あれは貴女の婚約者ですか? いいえ、あれは下駄箱です
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4月28日、少し加筆修正しました。
「この方がパウル様のご婚約者様? なんと言うか……ねぇ?」
クスクス笑いながら妖艶な笑みを浮かべ、人様の婚約者にしなだれかかる赤い髪の女子生徒は、エレナ・バイエルン男爵令嬢。
豊満な肉体と、とても17歳の同級生には見えない色気で学園では有名である。
「あまり言わないでやってくれ、エレナ。クラウディアがエレナに勝てるところは、家柄だけなんだから」
クラウディアの婚約者であるパウルはエレナの腰を抱き、赤い髪に唇を落とす。
その光景を見てクラウディア・ケスラー侯爵令嬢は大きく息を吐いた。余りにもの屈辱に震える声を必死に抑えて言った。
「パウル様が婚約者である私以外の女生徒と度を超えて親密にされている、と学園中で噂になっているのです。このままではパウル様はもちろん、いずれ婿に入られる我が侯爵家にも傷が付きます」
それを聞いたパウルとエレナは顔を見合わせ、そして更に大きく笑い出した。
「婚約って言ったって、家同士の約束だろう? 不本意だが卒業後、俺はクラウディアと結婚しなければならないんだ。学園にいる間は、心から愛しているエレナと過ごしていても良いだろう?」
「あら、パウル様。在学中だけですの? 私、第二夫人でも愛人でもよろしくてよ」
クラウディアは、二人を呼び出した人気の無い図書室から飛び出した。
初めて受ける屈辱に、耐えられなかったのである。
後ろからは二人の笑い声が聞こえる。
なぜ? なぜ私がこんな目にあわないといけないのだろう。馬車留めまで急ぐクラウディアは涙を堪えきれなかった。
幸い他の生徒は皆下校していたため、泣き顔を見られること無く侯爵家の馬車に乗り込むことができた。
馬車の中でクラウディアは考えた。
ケスラー侯爵家の一人娘として大事に、しかし厳しく育てられたクラウディア。いずれ婚約者のパウルと侯爵家を継ぐことだけを考えて勉強してきた。
パウルと婚約を結んで2年。パウルはレイフシュナイザー伯爵家の次男で、クラウディアの父とレイフシュナイザー伯爵がアンティーク家具が趣味ということで友好があり結ばれた婚約。
親が決めた婚約であろうとせっかく縁があって夫婦になるのだからと、クラウディアはその縁を大事に過ごしてきたつもりだった。
馬車はクラウディアの住むケスラー侯爵家に着いた。
クラウディアが力無い足取りで侯爵邸に入ると、玄関ホールにて趣味の悪い下駄箱らしき家具を磨いている父の姿が目に入った。
「おおー。帰ったか、愛しの我が娘!」
ケスラー侯爵は、クラウディアに走り寄り抱きしめると頬にキスをした。
しかし、当のクラウディアは下駄箱らしい家具に目が釘付けになっていた。何故なら、パウルとの出来事を忘れるぐらいの悪趣味な下駄箱なのである。こんなもの生まれて初めて見た。
「た、ただいま帰りました、お父様。なんですの、この下駄箱みたいな悪趣味……個性的な家具は」
下駄箱らしき家具に触れられて、ケスラー侯爵は豪快に笑い出した。
「そうだろう、そうだろう! この趣味の悪い下駄箱らしい家具は、確かに下駄箱なんだよ。仕事の移動中に蚤の市を覗いたら、こんな趣味の悪い家具があってね。ここ30年見たことのない程の趣味の悪さに、どうしてもレイフシュナイザー伯爵に見せてあげたくって買ってしまったんだよ。はっはっは!」
豪快に笑う父の言ったレイフシュナイザーという家名を聞いて、クラウディアは忘れていたパウルのことを思い出した。
気を抜くと涙が出そうになる。クラウディアは挨拶もそこそこに父と別れて、自室に入った。
それからクラウディアは体調を崩した。
浮気どころか、最初からパウルがクラウディアを大切に思っていなかったという事実は、クラウディアに存在価値は無いと思わせる程の屈辱だった。
良い意味でも悪い意味でも貴族令嬢らしい性格のクラウディアは、自分より家格が下の男爵令嬢に馬鹿にされたのも耐えられなかった。
熱まで出し、食べても吐いてしまうクラウディアに父も母も侍女達も心配したが、パウルとエレナにされたことなんて恥ずかしくてとても言えない。言えないので更にストレスが溜まる……
そんな悪循環の中、熱が下がらず食べられず、更に眠れないクラウディアの体力は限界に近づいていた。
その日の深夜も力無くベッドに横たわるクラウディアは朦朧とする意識の中で、何度も繰り返し考えては答えの出ないことを思っていた。
なぜ自分がこんな目に遭わないといけないのかと。
しかし、この日のクラウディアはふと、父が買ってきた趣味の悪い下駄箱のことを思い出した。
そういえば、あの下駄箱を見た時はパウルのことを忘れていたな……と。
ベッドから顔だけ動かして窓を見る。窓からは月が綺麗に見える。
それを見ながらクラウディアは考えた。
見たくないものは見なければいい。それでも視界に入ってしまったら、認識しなければいい。たったそれだけのこと。簡単。侯爵令嬢としての勉強より簡単なこと……
心からそう思えたら、まるで憑き物が落ちたように気持ちが軽くなった。
なーんだ、そんな簡単なことだったんだ。
クラウディアはその夜、1週間ぶりにぐっすり眠ることができた。
次の日からクラウディアはよく食べよく笑い、そしてよく眠るようになり、両親も使用人達も胸を撫で下ろした。
パウルとエレナと話してから10日後、クラウディアは登校した。
クラウディアは今まで通り、いや、今まで以上に学園生活を満喫していた。時々男性の怒ったような声や女性のキーキーする声で名前を呼ばれたような気がしたが、振り返っても該当する人物がいないことがあった。
しばらくは気にかけていたが、きっと気まぐれな妖精に揶揄われたのね、と納得してからは気にならなくなった。
半年がたったある日。
最近仲が良くなったクララ・コップ侯爵令嬢が、隣を歩いているクラウディアの袖を引っ張った。
「クラウディア様。貴女が何も言わないから、今まで聞かなかったのですが……」
クラウディアは何のことを言われたのか分からず、小首を傾げた。
「あそこで破廉恥にくっついているカップルの男性の方。あれは貴女の婚約者ですか?」
クラウディアはクララの目線を追う。
しかしその目線の先には、いつぞや父が玄関ホールで大事に磨いていた、あの趣味の悪い下駄箱があるだけだ。
「いいえ、あれは下駄箱です」
クラウディアはクララが何故、下駄箱を婚約者と言ったのか分からない。
クララは半年前に同じクラスになったが、いつも成績は上位で級友からの信頼も厚い。そんな人が、下駄箱と婚約者という人間を間違えるなどあるのだろうか? 視力もクラウディアより良いはずだ。
そうか、クララは冗談を言って真面目で固いクラウディアを笑わせようとしてくれているのか。
本当になんて良い方なの、とクラウディアは胸が熱くなった。
「ふふふ。クララ様といると本当に楽しいですわ。残念ながらあれは下駄箱です。趣味の悪い。ついでに下駄箱の隣にあるのは、趣味の悪い赤いピンヒールですわ」
心から楽しそうに笑うクラウディアをクララはじーっと見つめていたが、何かに納得した顔になりクラウディアの腕に自分の腕を絡めた。
「あちらが図書室への近道ですわ。ところでクラウディア様は趣味の悪い下駄箱が自室にあったらどうなさいますか?」
クラウディアはクララと歩きながらドキドキした。令嬢同士が腕を絡ませて歩くのは、本当に仲の良い親友がする行いで、クララに親友と思って貰えたことが嬉しかったのだ。
「そうですわね。私の趣味に合わない下駄箱なら捨ててしまうか、欲しい方に差し上げますわ」
クラウディアの答えに納得したように頷いたクララは、下駄箱の方をチラリと見てから、またクラウディアとキャッキャうふふと歩き出した。
「一体、どういうことだ、クラウディア!」
その日学園から帰ると、父であるケスラー侯爵にすぐ応接室まで来るように告げられ、そして怒鳴られた。
応接室には父と母が並んで座り、向かいのソファーには父の友人であるレイフシュナイザー伯爵が座っていた。
伯爵の隣には、何故かあの趣味の悪い下駄箱がどすんと置いてある。
ソファーに下駄箱……そんなにレイフシュナイザー伯爵はこの趣味の悪い下駄箱を気に入ったのかしら? と面食らっているクラウディアに、父はまた大きな声を出した。
「お前は半年もの間、婚約者であるパウル・レイフシュナイザー伯爵令息のことを無視していたらしいが、本当か?!」
クラウディアは目をぱちくりした。パウル……そんな人もいたわね。そう言えばパウル様にはここ半年は会ってないし、お見かけもしていない。
「そう言えば、パウル様はお元気なのですか? 学園でも全く会わなくて。お体でも?」
のほほんと答えるクラウディアに、父もレイフシュナイザー伯爵もギョッとした。
『お、お前、何を言っているんだ』
どこからか、父とも伯爵とも違う声がする。応接室をぐるりと見渡しても、そんな声を出しそうな人物などいない。
また妖精の悪戯ね、そう思っていると父がとんでも無いことを叫んだのだ。
「何を言っているんだ、クラウディア! お前の婚約者はそこにいるだろう!」
父がマナーをガン無視して指を差した先は、なんとあの趣味の悪い下駄箱だった。
先ほどから父は何を怒っているのだろう。急に呼び出されて来てみればいきなり怒鳴るし、あろうことか趣味の悪い下駄箱を婚約者などと言い出す。
そう思ったクラウディアははっとした。
父もレイフシュナイザー伯爵も、無類の家具マニアだ。さらに父は一人娘であるクラウディアを日頃から溺愛している。
まさか下駄箱と結婚させて、クラウディアを一生下駄箱に閉じ込め外に出さないつもりなのか。
あり得る。娘はどこにもやらん、が口癖だった父なら十分あり得る。
このままでは箱入り娘ならぬ、下駄箱入り娘だ。
クラウディアはソファーの間にあるローテーブルをバンっと力一杯叩いた。
「お父様、酷いっ! いくら私が可愛いからって、そんな趣味の悪いものと婚約させるだなんてっ! そんな趣味の悪いものと結婚したなんて周りに知られたら、私は生きていけません!」
いつも穏やかなクラウディアが激昂したことに、応接室にいた一同は驚き静まり返った。
『しゅ……趣味が悪い?』
また、どこからか声がする。しかし、今のクラウディアは妖精の有無などどうでもいい話であって、何がなんでも趣味の悪い下駄箱との婚約を阻止しなければならないのだ。
「ええ。好む人もいるかもしれませんが、私にとってはとても趣味が悪く思えます。気持ちが悪いです。不快です」
そこまではっきりと言ってやった。しばらく沈黙が続いた後、また声がする。
『お、お前は俺をなんだと思っているんだ!』
「便利だろうけど私には必要ありません」
うちの屋敷には下駄箱は無い。クラウディアの靴は衣装部屋にある大きなクローゼットに仕舞われている。あれば便利だろうが、私には、うちには必要が無い。
『必要無いだと?!』
「ええ。しかも小さいですし」
『小さい?! 俺が?! 身長は高い方だが……あ、あれか、人としての器が小さいってことか?!』
「中身が空っぽ」
人様に小さな下駄箱をプレゼントするなら、その人に似合う靴を何足か入れておくのが粋だと思う。落ち着いたらお父様に進言してみよう、とクラウディアは思った。
ふと気づくと、妖精からの声はしなくなり、今度は鼻をすする音が聞こえてくる。
妖精さん、泣いているのかしら? とクラウディアが思った時、慌てる執事の声と共に乱暴に応接室のドアが開けられた。
「ここにいたのね、パウル様っ!」
クラウディアが振り返ると、おろおろしている執事が1人で立っていた。
確か女性の声がしたような……あ、今度は女型の妖精ね。
そう思ったクラウディアの隣を何かがすり抜けた。クラウディアが目を凝らすと、そこには趣味の悪い赤いピンヒールがあり、ピンヒールはまっすぐに趣味の悪い下駄箱へと駆けていく。
そしてピタリと趣味の悪い下駄箱にくっついた。
クラウディアは驚きで目を見開いた。まるで雷に打たれたかのような衝撃が体中に走ったのである。
あの趣味の悪い下駄箱に、あの趣味の悪い赤いピンヒールが並ぶと、あんなにお似合いだとは……
お互いの悪いところを高め合い、そして見るものに衝撃を与える。嫌悪感と怖いもの見たさのコントラスト。まさに神の采配。
「素晴らしい! お似合いだわ!」
思わず手を叩き、1人スタンディングオベーションするクラウディア。
応接室には、素晴らしい素晴らしいと涙を流すクラウディアの、手を叩く音だけが長い時間響いていた。
「実のところ、パウル殿の女性関係の噂は耳にしていたよ。クラウディアが何も言わないので黙っていたが、ここまで嫌っていたとは」
父ががっくりと肩を落とす。
パウルの父であるレイフシュナイザー伯爵も、力無く言った。
「愚息はクラウディア嬢と婚約して、侯爵家を継ぐと決まったら真面目になると信じていたが……間違いだったようだ。すまなかった、クラウディア嬢」
あとは後日話し合うと言い、レイフシュナイザー伯爵は趣味の悪い下駄箱を引き摺るように応接室を出て行った。
ずっと、「婚約は破棄しない! エレナとは遊びだ! 侯爵家に婿入りするんだ! 」と妖精の叫び声が聞こえていたが、クラウディアにはもうどうでも良かった。
趣味の悪い赤いピンヒールも慌てるように、趣味の悪い下駄箱にくっついて行った。
「ってことがあったのよ。不思議でしょう?」
学園の昼休み。中庭のベンチに座って、サンドウィッチを摘んでいるクララにクラウディアは楽しそうに話した。
「じゃあ、あれかしら? 自己暗示っていうのをクラウディアは自分にかけたのね、ふふふ」
「笑いごとじゃないわよ、クララ。寝込んだ1週間は本当に辛かったんだから」
ぷーっと頬を膨らませるクラウディアはとても可愛いらしい。周りにいる男子生徒がその様子を見て顔を赤らめているのに気づいているのかしら、とクララは思う。
「あれは貴方の婚約者かと聞いた時に、クラウディアは、あれは下駄箱ですって答えたでしょう? その時に、ああこの人はそうやって物事を飲み込むんだと思って興味が湧いたのだけど、想像の斜め上を行ってたのね」
クララは思い出し笑いをする。2人はキャッキャううふとランチを続けた。
その遥か遠くでは、逃げ回る趣味の悪い下駄箱を追いかける、趣味の悪い赤いピンヒールがバタバタと走り回っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
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