348.聞かない方が後悔するね。さっさと言いな
それからクロエは、女海賊のような言葉を使い続けた。
服装も、ドレスを脱ぎ捨て、仕立てのよい乗馬服を選ぶようになった。ズボンに膝丈のブーツ、動きやすい上着。オレンジ色の髪は結い上げもせず、肩に流したまま。
最初は家の者たちから驚きの目を向けられたが、アグライア家にとってグランディオルの言葉は絶対だ。ミカヴェルの指示であると告げれば、咎められることはなかった。
最初は突然言葉を変えることの気恥ずかしさがあり、胸の奥でくすぐったい熱が波打った。だが、日々の積み重ねの中でその違和感は徐々に薄れ、やがて板についていった。
女海賊の口調に身を委ねるだけで、クロエの態度や表情、動作そのものが生き生きとし、明るく大胆で、以前よりも積極的な自分を自然に表現できるようになったのだ。
運動は相変わらず得意ではなかったものの、三人で遊びながら体を動かすことに抵抗はなくなっていた。
クロエと同じく、ミカヴェルも運動は得意ではなかったが、それがかえって二人の間に共感と笑いを生み、無理に力むことなく楽しめた。
ザイレンは、そんな二人を決して嘲笑せず、むしろ優しく見守りながら楽しそうに付き合ってくれた。クロエが恥ずかしがらずに体を動かせるようになったのは、そんな彼の存在のおかげでもある。
三人はそれぞれの勉強を続けながら、時に励まし合い、時に競い合い、そして時に支え合った。互いの才能や強みを認め合い、共に過ごす時間の中で、深く、揺るぎない絆が刻まれていった。
言葉を変えることに慣れたクロエは、日ごとに力強さを増していた。
そして、十二歳を迎えた頃には、クロエはミカヴェルに特別な思いを抱くようになっていた。
元々グランディオルに対する強い思いはあったものの、それとは異なる感情だった。会えない日は彼に心を募らせ、会えた時には勝手に胸が高鳴る。
彼に褒められる一言一言が、火花のように胸の奥で弾け、同時にくすぐったさが全身を駆け巡った。
「クロエ、今日の答えは完璧だね」
「当然さ。これくらいはできないと、グランディオルの補佐とは言えないからね」
口では強気に返すものの、心の奥ではどうしても顔が熱くなり、頬は自然に赤くなる。
彼の何気ない笑顔が浮かぶだけで、体の奥がじんわりと温まり、胸は早鐘のように打った。
ミカヴェルはいつも落ち着いていて、たった三つ年上とは思えないほどに大人びて見えた。理知的な目線、言葉の一つ一つに宿る芯の強さ。それに憧れ、追いつきたくてクロエはさらに勉強に熱を入れた。
だが、その気持ちは誰にも言えなかった。ザイレンにも、そしてもちろんミカヴェルにも。
胸の奥に秘めた思いは、静かに、しかし確実に育っていった。
「クロエは、すごいな。俺も負けてられねぇ」
「あんたとあたしじゃ、役割が違うじゃないか」
「そうなんだけどな」
三歳年上のザイレンは、気軽にぽんとクロエの頭を撫でた。兄のような存在でありながら、時に厳しく、時に優しく接するその手の温かさに、クロエは安心感を覚える。
「あたしはザイレンもすごいと思っているよ。尊敬してる」
「……そっか」
照れたように笑うザイレンに、クロエも微笑みを返した。言葉にせずとも通じ合う、そんな信頼と関係性がそこにある。
ザイレンもまた、クロエにとってかけがえのない幼馴染みであり、大切な存在だった。
そうしてクロエは、カジナルの五聖執務官になるために己を磨き続け、ザイレンは剣を鍛え、ミカヴェルの右腕としてその野望を支えるべく歩みを進めた。
ミカヴェルはフィデル国の頭脳として、参謀軍師となるために着実に経験を積んでいた。
しかし、クロエが十四歳になったある日、いつもなら週末ごとに顔を合わせていたミカヴェルが、グランディオル家から姿を消したのである。クロエの胸に不安が芽生えた。
ミカヴェルがおらずとも、グランディオル家でザイレンと二人で過ごす時間は続く。しかし胸はぽっかりと空いたように集中できない。
グランディオルの者に尋ねても、口を閉ざすばかりで、真実はなにも知らされない。だがザイレンは、事情を把握しているようで、その言葉にはどこか歯切れの悪さがあった。
「なにか知っているんだろう、ザイレン。教えておくれよ。ミカヴェルは、どこにいったんだい」
六年の間に磨かれた切れ味鋭い声で、クロエは詰め寄る。声と眼差しに宿る威圧感は、かつての令嬢時代の面影を消し去っていた。
「聞かねぇ方がいい。まだクロエは十四だ。知らない方がいいこともある」
「あたしとあんたじゃ、三つしか違わないじゃないのさ! いいから言いな! あたしはミカヴェルを支える、アグライア家の女だよ!」
机をダンッと力強く拳で叩きつける。かつての自分なら絶対にできなかった大胆さだ。威圧的なまでに真っ直ぐザイレンを睨みつける。
もちろん、クロエはザイレンに力で敵うわけもない。しかしその気迫に押されたザイレンは、息を吐かざるを得なかった。
「聞いても後悔するなよ……クロエ」
「聞かない方が後悔するね。さっさと言いな、ザイレン」
威圧するように立ち上がり、座ったままのザイレンを見下ろすクロエの瞳は、十四歳とは思えぬ鋭さを帯びていた。ザイレンは一瞬口元を結ぶが、やがて覚悟を決めて口を開く。
「ミカヴェルは、サエスエル国へ行った。グランディオルの次期当主として、親父さんに同行してな」
「サエスエルに? なんだってそんなとこに……」
クロエは目を瞬いた。胸の中に不安と疑念が混ざり合ってざわつく。
「グランディオル家は昔からサエスエルの一部の要人と繋がりがあるのは知ってるだろう。親父さんが向こうの貴族と会うって話で、ミカヴェルを連れて行ったんだ。顔見せ……みたいなもんだ」
ザイレンの言葉は嘘ではないと判断できる。しかしそれだけでは、わざわざ隠す必要などないはずだ。
胸の奥に、冷たい疑念がじんわりと広がる。
「他に理由があるだろう」
低く鋭い声が落ちる。十四歳とは思えない眼差しで、クロエはザイレンをまっすぐに見据える。
「全部言いな、ザイレン。あたしを子ども扱いするんじゃないよ」
ザイレンは苦々しい顔をした。
誤魔化しが通じる相手ではないことを、彼は誰よりもよくわかっている。クロエはそう、教えられて育ってきたのだから。
逃げ道を失ったザイレンは、短く息を吐き、渋々口を開いた。
「ミカヴェルは……女を抱きに行ってる」
その一言が、クロエの胸に氷のように突き刺さった。息が止まり、世界の色が一瞬変わったかのような気さえしていた。




