あれは貴女の婚約者ですか? いいえ、あれは下駄箱です
「この方がパウル様のご婚約者様? なんと言うか……ねぇ?」
クスクスと笑いながら妖艶な笑みを浮かべ、人様の婚約者にしなだれかかる赤い髪の女子生徒は、エレナ・バイエルン男爵令嬢。
豊満な体つきと、とても十七歳の同級生には見えない色気で学園では有名である。
「あまり言わないでやってくれ、エレナ。クラウディアがエレナに勝てるところは、家柄だけなんだから」
クラウディアの婚約者であるパウルはエレナの腰を抱き、赤い髪に唇を落とす。
その光景に、クラウディア・ケスラー侯爵令嬢は目を見張る。余りにも屈辱で、声が震えそうになるのを必死に抑えた。
「私以外の女生徒と度を超えて親密にされている……パウル様は学園中で噂になっているのです。このままでは、パウル様はもちろん、いずれ婿に入られる我が侯爵家にも傷が付きます」
絞り出すようなクラウディアの声に、二人は顔を見合わせ、吹き出すように笑った。
「婚約って言ったって、家同士の約束だろう? 不本意だが、卒業したら俺はクラウディアと結婚しなければならない。学園にいる間くらい、心から愛しているエレナと過ごしていても良いだろう?」
「あら、パウル様。在学中だけですの? 私、第二夫人でも愛人でもよろしくてよ」
クラウディアは、人気のない図書室から飛び出した。
初めて受けた屈辱に、耐えられなかったのである。
背後からは二人の笑い声が聞こえる。
なぜ? どうして私がこんな目に……。
クラウディアは涙を堪えきれなかった。
幸い、他の生徒は皆下校していた。クラウディアは、誰にも泣き顔を見られることなく、侯爵家の馬車に乗ることができた。
馬車の中でクラウディアは考えた。
ケスラー侯爵家の一人娘。とても大事に、しかし厳しく育てられたクラウディア。パウルと侯爵家を継ぐことだけを考えて、一生懸命勉強してきた。
パウルと婚約を結んでニ年。
パウルはレイフシュナイザー伯爵家の次男。クラウディアの父とレイフシュナイザー伯爵は、趣味のアンティーク家具を通じて親交を深め、それが縁となった。
親が決めた婚約であろうと夫婦になるのだからと、クラウディアはその縁を大切にして過ごしてきたつもりだった。
馬車はクラウディアの住むケスラー侯爵家に到着した。
クラウディアが力なく侯爵邸に入る。
が、思わず足が止まってしまった。
見開いたクラウディアの目線の先の玄関ホールには、趣味の悪い下駄箱らしき家具を磨いている父の姿があった。
「おおー、帰ったか。愛しの我が娘!」
ケスラー侯爵は、クラウディアに走り寄り抱きしめると頬にキスをした。
しかし、当のクラウディアは下駄箱らしき家具に目が釘付けだった。
なぜなら、パウルとの出来事を忘れるぐらい、それはそれは悪趣味な下駄箱なのだ。こんなもの、生まれて初めて見る。
「た、ただいま帰りました、お父様。何ですの、この下駄箱みたいな悪趣味……個性的な家具は」
下駄箱らしき家具に触れられて、ケスラー侯爵は嬉しそうに笑い出した。
「そうだろう! この趣味の悪い下駄箱らしき家具は、紛れもない下駄箱なんだよ」
侯爵は、満足そうに下駄箱を撫でる。
「仕事の合間に蚤の市を覗いたら、こんなものがあってね。ここ三十年は目にしたことがない程の趣味の悪さだ! レイフシュナイザー伯爵に見せたくて買ってしまったんだよ。はっはっは!」
豪快に笑う父の言ったレイフシュナイザーという家名を聞いて、クラウディアは忘れていたパウルのことを思い出した。
気を抜くと涙が出そうになる。クラウディアは挨拶もそこそこに父と別れて、自室に入った。
そして、クラウディアは体調を崩した。
浮気どころか、パウルが最初からクラウディアなど大切にしていなかったという事実に、クラウディアは自分には存在価値などないと思い込んだ。
それにクラウディアは、良い意味でも悪い意味でも貴族令嬢らしい性格。自分より家格が下の男爵令嬢に馬鹿にされたことにも耐えられなかった。
熱まで出し、食べても吐いてしまうクラウディアに、父も母も侍女たちも心配した。しかし、パウルとエレナにされたことなんて、とても恥ずかしくて言えない。言えないのでストレスは溜まる一方……
そんな悪循環が続き、熱が下がらず食べられず、さらに眠れないクラウディアの体力は限界に近づいていた。
その日の深夜も、クラウディアはぐったりとベッドに横たわっていた。
朦朧とする意識の中で、答えの出ないことを繰り返し考える。どうして自分がこんなことになったのかと。
しかしこの日。クラウディアはふと、父が買ってきた趣味の悪い下駄箱のことを思い出した。
そういえば、あの下駄箱を見た時はパウルのことを忘れていたな……と。
ベッドから顔だけ動かして窓を見る。窓からは月が綺麗に見える。
ぼんやりと月を眺めながら、クラウディアは考えた。そして、ひとつの答えが出た。
__見たくないものは見なければいい。それでも視界に入ってしまったら、認識しなければいい。たったそれだけのこと。簡単。侯爵令嬢としての勉強より簡単なこと……。
心からそう思えた時、まるで憑き物が落ちたように気持ちが軽くなった。
なぁんだ、そんな簡単なことだったんだ。
そしてクラウディアは、一週間ぶりにぐっすりと眠ることができた。
それからのクラウディアは、よく食べよく笑い、そしてよく眠るようになった。両親も侍女たちも、ほっと胸を撫で下ろした。
パウルとエレナと話したあの日から十日後。クラウディアは、やっと登校できるようになった。
クラウディアは今まで通り、いや、今まで以上に学園生活を謳歌した。
時々、男性の怒ったような声や、女性のキーキーした声で名前を呼ばれるような気がしたが、振り返っても該当する人物がいない。不思議な出来事を気味悪く思ったクラウディアだったが、きっと気まぐれな妖精に揶揄われたのね、と納得してからはまったく気にならなくなった。
半年が経ったある日。
最近仲が良くなったクララ・コップ侯爵令嬢が、隣を歩いているクラウディアの袖を引っ張った。
「クラウディア様。貴女が何も言わないから、今まで聞かなかったのですが……」
クラウディアは何のことだかわからず、小首を傾げた。
「あそこで破廉恥にくっついているカップルの男性の方。あれは貴女の婚約者ですか?」
クラウディアは、クララの目線を追う。
しかしその目線の先には、いつぞや父が玄関ホールで大切に磨いていた、あの趣味の悪い下駄箱があるだけだ。
「いいえ、あれは下駄箱です」
クララは目を見張り、絶句した。
一方、クラウディアはクララがなぜ、下駄箱を婚約者と言ったのか理解できないでいた。
クララは半年前に同じクラスになったが、いつも成績は上位で級友からの信頼も厚い。そんな人が、下駄箱と婚約者を間違えることなどあるのだろうか? 視力もクラウディアより良いはずだ。
そうか、とクラウディアは閃いた。クララはきっと冗談を言っている。真面目で固いクラウディアを、笑わせようとしてくれているのだ。
本当になんて良い人なのかしらと、クラウディアは胸が熱くなった。
「うふふ。クララ様といると本当に楽しいですわ。でも、残念ながらあれは下駄箱です。とても趣味の悪い。ついでに、あの下駄箱の隣にあるのは、赤いピンヒールですわ。同じく、とても趣味の悪い」
心から楽しそうに笑うクラウディアを、クララはじっと見つめていた。が、何か納得したように頷くと、クラウディアの腕に自分の腕を絡めた。
「あちらが図書室への近道ですわ。ところで、クラウディア様は、趣味の悪い下駄箱が近くにあったらどうなさいますか?」
クラウディアは、クララの隣でドキドキしていた。令嬢同士が腕を絡ませて歩くのは、本当に仲の良い親友同士の行いで、クララに親友と思って貰えたことが嬉しかったのだ。
胸の音が聞こえぬよう平静を装って、クラウディアはゆっくりと答えた。
「そうですわね。趣味に合わない下駄箱なら捨ててしまうか、欲しい方に差し上げますわ」
クラウディアの答えを聞いて目を細めたクララは、下駄箱の方をチラリと見てから、またクラウディアと楽しそうに歩き出した。
「一体、どういうことだ、クラウディア!」
その日学園から帰ると、父であるケスラー侯爵にすぐ応接室まで来るように告げられた。そして怒鳴られた。
応接室には父と母が並んで座り、向かいのソファーには父の友人であるレイフシュナイザー伯爵が座っていた。
伯爵の隣には、何故かあの趣味の悪い下駄箱がどすんと鎮座している。
ソファーに下駄箱……そんなにレイフシュナイザー伯爵はこの趣味の悪い下駄箱を気に入ったのかしら?
面食らって動けないクラウディアに、父はまた大きな声を出した。
「お前は半年もの間、婚約者であるパウル・レイフシュナイザー伯爵令息のことを無視していたらしいが、それは本当か?!」
クラウディアは目をぱちくりした。パウル……そんな人もいたわね。そう言えばパウル様にはここ半年は会ってないし、お見かけもしていない。
「そう言えば、パウル様はお元気なのですか? 学園でも全く会わなくて。お体でも?」
のほほんと答えるクラウディアに、父もレイフシュナイザー伯爵もギョッとした。
『お、お前、何を言っているんだ』
どこからか、父とも伯爵とも違う声がする。応接室をぐるりと見渡しても、そんな声を出しそうな人物などいない。
また妖精の悪戯ね、そう思っていると父がとんでもないことを叫んだのだ。
「何を言っているんだ、クラウディア! お前の婚約者はそこにいるだろう!」
マナーを完全に無視した父が指を差した先は、なんとあの趣味の悪い下駄箱だった。
先ほどから父は何を怒っているのだろう。急に呼び出されて来てみればいきなり怒鳴るし、あろうことか趣味の悪い下駄箱を婚約者などと言い出す。
首を傾げていたクラウディアは、はっとした。
父もレイフシュナイザー伯爵も、無類の家具マニアだ。さらに父は一人娘であるクラウディアを日頃から溺愛している。
まさか下駄箱と結婚させて、クラウディアを一生、下駄箱に閉じ込め外に出さないつもりなのか。
いや、あり得る。娘はどこにもやらん、が口癖だった父なら十分あり得る。
このままでは、箱入り娘ならぬ「下駄箱入り娘」だ。
クラウディアはローテーブルをバンっと力一杯叩いた。
「お父様、酷いっ! いくら私が可愛いからって、そんな趣味の悪いものと婚約させるだなんてっ! そんな趣味の悪いものと結婚したなんて皆に知られたら、私は生きていけません!」
いつも穏やかなクラウディアが激昂したことと、その言葉の内容に、応接室は驚き静まり返った。
『しゅ……趣味が悪い?』
また、どこからか声がする。しかし、今のクラウディアは妖精の有無などどうでもいい話であって、何がなんでも趣味の悪い下駄箱との婚約を阻止しなければならないのだ。
「ええ。好む人もいるかもしれませんが、私にはとても趣味が悪く思えます。気持ちが悪いです。不快です」
クラウディアははっきりと言い切った。応接室がしばらくの沈黙に包まれた後、また声がした。
『お、お前は俺をなんだと思っているんだ!』
「便利だろうけど、私には必要ありません」
うちの屋敷には下駄箱はない。そもそも、貴族の屋敷には下駄箱がない。クラウディアの靴は衣装部屋にある大きなクローゼットに仕舞われている。あれば便利だろうが、私には、この屋敷には必要がない。
『必要ないだと?!』
「ええ。しかも小さいですし」
『小さい?! 俺が?! 身長は高い方だが……あ、あれか、人としての器が小さいってことか?!』
「中身も空っぽ」
他人様に小さな下駄箱をプレゼントするなら、その人に似合う靴を何足か入れておくのが粋だと、クラウディアは考えていた。落ち着いたらお父様に進言してみよう、とクラウディアはひとり頷く。
いつの間にか妖精の声はしなくなり、今度は鼻をすする音が聞こえてくる。
妖精さん、泣いているのかしら? とクラウディアが思った時、慌てる執事の声と共に、応接室のドアが乱暴に開けられた。
『ここにいたのね、パウル様っ!』
クラウディアが振り返ると、おろおろしている執事が1人で立っていた。
確か女性の声がしたような……あ、今度は女型の妖精ね。
納得したクラウディアの隣を何かがすり抜けた。
クラウディアが目を凝らすと、そこには趣味の悪い赤いピンヒールがあり、ピンヒールはまっすぐに趣味の悪い下駄箱へと駆けていく。
そしてピタリと、趣味の悪い下駄箱にくっついた。
クラウディアは驚きのあまり、動けなくなった。
まるで雷に打たれたかのような衝撃が体中に走ったのである。
あの趣味の悪い下駄箱に、あの趣味の悪い赤いピンヒールが並ぶと、あんなにお似合いだとは……。
お互いの悪いところを高め合い、そして見るものに衝撃を与える気色の悪さ。嫌悪感と怖いもの見たさのコントラストは、まさに神の采配。
「素晴らしい! お似合いだわ!」
思わず手を叩き、1人スタンディングオベーションするクラウディア。
応接室には、素晴らしい素晴らしいと涙を流すクラウディアの、手を叩く音だけが長い時間響いていた。
「実のところ、パウル殿の女性関係の噂は耳にしていたよ。クラウディアが何も言わないので黙っていたが、ここまで嫌っていたとは」
父ががっくりと肩を落とす。
パウルの父であるレイフシュナイザー伯爵も項垂れた。
「愚息は、クラウディア嬢と婚約して侯爵家を継ぐと決まったら、きっと真面目になるものだと信じていたが……間違いだったようだ。すまなかった、クラウディア嬢」
詳細は後日話し合うと言ったレイフシュナイザー伯爵は、趣味の悪い下駄箱を引き摺るようにして応接室を出て行った。
ずっと、『婚約は破棄しない! エレナとは遊びだ! 侯爵家に婿入りするんだ! 』と妖精の悲痛な叫び声が聞こえていたが、クラウディアにはもうどうでも良かった。
趣味の悪い赤いピンヒールも慌てるように、趣味の悪い下駄箱の後を追いかけた。
「ってことがあったのよ。不思議でしょう?」
学園の昼休み。中庭のベンチに座りサンドウィッチを摘んでいるクララに、クラウディアは楽しそうに語った。
「きっと、あれね。自己暗示っていうものを、クラウディアは自分に掛けたのね、ふふふ」
「笑いごとじゃないわよ、クララ。寝込んだ一週間は、本当に辛かったんだから」
ぷーっと頬を膨らませるクラウディアはとても可愛いらしい。周りの男子生徒がその様子に顔を赤らめているのに気づいているのかしら、とクララは思う。
「あれは貴女の婚約者かと聞いた時に、クラウディアは、あれは下駄箱ですって答えたでしょう? その時に、ああ、この人はそうやって物事を飲み込むんだと思って興味が湧いたの。だけど、あなたは想像の斜め上を行ってたのね」
クララは思い出し笑いをする。二人はキャッキャううふとランチを続けた。
その遥か遠くでは、趣味の悪い下駄箱が庭中を逃げ回るように走っている。そして、趣味の悪い赤いピンヒールが、カンカンという耳障りな音を響かせて、それを追いかけ回していた。
お読みいただき、ありがとうございます。
英語の時間に最初に習う「あれはマイクですか」「いいえ、あれはナンシーです」みたいな感じで読んで頂けた方もそうでない方も、ぜひブックマークや評価をよろしくお願いします。
ご感想もありがとうございます!
お返事出来ない場合も多々ありますが、全てに目を通して参考にしています。




