第11話 条文の戦争——または、抵抗勢力について
王宮の大会議室は、重苦しい空気に包まれていた。
長い楕円形のテーブル。その周囲には、二十人ほどの男たちが座っている。
貴族院法務委員会。
王国の法律を審議し、承認する権限を持つ最高機関だ。
聖司は、テーブルの端に座っていた。
エドワルドがその隣にいる。彼の表情は硬い。
テーブルの反対側——上座に近い位置に、一人の老人が座っていた。
白髪を後ろに撫でつけ、深い皺が刻まれた顔。だが、その目だけは鋭い。獲物を狙う老獪な猛禽の目だ。
ハルド・フォン・ギルバート。
貴族院法務顧問。王国の法律解釈を五十年以上にわたって「独占」してきた男。
「さて」
ギルバートが、ゆっくりと口を開いた。
「本日の議題は、『王国憲法改正草案』の審議である。法務大臣より、説明を願おう」
エドワルドが立ち上がった。
「本草案は、王国の法体系を根本から見直し、市民の権利保護と行政の適正化を目指すものです。特に、第4条の『適正手続き条項』と、第12条の『憲法監視官制度』は——」
「お待ちください、大臣閣下」
ギルバートが、穏やかな声で遮った。
「まず、手続き上の確認をさせていただきたい」
「手続き?」
「はい。憲法改正草案の審議には、『法務委員会規則第17条』に基づき、事前に『整合性審査報告書』の提出が必要です。報告書は、提出されておりますか?」
エドワルドの顔が、わずかに強張った。
「……まだです。しかし、本草案の緊急性を考慮し——」
「緊急性は、手続きを省略する理由にはなりません」
ギルバートの声は、あくまで穏やかだった。
「規則は規則です。整合性審査報告書が提出されるまで、本委員会での審議は開始できません」
委員たちが、ざわめいた。
だが、そのざわめきは——同意のざわめきだった。
「ギルバート顧問の言う通りだ」
「手続きを無視しては、法の権威が損なわれる」
「報告書の作成には、最低でも六ヶ月は必要だろう」
エドワルドが、歯を食いしばった。
「六ヶ月……?」
「それでも早い方です」
ギルバートが、にこやかに言った。
「通常の憲法改正審議には、整合性審査に一年、各条項の逐条審議に二年、貴族院全体での承認手続きに一年。合計四年は必要です。——もっとも、先例を見る限り、十年かかった例もございますが」
十年。
聖司は、黙ってギルバートを観察していた。
この老人は、「正面から反対」していない。
「手続き」を盾に、審議を無期限に遅延させようとしている。
これが、既得権益を守る者たちのやり方か。
「他にも、いくつか確認事項がございます」
ギルバートは、分厚い書類の束を取り出した。
「第4条の『適正手続き条項』ですが、これは『王国行政法第89条』との整合性が取れておりません。行政法では、『緊急時における行政措置は、事後届出で足りる』と規定されています。憲法草案と矛盾しますね」
「その矛盾を解消するために、行政法も改正する予定です」
「しかし、行政法の改正には、また別の手続きが必要です。『行政法改正委員会』での審議、『財務委員会』での予算審査、『貴族院本会議』での承認……最低でも三年はかかるでしょう」
エドワルドの顔が、苦渋に歪んだ。
「さらに、第12条の『憲法監視官制度』ですが」
ギルバートは、眼鏡をかけ直した。
「これは、現行の『王国組織法』との整合性に重大な疑義があります。組織法第3条では、『新たな行政機関の設置には、既存の全ての行政機関との権限調整を完了しなければならない』と規定されています」
「権限調整?」
「はい。憲法監視官の権限が、既存の『王室監察局』『軍法務部』『ギルド監査課』の権限とどのように重複し、どのように分離されるか。全ての機関との協議が必要です」
ギルバートは、にこやかに笑った。
「協議の相手は、おおよそ四十七機関。一機関あたり平均三ヶ月の協議期間を見込むと……まあ、十二年ほどでしょうか」
会議室が、静まり返った。
エドワルドは、拳を握りしめていた。
だが、何も言い返せない。
ギルバートの言っていることは、全て「規則通り」なのだ。
聖司は、黙って座っていた。
会議の間中、一言も発していない。
ただ、手元に積まれた『王国旧法全集』のページを、ひたすらめくり続けていた。
ギルバートが、ちらりと聖司を見た。
「おや、そちらの方は……?」
「私の顧問です」
エドワルドが答えた。
「顧問? 失礼ですが、お名前は」
「湊聖司。行政書士だ」
ギルバートの目が、わずかに細くなった。
「行政書士……ああ、噂の『代書人』ですか。魔王軍の公認アドバイザーだとか」
「そうだ」
「ふむ。しかし、憲法改正の審議に、代書人が参加するのは……いささか『先例がない』ですな」
委員たちから、くすくすと笑い声が漏れた。
聖司は、顔を上げなかった。
ただ、ページをめくり続けた。
会議は、三時間に及んだ。
その間、ギルバートと委員たちは、次々と「手続き上の問題点」を指摘し続けた。
全て、正当な指摘だった。
全て、規則に基づいていた。
そして、全てが——新憲法の成立を、無期限に遅延させるための罠だった。
「本日の審議は、ここまでとしましょう」
ギルバートが、満足げに言った。
「整合性審査報告書の提出を待って、次回の日程を——」
「待て」
聖司が、初めて口を開いた。
全員の視線が、聖司に集まった。
「何か?」
「一つ、確認したいことがある」
聖司は、『王国旧法全集』の一ページを開いた。
「『法務委員会規則第17条』。整合性審査報告書の提出義務について」
「ええ、先ほど説明した通りです」
「この規則、いつ制定された」
ギルバートの目が、わずかに鋭くなった。
「……112年前です」
「112年前。つまり、現行の『王国組織法』が制定される前だな」
「……それが、何か」
「王国組織法第158条。『本法施行前に制定された規則のうち、本法と矛盾するものは、本法の規定に準用される』」
聖司は、別のページを開いた。
「王国組織法第42条。『行政手続きの簡素化に関する特例。国家の安全または公共の福祉に重大な影響を及ぼす事案については、所管大臣の判断により、審査手続きを短縮することができる』」
ギルバートの顔が、強張った。
「この二つを組み合わせると、どうなるか」
聖司は、立ち上がった。
「法務委員会規則第17条は、王国組織法の施行前に制定された。したがって、組織法第158条により、組織法の規定が『準用』される。そして、組織法第42条により、法務大臣の判断で審査手続きを短縮できる」
「……」
「つまり、エドワルド法務大臣が『国家の安全に重大な影響を及ぼす』と判断すれば、整合性審査報告書の提出義務は——免除される」
会議室が、ざわめいた。
今度は、動揺のざわめきだった。
「馬鹿な! そのような解釈は——」
「条文に書いてある」
聖司は、冷静に言った。
「俺は何も新しいことを言っていない。あんたたちが作った法律を、あんたたちのルールで読み解いただけだ」
ギルバートが、立ち上がった。
「……なるほど。『準用』と『類推解釈』を組み合わせた、なかなかの手筋だ」
「褒め言葉として受け取っておく」
「だが、その解釈が正当かどうかは、『法務委員会』が判断することだ。我々が認めなければ——」
「認めないなら、こっちにも考えがある」
聖司は、別のページを開いた。
「王国組織法第89条。『行政機関の権限に関する疑義が生じた場合、当該疑義は、王立裁判所の判断に委ねることができる』」
「……何を言いたい」
「法務委員会の権限についても、『疑義』がある。王立裁判所に判断を委ねてもいいんだぞ」
ギルバートの顔が、歪んだ。
「具体的には、こういうことだ」
聖司は、さらに別のページを指差した。
「王国組織法第23条。『行政機関の設置及び権限は、法律の定めるところによる』。だが、法務委員会の権限を定めた『法務委員会規則』は、『法律』ではなく『規則』だ。法律と規則の効力の優劣について、王立裁判所に判断を求めることができる」
「……」
「もし裁判所が、『規則は法律に劣後する』と判断したら——法務委員会の権限そのものが、疑義にさらされる。あんたたちが五十年かけて積み上げてきた『既得権益』が、一夜にして崩れるかもしれない」
沈黙が、会議室を支配した。
ギルバートは、聖司を睨んでいた。
だが、その目には——怒りだけでなく、何かしらの感情が混じっていた。
驚愕? いや、違う。
——敬意だ。
「……『代書人』と侮っていたが」
ギルバートは、ゆっくりと言った。
「なかなか、やるな」
「俺を侮ったのが、あんたの失敗だ」
聖司は、本を閉じた。
「法は、それを知る者の味方じゃない。それを利用する者の味方だ。——あんたたちは、法を『特権』だと思っていた。自分たちだけが知っている、自分たちだけが使える道具だと」
「……」
「だが、俺も法を使う。あんたたちと同じ土俵で、あんたたちのルールで戦う。——そして、勝つ」
ギルバートは、しばらく聖司を見つめていた。
やがて、小さくため息をついた。
「……本日の審議は、一時中断としよう」
委員たちが、ざわめいた。
「顧問! このまま引き下がるのですか!」
「引き下がるのではない。戦略を練り直すのだ」
ギルバートは、杖をついて立ち上がった。
「湊聖司。お前のことは、覚えておく」
「光栄だ」
「次に会う時は、もう少し『本気』で相手をしよう」
ギルバートは、委員たちを引き連れて、会議室を出ていった。
二人きりになった会議室で、エドワルドが大きく息を吐いた。
「……助かった。正直、どうなるかと思った」
「まだ終わってない。あいつらは、また別の手を打ってくる」
「分かっている。だが、少なくとも時間は稼げた」
エドワルドは、窓の外を見た。
その表情が、少し曇った。
「……だが、問題はそれだけじゃない」
「何かあるのか」
「ギルバートたちは、『手続き』で抵抗してくる。だが、別の連中は——もっと直接的な手段を使うかもしれない」
「直接的な手段?」
「軍だ」
エドワルドは、聖司を見た。
「憲法改正で、最も不利益を被るのは誰だと思う」
「……軍の上層部か」
「そうだ。『命令に従っただけ』が免責事由にならなくなれば、彼らの『特権』は消える。それを阻止するために——物理的な抵抗に出る可能性がある」
聖司は、眉をひそめた。
「クーデターか」
「最悪の場合は。——君も、気をつけろ。憲法草案の『実質的な起草者』として、君の名前は既に知られている」
聖司は、窓の外を見た。
王都の街並み。その向こうに、軍の駐屯地が見える。
条文の戦争は、まだ始まったばかりだった。
第11話 完
次回予告
第12話「夜襲——または、ペンと剣について」
「湊聖司を排除しろ。憲法改正を阻止するためだ」
「暗殺か。分かりやすい連中だな」
「先生、逃げましょう!」
「逃げない。俺が逃げたら、あの村の悲劇が繰り返される」
——深夜の王都。
聖司を狙う刃が、闇の中で光る。




