橋教授は、この世界に来ていた。
そして、何かを——聖司に伝えようとしている。
「書類は嘘をつく。だが、そこに宿った『意志』の癖までは、この世界の誰にも隠しきれないんだ」
聖司は、万年筆を握りしめた。
恩師の影が、この世界で、聖司を待っている。
第19話 完
次回予告
第20話「ルールの番人——または、世界の裏側について」
「『この世界のルール』とは、何だ」
「それを知る者は、限られています。——王立図書館の、禁書庫に」
「禁書庫?」
「この世界の『成り立ち』に関わる、封印された知識。あなたが探しているものは、そこにあるかもしれません」
——恩師の万年筆を手に、聖司は「世界の秘密」へと踏み込む。
だが、その扉の向こうには、想像を超える真実が待っていた。




