9黄金の街
びっしょりとした汗が背中を汚す。
震える指先が、カタカタと音を鳴らす歯が、いやでもメアリーに「恐怖している」ことを自覚させる。
先ほど見た記憶のカケラ。それに何を思っていたのか、何に対して悲鳴をあげたのかすら思い出せない。思い出せないが、それが良くないことだとはなんとなく理解ができた。
鶯鳴は何をしようとしていたのだろうか。
メアリーは額に伝い、顎からこぼれ落ちる汗を拭いながらそんなことを考える。
そもそもの話、鶯鳴の感情とメアリーの感情は別々にあった。鶯鳴は好奇心と興奮そしてメアリーはそれに対する恐怖。相反する感情を前に今ここでもう一度考えたい。
鶯鳴とメアリーは同一の存在なのだろうか。
別に哲学的な思考実験ではない。
ただ単に同一人物であるのなら感じない感情を持っていることが不思議で堪らないからだ。最初の頃は確かそのように鶯鳴の記憶とリンクするような感情が生まれていた。だが今になってどうだ。そう言った物はめっきりなくなり、残ったのは鶯鳴に対する異物感。
本当に鶯鳴とメアリーは魂を同じにする生き物なのか、
本当に鶯鳴はメアリーの前世なのか、
本当にメアリーは鶯鳴の今世なのか、
セウズ神よ。
本当にあなたが神なのならば、この疑問に答えてくれないだろうか。
私は誰でこの体は誰のもので、この記憶は何に帰属するのか、メアリー・パートリッジという少女は何になれ果てたのか。
私は一体誰で、何が本当なのか、真実はどこにあるのか、どうすれば手に入るのか、誰かに教えて欲しい。
どうしようもない罪悪感もこの苦痛も全て許されるのか、罰を与えられれば苦しまずに済むのか、誰でもいいから答えを知りたかった。
だが現実的に考えてこんな果てのない悩みを、現実感もない悩みを打ち解けれるヒトはいるのだろうか。
教育レベルが低く、娯楽もない世界で、このメアリーの悩みをしっかりと理解してくれるヒトはいるのだろうか。
いや、そもそも、誰かに相談して良いことなのだろうか。
きっとアリオストロもローランドもへロスだって拒絶はしないだろう。なんやかんや言って理解してくれようとするだろうことはわかる。だがもしその相談をして今の関係性を崩したら?誰にも相談できないことを仲間ならと思い相談して、拒絶されたら?
その時メアリーはどうしていいのかわからなくなった。
足元が崩れるような、真っ暗闇に放り投げられたような、どうしようもない消失感が胸を襲う。
仲間に相談したとしてどうなる。
相談して拒絶されたらどうなる。
今更メアリーを迎えてくれる家はない。
ここが最後のメアリーの居場所なんだ。
だから壊せることなんてできなかった。壊してしまうことを恐怖してしまった。
あとちょっとの勇気が出せずにメアリーは進むコロシアムの戦況をよそに考え続けてしまう。
それはあの陽だまりのような記憶。
ランとオーガッシュ先生がいて、それから年少の子どもたちがいた記憶。パンを頬張り、野を駆けて、秘密基地を共有して、ただ何も知らずに生きていた頃の思い出。そして、鶯鳴の記憶を取り戻し、いや、得たことで手放したメアリーの何よりも大事だった物たち。
なんであの日何も言わずに出て行ったのか理解できない。
止められると思ったから?いいや違う。
メアリーはあの時、全ての人間関係を面倒くさいと遮断して、そして自分本位に考えることが当たり前だと思っていた。
当然な顔をして、捨ててはならないものを捨ててしまったのだ。
私は誰。
この考えは誰のもの。
この体は誰のもので、
この記憶は、この経験は誰が持つべきものなのか。
視線を落として両手を見る。
タコのできた手、旅路の中で得た傷。痛み、苦しみ、悲しみ、喜び。それらが今になって波のように押し寄せては引いていく。
この旅での出会いに後悔をしたことはない。
アリオストロと戯れあったことも、ローランドの話を聞くことも、へロスの勇姿を見ることも、全てが全て悪いことばかりではなかった。思い返せば楽しかった記憶はたくさん出てくる。
そしてそれに引っ張られるように痛みと罪悪感が顔出す。
理由は知っている。
オーガッシュ孤児院を勝手に抜け出したことだ。
それならば、メアリーはコロシアムに熱中するアリオストロとローランドを呼ぶ。
そうすればアリオストロとローランドは不思議そうな顔でメアリーを見た。どう言えばいいか、一瞬の迷いはけれどもすぐに解消される。うまく言わなくてもいい。今更アリオストロに向けた言葉が自分に返ってきたような気がした。
「リトスでの色々が終わったら北の街ポスに戻らない?」
「何かありましたか?」
「いや、ただ育ての親に挨拶しないとなって」
「なんだ抜け出してきたのか?」
そう言ったアリオストロは、メアリーの視線が外れたのを見てそれが冗談ではなく現実的に行ったことであることを察した。察して顔をみるみる青白く染め上げて「やばくね?」と言う。
メアリーの育ての親がどういうヒトかはアリオストロは知らない。
それどころか今まで一言もメアリーの口から出たことがなかったから、その人物像は曖昧だった。
だがメアリーの親だ。
この突拍子もなく悪知恵の働く腹黒いメアリーの親。それだけで気が遠のく。これを育てたというだけでアリオストロには怪物に、いや魔王に見えた。間違えなくメアリーの上を行くヒトだろう。気づけば溜まった唾を大きく呑み込む。その様子にメアリーは呆れたような顔をして「いや、普通の人だよ」と言った。
言ってからなんだかおかしな気分になった。
普通とは、一般的なことだろう。
ならばオーガッシュは一般的ではないから普通に収まらないかもしれない。鶯鳴の時代のような価値観を持った、今思えば不思議なヒト。たくさんの本を所有し、十人以上の子どもたちを育て、教育し、医術を使っていたヒト。今更だがスリーアウトだ。時代が時代なら極悪人と呼ばれても仕方がない。
でもメアリーにとっては良いヒトだった。
それはへロスに向ける感情と違う。本当の親のように慕っていた、大人の見本のようなヒト。
もしかしたらへロスの師匠と気が合うかもしれない。
そんなことを考えながら「やっぱり普通じゃないかも」といえば、見当違いに受け取ったアリオストロが震える。
「会ったら殺されない?ちゃんと説明して出たんだよな?」
「大丈夫。ちゃんと説明してないし、予兆もなく出て行ったけどきっと許してくれる」
「俺時々お前のことがよくわからなくなるんだ」
「あはは、ええっと寛大な方……なのでしょうか?」
アリオストロの真顔に対して笑って誤魔化したローランドがそう聞く。
それに「うん」と頷く。寛大である。メアリーが結局言えなかった与太話のような神の声の話でもオーガッシュ先生は優しく聞いていた。あれを見て興味を無くした当時だが、今の精神的な環境があれば鶯鳴の話をしたかもしれない。
自分のようで自分じゃなきゃいいなと思う故人の話。
それを話すことも会ったらできるだろうか。
いやまず、消えたメアリーのことを怒ってくれるだろうか。
「優しい先生だよ。色々教えてくれた」
「尚更なんで勝手に出て行ったんだよ」
アリオストロの言葉にメアリーは思わず「それなー」と口にする。
そうすれば他人事のように答えたメアリーにアリオストロは「やっぱりお前はおかしいよ」と言った。
その言葉に安堵する自分がメアリーにはいた。
やっぱり自分はおかしいんだ。
その言葉が一時的な救いに見えた。
「まぁまぁ、私は北の街に行くことに反対はないですよ」
「まぁ……俺もないかな」
「じゃあ、これが終わったらへロスにも聞こう」
攻防が続くコロシアムの会場との温度差を感じながらメアリーはそう曖昧に笑った。




