4自我の崩壊
血の気が引いた。
それは知らない声、知らない光景、今までなかった変化。今このとき、何かに取り憑かれたような、不思議な感覚に奥歯がカタカタと震えた。
「……って感じで……、てメアリー?メアリー?」
現実に戻ってきたときにはメアリーの体は硬直してた。
何かを話していただろうランに申し訳なくなる一方で、メアリーは自分の身に起こっている全てが怖くて仕方がない恐怖に苛まされていた。
今の声は誰のものだろうか、そもそも何を示していたものなのだろうか、というか、あれは人の名前なのだろうか。
さまざまな疑問が頭をよぎってはメアリーの不安を大袈裟に煽った。
そしてその不安は伝染するようにランの心配する心を刺激する。
「ねぇ、メアリーなんども言って鬱陶しいかもしれないけど、先生に相談しようよ」
ランはメアリーの正面へとわざわざ移動してその両肩を掴んで真剣な瞳でそういう。
彼女の黄金の瞳がメアリーを写すのを見て、メアリーは一瞬ザザッと視界がぼやけるような感覚に襲われた。鏡のように写るランの黄金の瞳に知らない成人女性のような姿が見えたのだ。
華奢な女性だった。手入れの行き届いた黒髪を後ろで束ねて、見たこともないキトンではない服を着た女の人。
でもそれには見覚えがあった。知り合いではない。一方的にメアリーが知っているだけの人。
それは夢の中で死んでいる人であった。
「わっ」と声をあげてメアリーはランを押しのけた。
突然の出来事で、ランは反応が遅れてそのまま地面に尻餅をつく。「いたぁ」と声をあげるものの、視線の先にメアリーが両手で耳を塞いでカタカタと震える姿を見て、呆然と彼女の名前を呼ぶ。
「メアリー?」
メアリーはその声を聞いて恐れ慄くようにランをみた。
恐怖している目だ。メアリーは己の恐怖と不安を押し殺すために歯を食いしばって、それから崩壊した涙腺から流れる止めどない涙を無茶苦茶に拭う。
「どうしたのメアリー?」
「ごめんごめん」
「ねぇ、本当にどうしたの?」
うわごとのように謝るメアリーにランは訝しげにそう尋ねた。
一方でメアリーは吐き気とともに込み上がる不快感を抑えるのでいっぱいいっぱいであった。
自分の中で何かが暴れている。竜のような何かが、メアリーを飲み込まんと目をいっぱいに見開いてその日を待っているんだ。そんな出鱈目めいた妄想が、メアリーの頭の中を満たしていたのである。
「ねぇ、メアリー。私、怒ったり、拒絶したりしないよ。だからさ、教えてよ」
はっはっと声を出して呼吸するメアリーに、落ち着いた様子でランはその頬から顎に伝うメアリーの涙を指の腹で拭いながらそういった。
メアリーはその己に触れる腕に縋り付くように両腕を絡ませる。いうのが怖いという恐怖もある。拒絶されることの怖さもある。けれど今は、どうしても誰かに支えてほしかった。
己の名をたくさん呼んで欲しかった。
メアリーはランの背中に向かって腕を伸ばした。
胸に飛び込むように動くメアリーに何かを察したようにランは正面からメアリーを抱きしめる。
ランのキトンの肩口が涙で濡れるのも厭わない。離れることを拒絶するように固く抱きしめれば、メアリーはまるで堰き止められていた川が溢れるようにランに口火を切った。
「夢が、夢が見えるの!」
メアリーは震える手でランの背中を抱き寄せてそういう。
そう言って、それから止まる。言葉はそれ以上出てこない。
「夢が……夢を見るの……」
形のいい唇がそれ以上語ることを許さなかった。
だってそれは言っていい言葉ではなかったからだ。その言葉と共にこの関係が破綻すると知っていたから、だからメアリーは今まで打ち明けられることはなかったし、これからもそうなることはない。
だからこそ、言いかけてメアリーは後悔した。
続ける言葉を持っていないのにも関わらず口を開いてしまったことを、とってもとっても後悔したのだ。
「夢を……」
ランもおおよそ想像ついたのだろう。
メアリーが頑なにその後を言わないことから、今がその時ではないことを、なんとなく、本当になんとなく理解した。
「怖い夢を見るんだね」
だから曖昧にした。
曖昧な言葉でメアリーが答えやすいようにそう投げかけたのだ。
そして、抱きしめていた体を離してから、メアリーの目を見て「苦しい夢だった?」と問いを重ねた。
メアリーはやつれた顔でランを見る。まるで死んだ人間のように澱んだ瞳が、何も希望を携えることなく亡霊のような姿を見せる。
ふらっという擬音語が正しいように体を動かして、それから震える唇で「うん」と肯定した。
「苦しいね」
「うん」
「しんどいね」
「……うん」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「私も、オーガッシュ先生もいるから、大丈夫」
そう問答する間にメアリーの呼吸はだいぶ落ち着いてきた。
冷静さを取り戻してきたメアリーは己の行動を恥じるように頬を赤らめて、それから、しばらくして申し訳なさに顔を青ざめさせた。自分は一体何をしているのだろうか。一歳年下のランに縋って、涙をこぼして、それってとっても恥ずかしいことなのではないのか。
「ごめん、変なところ」
「いいよ、私が最初に言ったのが発端だと思うし」
ランの言葉にメアリーはなんとも答えられなかった。
フラッシュバックというものがランの言葉をきっかけになされたのか、たまたまこのタイミングだったのか測り損ねていたからだ。嘘はつきたくない。親友にそんなことを……しかも己を心配してくれるランにそんなことをしたくない。
だから言葉を呑み込んで沈黙を貫くことしかできなかった。
「変な空気にしてごめんね」
その代わり出てきたのは謝罪の言葉であった。
ランはその言葉に目を丸くする。それからあどけない表情で呆気にとられたかと思えば、すぐさま眉間に皺を寄せて怒って見せた。
「いちいち謝らないで、メアリーのそれは体調不良なんだから。しょうがないことなの」
しょうがないこと。口の中で転がしてそれを反復する。
苦しくって迷惑かけてしまうことも、怖くって迷惑かけてしまうことも、ランにとっては体調不良であって、そもそも迷惑だと思っていない。そのことを噛み締めるように咀嚼する。
口の中をモゴモゴとさせて噛みしめれば、噛み締めるほど、メアリーの心が楽になった。
胸から背中にかけて貫いたような虚しさも、まるで水を空の花瓶に注ぐように満たしてくれる。
そんなに優しくされたら困ってしまう。
そんなに優しくされたら勘違いしてしまう。
今抱えている悩みを打ち明けても拒絶しないでいてくれるだろう、なんて甘い考えが仄かに香ってメアリー自身を苦しめた。
「ね、もうちょっとここにいる?それとも、オーガッシュ先生のところに行く?」
「よいしょ」と言ってから立ち上がったランがメアリーを見据えてそういう。
彼女の赤髪が風に揺られて散らばって、光の輪を作る。そしてランは座り込むメアリーになんの躊躇もなく手を差し伸べた。その手を一度見てから、メアリーは己の掌をそこに重ねる。
そうすれば勢いよく引っ張られて、当然の如く無理やり立たされた。
「うわぁ!」と声が出る。
それにランが楽しそうに笑って、メアリーも釣られるように笑みを浮かべた。
「じゃあさ、あの変な木のある場所に行こうよ」
「いいね」
饒舌し難い感情を抱きながらもヒトは楽しさを感じられる。
メアリーは消化できないものを前に、それでもランと共にいることを楽したんだ。楽しむために、最近見かけた不思議な格好の木に向かうことを提案したのだ。
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