第15話 大貴族不可侵令——または、法の空白について
最高法廷の控室は、重苦しい沈黙に包まれていた。
聖司、エドワルド、バルザック。
三人は、長椅子に座り、目の前の光景を見つめていた。
部屋の中央に立つ老人——ハルド・フォン・ギルバート。
その手には、古びた羊皮紙が握られていた。
「『大貴族不可侵令』」
ギルバートが、勝ち誇った声で言った。
「王国建国の際、初代国王より我がギルバート家に授けられた特権だ。これを持つ者は、いかなる捜査も、いかなる裁判も受けない。——『不可侵性』。絶対の盾だ」
エドワルドの顔が、苦渋に歪んでいた。
「……本物か」
「疑うなら、王立文書館で照合するがいい。八百年間、一度も覆されたことのない、正真正銘の特権だ」
ギルバートは、聖司を見た。
その目には、嘲笑が浮かんでいた。
「お前の『告訴状』も、『裏帳簿』も、全て無意味だ。私を裁く法は、この王国には存在しない」
聖司は、黙ってギルバートを見つめていた。
「法とは、我々が支配するためにあるのだ。縛られるためにあるのではない。——代書人風情が、身の程を知れ」
ギルバートは、羊皮紙を懐にしまった。
「さて、私はこれで失礼する。もう二度と、私の前に現れるな」
老人は、悠然と控室を出ていった。
沈黙が、残された。
エドワルドが、深くため息をついた。
「……終わりだ」
「終わり?」
「『大貴族不可侵令』は、本物だ。私も、法務大臣として、その存在は知っていた。だが、まさかギルバートが持っているとは……」
「使えないのか。裏帳簿は」
「使えない。『不可侵令』の対象者に対しては、いかなる証拠も『証拠能力』を持たない。法的には、ギルバートは『存在しない』のと同じだ」
バルザックが、拳を握りしめた。
「……馬鹿げてる。あれだけの証拠があるのに、何もできないのか」
「それが、『法の空白』だ。特権階級だけに許された、例外の領域」
聖司は、黙って窓の外を見ていた。
空は、曇っていた。
宿舎に戻った聖司は、机に向かっていた。
目の前には、『大貴族不可侵令』に関する資料が積まれている。
エドワルドが集めてくれたものだ。
バルザックが、心配そうに声をかけた。
「……どうする気だ」
「調べる」
「調べて、どうなる。八百年間、誰も破れなかった特権だぞ」
「八百年間、誰も『本気で』調べなかっただけかもしれない」
聖司は、資料をめくった。
「どんな特権にも、それを支える『手続き』と『前提』があるはずだ。例外なく、全ての法には——根拠がある」
「根拠?」
「法は、天から降ってくるものじゃない。誰かが、何かの目的で、作ったものだ。その目的が分かれば——穴が見えてくる」
聖司は、立ち上がった。
「王立図書館に行く。原典を見る」
王立図書館は、王宮の一角にあった。
古い石造りの建物。窓は小さく、内部は薄暗い。
だが、ここには——王国建国以来の全ての法令、勅令、条約が保管されている。
聖司は、受付で身分を告げた。
「魔王軍公認アドバイザー、湊聖司。『大貴族不可侵令』の原典を閲覧したい」
司書が、怪訝な顔をした。
「原典……ですか。あれは、閲覧が制限されています」
「法務大臣の許可がある」
聖司は、エドワルドの署名入りの許可証を見せた。
司書は、しばらく許可証を確認した後、頷いた。
「……こちらへ」
図書館の奥、厳重に施錠された書庫。
その中に、『大貴族不可侵令』の原典は保管されていた。
古びた羊皮紙。だが、保存状態は良好だ。魔法的な保護がかけられているのだろう。
聖司は、原典を慎重に開いた。
古い言葉遣い。だが、読めないほどではない。
『大貴族不可侵令
初代国王アルベルト一世の名において、以下の者に不可侵の特権を授ける。
ギルバート家、ヴァレンシュタイン家、ホーエンツォレルン家、フォン・リヒテンシュタイン家。
上記の家は、王国建国の功労者として、以下の特権を永久に享受する。
一、いかなる裁判所も、上記の家の当主を裁くことはできない。
二、いかなる捜査機関も、上記の家の領地に立ち入ることはできない。
三、上記の家の財産は、いかなる名目でも没収されない。
この特権は、王家の血統が続く限り、永久に有効である。
神聖なる契約として、ここに記す。
アルベルト一世 御名御璽』
聖司は、条文を何度も読み返した。
完璧だ。
穴がない。
いや——
「待て」
聖司の目が、文書の下部に留まった。
本文の下に、小さな文字で——何かが書かれている。
インクが薄くなっており、注意しなければ見落とすほどだ。
聖司は、魔法の灯りを近づけた。
『付帯条項
上記の特権は、以下の前提条件を満たす者にのみ有効である。
一、王家に対する絶対の忠誠を誓い、これを守ること。
二、領民の安寧を保障し、その福祉に努めること。
三、王国の法に反する行為を行わないこと。
上記の条件に違反した者は、この特権を失効し、通常の法の下に置かれるものとする。』
聖司の心臓が、大きく鳴った。
「……あった」
前提条件。
この特権には、条件があった。
そして、ギルバートは——その全てに違反している。
翌朝。
最高法廷。
国王臨席のもと、異例の審理が開かれていた。
ギルバートは、余裕の表情で被告席に座っている。
「陛下。この茶番を、早々に終わらせていただきたい。私は『大貴族不可侵令』の保持者です。いかなる裁判も、私には適用されません」
国王——中年の男。疲れた顔をしている——が、エドワルドを見た。
「法務大臣。異議があるのか」
「はい、陛下。本件について、新たな証拠が発見されました」
「証拠? 何の証拠だ」
「『大貴族不可侵令』の——失効を証明する証拠です」
法廷が、ざわめいた。
ギルバートの目が、初めて鋭くなった。
「失効だと? 馬鹿な。八百年間、一度も——」
「証人を呼びます。湊聖司」
聖司が、証言台に立った。
「湊聖司。お前の主張を述べよ」
「はい、陛下」
聖司は、深呼吸をした。
「私は、王立図書館において、『大貴族不可侵令』の原典を精査しました。その結果、本文の下部に——『付帯条項』が存在することを発見しました」
「付帯条項?」
「はい。この特権には、三つの前提条件が設定されています」
聖司は、羊皮紙の写しを掲げた。
「一、王家に対する絶対の忠誠を誓い、これを守ること。二、領民の安寧を保障し、その福祉に努めること。三、王国の法に反する行為を行わないこと」
ギルバートの顔が、強張った。
「そして、この条項には——『上記の条件に違反した者は、この特権を失効し、通常の法の下に置かれる』と明記されています」
法廷が、静まり返った。
「ギルバート顧問。あなたは、これらの条件を全て破っています」
聖司は、ギルバートを真っ直ぐに見た。
「第一条、王家への忠誠。あなたは、憲法改正を妨害し、王国の法体系を私物化しようとしました。これは、王家への反逆に等しい」
「……」
「第二条、領民の安寧。あなたは、裏帳簿に記録された資金で、政敵の暗殺を依頼しました。領民を守るどころか、殺害を命じていた」
「……」
「第三条、王国の法に反する行為。殺人教唆、公金横領、証拠隠滅。あなたの犯罪は、枚挙にいとまがない」
聖司は、一歩前に出た。
「ギルバート顧問。あなたの『大貴族不可侵令』は——既に失効しています」
ギルバートの顔から、血の気が引いた。
「ば、馬鹿な……そんな条項、聞いたことがない……」
「聞いたことがないのは、あなたが原典を読んでいなかったからだ。八百年間、誰も本気で調べなかった。特権にあぐらをかいて、前提条件の存在すら忘れていた」
聖司は、冷たく言い放った。
「どれほど古く巨大な盾だろうと、それを支える『たった一行の前提条件』が崩れれば、ただのゴミクズだ」
国王が、立ち上がった。
「……法務大臣。この主張は、法的に有効か」
「はい、陛下。原典の条項は、明確です。ギルバート顧問の特権は、既に失効しています」
「ならば——」
国王は、ギルバートを見た。
「ハルド・フォン・ギルバート。お前の『大貴族不可侵令』は、本日をもって無効とする。通常の法の下に置かれ、裁判を受けよ」
法廷が、どよめいた。
ギルバートの顔が、歪んだ。
怒り。屈辱。そして——狂気。
「……認めない」
老人の声が、震えていた。
「認めないぞ……こんな茶番……」
「ギルバート顧問、落ち着け」
「黙れ!」
ギルバートが、叫んだ。
その手が、懐に伸びる。
「私は、五十年間、この王国の法を支配してきた……代書人風情に、覆されてたまるか……!」
ギルバートの手から、黒い光が溢れた。
禁呪。
古の魔法。
「全員、動くな! この魔法は、この法廷にいる全員を道連れにする!」
衛兵たちが、剣を抜いた。だが、近づけない。
ギルバートの周囲に、黒い障壁が展開されている。
「……っ」
聖司は、歯を食いしばった。
法では、この状況は打開できない。
だが——
「バルザック!」
聖司が叫んだ瞬間、バルザックが動いた。
元将軍の剣が、閃く。
障壁を——正面から叩き斬った。
「馬鹿な……禁呪の障壁を……!」
「俺の剣は、魔王軍で鍛えられた。お前の腐った魔法なんぞ、紙より薄い」
バルザックの拳が、ギルバートの顎を打ち抜いた。
老人は、糸が切れたように倒れた。
法廷に、静寂が戻った。
聖司は、倒れたギルバートを見下ろした。
五十年間、法を支配してきた男。
だが、今は——ただの犯罪者だ。
「……拘束しろ」
エドワルドが、衛兵に命じた。
「ハルド・フォン・ギルバートを、殺人教唆、公金横領、証拠隠滅、禁呪使用の罪で逮捕する」
衛兵たちが、ギルバートを引きずっていった。
聖司は、深く息を吐いた。
「……終わったか」
「ああ。——お前のおかげだ」
エドワルドが、聖司の肩を叩いた。
「八百年間、誰も見つけられなかった『穴』を、お前は見つけた」
「見つけただけだ。穴は、最初からそこにあった」
聖司は、窓の外を見た。
空は、晴れ始めていた。
「特権とは、義務を果たしている者だけに与えられる『恩恵』だ。義務を捨てた者の手にあるのは、ただの汚れた紙切れに過ぎない」
条文の戦争は、一つの決着を見た。
だが、聖司は知っていた。
これは、終わりではない。
始まりだ。
第15話 完
次回予告
第16話「新憲法——または、国家の再設計について」
「ギルバートは倒れた。だが、問題はこれからだ」
「何が残っている」
「『大貴族不可侵令』のような特権が、まだ無数に眠っている。この国の法体系は、穴だらけだ」
「なら、埋めるしかないな。——全部」
——守旧派の親玉を倒した聖司。
次なる戦いは、王国そのものの「再設計」。




