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 お義父さんが出て行ってから、僕は外で過ごすことが多くなった。

 妹を思い出すから学校には行く気になれず、向かうのはいつも公園だ。

 その公園には、母ちゃんがいなくなって当分の間、毎日ごはんを持ってきてくれていた親切なお婆さんに似た人たちが、早い時間から集まってくる。

 それをベンチに座って眺めていると、なぜかものすごく泣きたい気分になるんだよね。

 なぜ悲しくもないのに泣きたくなるんだろう。

 その切なさがなんだか心地よくて、ついここに来てしまうんだ。


 元気そうな笑顔で何やら楽しそうに遊んでいるお婆さんたちは、とても輝いて見えた。

 でもきっと、ずっと楽しく生きてきたわけでは無いはずだ。

 その大きさは違えど、みんな何かを受け入れ、そして捨てて生きてきたのだろう。

 でも今は何事も無かったように笑っている。

 いつかお義母さんにも笑える日が来るのだろうか。


 あの日からひと月ほど経ち、毎晩泣いてばかりだったお義母さんが、突然お義父さんの持ち物を全部アトリエに入れて鍵をかけた。

 絞り切って投げ捨てられていた絵の具のチューブまで全てをだ。

 今朝もテレビ台の後ろから出てきた、折れた絵筆をアトリエの中に投げ入れていた。

 ほんの少しだけ開けた扉の隙間から、その絵筆を投げ入れるお義母さんは、まるで地獄を覗き見た罪人のような顔をしていた。


 きっとお義母さんはお義父さんの全てを封印する覚悟を決めたのだろう。

 それは消したい過去なのか、捨てきれない未練なのか。

 猫の僕にはわからない。

 愛憎でぐちゃぐちゃになっているお義母さんにも、多分わかっていないと思う。

 わかっているのは、もう子供が生まれただろうということだけだ。


 捨てきれない未練と言えば、僕にとってはやはり妹のこと。

 兄は早く忘れろと言ったけれど、きっと兄も忘れてなんかいない。

 あの子はいつも儚げで、僕の後ろばかりを追ってくるような子だった。


『海兄ちゃん、待ってよ』


 そう、母ちゃんが僕につけた名前は『海』なんだ。

 あの子はあまり喋るのが上手じゃなかったから、時々『ういにいちゃ』って言ってた。

 とても大きな目をウルウルさせながら、僕の顔をじっと見上げるんだ。

 毎日一度は顔をくっつけて慰めてやらないと、寂しすぎてお腹をこわすような子だった。


『今日も学校に行くの?』


『うん、一緒に来る?』


『ううん、学校は怖いから行かない』


 これが毎朝の会話。

 なぜ僕はあの子を独りぼっちにしてまで、学校に行っていたのだろう。

 あの子を寂しがらせてまで行くような場所じゃなかったのに。

 なぜ僕はあの子を優先しなかったのだろう。

 あの子が幸せそうに笑うことだけが、僕の存在価値だったのに。

 なぜ僕は……。


「あら、ヨゾラ君じゃない。今日はひとりなの? おばさんは?」


 誰もいなくなった公園で、ノスタルジックな気分になっていた僕を現実に引き戻したのは、学校帰りの美和ちゃんだった。

 いつも美和ちゃんは決まった友達と帰っているのに今日は違っている。

 僕にとって新参者は不審者だ。

 僕は挨拶もせず、そいつの顔を睨んだ。


「この子がお隣のヨゾラ君よ。きれいな子でしょう? ヨゾラ君、こちらはゆう君よ。私のお友達」


 そう僕に言った美和ちゃんの顔は、なぜか林檎のように真っ赤に染まっていた。

 それにしてもなぜ二人は手を繋いでいるのだろう。


「こんにちは、ヨゾラ君。そう睨むなよ。仲良くやろうぜ」


 そう言って僕の方に手を伸ばしてきたその男は、ニタニタと笑っていた。

 美和ちゃんは男の趣味が悪い!

 僕は何も言わずに駆け出した。

 公園の隅まで駆けて振り返った僕の視界に飛び込んだのは、さっきまで僕がいたベンチに並んで座る二人の姿だ。


『ちぇっ!』


 無性に腹が立って、僕は走って家に帰った。

 二人きりの夕食を終え、僕はお義母さんの隣でテレビを見ていた。

 お義母さんは相変わらず缶ビールを飲んでいる。

 お義父さんがいなくなってから、お義母さんの酒量は明らかに増えた。

 それと反比例するように食事の量は減り、見た目でわかるほど瘦せてしまった。


『お義母さん、もうそのぐらいにして早く寝よう』


 テレビを見ながら笑っているお義母さんの耳に、僕の声は届かない。

 笑っているのに笑っていないお義母さんの目からは、ずっと涙が流れ出ている。

 お義母さんはテレビの中に、何を見ているのだろう。

 その涙を僕が舐めとってやれば、少しはお義母さんの慰めになるだろうか。

 きっと驚くほど苦いのだろうな。


「寝よっか」


 お義母さんがテレビを消して立ち上がった。

 覚束ない足を無理に動かし、風呂場に向かう。

 僕は心配で、いつもお義母さんが出てくるまで浴室のドアの前に座っているんだ。

 ああ、また泣いてる。

 お義母さんはシャワーの音で消しているつもりだろうけれど、心配で聞き耳を立てている僕にははっきりと聞こえるんだよ。


「和也……和也……」


 きっとお義母さんはまだお義父さんを愛しているのだろう。

 なぜ? あんな男なんて忘れちゃえばいいのに。

 捨ててしまえよって僕は何度もお義母さんに言ったけれど、僕の言葉じゃ無理なんだ。


 好きになるから好かれたくなるんだろう?

 愛するから愛してほしくなるのだろう?

 好きってなんだ?

 愛するってそれほど重要な事なの?

 そんなことより明日の飯だっていう生き様の方が、ずっと誠実だと思うよ?


 人は愛が無いと生きていけないの?

 人は誰かを好きになっていないと心が壊れるの?

 愛されたいから愛するのだとしたら、それはただの押し付けだよ。

 勝手に差し出した愛と同量のそれを欲するなんて、そんなの無茶振りだと思うよ?


 愛なんて一時の気の迷いか単なる勘違いだ。

 だってみんな愛という言葉をよく使うけれど、誰一人それを見たことも触ったことも無いだろう?

 あるとしたら感じることだけだろう?

 勘違いかもしれないじゃないか。

 愛なんて不確かなものに執着しても、傷つくだけだって早く気づいてよ。 


 僕にとっての愛は『泣き続けるお義母さんに対する愛』と『亡くなってしまった妹に対する愛』だけだ。

 きっとそれは『憐憫』もしくは『庇護』という一方的な感情。

 いくら『憐憫』という愛を渡し続けても、お義母さんの心は救われない。

 いくら『庇護』という愛を差し出しても、死んだ妹は生き返らない。

 どんなに僕の心を明け渡しても、同じ量の愛が返ってくることは絶対に無いんだ。

 それが現実。

 だから何も求めない。

 求めないから傷つかない。

 僕にとっての愛は、受け続けるものではなく、注ぎ続けるものなんだ。

 だから僕は今夜も黙って月を見上げる。


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