第17話 帰還——または、変わらない日常について
ミサト市の城門が見えた時、聖司は小さく息を吐いた。
帰ってきた。
王都では、新憲法公布の祝賀行事が続いているはずだ。エドワルドは、聖司を「国家の恩人」として公式に表彰しようとした。
断った。
「俺は行政書士だ。表彰されるような仕事はしていない」
そう言って、夜明け前にひっそりと王都を発った。
豪華な馬車の提供も断り、いつもの移動事務所で街道を走った。
バルザックが、御者台から振り返った。
「本当に良かったのか。王都に残れば、もっと大きな仕事ができたろう」
「大きな仕事は、もう十分だ」
聖司は、窓の外を見た。
見慣れた風景。街道沿いの畑。遠くに見える森。
「俺が本当にやりたいのは、国家を動かすことじゃない。目の前の依頼人のために、書類を書くことだ」
「……変わった奴だな」
「そうかもな」
城門を通過し、市街地に入る。
街の様子は、一見、変わっていなかった。
市場では商人たちが声を張り上げ、子供たちが路地を駆け回っている。
だが——
聖司は、微妙な変化に気づいた。
ギルド庁舎の前を通りかかった時、役人が市民に対応している様子が見えた。
以前なら、役人は鷹揚に構え、市民を待たせるのが当たり前だった。
だが、今日は違う。
役人が、書類を丁寧に確認し、市民に説明している。その態度には、どこか「規律」を意識したぎこちなさがあった。
「……何かあったのか」
「新憲法の噂は、もう届いているんだろう。役人の裁量権が制限されるという話が広まれば、自然と態度も変わる」
バルザックが、肩をすくめた。
「お前が書いた『首輪』の効果だな」
「首輪が効いているなら、いいことだ」
事務所のある路地に、馬車を停めた。
建物を見上げる。
以前のボロボロの外観が、きれいに修繕されていた。壁は塗り直され、窓枠も新しくなっている。
扉を開けると——
「先生!」
イリアが、飛び出してきた。
「お帰りなさい!」
「ああ。ただいま」
聖司は、事務所の中を見回した。
リフォームは、完璧に終わっていた。
床は磨かれ、書架は整理され、机には新しいインク壺が置かれている。
そして、何より——
「軟水化装置は」
「完璧に動いてます。図面通りに設置しました」
イリアが、誇らしげに言った。
「お茶、淹れますね」
しばらくして、イリアが茶を運んできた。
聖司は、湯呑みを受け取った。
一口、啜る。
柔らかい味。まろやかな香り。
軟水で淹れた茶は、硬水とは全く違う。舌の上で、茶葉の風味がふわりと広がる。
「……美味いな」
「でしょう? 先生がいない間、毎日この水で練習してました」
聖司は、椅子に深く座った。
張り詰めていた緊張が、少しずつ解けていく。
王都での日々。ギルバートとの対決。新憲法の起草。
全てが、遠い夢のようだった。
「……ここが、俺の居場所だな」
「え?」
「何でもない」
午後になって、最初の依頼人が来た。
事務所の扉がノックされ、一人の男が入ってきた。
四十代くらい。日に焼けた顔。作業着を着ている。
「あの……ここが、行政書士の事務所ですか」
「そうだ。何の用だ」
男は、おどおどしながら言った。
「実は、新しく商売を始めたいんです。でも、営業許可の取り方が分からなくて……」
「どんな商売だ」
「木工品の製造販売です。椅子とか、棚とか。今までは農業をやっていたんですが、体を壊して……」
聖司は、頷いた。
「座れ。話を聞く」
男の名は、トーマスといった。
十年間、農業をやっていたが、腰を痛めて重労働ができなくなった。
木工の技術があったので、それで生計を立てようと思ったが、営業許可の手続きが分からない。
ギルドの窓口に行ったが、門前払いされた。
「『書類が揃ってない』って言われて……でも、どんな書類が必要なのか、教えてもらえなくて……」
聖司は、眉をひそめた。
「いつの話だ」
「三週間前です」
三週間前。まだ、新憲法が公布される前だ。
「分かった。書類は俺が作る。必要なものを説明するから、聞いてくれ」
聖司は、羊皮紙とペンを取り出した。
営業許可申請書。
事業計画書。
製造設備の概要書。
販売予定品目のリスト。
聖司は、一つ一つの書類を、トーマスに説明しながら作成していった。
「この欄には、製造する品目を書く。椅子、棚、その他木工製品。具体的に書けば書くほど、審査が通りやすい」
「はい……」
「この欄は、製造場所の住所。自宅の作業場でいいなら、自宅の住所を書け」
トーマスは、真剣な顔で聞いていた。
聖司は、その姿を見ながら、ペンを走らせた。
憲法を書いた時と、同じ真剣さで。
国家を動かす法律も、一人の男の営業許可も——書類の重みは、同じだ。
書類が完成した。
「これで全部だ。明日、ギルドの窓口に提出しろ」
「あの……受理してもらえるでしょうか」
「してもらえる。書類に不備はない」
トーマスは、不安そうな顔をしていた。
「でも、前に行った時は、門前払いで……」
「今は違う」
聖司は、立ち上がった。
「俺が一緒に行ってやる」
ギルド庁舎。
窓口には、銀髪のエルフが座っていた。
ルシエラ・ヴァイスベルト。
「……あら」
ルシエラが、聖司を見て目を丸くした。
「帰ってきたの」
「ああ」
「王都で、ずいぶん派手にやったらしいじゃない。新憲法の起草に関わったとか」
「噂が早いな」
「ギルドの情報網を舐めないで」
ルシエラは、トーマスを見た。
「で、今日は何の用?」
「営業許可の申請だ。受理しろ」
聖司は、書類を窓口に置いた。
ルシエラは、書類を手に取り、確認し始めた。
しばらくして、顔を上げた。
「……不備はないわね」
「当然だ」
「受理するわ」
ルシエラは、受理印を押した。
そして、一枚の紙を聖司に渡した。
「これは?」
「『受理証明書』よ。新しく導入されたの」
聖司は、その紙を見た。
受理日、申請内容、そして——
「『標準処理期間:14日』……」
「そう。新憲法に基づく行政手続の明確化で、全ての申請に『標準処理期間』が設定されたの。この期間内に、審査を終えなければならない」
聖司は、その紙を見つめた。
「つまり、14日以内に結果が出る」
「ええ。以前みたいに『いつ受理されるか分からない』なんてことは、もうない」
ルシエラは、苦笑した。
「あなたが書いた『首輪』、さっそく窓口の連中を震え上がらせているわよ。『期限内に処理しないと、処分される』って」
「いいことだ」
「いいことかどうかは分からないけど……まあ、市民にとっては、ありがたいでしょうね」
トーマスは、受理証明書を握りしめていた。
「本当に……14日で結果が出るんですか」
「出る。新しい行政手続では、そう決まっている」
「すごい……前は、何ヶ月も待たされるのが当たり前だったのに……」
トーマスの目に、涙が浮かんでいた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
「礼を言う相手は俺じゃない。新しい法を作った連中に言え」
「でも、先生がいなければ、俺はまた門前払いされていました」
聖司は、小さく笑った。
「報酬は、5ギルだ」
「え……そんなに安くていいんですか」
「相場だ。払えないなら、分割でもいい」
トーマスは、懐から硬貨を取り出した。
5枚の銀貨。
聖司は、それを受け取った。
手のひらの上で、硬貨が鈍く光っている。
国家を救った報酬ではない。
目の前の一人のために、書類を書いた対価。
その重みが——聖司には、何よりも心地よかった。
事務所に戻ると、日が傾き始めていた。
イリアが、また茶を淹れてくれた。
軟水のお茶。柔らかい味。
聖司は、窓際の椅子に座り、茶を啜った。
バルザックが、隣に座った。
「今日の依頼、いくらになった」
「5ギルだ」
「5ギル? 王都では、何千ギルも動かしていたのに」
「金額の問題じゃない」
聖司は、窓の外を見た。
夕日が、ミサト市の街並みを照らしている。
「憲法は、国のためにあるんじゃない」
「何?」
「あの男——トーマスの『受理印』を守るためにある」
聖司は、湯呑みを置いた。
「国家の法体系も、行政手続も、全部——目の前の一人の『受理印』を守るために存在する。それを忘れたら、法はただの権力者の道具になる」
バルザックは、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で笑った。
「……お前、本当に変わった奴だな。国を動かしておいて、5ギルの仕事に満足している」
「満足はしてない。まだまだ、やることは山ほどある」
「例えば?」
「この街にも、トーマスのような人間が大勢いる。書類の書き方が分からない。窓口で門前払いされる。法律があっても、使い方を知らない」
聖司は、立ち上がった。
「俺の仕事は、そういう人間を助けることだ。一人ずつ、一枚ずつ、書類を書いていく。——それが、行政書士の矜持だ」
その時、事務所の扉がノックされた。
イリアが、扉を開けた。
「あの……行政書士の先生は、いらっしゃいますか」
若い女の声だった。
聖司は、入口を見た。
二十代くらいの女性が、不安そうな顔で立っていた。
「俺が行政書士だ。何の用だ」
「実は、相続のことで相談したいんです。父が亡くなって、土地の名義変更が……」
聖司は、椅子を勧めた。
「座れ。話を聞く」
女性が、おずおずと椅子に座った。
聖司は、羊皮紙とペンを取り出した。
日常が、戻ってきた。
変わらない日常。
だが、その日常こそが——聖司にとって、何よりも大切なものだった。
第17話 完
次回予告
第18話「新しい依頼人——または、境界を超える実務について」
「魔界法人の設立登記? 前例がないぞ」
「前例がないから、何だ。法は、前例を守るためにあるんじゃない」
「……あなたって、本当に厄介な男ね」
——事務所を訪れたのは、青灰色の肌を持つ魔族の商人だった。
新憲法が開いた「穴」を通り、異なる世界が繋がり始める。




