349.あたしたちの努力は、そんな扱いなのかい!?
クロエの喉から、ひゅっと変な音がした。
女を抱くという意味を、クロエは正しい知識で理解している。だが、それが現実のものとして語られると、胸の奥に冷たい刃が突き刺さるようだった。
ザイレンの顔には、暗い影が落ちている。冗談を言っているような軽さなど、微塵もない。
ミカヴェルは、本当にサエスエル国に女を抱きに行ったのだ。
そう思うと、クロエの体は細かく震えた。胸の奥が冷たく、指先が痺れる。
しかし、どうしてもその意味を知らずにはいられなかった。
「女を抱きに……? 女なら、いくらでもフィデル国にいるじゃないか」
精一杯、強がりを装って。
だが返ってきたザイレンの答えは、あまりにも無情だった。
「確かにな。俺は、国内で済ませた」
淡々としたザイレンの返答。
一瞬で、クロエの心臓がばくん、と激しく鳴った。
それは怒りか羞恥か、わからない。ただ、自分の中でなにかが暴れ出すのを必死に抑える。
「っは……なんだよ。あんたたちは男だもんね、所詮ケダモノってわけかい?」
皮肉を込めて言い放ちながらも、声が震えているのが自分でもわかる。
ザイレンは眉をひそめ、短く息を吐いた。
「クロエ……お前も三年後……十七になれば、同じ運命を辿る」
その言葉は、まるで剣のようにクロエの心を冷たく刺した。
「……どういう意味だよ、それは……」
ごくりと息を呑む音が、静かな部屋に響く。
ザイレンは眉を強く寄せ、悔しげに目を伏せる。苦しみを噛み殺すような表情だった。
「グランディオル家、アグライア家、オルディス家は、十七で異性を知らなきゃいけねぇんだと。体を使った交渉も、相手を掌握する武器のひとつとして身につけるために……な」
クロエの血が逆流するような感覚に襲われた。
全身の毛穴が総立ちになる。
自分たちが積み上げてきたものが、そんな低俗な理屈のための〝手段〟に過ぎないのかという怒りが、胸の底で爆ぜた。
「馬鹿げてる! あたしたちの努力は、そんな扱いなのかい!?」
叫んだ声が、部屋の壁を跳ね返る。
クロエは拳を固く握り、爪が掌に食い込むほどだった。
顔が赤くなり、怒りで声が震える。
「あたしたちが学んだのは知識だ! 判断力だ! 策略だ!」
息を荒げて、言葉を絞り出す。涙が込み上げそうになるのを、歯を食いしばって堪えた。
ザイレンは冷静な目で、しかし苦しげに彼女を見つめた。
「交渉術もだろ? これは、その一環に過ぎないってだけだ」
交渉術の一環として、体さえ使う必要性を告げるその声音に、クロエの中の怒りは次第に悲しみへと変わっていった。
心の奥にあった理想が、砂のように崩れ落ちていく。
「いやだ……っ」
視界が滲み、震える唇から、子どものような否定の声が漏れていた。
怒りでも理屈でもない。純粋な拒絶。魂の奥から苦しみがこぼれ落ちる。
「クロエ……」
憐れむようなザイレンの声が聞こえた。
胸の奥で、ひゅうひゅうと痛むような呼吸が往復する。
「サエスエル国に行ったってことは、知り合いでもない女をミカヴェルは抱いてるってことだろう!?」
「そうだ。俺も見知らぬ女を与えられた。クロエも、おそらくそうなる」
淡々とした言葉の裏には、深い苦味があった。
クロエの体が小さく震える。胸の奥を鋭い痛みが貫く。
息が詰まり、目の前の景色が揺らいだ。
「そんな……そんなの、酷すぎるじゃないか!」
声が裏返る。震えた唇から、悲鳴のような言葉がこぼれた。
怒りと悲しみが入り混じり、頬を熱く濡らす。
「今まで……今まであたしたちは……勉強して、考えて、努力して……それなのに……それなのに、ただの道具みたいに扱われちまうのかい!?」
ザイレンは息を吐き、肩を少し落とす。冷静さを失いかけているクロエを、押さえるように見つめた。
「わかる……俺だって最初はそう思った。理不尽だと思った。でも、これも国と家を守るための、厳しい現実なんだ」
その声には、長い時間を経てようやく飲み込んだ痛みがあった。
クロエは唇を震わせ、怒りのままに叫ぶ。
「男はいいさ! どうせ女を抱いて楽しんだんだろう! なにが国と家のためだよ!」
ザイレンの表情が一瞬で変わる。
堪えていた感情が一気に噴き出したように、眉を吊り上げて椅子から立ち上がった。
「楽しめるわけがねぇだろうが! 好きな女を抱きたかったに決まってる! 俺も……ミカヴェルも!!」
怒鳴るように叫ばれた声に混じる、ザイレンの苦痛。
心の底からの慟哭に、クロエは目を見開き、息を呑む。
ザイレンの悲痛な顔が、胸を強く締めつけた。
怒りはしぼみ、代わりに込み上げてきたのは罪悪感だ。
はぁ、はぁ、と息を荒げていたザイレンは、やがて力を抜くように深く息を吐き、声のトーンを落とした。
「だが……必要なことだ。実際に体を使った交渉をするかどうかはともかく……できないよりできた方がいい」
「そう、かもしれないけど……」
クロエは唇を噛み、沈黙する。
心の中に渦巻く矛盾と葛藤が、声にならない。
ザイレンは淡々と続けた。だがその口調の奥には、彼自身の苦渋が確かにあった。
「それに耐性をつけておけば、敵の罠にも掛からないだろ。ハニートラップとかな。異性に心を奪われ、のめり込むことだって、俺たちには命取りになるんだ。国も、家も、俺たち自身も、守れなくなる──それを避けるための、必要な覚悟だ」
覚悟という言葉が、重く響いた。
クロエはその言葉を胸の奥で反芻する。
彼らはもう覚悟を背負ってしまっているのだ。
クロエはゆっくりと視線を落とし、唇を噛んだ。
手が震え、涙が一粒、ぽたりと床に落ちた。
ザイレンは眉を下げ、クロエを思いやるように声をやわらげた。
「悪い……やっぱりクロエにこの話は、少し早かったな……」
「……あたしが言えって言ったんだ……当日になって聞かされるより、よかったよ……」
小さく息を吐きながら、クロエは顔を上げた。
涙で濡れた頬のまま、震える声で問いかける。
「……でも……知らない相手じゃなきゃ、ダメなのかい? ミカヴェルやザイレンなら、あたし……受け入れられるかもしれない……」
その言葉に、ザイレンの表情が強く曇る。眉をひそめ、唇を引き結び、静かに首を振った。
「……ダメだ。心を許してる俺たち相手じゃ、意味がない。訓練は、どんな者が相手でも、冷静に対処できる力をつけるためのものだからな」
クロエの肩が、小刻みに震えた。
涙がぽろぽろと零れ落ち、頬を伝って床に落ちていく。
「……そっか……」
小さく、嗚咽混じりに呟く。
胸の奥が焼けるように痛い。
「……ミカヴェルも……今頃、知らない女を……」
その言葉を最後に、クロエの声が途切れた。
胸の奥で怒りと悲しみが渦を巻く。
悔しさ、嫉妬、理不尽への怒り、そして自分が道具のように扱われるかもしれない悔しさ。そして見知らぬ男に抱かれなければいけないという恐怖。
すべてが一気に押し寄せ、クロエは耐えきれずに膝から崩れ落ちる。
「いや……いやだ……あたし……あたし……!」
声にならない叫びが喉から溢れた。
涙が次々と床に落ちて、光の粒のように散った。
ミカヴェルやザイレンに対する複雑な感情が胸を焼く。
愛しさ、羨望、怒り、悲しみ──そのすべてが絡み合い、言葉にならない叫びとなる。
ザイレンは黙ってクロエの横に膝をついた。
静かに手を伸ばし、震える肩にそっと触れる。
「悪い……俺には、どうしてやりようもない……っ」
「ザイレン……ザイレン……あたし……っ、うあ、うあぁぁああっ!」
嗚咽が部屋の中に響く。
ザイレンは何も言わず、クロエの肩を抱き寄せた。
震える背を包み込み、クロエが泣き止むまで、ただ黙って寄り添う。
涙は止まらず、落ちては弾けた。
部屋には小さく漏れる嗚咽。
そして二人の間には、言葉にならない悲しみだけが残っていた。




