418.私を好いてくれるような奇特な人物など
翌朝、アンナは剣を携え、書類とアイアースの盾を手にして、ストレイア王シウリスの執務室を訪れた。
足取りは乱れず、群青色の騎士服には皺ひとつない。
盾の正式名称は〝ストレイア王国軍聖騎士盾〟。将以上の者に与えられる装備だが、実際に携える者はほとんどいない。トラヴァスやカールはもちろん、他の将たちも例外ではなかった。
大きく、重く、取り回しが悪い──機動を重視する者が多い昨今、この五画盾は敬遠されがちなのだ。
だが盾というものは、使いこなせば攻防一体の武器となる。
つまり、この盾を常に携えるアンナの存在そのものが、扱える者の稀少さを雄弁に物語っていた。
それを理解していたからこそ、王シウリスはアンナのために特別仕様の盾を下賜した。魔力の込められたアンナ専用の盾は、蒼天と名付けられ区別されている。
しかしアンナの持つ盾は、いつしか〝アイアース〟と呼ばれるようになっていた。
名付け親はトラヴァスである。
それは、アンナの婚約者が王であるシウリスに殺された日のことだ。
すでに息絶えた恋人へ、なおも剣を突き立てようとしたシウリス。その間に、アンナは迷いなく滑り込んだ。聖騎士盾を構え、婚約者の亡骸がこれ以上傷つけられるのを阻止したのである。
当時はまだ、アンナの母が救済の異能を持っていた頃だ。
そのため、婚約者の危機を事前に察知することはできなかった。
必死に恋人を庇うアンナの姿を見て、トラヴァスがぽつりと漏らしたのだ。
まるでアイアースのようだった──と。
アイアースという神が、踵に矢を受けて死んだアキレウスの遺体を傷つけぬよう、盾で守ったという神話。
その言葉はやがて騎士たちの間に広まり、アンナの盾は自然とその名で呼ばれるようになった。
以来、アンナはシウリスの部屋に入る際、必ずこのアイアースの盾を携えている。
「失礼いたします」
規則正しくノックをしてから、アンナは執務室へ足を踏み入れた。
シウリス・バルフォアの執務室。──愛する婚約者が絶命した場所だ。
入室した瞬間、シウリスはアンナを見るなりニヤリと口角を上げた。
王族としての圧倒的なオーラと、一九三センチの長身から放たれる威圧感。
端正な顔立ちであるにも関わらず、どこか冷酷な瞳にぞくりとした気配が背筋を撫でた。
彼はその恐ろしいほどの強さから、国内外で〝黒厭王〟という畏怖を込めた名で知られている。
ストレイア軍の騎士服は群青色を基調としているが、シウリス自らが率いる精鋭隊『紺鉄の牙』は、さらに暗い紺鉄色を身にまとう。
返り血を浴びれば、その色はほとんど黒に見えるのだ。〝黒厭王〟の異名は、そこから来ていた。
そんな王を前にしても、アンナは平静を崩さない。
紙の束を差し出し、淡々と告げる。
「書類を持ってまいりました。お目通し願います」
「いいだろう」
今日は機嫌がよさそうだと、アンナはわずかに安堵した。
そして視線を窓際へと向ける。そこには、いつものようにラベンダーの鉢植えが置かれていた。
「シウリス様、よろしいでしょうか」
「勝手にしろ」
説明せずとも、シウリスは察していた。
許しを得たアンナは水を汲み、ラベンダーへと注ぐ。
殺風景なこの執務室にラベンダーを置いたのは、アンナだ。
この部屋で逝った、愛する婚約者のために。
シウリスがそれに気づいているかどうかは、わからない。
シウリスは書類に目を通し、流れるようにサインを入れると、ペラリと返しながら言った。
「そろそろ、手合せせんか?」
来た、とアンナは内心で受け止め、微笑みすら浮かべて答える。
「喜んで」
「では、三日後だ」
「かしこまりました」
三日後は、十月七日。
それは彼の命日だった。もちろん、シウリスがそれを承知の上で言っていることを、アンナは理解している。
「ああ、悪い悪い、その日はグレイの命日だったか? また墓参りに行けなくなるなぁ……ははは!!」
その笑い声を遮るように、アンナは口を開いた。
「構いません、シウリス様に相手をしてもらえることの方が重要ですので」
シウリスはぴたりと笑い声を止めた。面白くない、と顔に出ている。
そして底冷えのするような眼で問いかけた。
「アンナ、新しい恋人はできたか?」
「残念ながら私を好いてくれるような奇特な人物など、グレイしかおりません」
「そうか、つまらんな。あいつを殺した時のお前の顔は傑作だったぞ!! ははは!!」
なぜこんなことを言うのか。どうしてあんな残酷なことをしたのか。
真実はわからないまま、アンナは表情を変えずに言葉を紡ぐ。
「楽しんでいただけたようでなによりです」
その一言に、再びシウリスの笑い声が止んだ。
立ち上がり、アンナの傍に寄ると顎をぐっと掴む。
視線は強制的にシウリスに合わされた。
「つまらん!! お前は、言いよどむこともせんのか? お前の大切な者の名を言え。俺が直々に……」
「シウリス様です」
シウリスがすべてを言い終わる前にアンナは告げた。
「シウリス様が、私にとっての大切な方です」
「嘘を、つくな!!」
「本当です」
その即答に、言いよどんだのはシウリスの方だった。
「……まぁいい。出ていけ」
「失礼いたします」
アンナは男性と同じく、肩口に手を当てるだけの簡潔な敬礼をして部屋を辞する。
そして自室に戻ると、張り詰めていた息を大きく吐き出した。




