351.特別な訓練があるんだろう?
数週間後、サエスエル国から戻ってきたミカヴェルは、以前の面影を残しつつも、明らかに様変わりしていた。
茶色の髪は少し伸び、柔らかく肩にかかる長さになっている。光の角度によって日差しを反射し、温かみのある色を見せた。
これまで掛けたことのなかった眼鏡が顔にあり、知性を感じさせる一方で、なにかを隠すようなおどけた様子を漂わせていた。
振る舞い全体が変わっていたのだ。
言葉や仕草、視線の使い方に至るまで、以前とは異なる空気を纏っていた。
「おや、ザイレンにクロエ。どうしたんですか? そんなに驚いたような目で私を見て」
軽やかな声に混ざる飄々とした笑み。
自身を『私』と呼ぶその口調には、以前の威厳と親しみの間にあった曖昧さが消え、どこか自信に満ちた余裕があった。
その笑いには、計算され尽くした柔らかさと、狙ったわけではない自然さが絶妙に混在していた。
「ミカヴェル……お前、目が悪くなったのかよ?」
「いやぁ、以前から悪くはなっていたんだけどね。サエスエルの眼鏡のセンスが良かったので、思い切って買ってみたんだよ。おかげで快適ですねぇ」
そのあまりに変わった様子に、ザイレンとクロエは言葉を飲み込む。色々と聞きたくなる気持ちは湧いたが、二人は黙してその場に立ち尽くした。
彼の振る舞いの変化は、訓練の果てにたどり着いた結論の現れだと理解できたからだ。それ以上問いただすことは、今は不要であり、むしろ無粋なことに思えた。
「なかなか似合ってるじゃないのさ、ミカヴェル。どこからどう見ても参謀軍師って感じだねぇ」
「これから私は、名実共に参謀軍師となっていくよ。ザイレンとクロエにはしっかり働いてもらうから、そのつもりでいてもらわないと困るな」
「当然だ!」
「わかっているよ、ミカヴェル」
その二人の声に、ミカヴェルは目を細めて静かに微笑む。
三人の間に流れる覚悟は、もう完全に固まっていた。
そして、時は流れ──二年後。
クロエはついに十七歳の誕生日を迎えた。
それと同時に、覚悟を固めていたクロエの元に、あの忌まわしい訓練通達の知らせは──届かなかった。
やるならやるで、早く終わらせてしまいたいという一心で、クロエはミカヴェルへ問いかける。
「なぁ、ミカヴェル」
「なにかな? クロエ」
勉強机に向かう彼に近づき、そっと声を掛けると、ミカヴェルは眼鏡越しに柔らかく微笑んで顔を上げた。
その視線がまっすぐクロエを射抜くたび、胸の奥がきゅっと鳴る感覚に襲われる。
覚悟していたはずなのに、心臓の鼓動は騒ぎ立て、体の芯が小さく震える。
「あたし、知ってるんだ。十七になれば、特別な訓練があるんだろう? あれは、いつやるんだい?」
硬い表情を見せるクロエを前に、ミカヴェルは少し肩の力を抜いて、へらりと笑った。
「ああ、あれですか。君はしなくていいよ、クロエ。気にしなくていい」
「……え?」
予想外の答えに、クロエは目を一瞬大きく見開いた。
呆気に取られたまま、息を飲む。
「クロエには、五聖執務官になるという使命があるからね」
「……どういうことだい? 五聖には、あの訓練は不要ってこと……?」
呟き交じりの問いに、ミカヴェルは淡く頷く。
その仕草に余計な情感はなく、計算と理性だけが漂っていた。
「補佐として私の隣にいるのなら、訓練してもらわざるを得ないけどね。時には、体を使った手段も必要なことだが──」
ミカヴェルの視線が直に胸に突き刺さる。胸の奥で、不安の鼓動が鳴る。
体を強張らせるクロエを見て、なお彼は続けた。
「だが、君は五聖執務官になる。民や仲間に認められ、信頼を得るためには、身を汚すような手段はむしろ逆効果だ。清廉であることが、クロエ自身の権威となり、周囲の信頼を強固にする」
その言葉に安堵した瞬間、クロエの体は膝から力が抜け、自然と座り込んでいた。
長く背負ってきた重圧と恐怖が、溶けていく。
「……そっか……あたし、しなくていいんだ……」
長い間の緊張と恐怖、未来への不安が一気に解放され、涙となって溢れ出した。
ミカヴェルはそんなクロエを見ても、淡々とした表情のまま静かに言葉を発する。
「ただの戦略だよ」
その言葉には計算と冷静さしかなく、余計な感情は見えない。
だが、だからこそ、クロエはその背後に深い思いやりと、仲間としての信頼を感じた。
かつて涙を流した自分を案じ、ザイレンが報告してくれたのだろう。そう思うと、優しさが胸に沁みる。
クロエは小さく笑みをこぼした。
床に座り込んだまま、震える体を抱える。
「……ありがとう、ミカヴェル……」
そんなクロエにミカヴェルはゆっくりと近づき、そっと膝をついた。
「必要のない訓練に時間を掛けるほど、暇じゃないというだけの話だよ。君には必ず五聖になってもらう……それができない時には……わかってるね」
五聖になれなかった場合は、補佐に戻り、訓練を受ける必要がある。
その条件も含め、すべてを淡々と告げる彼の声には、柔らかさと厳しさが同居していた。
「まぁその時には経験済みかもしれないけどね。自由なうちに恋愛しておくといいよ、クロエ。激しい遊びは厳禁だが……本当に想う人ができたなら、結婚を考えたって問題はない」
結婚という提案に、クロエははっと気づく。それはきっと、五聖になれなかった時に、例の訓練を回避させるための手段なのだと。
言い方は淡々としているが、その言葉には、ミカヴェルの気持ちが静かに滲んでいた。
(嬉しいよ……だけど、ミカヴェル……)
その言葉は、自分ではない誰かと結婚しろと言われているようにしか、聞こえなかった。
しかし、それも当然のことだ。クロエとミカヴェルは、結婚できない。
過去、アグライアの血がグランディオルに入ったことがあり、血の濃さを避けるために、両家間の結婚は禁止されている。
(あたしは、ミカヴェルのことが……)
胸の奥で、どうしようもなく込み上げる想い。
叶わぬ恋だと知りながらも、心は自然と彼に寄っていく。
クロエは涙で濡れた頬を手で拭い、ふっと顔を上げた。
目の前のミカヴェルをまっすぐ見つめ、声を震わせながらも意志を込める。
「……あたしは……結婚なんてしないよ」
一瞬、部屋の空気が止まったかのように感じられた。
ミカヴェルは眼鏡の奥から静かにクロエを見つめ、なにも感じていないように息をつく。
「好きにすればいい。君の自由だよ」
その声には、軽い皮肉も、強制も、嘲りもない。
ただ、クロエの意志を尊重するだけの、静かな肯定があった。
心にあった不安が、少しずつ溶けていく。
涙はまだ残るが、肩の力は抜け、心に軽さが戻った。
絶対に叶わぬ恋と知りながら──クロエは胸の奥で、そっとその想いを抱きしめた。




