2自我の崩壊
「ねぇ、今日はシチューな気がするの」
「明らかに話逸らしたな」
「えー、もうメアリーの文句は聞き飽きたよ」
「加害者が被害者に文句言うのは斬新だね」
「ありがとう」
「褒めてないから」
軽口を言いながら、心地の良い風が肌を擽るのを感じる。
風が髪を遊ばせるが、それも気にならないと言うように二人は言い合いを続けた。しょうもない話であってもこれがメアリーにとっての日常だったし、何よりもメアリーを安心させてくれる空間であることを知っている。だから段々と台所に近づくにつれて、しょうもない言い合いが白熱していくのに身を委ねたのだ。
そうする方が楽だったし、それに文句は言いつつも、どこか楽しいと言う気持ちもあったのだから仕方がない。
メアリーたちが住む孤児院は木製で出来た大きな三階建ての屋敷だ。
南に面して建てられた家の窓や扉は黒く塗られた木材で縁取られて、周囲の木から採られた木材によって作られている外壁があり、色とりどりの小さな旗が屋根から地面へと伸びる紐を彩っていた。
吹き抜けの廊下がつなぐ場所は台所と先生の部屋があるのみの簡素な作りで、外遊びをしてきた腹を空かせる子どもたちがすぐに台所に行けるように、また、怪我をした子がすぐに先生の部屋に行けるようにという機能性も持っている。
メアリーにとっては天気を楽しむためのちょっとした場所。
なんて可愛らしい理由で気に入っている空間でもあるが、雨の日は決まって悲惨な目に遭うのだ。
普段は照らされた空間が程よく影を作っているが、雨の日になると決まって廊下のちょうど真ん中に小さな川を作って、履物をびしょびしょにするのだ。
オーガッシュ先生が編んでくれた麻で作られた靴が雨水を含んでダメになること数回目。
学習して裸足で入り怒られたしょっぱい思い出もある。
「でもシチューだったらバゲットがいいな」
「クロワッサンの方がいいじゃん」
「バゲットにかけて食べるのが美味しいんじゃん!」
だから何と言うわけではないが、案外この日常を心の底からメアリーは楽しんでいたのだ。
さて、クロワッサン派のメアリーとバゲット派のランの仁義ない戦いが始まろうとしたときだった。それは唐突に起こった。メアリーが一歩踏み出した。それだけで、まるで平衡感覚を失ったかのような気持ち悪さが脳を揺らす。
条件反射的に立ち止まったメアリーに訝しげに声をかけながら近づくランだが、メアリーの耳にはまるで水越しに聞くような不明瞭な声にしか聞こえなかった。
耳の奥でバンッと弾けるような音が聞こえた。
それは一切の予備動作や予感はなく、唐突に全てを切り裂くように耳に届く。
思わず体がびっくりする。肩が震えて、寒気が足の爪先から頭の中に向かって駆け出す。
白色の床が見える。
それから無機質な扉のようなものと、全体的に黒い青年。彼の顔は生憎逆光で見えなかったけど、でも確かに「自分の体を見てみろ」そう言ってくるような表情をしていた。
顔が見えないのに、おかしな話だ。でも確かにメアリーは彼がそう言っているように見えた。だからゆっくりと視線を動かして自分の体を見てみた。
そこにあったのは脈打つ心臓の感触とそこから溢れる命のかけらたち。
ああ、私は死んだんだ。そう自覚するには十分な情報が視界に入ったのだ。
メアリーはもう一度、青年に視線を移す。
君の言う通り、私は死んでいたよ。そう言うつもりで開けたくちは既に開いていて、舌根は乾き切っていた。だらんと口から舌が垂れているんだ。そう思ったときには、メアリーの息は細かく切れていた。
恐ろしいと言う感情と、死に対する絶望が死神の形をして目の前にいるような気がしたのだ。
びくりと体が震える。
その頃にはメアリーの涙腺は崩壊しており、滴った涙が地面に水たまりを作ろうとするくらい溢れていた。
けれど実際は、メアリーは泣いてない。
このからだはわたし。
わたしというからだ。
これがわたしのきおくで。
わたしはわたしになる。
わたしはわたしのきおくからはいでて、
わたしはあなたのかわりにいきたい。
「メアリー……メアリー!」
メアリーは自分を呼ぶ声に現実へと引き戻されていた。
背中はぐっしょりと冷や汗で濡れており、ヒューと吹く風が心なしか寒く、思わず唇が戦慄いた。いや、それだけではない。確かに寒さによるものでもあったかもしれないが、本当のところは自分が自分でないような感覚がして恐れたのだ。何かが自分の中にいる。そうメアリーが思ってしまうくらいには、その記憶は恐ろしいものであった。
ランはそんな恐怖に硬直するメアリーの背中を片手で支えて、それから空いている右手でメアリーの右肩に触れている。
転倒しないようにそうしてくれていたのだと気がついたのは、メアリーの意識が現実に完全に戻ってからだった。メアリーは額から顎に向かって垂れる汗を誤魔化すように片手で拭ってから「もう、大丈夫」なんて心にもないことを口にした。
「ビョウキ?先生に見てもらう?」
「ちょっとくらっとしただけ、多分立ちくらみとかだと思うから」
「信じるよ……?本当にダメだったら先生に言うんだよ?」
「もう子どもじゃないからわかってるって」
メアリーはそう言ってランから離れる。
明確な拒絶だった。それはランでもわかる程度には、だからこそことの問題を大きく捉えたランは訝しげにそう言ったのだ。
ランのいうべきはメアリーにも理解できている。けれど、それをできない理由がメアリーの中に重くのしかかっていたのだ。
突拍子もない話をされたとき、大人はしっかりと話を聞いてくれるのだろうか。
もしメアリー自身が聴く側だったら、ただの嘘だと疑いの目を向けずに聴くことができるのだろうか。
オーガッシュ先生は優しい先生だ。
それはメアリーも知っているし、優しくって厳しくって、でも見守ってくれるあったかい人だから、メアリーはオーガッシュ先生が大好きであった。だからこそ口にするのは憚れた。それを言ってもし、オーガッシュ先生にただの妄言だと言われたら、もう救いはないと思っていたから、どこにも誰にも頼れなくなると思ったから、だから言えずにいた。
言ったら何かしらの関係性が崩れるような気がしたから、尚更口にはできなかった。
例えば、ランが相談相手だったら、そう考える。
言えるのだろうか、言葉にすることができるのだろうか、十五年間共にいた幼馴染兼親友に少しだけでも不振がられるような表情をされたら、メアリーはきっと立ち上がることが出来ないと思っていた。
言うなれば、メアリーは自分が拒絶され、孤立する未来しか見えてなかったのだ。
受け入れられ受け止めてもらえる未来が見れなかったのだ。
メアリーの冷え切った手をランが両手で包む。
彼女の暖かな温度が、手を伝ってメアリーの中で生きているような気もした。命を分け与えられているような、そんな儀式にも感じれた。
「ね、メアリー。シチューだったらさ、嫌いなもの交換しない?」
「……うん、ありだね」
少しだけ余裕ができたメアリーがそういえば、ランは包んでいた片手を離し、仲良く手を繋いで歩き始める。
もうそんな歳ではない。年長と言われるくらいには育っているのに、そんな理性的な考えは安堵という本能によって押しつぶされる。
「私、吐くほどほうれん草が嫌いだから交換しよう」
「じゃあ、ジャガイモあげるね」
「え、意外。ジャガイモ普通に食べてなかった?」
「好き好んで食べないレベルの嫌い」
私はまだ日常にいる。
その事実が何よりも嬉しくて、何よりも恐ろしくもあった。
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