第10話 墨の騎士と国家の設計図
王宮の回廊は、異様なほど静かだった。
大理石の床。金箔の天井。壁には歴代の王の肖像画が並んでいる。
聖司は、その豪華絢爛な空間を、煤汚れた旅装のまま歩いていた。
昨夜の火事の煙を浴びた外套。泥のついたブーツ。髭も剃っていない。
案内役の侍従が、何度もちらちらと聖司を見ている。「こんな格好で大臣に会うのか」という顔だ。
構わない。
着替える気にもなれなかった。
法務大臣執務室。
扉が開くと、広大な部屋が広がっていた。
壁一面の書架。巨大な執務机。窓からは王都の街並みが一望できる。
そして、机の向こうに——男が座っていた。
若い。三十代半ばだろう。金髪を後ろに撫でつけ、仕立ての良い礼服を隙なく着こなしている。
エドワルド・フォン・シュタインベルク。
王国法務大臣。若き天才政治家。
「湊聖司殿だな。遠路ご苦労だった」
エドワルドは、立ち上がりもせずに言った。
冷たい目だ。知性の光はあるが、温かみがない。
「座れ。話がある」
聖司は、勧められた椅子に座った。
エドワルドは、しばらく聖司を観察していた。
そして、口を開いた。
「昨夜、街道沿いの村で火事があったそうだな」
聖司の体が、わずかに強張った。
「君の『正論』が、村を焼いたと聞いている」
残酷な先制攻撃だった。
聖司は、黙って大臣を見つめた。
「法律を盾に、王国軍の徴収を止めさせた。結果、村は『反逆の疑い』で焼き討ちにあった。村長と数名の村人が連行された。——君の『法律』は、彼らを守れなかったわけだ」
「……」
「何か言いたいことは?」
聖司は、静かに答えた。
「事実だ。俺の法律は、彼らを守れなかった」
「潔いな。言い訳をするかと思った」
「言い訳をしても、焼けた家は戻らない」
エドワルドの目が、わずかに細くなった。
何かを測るような視線だった。
「本題に入ろう」
エドワルドは、机の上に羊皮紙の束を置いた。
「これが、『王国憲法改正草案』だ。君の意見を聞きたい」
聖司は、草案を手に取った。
ページをめくる。
整然とした条文が並んでいる。
第1条——市民の基本的権利。生命、自由、財産の保護。
第2条——王権の制限。国王といえども、法律に従わなければならない。
第3条——裁判を受ける権利。全ての市民は、公正な裁判を受ける権利を有する。
第4条——不当な拘束の禁止。法律によらない逮捕、拘禁は禁止される。
……
美しい言葉が、延々と続いていた。
「どうだ」
エドワルドが、自信に満ちた声で言った。
「この憲法が施行されれば、君が嘆いたような悲劇は二度と起きない。法が全てを縛る。王も、軍も、官吏も——全員が、この憲法の下で平等になる」
聖司は、草案を机に置いた。
そして——鼻で笑った。
「何がおかしい」
「おかしいさ」
聖司の声には、冷えた怒りが滲んでいた。
「この草案、誰が書いた」
「私と、法務省の精鋭たちだ。三年かけて練り上げた」
「三年かけて、この程度か」
エドワルドの顔が、強張った。
「……何だと?」
「聞いていいか。第4条、『不当な拘束の禁止』。これを破った役人は、どうなる」
「当然、処罰される」
「誰が処罰する」
「裁判所だ」
「裁判所に訴えるのは誰だ。拘束された市民か? 拘束されている間に、どうやって訴える」
「それは……」
「第3条、『裁判を受ける権利』。裁判所はどこにある。王都だけか? 地方の村人が、どうやって王都まで来る。旅費は誰が出す。裁判の間、仕事は誰がする」
聖司は、草案を指で叩いた。
「第1条、『市民の基本的権利』。この権利を侵害された時、市民はどこに訴え出る。訴えを受理するのはどの役所だ。受理した後、誰が調査する。調査の結果、違反が認められた場合、どの機関が執行する。執行の予算はどこから出る」
「……」
「この草案には、何も書いてない。『権利がある』と宣言しているだけだ。その権利を守るための手続きが、一切ない」
聖司は、立ち上がった。
「あんたが書いたのは、憲法じゃない。ポエムだ」
エドワルドの側近たちが、ざわめいた。
「無礼だぞ!」
「大臣閣下に向かって——」
「黙れ」
聖司の声が、部屋を貫いた。
「俺は昨日、目の前で村が焼けるのを見た。俺の『法律』が無力だったから、人々が苦しんだ。その現実を、俺は知っている」
聖司は、エドワルドを真っ直ぐに見た。
「あんたは知らないだろう。この豪華な執務室で、三年かけて『美しい言葉』を並べている間、現場では何が起きていたか」
「……」
「手続きを無視した理想論は、ただのポエムだ。現場の役人が剣を抜いた時、この紙切れのどこに、その剣を止める『牙』があるんだ?」
聖司は、草案を机に叩きつけた。
「あんたが書いたのは、民を救う法じゃない。歴史に名を残したいあんたの自己満足だ」
沈黙が、部屋を支配した。
側近たちは、怒りで顔を赤くしている。だが、エドワルドが手を上げて制した。
「……続けろ」
「何?」
「君の言う『牙』とは、具体的に何だ」
聖司は、少し驚いた。
激昂するかと思った。だが、エドワルドの目には——興味の光があった。
「……いいだろう」
聖司は、椅子に座り直した。
「まず、『適正手続き』——デュー・プロセスだ。権利を侵害された市民が、どのような手順で救済を求めるか。訴えの提出先、審査期間、不服申し立ての方法。全てを条文に明記しなければならない」
「具体的には」
「例えば、第4条。『不当な拘束の禁止』。これに『拘束から24時間以内に、管轄ギルドへの届出を義務付ける。届出がない拘束は、自動的に違法とする。違法な拘束を行った者は、階級を問わず、即座に職務停止』という条項を加える」
エドワルドが、メモを取り始めた。
「続けろ」
「次に、『実効性』——エンフォースアビリティだ。条文に書いてあることを、実際に執行する仕組みがなければ意味がない」
「どうすればいい」
「『憲法監視官』を設置する。各地方に配置し、憲法違反の監視と摘発を行う。監視官は、王権からも軍からも独立した存在とする。予算は王室費から直接支出し、他の役所の影響を受けない」
「……大胆だな」
「大胆じゃなければ、意味がない。権力者を縛るための法なんだ。権力者に遠慮していたら、最初から負けている」
聖司は、草案を手に取った。
「それから、罰則規定だ。憲法に違反した者への処罰を、明確に定める。『知らなかった』『命令に従っただけ』は、免責事由にならない。上官の命令であっても、憲法違反の行為を実行した者は、個人として責任を負う」
エドワルドの目が、鋭くなった。
「……それは、軍の反発を招くぞ」
「招くだろうな。だが、それがなければ、この憲法は絵に描いた餅だ。昨日の村を焼いた連中は、『命令に従っただけ』と言い訳するだろう。その言い訳を、法的に封じなければならない」
沈黙が流れた。
エドワルドは、しばらく考え込んでいた。
やがて、顔を上げた。
「……君は、行政書士だと聞いている」
「ああ」
「行政書士とは、どのような仕事だ」
「届出を書く。許可申請を書く。契約書を作る。——法が『現場で動く』ための書類を、作る仕事だ」
「つまり、法の『運用』の専門家か」
「そうだ。法学者は、法の『理念』を語る。だが、俺たちは違う。法が実際に人を救えるかどうか、現場で見ている」
聖司は、静かに言った。
「行政書士を舐めるな。俺たちは、法が死ぬ現場の最前線にいるんだ」
エドワルドは、立ち上がった。
窓際に歩み寄り、王都の街並みを見下ろした。
「……私は、この国を変えたいと思っている」
「……」
「腐敗した貴族。暴走する軍。苦しむ民衆。——このままでは、王国は内側から崩壊する」
エドワルドは、振り返った。
「だが、君の言う通りだ。私には、『現場』が見えていなかった。美しい理念を並べれば、世界が変わると思っていた」
「……」
「湊聖司。君に依頼したい」
エドワルドは、聖司の前に立った。
「この憲法草案を、『実効性のある法』に書き換えてくれ。君の言う『牙』を、この法に与えてくれ」
聖司は、しばらく黙っていた。
昨夜の村の光景が、脳裏をよぎった。
燃える家。泣き叫ぶ村人。「あんたが余計なことをしたから」という、恨みの言葉。
あの悲劇を、二度と繰り返させない。
そのためなら——行政書士の職域を超えてでも、やるしかない。
「……条件がある」
「言え」
「報酬は、相場の三倍だ。それと、俺の書いた条文には、一字一句、手を加えるな。政治的な妥協で骨抜きにされるなら、最初からやらない」
エドワルドが、小さく笑った。
「……強気だな」
「当然だ。俺は昨日、自分の無力さを思い知らされた。その分の『利息』を、上乗せさせてもらう」
聖司は、ペンを取った。
魔王城で使い慣れた、万年筆。
「いいだろう。このポエムに——権力者を噛み殺すための『牙』を、書き加えてやる」
墨の騎士が、国家の設計図に向き合った。
第10話 完
次回予告
第11話「条文の戦争——または、抵抗勢力について」
「この条項は削除しろ。貴族院が承認しない」
「削除? この条項がなければ、憲法全体が骨抜きになる」
「政治とは、妥協の芸術だ」
「俺は芸術家じゃない。書類屋だ。妥協した書類に、俺の名前は入れない」
——憲法改正を阻止しようとする勢力が、動き出す。
聖司の「条文」と、権力者たちの「政治」が激突する。




