417.どのみち私のサインが必要になる
頭の中にビカビカと光り続ける警鐘。
アンナは駆けながらスカートを捲り上げた。
布地が太腿に絡むのも構わず、足の付け根に装備してあるダガーを抜き取る。
完全なる〝オン〟モードだ。
トラヴァスもアンナの背後を追い、間合いを保ったまま剣の鞘を握っている。いつでも前へ出られる構え。
そのとき、脳内で続いていた黄色い点滅が、鮮烈な赤へと変わった。猶予はない。
「キャアァァア!!」
悲鳴が夜の街を切り裂いた。アンナは躊躇なく、その声の発生源へと飛び込む。
次の瞬間、頭上から降りかかってきた剣をダガーで弾き返した。乾いた金属音が響き、男の体勢が崩れる。
アンナは鋭く睨みつけると、一転して背後で震えている親子へ柔らかな微笑みを向けた。
「大丈夫だ、安心していい」
そう告げると、改めて剣を振り下ろしてきた男たちを見据える。
装備も統制もない。追い剥ぎの類だ。
「トラヴァス、連行するぞ。抵抗するようならやってしまえ」
「はっ」
短く応じたトラヴァスは、即座に動いた。剣で間合いを制し、的確に氷魔法を織り交ぜる。足を縫い止められた賊たちは為す術もなく拘束され、あっという間に縄をかけられていった。
一通り片付いたところで、アンナはふうっと息を吐き出す。
「やれやれ。せっかくの夜が台無しだ」
「私一人で構いませんよ。筆頭は戻って食事をお続けください」
「いや、私も行こう。どのみち私のサインが必要になる」
救われた親子は何度も頭を下げ、震える声で礼を述べていた。アンナは「気を付けて帰りなさい」とだけ告げて見送る。
彼女らを助けられたのは、異能と呼ばれる能力のおかげだ。
アンナの母もかつて、筆頭大将という地位にあった。
もっとも、その地位をアンナが引き継いだわけではない。徹底した実力主義を貫くストレイア王国では、地位の世襲など存在しない。
今の立場は、アンナ自身が積み上げ、勝ち取ったものだった。
母は数年前に死んだ。この『救済の異能』のせいで。
救済の異能は、自分が護りたいと強く思っている範疇の者の危機を知らせる。一方的な暴力に晒されている者、あるいは戦闘で死期が迫った者の顔と居場所が、否応なく脳裏に浮かぶのだ。
もちろん、助けに行くか否かは本人の意思に委ねられている。体が勝手に動くわけではなく、無視することもできた。
だが、そんな選択を平然とできる者は、そもそもこの異能を手に取らないだろう。
これは、母の形見だった。
ある抗争の最中、母は自らが瀕死であるにもかかわらず、仲間を庇って命を落とした。
異能は──魔法も同様だが、死とともに傍へと一冊の本の形で抽出される。
忘れ形見である『救済の書』を前にしたとき、アンナは迷うことなく救済の異能を習得した。
その結果、アンナは多くの仲間を守ってきた。
これでいい。そう思っている。
「アンナ筆頭。ここにサインをいただければ、後は私がやっておきます。お疲れでしょうからお休みになってください」
城へ戻ると、トラヴァスがそう提案した。実務を引き受ける気遣いが、その声音に滲んでいる。
「だがその前に、店に戻って詫びと支払いを済ませてこんとな」
「心配には及びませんよ。出る前に十分な金額を置いてきましたから」
抜かりのない返答に、アンナはふっと目を細めた。
「わかった、じゃあ先に休ませてもらおう」
「そうしてください」
さらさらとサインを書き入れ、書類をトラヴァスに渡す。
「お疲れ様です」
「ありがとうトラヴァス」
微笑みを向けると、彼はいつもの無表情をほんのわずかに緩めていた。
アンナは後を任せ、部屋へ戻ろうとする。
独身の騎士は基本的に宿舎暮らしだが、将以上には城内に一室が与えられている。先月将となったばかりのカールも、嬉々として王城に住み着いていた。
そんな彼の部屋の前で足を止め、アンナは扉を叩く。
「うわ、アンナ、また服買ったのかよ!」
顔を出したカールが、開口一番に放ったのはその一言だった。
「書類はできたか?」
「できたぜ」
「見せてみろ」
招き入れられ、アンナは差し出された書類を手に取った。
「どーだ!!」
カールは胸を張り、へっへーーんと鼻をこすっている。
しかしその内容は、見るまでもない。
「五十点。不合格だ」
「………………」
「座れ、一から書き方を教えてやろう」
渋々といった様子で溜め息をつき、カールは椅子に腰を下ろす。
(まったくカールは、人に教わるという態度を知らないんだから)
呆れつつも、その無邪気さについ手を差し伸べてしまう自分を、アンナは自覚していた。
「シウリス様に出す書類なのだからな。頼むから、きっちり書いてくれよ」
「わぁーったよ」
ペンを持ちながら、カールは遠慮もなくアンナを凝視する。
「アンナ、お前さー。その格好でメシ食いにいったのか?」
「ああ、どうだ? こんな服も似合うだろう」
少しだけ顔を赤らめたカールは、返答を避けるように話題を変えた。
「剣、携帯してったか?」
「ここにあるぞ」
アンナはためらいもなくワンピースを捲り上げる。
「バカ、おろせって!!」
ガタッと椅子ごと後ずさるカールを見て、アンナはくすくすと笑った。
「お前な、なにがあるかわからねぇんだから、そんな短剣じゃなくてちゃんと帯剣してけよ」
「無粋なやつだな。この格好に剣は似合わんだろう」
むっとした様子で、カールは再びアンナを見た。
高めの身長に、すらりと伸びた手足。均整の取れた身体と、それに似合う装い。己のプロポーションに多少の自信があることも、アンナは隠していない。今の姿に剣が似合わないことくらい、カールにも理解できているはずだ。
それでも、納得しきれない様子で顔を歪める。
「だけどなぁ……」
「平気だ。私は不思議と短剣も得意だからな。習ったこともないんだが」
「普通に食事する分には心配したりしねーよ。でも異能が発動したら、躊躇なく飛び出るじゃねーか」
図星を突かれ、アンナは苦笑して眉を下げる。
「わかった、気を付けるよ」
「気をつけるとかじゃなくてだなー」
「いいから書類を片づけるぞ」
話を切り替えると、カールはへいへいと返し、しぶしぶ書類へと視線を落とした。
自分を案じてくれることが嬉しくて、感情を隠そうともしないその性格が可笑しくて。
その夜、アンナは遅くまで、カールの書類作成に付き合っていた。




