第18話 新しい依頼人——または、境界を超える実務について
王都から戻って、三日が経った。
聖司は、事務所の椅子に座ったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
軟水化装置のおかげで、お茶の味は劇的に良くなった。イリアが淹れてくれた茶を啜りながら、聖司は奇妙な虚脱感と戦っていた。
新憲法を作った。
ギルバートを倒した。
歴史を変えたらしい。
だが、その実感が、どうにも湧いてこない。
「先生、大丈夫ですか?」
イリアが、心配そうに覗き込んできた。
「ああ。少し、疲れが残っているだけだ」
嘘だった。
疲れではない。これは空虚だ。
日本にいた頃、何度も味わった感覚。大きな仕事を終えた後に訪れる、底の抜けたような虚無感。
『神童』と呼ばれた少年時代。周囲の期待を一身に背負い、しかし結局、何者にもなれなかった。司法試験に三度落ち、行政書士として「中途半端な人生」を歩んできた。
そんな自分が、異世界で憲法を作った?
冗談みたいだ。
その時、事務所の扉が開いた。
イリアが、小さく悲鳴を上げた。
入ってきたのは、長身の男だった。
だが、その肌は青灰色。額には小さな角が二本。瞳は金色に輝いている。
明らかに人間ではない。
「失礼いたします」
男は、丁寧に一礼した。
その物腰は、どこかの貴族のように洗練されていた。仕立ての良いスーツを着こなし、手には革の鞄を持っている。
「こちらが、湊聖司殿の事務所でよろしいでしょうか」
聖司は、椅子から立ち上がった。
虚脱感が、一瞬で消えた。
目の前に、依頼人がいる。
それだけで、スイッチが入る。
「そうだ。俺が湊聖司だ」
「お噂はかねがね。私は、ベリトと申します。魔界において『商匠』の称号を持つ者です」
商匠。
魔界における商人の最高位だと、聖司は本で読んだことがある。
「元は、魔王軍の中堅幹部でした。しかし、先の体制変更により——新たな道を歩むことにいたしました」
ベリトは、にこやかに笑った。
だが、その笑みの奥には、聖司と同じ種類の光が見えた。
かつての肩書きを捨て、新しい世界で「何者か」になろうともがく者の目だ。
聖司は、ベリトを応接の椅子に案内した。
バルザックが、壁際で腕を組んでいる。警戒の色が濃い。
イリアは、少し離れた場所で、震える手で茶を淹れようとしていた。
「法人設立のご相談、と言ったな」
「はい。正確には、『魔界法人』の人間界における設立登記です」
ベリトは、鞄から書類を取り出した。
「新憲法の施行に伴い、『異種族間通商条約(インター・スピーシーズ・コマース・トリーティ)』が発効したと聞いております。この条約により、魔界の法人も、人間界において営業活動を行うことが可能になったはずです」
聖司は、書類を受け取った。
俺が作った憲法が、もう動き始めている。
その事実が、じわりと胸に染みた。
「私は、ミサト市に『魔界物産』の支店を設立したいと考えております。魔界の特産品——魔石、薬草、魔法道具などを、人間界で販売するためです」
「魔族系企業の人間界進出、第1号ということか」
「その通りです。前例のない案件ですので、専門家のお力をお借りしたいと思った次第です」
ベリトは、穏やかな笑みを浮かべた。
「湊殿は、魔王軍の『公認アドバイザー』でもあられる。魔界と人間界、両方の法に通じた方は、他にいらっしゃいません」
聖司は、書類を精査し始めた。
『外資参入特別措置法(フォーリン・キャピタル・スペシャル・メジャーズ・アクト)』。
新憲法の下で制定された、外国法人の参入に関する特別法だ。
だが、この法律は、主に「人間界の他国」を想定して作られている。
「魔界」という、全く異なる法体系を持つ領域からの参入は——想定されていない。
「難しい案件だな」
「承知しております」
ベリトの目が、真剣な光を帯びた。
「私も、魔界では『体制派』でした。魔王軍の物資調達を一手に担い、それなりの地位もあった。——しかし、新しい魔王陛下の方針転換で、軍は縮小された」
「それで、商売の道を選んだ、と」
「ええ。軍人としての私は終わりました。しかし、商人として、もう一度——」
ベリトは、言葉を切った。
聖司は、その沈黙の意味を理解した。
こいつも俺と同じだ。
かつての自分を捨て、新しい場所で、新しい自分になろうとしている。
『中途半端な自分』を抱えたまま、それでも前に進もうとしている。
「やろう」
聖司は、書類を机に置いた。
「え?」
「お前の法人設立登記、俺が引き受ける」
ベリトの目が、わずかに見開かれた。
「……条件も聞かずに、ですか」
「条件は後で詰める。だが、まず『やる』と決めなければ、何も始まらない」
聖司は、ベリトを真っ直ぐに見た。
「お前が本気で商売をやりたいなら、俺は全力で手伝う。——それが、行政書士の仕事だ」
書類の準備に、三日かかった。
法人設立登記申請書。
事業計画書。
相互主義証明書類。
取扱品目安全性報告書。
聖司は、条文を一つ一つ読み込み、論理を組み立てていった。
第3条。『外国法人は、本国において適法に設立され、かつ、本国の法律に基づき法人格を有する場合に限り、王国における法人設立登記を申請することができる』。
これは問題ない。ベリトの『魔界物産』は、魔界において正式に登記された法人だ。
問題は、第5条だった。
『外国法人の参入は、相互主義の原則に基づく。すなわち、当該外国が、王国の法人に対して同等の参入を認めている場合に限り、王国は当該外国の法人の参入を認める』。
相互主義。
つまり、魔界が人間界の企業を受け入れているなら、人間界も魔界の企業を受け入れる——という原則だ。
「ベリト。魔界では、人間界の法人の営業を認めているのか」
「はい。魔王陛下の新政策により、人間界の商人にも営業許可が発行されるようになりました」
「その証拠はあるか」
「こちらに」
ベリトは、別の書類を取り出した。
魔王アスモデウスの印章が押された、公式文書だ。
『人間界法人の営業許可に関する布告』。
日付は、一ヶ月前。
「なるほど。相互主義の要件は満たしている」
残る問題は、第7条だった。
『外国法人の事業内容は、王国の公序良俗に反してはならない』。
公序良俗。
社会の秩序と道徳に反しない、という意味だ。
だが、この概念は極めて曖昧だ。
「魔界の物産が、人間界の『公序良俗』に反するかどうか。これが、最大のハードルになる」
聖司とベリトは、事業計画書を一つ一つ確認していった。
魔石——危険性が低いことを証明する試験結果を添付。
薬草——成分表と安全性試験の結果を用意。
魔法道具——武器転用の可能性があるものは、取扱品目から除外。
「これで、『公序良俗』に反しないことを、書類で明確に示せる」
ギルド庁舎の窓口。
ルシエラは、聖司とベリトを見て、眉をひそめた。
「……また、面倒な案件を持ってきたわね」
「面倒かどうかは、法が決める」
聖司は、書類を窓口に置いた。
「外資参入特別措置法に基づく、法人設立登記の申請だ」
ルシエラは、書類を手に取った。
一枚一枚、丁寧に確認していく。
窓口の後ろでは、他の職員たちがこちらを見ている。ひそひそと話し声が聞こえる。
魔族が、人間界で商売?
前例がないだろう。
受理するのか?
ルシエラが、顔を上げた。
「書類上の不備は、ないわね」
「だろう」
「でも、受理できるかどうかは、別の問題よ」
ルシエラの声が、低くなった。
「魔界法人の設立登記なんて、前例がない。上の判断を仰がないと——」
「前例がないから、何だ」
聖司が、静かに言った。
その声には、王都でギルバートと対峙した時と同じ、静かな怒りが滲んでいた。
「法律には、『前例がなければ受理しない』とは書いてない。書類が要件を満たしていれば、受理する義務がある。——新憲法の『行政手続法』に、そう書いてある」
「それは、そうだけど……」
「お前も分かっているはずだ。法は、前例を守るためにあるんじゃない」
聖司は、ルシエラを真っ直ぐに見た。
「法は壁じゃない。異なる世界を繋ぐための『インターフェース』なんだ」
ルシエラが、息を呑んだ。
聖司の背後で、イリアも息を呑んでいた。
——先生の言葉が、私の中の何かを溶かしていく。
魔族は、怖い。
幼い頃から、そう教えられてきた。
でも、目の前のベリトは——ただの依頼人だ。
法に従い、正式な手続きを踏んで、この街で商売をしたいだけの、一人の商人だ。
「魔界と人間界。今まで、壁で隔てられていた。だが、通商条約が結ばれた。新憲法が施行された。その壁に、穴が開いたんだ」
聖司は、続けた。
「その穴を通って、ベリトはここに来た。正式な手続きを踏んで、法に従って。——それを拒む理由が、どこにある」
沈黙が流れた。
ルシエラは、しばらく聖司を見つめていた。
やがて、小さくため息をついた。
「……あなたって、本当に厄介な男ね」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてないわよ」
ルシエラは、受理印を手に取った。
ゴン。
その音が、ギルド庁舎に響いた。
「受理する。——ただし、上からの問い合わせには、あなたが対応してよね」
「当然だ」
ギルド庁舎を出ると、午後の日差しが眩しかった。
ベリトは、受理証明書を大切そうに握りしめていた。
「……ありがとうございます、湊殿」
「礼を言う必要はない。俺は、依頼された仕事をしただけだ」
「いいえ。これは、単なる商売の話ではありません」
ベリトの目が、真剣な光を帯びた。
「魔界と人間界は、長い間、争ってきました。戦争、対立、不信。その歴史は、一朝一夕には消えません」
「しかし、今日——この一枚の受理証明書が、新しい歴史を作りました。魔界の法人が、人間界で正式に認められた。法によって、両者が繋がった」
ベリトは、聖司に向かって深く頭を下げた。
「これは、小さな一歩です。しかし、確かな一歩です」
聖司は、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「大げさだ。俺は、書類を書いただけだ」
「その書類が、世界を変えるのです」
ベリトの言葉が、聖司の胸に染みた。
そうか。
俺がやっていることは、「中途半端」なんかじゃない。
一枚の書類で、世界が変わる。
一人の依頼人の人生が、変わる。
それが、行政書士の仕事だ。
一週間後。
ミサト市の商業地区に、新しい店が開店した。
看板には、『魔界物産 ミサト支店』と書かれている。
店内には、魔石のランプ、薬草の束、魔法道具の数々が並んでいる。
開店初日から、好奇心旺盛な市民たちが、店に押し寄せていた。
聖司は、イリアと共に、店の前を通りかかった。
ベリトが、店頭で客の対応をしている。
その姿は、どこから見ても——ただの商人だった。
角があっても、肌が青くても。
法によって、この街の一員になった。
「先生」
イリアが、聖司の隣で呟いた。
「私、少しだけ分かった気がします」
「何が」
「法が『インターフェース』だって意味。……私、魔族が怖かった。でも、ベリトさんは、ただの依頼人でした」
「そうだ。法の前では、種族なんて関係ない。依頼人は依頼人だ」
「はい。……私も、先生みたいになりたいです。種族とか、出自とか、そういうものに惑わされずに、目の前の人を見られるようになりたい」
聖司は、イリアの頭を軽く撫でた。
「お前なら、なれる」
事務所に戻ると、机の上に一通の封書が置かれていた。
イリアが首を傾げた。
「先生、これ、いつの間に届いたんでしょう」
「飛脚ギルドからか?」
「いえ、差出人が……」
聖司は、封書を手に取った。
封蝋には、見覚えのない紋章が押されている。
いや、違う。
聖司の手が、止まった。
この紋章は、「知っている」。
だが、この世界に存在するはずがない。
封を開けた。
中には、一枚の羊皮紙。
そこに書かれた文字を見て、聖司の顔色が変わった。
「……イリア」
「はい?」
「この筆跡、誰のものか分かるか」
「いいえ。……先生? 顔色が悪いですよ」
聖司は、羊皮紙を握りしめた。
心臓が、早鐘のように打っている。
「この筆跡は——俺が、日本で師事していた先生のものだ」
「え? 日本って、先生が元いた世界の……」
「ああ。十五年前に亡くなった、俺の恩師。——その人の筆跡が、なぜこの世界にある」
羊皮紙には、たった一行だけ書かれていた。
『湊君、元気にしているか。——会いたい』
第18話 完
次回予告
第19話「恩師の影——または、世界を跨ぐ手紙について」
「この手紙、どうやって届いた」
「飛脚ギルドの記録を辿れば、発送元が分かるはずです」
「頼む。……俺は、もう一つ、確認しなければならないことがある」
——死んだはずの恩師からの手紙。
聖司の過去と、この世界の謎が、ついに交錯する。




