白魔女は集落デビューする。
生まれて初めて降り立った下界。冷えた夜であり、少女は身震いする。
「緊張する」
ひとしきり呼吸を繰り返して、胸を撫でおろす。それから周囲を見渡す。そこには。
「私、来たんだ……」
水面器越しで見ていた景色があった。
山のふもとには木々がある。紅葉が色づかせていた。きっと里で暮らす人には見慣れた当たり前のありふれたもの。
けれども少女にとっては。外の世界について知らなかった少女にとっては。
「わあ……!」
何もかもが新鮮だった。
まずは、色とりどりな紅葉の木に目を向ける。少女は瞳を輝かせながら、落ちて舞う葉を追っていた。掴もうとしても、中々掴めない。ようやく、一枚の葉を掴む。やったと小さく笑った。
「やった、やっ―」
少女は気づいてなかった。落ち葉に夢中で気づいてなかったのだ。
「あ、あの方は―」
「いや、間違いないだろう―」
周囲に人が集まっていたのを。彼らはこの少女が何者かを推測しているようだ。
「あ……」
少女の顔は真っ赤になる。彼女は初めて知る事になった。人目というものを。羞恥心というものを。
すっかり少女は萎縮してしまい、相手と距離を取る。
自分に近づいてくるのは、集落で暮らす民だと。少女は気がつく。
ここを通るのをほぼ毎日見かけていたからだ。中年の男女に、幼い子供。家族だろうか。
集落の民との思わぬ遭遇。いきなりだった。
「あ、あの……」
少女は顔を赤くしたまま、硬直してしまった。どうすればよいのか。何も名乗らないのは怪しまれるか。少女の頭の中はパニックだった。
「聖女様の姉君様であられますか!?」
聖女。姉君。出逢いだけでなく会話までも唐突だった。混乱する少女を置いて、目の前の男女はついには跪いてきた。子供も親に強制されてそうする。
まるで貴い身分の相手をしているかのように。少女を敬っていたのだ。
「妹、でしょうか?確かに妹はいるけれど……」
「ええ!妹君にございます!『山頂には自分の姉が住んでいるから、会ったらよろしくねー』と仰られてました!」
妹の軽いノリに対し、里の者達の反応は重々しい。姉である少女が知らないだけで、妹は何か果てしない事を成し遂げたのだろうか。
「あの子が聖女。すごい……!」
少女はひとしきり感動した。自分の妹は聖女として崇められるほど、偉大な存在になったのだと。
「はっ!突然、失礼致しました。我々は―と申します。この近くの集落で暮らしております。何かありましたらご遠慮なくお申しつけください」
「あの、私は……」
少女も自分の名前を名乗ろうとする。するのだが。
「私は、私の名。それは―」
どうしても言い出せない。里の者達は期待を込めた眼差しを向けてくる。
「て、手土産です!」
トランクの中から薬草袋を出すと、地べたに置く。いや、地べたは良くない。しゃがんで幼子に手渡すと、そそくさと退散していった。
民達は驚きはしたものの、気を悪くすることもなく。
「え、ええ。またのご来訪をお待ちしておりますぞー?」
「お気兼ねなくいらしてくださいねー!」
「……」
はい、と少女は呟く。あまりにも小さすぎて、あの家族には聞こえてないのだろう。
「……」
失敗した。うまくいかなかった。嫌な思いさせたかもしれない。
「……それでも」
少女はまだ重いトランクを持ち直す。まだ渡したいものは残っているのだ。
「はは……」
妹のようにはスマートにはいかない。世渡り上手でもない。
「それでも、私も頑張ってみよう」
妹は頑張り屋。それは姉である自分がよくわかっていた。自分ももう少しくらい頑張ってみよう。少女は自分を鼓舞しながら帰路についた。
それから少女はちょくちょく山のふもとに現れるようになった。
それが里の者達の周知の事になったのか、ちょいちょい迎えてくれることがあった。
手土産が詰まったトランクケースは、お馴染みとなりつつある。実用性があると評判でもあった。
数を重ねる度に、少女の口数は増えていく。笑顔も少しだけ見せるようになった。
「それでは、また」
少女は一人、家に帰る。寂しさは残るけれども、そこまで気落ちしているわけでもなかった。
少女には、分けてもらった沢山の野菜もある。その日の会話を思い返しながら、楽しげに野菜を煮込んでいる。
「優しい人達。そっか、こんなにも優しい世界だったんだ―」
少女は瞳を煌めかせていた。この時は、そう信じられた。
少女が手にしていたトランクの中身もやがて空となる。それでも少女は下界へと訪れ続けていた。
山のふもと止まりだった少女も、彼らが暮らしている集落に招待されることになった。
彼らはいつでも微笑んでくれる。優しく接してくれる。温かい人達だと、そう思えた。
色鮮やかだった木々も、やがて枯れ始めていく。冬が訪れようとしていた。