『私が見ていた、あの日の真実』
あの日のことは、今でも音から思い出す。
雨がアスファルトを叩く音。
濡れた靴が、歩くたびに吸いつく感じ。
心拍が、耳の奥でうるさくなる感覚。
帰り道を少し変えたのは、気分じゃない。
避けるためだ。
それでも、意味はなかった。
最初に見えたのは、人影だった。
視界の端。
街灯の下で、じっと立っている影。
「……まさか」
そう思った瞬間、心臓が沈んだ。
思い出したくもない顔。
何度も夢に出てきて、何度も私を起こした顔。
――海人。
体が、勝手に後ずさった。
その反応だけで、もう遅かった。
「花」
名前を呼ばれた。
懐かしい呼び方。
昔は、それだけで嬉しかった声。
今は、
刃物みたいに鋭かった。
「どうして……」
声が、うまく出なかった。
彼は、私の反応を見て傷ついた顔をした。
でもそれは、一瞬だった。
次に浮かんだのは、
理解できないものを見る目。
「そんな顔、するなよ」
距離が、縮まる。
「俺だぞ」
知ってる。
だから、怖い。
逃げようとした。
足に力が入らない。
視界が、狭くなる。
「来ないで」
やっと出た声は、情けないほど小さかった。
でも彼は、
それを拒絶だと理解しなかった。
「大丈夫だって」
彼の声は、やけに優しかった。
「話せば分かる」
――分かってほしかったのは、
もう話したくない、ということ。
ーーーーーーーーーー
気づいたら、周りに人が集まっていた。
誰かが大声を出して、
誰かが私の前に立って、
誰かが、彼の腕を掴んだ。
私は、その場に座り込んでいた。
体が、言うことを聞かなかった。
彼は叫んだ。必死に叫んでいた。
でも暴れはしなかった。
ただ、
その瞳は私だけを見ていた。
助けてくれる人たちがいるのに、
彼の視線だけが、私を縫い止める。
「違うんだ」
彼が言った。
誰に向けてかは、分からない。
「誤解だ」
その言葉で、私は確信した。
――この人は、
最後まで、私を見ていない。
ーーーーーーーーーー
事情聴取の部屋は、暖かかった。
ブランケットをかけられて、
温かい飲み物を渡されて、
「もう大丈夫ですよ」と言われた。
でも、体の震えは止まらなかった。
「彼は……」
警察の人が、慎重に言葉を選ぶ。
「以前から、あなたの周囲を徘徊していた可能性があります」
可能性じゃない。
私は知っていた。
視線。
気配。
偶然を装った一致。
全部、偶然じゃなかった。
「彼、泣いてましたよ」
そう聞かされたとき、
胸が少しだけ痛んだ。
ほんの一瞬。
でもすぐに、消えた。
泣きたいのは、私だ。
生活を壊されて、
安心を奪われて、
「優しさ」という言葉で、恐怖を上書きされた。
あの日は、「事件」になった。
ニュースの言葉は、冷たくて簡単だった。
「元交際相手による執着行為」
それだけ。
でも私にとっては、
終わらせるための、始まりだった。
彼はきっと、今も思っている。
「分かり合えなかった」
「誤解された」
「邪魔された」
でも真実は、ひとつだけ。
私は、
何度も、はっきりと離れた。
それを受け入れなかったのは、
彼のほうだ。
夜、鍵を二重にかけて、ベッドに入る。
まだ、夢を見る。
でも以前より、少しだけ違う。
夢の中で私は、
逃げない。
振り返って、はっきり言う。
「もう、終わりです」
彼は、そこに立ち尽くしたまま、動けない。
それが、
私が取り戻した、現実だ。




