419.騒ぐほどのことではない
シウリスの執務室から戻ってきたアンナは、全身に鉛のような疲労がのしかかってくるのを感じていた。
呼吸を整えようとしても、胸の奥に重く澱んだものが居座り、なかなか抜けてはくれない。
「大丈夫ですか?」
付き人が差し出してくれたハーブティーを受け取り、アンナは静かに礼を言う。
立ちのぼる柔らかな香りに導かれるように、そっとカップに口をつけた。
(昔はあんな人ではなかったのに……)
高く結い上げた自分の髪を、根本からシュッと指で滑らせる。
シウリスに剣を教えたのは、他ならぬアンナの母、アリシアだった。シウリスと同い年のアンナは、三歳の頃から彼と並び、剣を学んできた。
幼い頃からシウリスの剣の腕は抜きんでていたが、その内側には、確かに優しさと朗らかさがあった。アンナはそれを、誰よりも近くで知っている。
そして──彼が今のような姿になってしまった理由も。
まだ十歳の頃のことだ。
シウリスは姉のラファエラ、そして王妃である母親とともに馬車で外出していた。その道中で、王家を狙った襲撃を受ける。
混乱の中でラファエラはシウリスを庇い、命を落とした。
そのせいで、シウリスの母親である第一王妃の精神は壊れたのだ。そうなる謀略が仕掛けられていた。
結果、この世を嘆いた王妃は、自身の末娘であるルナリアの首に手をかける。
シウリスはそれを止めようとし──逆に王妃を殺してしまったのだ。
あの頃から、シウリスはアンナを遠ざけるようになった。
拒絶されていると、はっきりわかるほどに。
それでも当時は、まだどこかに優しさの名残があったように思う。
そんなシウリスを決定的に変えたのが、彼の妹であるルナリアの死だった。
シウリスの心の拠り所であり、唯一守るべき者であった愛するルナリアまでもが、陰謀により暗殺されてしまったのである。
この時から、シウリスはすべてを憎み始めた。
アンナの母ですら制御できないほど、凶暴で、凶悪な存在へと変貌していく。
それは王となっても変わることはなく、歪みを抱えたまま今日に至っている。
シウリスがアンナに執拗な苦痛を与える理由も、アンナにはなんとなく理解できていた。
彼の歩みを、あまりにも長く見続けてきたからではないか、と。
だからこそ、自分と同じ痛みをアンナにも味わわせようとしている。
ただそれだけのために婚約者のグレイを殺したのだろう──アンナはそう思っている。
怒りがなかったわけではない。
オルト軍学校でグレイに出会ったアンナは、本当に彼を愛していたのだ。そして、グレイも同じようにアンナを愛してくれていた。
一般的な女性が言うような、甘い男ではなかったかもしれない。しかし、アンナには彼の密かな優しさが伝わっていた。
将来を誓い合った男を殺されて、平静でいられるはずがない。
どれほど不幸な過去を持っていようと、シウリスの行為は許せなかった。
けれど、許せないと思いながらも、どうすることもできず。
なにを望んでいるのかさえ、アンナ自身わからなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
シウリスがあのままでいる限り、自分に大切な者を作ることは許されないのだ、ということだけは。
「グレイ……」
アンナはそっと呟く。付き人が聞かぬフリをしてくれた。
彼以上に人を好きになることなんて有り得ないのだから、そんなことを気にする必要などないのだなと自嘲する。
彼の命日に、墓参りに行けた試しはない。
毎年この日、シウリスに手合わせを命じられる。そしてその結果、アンナは決まってベッドの上で一日を終えることになるのだ。
年を追うごとに、シウリスの強さは常軌を逸していった。
アンナもまた、殺されぬよう鍛えてはいるが、今年の手合わせを生き延びられる保証はない。
「なぁ、ルティー」
付き人の名を呼ぶと、少女はふわりと長い金髪を揺らして微笑んだ。
「なんでしょうか、アンナ様」
アンナはそんな彼女に一つだけ、静かに願いを告げる。
「私が死んだら、シウリス様のお部屋のラベンダーを、グレイの墓に供えてくれないか」
ルティーは悲しげな瞳で、目を伏せるように頷いた。
「……はい」
彼女はアンナの命令や願いを、一度として拒んだことがない。
それが尊敬ゆえなのか、あるいは王に向けるものと似た畏怖によるものなのか──アンナには判断がつかなかった。
手合わせは三日後。
トラヴァスやカールの前では強がっているが、本当は怖い。
今年で四回目。
三度も死の淵に立たされていて、恐怖がないはずがなかった。
ここまで生き延びてこられたのは、実力以上に運に恵まれていたからだ。少しでも歯車が狂えば、死んでいても不思議ではなかった。
幼い頃から片鱗は見えていたが、シウリスがここまでの強さに至るとは、誰が想像できただろう。
あのグレイでさえ殺されたのだ。
グレイもまた超人的な強さを持っていて、いくらシウリスが強いと言ってもあっさりやられるような男ではなかったはずだった。
だからあの時は、死んだことが本当に信じられなかった。
(あの時、どうしてグレイは──)
逆らった形跡もなく、ただひとつの覚悟を決めたように冷たくなっていた彼の顔を思い浮かべる。
そんな思考に沈んでいると、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「アンナ……!!」
名を呼ばれると同時に、カールが扉を開けて飛び込んできた。
上官であるアンナに対して、ノックもなしに。
「お前、三日後に……」
「落ち着け、カール。毎年のことだ、騒ぐほどのことではない」
「だけどよ……」
「トラヴァスにも言ったが、余計な真似は一切するな。私とシウリス様の手合わせだ」
カールはぐっと言葉を詰まらせた。その顔を、寂しく歪ませながら。
「俺にできることはないのか……?」
「ないな。しっかり軍務を遂行しろ、としか」
そのやり取りを聞いて、ルティーがくすりと笑った。笑われたカールは、なんとも言えずに頭を掻いている。
「さ、カール様、アンナ様のご機嫌を損なう前に外に出てくださいな」
背中を押され、カールは渋々退室する。
十五の少女に追い出されるその姿に、アンナは思わずクスクスと笑った。
「すまんな、ルティー」
「いえ、慣れていますから」
そう言って彼女も気遣うようにその扉から出ていった。
一人になったアンナは、机の中からグレイの写真をそっと取り出す。
(今のこんな立場の私を見たら、あなたはなんて言うかしら。『一緒に国を抜け出して逃げよう』? それとも……『負けずに戦え』?)
グレイの言葉を思い浮かべて、アンナは口の端をあげた。
(きっと、後者ね)
戦う。負けはしない。死ななければそれは負けではない。
今年も生き残ってみせる。
そう、写真立ての中のグレイに誓った。




