347.あたしはいつか本当に
全力で海賊ごっこを終えたクロエは、体中に心地よい疲労と興奮を抱えていた。
小さな肩や腕にはわずかな疲労が残るものの、それ以上に胸の奥が高鳴り、血が熱く流れるのを感じる。頬は紅潮し、額には微かに汗が滲んでいた。
遊びの中とはいえ、ミカヴェルやザイレンを前に指示を出し、従えるような言葉を吐くことができたという事実が、心の奥で大きな衝撃となって波紋を広げていた。
こんな大胆な振る舞いができるとは、思ってもみなかった。だが、その驚きは逆に解放感となる。肩の力が抜けると同時に、びっくりするほどスッキリしていた。
胸の内に満ちる高揚感。流れ出た汗の心地よさが、羽が生えたかのようにクロエの体を軽くさせる。
「クロエ」
名を呼ばれ、クロエは心臓が高鳴ったままミカヴェルの方へ顔を向けた。
まだ頬の熱は引かない。呼吸はわずかに浅く、しかし息苦しさはない。むしろ全身に充実感が染み渡っている。
「いい顔をしてるよ。今まで見たことがないくらいに」
「……っ!」
そんなクロエを見つめ、ミカヴェルはゆるりと微笑む。柔らかい光に包まれるようなその表情には、少年らしい遊び心と、すでに軍師としての深い観察力が共存していた。
「気づいてるかな?」
ミカヴェルの声が低く落ち、クロエの耳を優しく打つ。
その僅かな空気の振動が、心の奥で波紋を広げた。
「君は本の中の女海賊のように、大胆に振る舞った方がずっと生き生きしていた」
クロエは息を呑み、唇を微かに噛んだ。
胸の奥で、長く閉ざしていた扉が開いた気がした。
令嬢という殻の内にいた自分が、海原に飛び出したがっている──そんな衝動が、確かにあった。
「そ、そんなこと……」
「いや、事実だよ」
誰にも見せたことのない自分の一面が、今まさに認められた。
ミカヴェルは目を細め、挑むような微笑みを浮かべる。
「だったら、普段もそのままでいればいい。あの〝女海賊クロエ〟の口調で話せるようになれ。僕が許可する」
「え……?」
クロエの瞳が大きく瞬く。
令嬢として正しく、上品に振る舞うことを生まれながらに教え込まれてきたクロエにとって、言葉遣いを崩せというこの提案は、信じられないほど大胆で、未知の冒険のように感じられた。
「無礼では……ありませんの?」
「はは、やっぱりそう言うと思ったよ」
ミカヴェルは肩を揺らして笑った。だがその笑みはすぐに引き締まり、眼差しにはクロエに対する静かな覚悟と期待が宿っていた。
「クロエ。僕が君に求めるのは、カジナルの五聖執務官だ」
「……五、聖……」
その言葉に、クロエの胸は強く打たれた。
幼いながらも、五聖が国家の中枢を担う最高位の執務官であることは理解している。歴代の全員が男性であり、その座は容易に手に入るものではない。
「女性が五聖に就いたことは、まだ一度もない。だが僕は信じている。君ならなれると」
「わ、わたくしが……?」
クロエの声は震え、信じられない思いと、自分への期待が交錯する。
「なら、なおさら言葉遣いはきちんとしなくては……」
「だからこそ、だ」
ミカヴェルは声を強めた。胸にぐっと迫る力を帯び、少年とは思えぬ決意と説得力を宿している。
「令嬢のままでは舐められる。どれほど才があっても、相手に侮られれば、その場で負けなんだ」
胸に重く響く言葉。喉が小さく鳴る。
幼いクロエにはまだ遠い話であったが、それは令嬢のままでは決してもぎ取れぬ、現実の厳しさを告げていた。
「君に必要なのは、知識だけじゃない。時に鋭く、時に大胆に。相手を呑み込む力だ。女海賊の口調は……その手助けになる」
「……」
クロエは胸の奥でざわつく感覚を覚えた。
今のクロエには、あまりにも大きすぎる未来。だが、ミカヴェルの言葉は確実に心の奥に火を灯し、これまでにない希望と興奮が混じった感情を呼び覚ましていた。
「これからは、女海賊のように話すんだ。できるね、クロエ」
有無を言わさぬ圧がそこにはあった。
クロエ自身、令嬢らしい言葉遣いの窮屈さに息苦しさを感じることがあった。街に住む子どもたちのように、自由に話してみたい──と。
しかし貴族系で、しかもグランディオルに仕える身である自分には、そんな言葉遣いは許されないと思っていた。
それが今、ミカヴェルの言葉によって、すべてが解き放たれた。
まるで羽が生えたかのように、心が軽く、自由になった気がした。
「わかりましたわ……いや、わかったよミカヴェル。あたしは今から──」
クロエは背筋を伸ばし、胸を張る。小さな体の奥に、未知の力が湧き上がった。
「女大海賊のように生きてやるよ!」
その瞬間、横で腕を組んでいたザイレンが、思わず吹き出す。
「っははは! 言いやがったな、クロエ!」
笑うザイレンに一瞬頬を染めたが、すぐに大海賊としての凛々しい表情を取り戻す。
「なにかおかしかったかい? ザイレン」
笑いながら首を振るザイレン。からかうつもりはなさそうで、その目は真っすぐにクロエを見つめる。
「そんな大見得切るなんて、普段のおしとやかなクロエとは思えねぇ。けど似合ってるぜ、すげぇよ」
その視線に胸が震える。子どもながらも、自分を信じてくれる仲間の目が、心に強く響いた。
隣でミカヴェルが目を細め、満足げに微笑む。
「いいねぇ。五聖執務官の貫禄が出る」
クロエは息を呑んだ。重すぎる言葉に膝が震えそうになる。しかしその震えは恐れではなく、力の予感に変わっていた。
「見ておいで、ミカヴェル、ザイレン。あたしはいつか本当に、五聖になってみせるからね!」
強く握りしめる拳。
こんな宣言など、少し前のクロエなら、とてもできなかっただろう。
女海賊の言葉は、クロエに力を与え、胸を熱くさせた。
ミカヴェルは満足げに微笑み、ザイレンも力強く頷く。
「おう、その意気だ。クロエ!」
「君にしかできないことだ。頼んだよ」
応援してくれる二人に、クロエは不公平だとばかりに二人を睨んだ。
「当然、二人ともあたし以上のものを目指すんだろうね?」
クロエの威圧的な言葉を受けて、ミカヴェルとザイレンは顔を見合わせる。
そして二人は口々に告げた。
「あったりまえだ! 俺はグランディオルを護り仕える騎士になる! どんな敵にも怯まずに立ち向かう、最強の騎士だ!」
「僕は当然、この国を背負う参謀軍師だよ。誰一人、無駄に死なせたりはしない。初代に負けないくらいの参謀軍師になる!」
二人の誓いに、胸が熱くなる。
「よし……約束だよ!」
クロエの言葉に、二人は大きく頷いた。
ミカヴェルが手を出し、ザイレンとクロエは迷わずその手に自分の手を重ねた。
「僕たちは正義を貫こう。──この国から争いを消し、守っていくんだ」
「ああ、あたしもやるよ!」
「俺も誓う! 騎士だからな!」
幼き声が重なった瞬間、三人の胸には確かな覚悟が灯った。
──それは、いつか本当に国を背負う者たちの、揺るがぬ誓い。
クロエの胸は今までにないほど熱く、未来への期待と希望に満ちていた。仲間と共に歩む道、その覚悟を胸に、幼い少女は力強く、新しい自分への一歩を踏み出したのだった。




