5話 雨泥の魔女(2)
『過去を変える程度の能力』。紬の竜災は未家の最高傑作と言える。まあ当人の人格が破綻していたので未家は今衰退の一途を辿っているのだが。人格が破綻していない竜人の方が珍しいというに、対策を怠った未家が悪い。
今日の時旅はいつにも増して長い。普段なら体感一瞬で終わる。一週間とかそこら遡るのにだ。遡る時間と体感が比例しているのだとすれば、今回は一体どれだけ遡るのだろう。
これは紬の暇つぶしだ。争いの絶えない賀竜市の、その争いの一つを俺が解決する。銀行強盗だとか婦女暴行だとかをな。
「……っと。やっと終わったな。今回は──どこだ、ここは?」
知らない場所だった。少なくとも都市部ではない。賀竜市の外か? 長閑な田園地帯と、遠くには山々も見える。相当な田舎のようだ。
喉に違和感もある。少し声が高い。とりあえず人に会おうと思って俺は歩き出した。歩きづらいな。歩幅の勝手がいつもと違う気がする。
そういえば、今日は同伴者がいるはずだった。
「ねぇ、そこのきみ」
俺は知らない声に振り向いた。幼い、十歳かそこらの女の子の声。
まるで時が止まったみたいだった。まさか、そんなことがあるのか?
淡い、空のように冷めざめとした水色の髪。真っ白なワンピースにサンダル。その頭部に、まだ小さいが猫耳のように生える、竜角。面影が、ある。俺はこの少女を知っている。
ただし、年齢だけが、決定的に食い違っている。
「は、なぶさ……?」
「……? きみは誰?」
どうして私の名前をしっているの? と。
少女は。
英水樹は。
十歳かそこらの少女は、まるで記憶がないみたいに言った。
ここは、英水樹の故郷だ。そんな嫌な確信だけがあった。
○
「入っていいよ。お母さんに紹介するね」
幼い英に連れられて、俺は彼女の家に上がった。
私の地元、何もないよ。いつだったか聞いたその話は本当だった。長閑なだけで特に文明が見られない山奥。ほとんど自給自足だけで生活を営んでいるらしかった。
俺は迷子という体で話を進めた。特に過去では一挙手一投足に気をつけなければならない。ほんの独り言が、未来を大きく変えてしまうことも往々にしてある。
英の母親はとても優しそうな人間だった。黒髪だし、頭に角は生えていない。実際に目にすると少し驚いた。私は突然変異だよ〜という話は本当だったのか。
「あらあら、大変ねぇ。次に荷馬車が来るのはいつだったかしら。しばらくはここで暮らしなさいな」
そう言って英母はスイカだとか梨だとか果物をたくさん切ってくれた。勧められて英と一緒に頬張る。甘い。
「……美味しい」
「でしょ〜! 元気だしなって! なんかずっと怖い顔してるよ、きみ。そういえば名前は何ていうの?」
「……未、紡愚」
「じゃあ紡愚くんだ。この後一緒に山に行こうよ。面白いものがあるんだ〜」
俺は、無言でこくりと頷いた。無用心に言いなりになっているが、未来は大丈夫なのか? 俺は大丈夫だろう。なぜなら俺はここに来たことがないからだ。問題は英だ。最悪、『現在の』英が死ぬ可能性まである。だが、紬が俺たちをここへ送り込んだ以上、関わらなければ『問題を解決』はできない……そもそも俺はここで何をすれば良い?
「また怖い顔してる〜」
英は能天気にきゃっきゃと笑っている。ちょっと腹立ってきたな。
「こら水樹。紡愚くん、仲良くしてあげてね。ここにはあんまり水樹と同い年の子がいないの。最近は何かと物騒だし」
同い年。今の英水樹と、俺が、同い年?
「お、同い年? 俺と、英が、同じ歳に見えますか? か、鏡はありますか?」
怪訝な表情をしながら、英母は手鏡を渡してくれる。
その中には、俺の顔があった。だが、決定的に年齢が違う。
俺は自分の手足を見渡す。あー、あー、と声を出すと甲高いクソガキの声がする。短い手足、思うように動かない身体、そして、少し短く見える竜角。
「お、終わってる……この俺が、十歳、だとぉ……?」
最悪だ。身体もそうだが、竜角がやばい。竜角が短いっていうことは、力が成熟してないってことだ。力の制御が効かない。自分の命すら守れないってことだ。どうにもおかしいと思っていた。ただでさえ過去では俺の力が鈍るってのに。
「だから言ってるじゃん、きみ、十歳くらいにしか見えないって〜!」
やはり能天気に笑う英水樹。俺の落胆はこの女には計り知れないだろう。
「っていうか、お母さんも英、だよ。私のことは水樹って呼んで!」
このガキ……距離が近いのは昔からか! 近寄るな、あっ、いい匂い……これ女の子の匂いだ! 英水樹の匂いだ!
○
一通り村を案内してもらったあと、俺たちは登山をしている。そう、登山だ。山道は整備されてこそいるが、重労働には変わりない。
「はなぶ──み、水樹。もう無理だ、す、少し休もう……」
「えぇ〜また? ついさっき休んだばっかじゃん」
そう言いつつ英は水筒を渡してくれる。こんなクソガキが女神に見える。面だけは良いんだよなぁ。俺はがぶがぶと飲水した。
「この身体、疲れやすいんだ。水樹も何か思い出さないか? 賀竜学園とか、竜胆とか」
「だから知らないって。もうすぐだよ」
ようやっと登山は終わったらしい。そこにあるのは泉だった。川の上流の、その上澄。思わず嘆息した。
すると、英は唐突に服を脱ぎ始めた。
俺は水筒を吹き出しそうになった。
「っ! 何してるんだよ!」
「何って水浴びよ。気持ちいいのよ。紡愚も早く脱いでよ、濡れても後で乾かしたげるから」
英は下に水着を着ていた。こちらをニヤニヤと振り向いてきて、俺の服を脱がそうとしてくる。
「裸になると思った?」
間違いない。このニヤケ面は英水樹のモノだ。
「マセガキが……! やめろ、わぁったよ一人で脱げる!」
英はさっさと泉の中に入って行った。水位は腰ぐらいまで。俺はパンツ一枚になって後に続いた。
俺が水の中に入ると、ばしゃりと俺の顔に水玉が飛んできた。いつのまにか、スイカくらいの大きさの水が無数に俺の周囲を囲んでいる。
あ、やばい。俺は気付いた。
ここは既に英水樹の領域だ。
「にっひひ」
このガキ……!
ああ知っているとも。勝てないだろう。英水樹の力は知っている。知っているということは『否定』できるということだ。だが足場は悪く武器もない今、無数に襲いかかってくる水玉の全てを避けられるとは思えない。『俺が』自分を信じられない。
「すごいでしょ〜! これ、私の特技なんだ」
だが、一泡吹かせてやることはできる。俺の竜角も小さいが、英水樹の竜角もまた育ち盛りだ。未熟を自覚している分、アドバンテージは俺にある。
俺の目の前に迫った水玉は、ばしゃりと音を立てて飛び散った。
「およっ?」
「特技か。それなら、俺にもある」
ばしゃり、ばしゃり。俺に向かってくる水玉は、今の所例外なく目の前で霧散する。
ゆっくりと俺は進む。そして来た、『射程範囲内』だぜ英水樹。
「足元、気をつけなァ!」
「おわあっ!」
英水樹はすっ転んだ。偶然足元に滑りやすい石でもあったのだろう。勝ったぞクソガキが!
この後、意外にも英水樹がカナヅチでそのまま流されていったので救出したり、十歳の子供相手に温まった自分を反省したりして、年相応に英水樹と遊んでやったりなどした。
ふと、視線を感じた気がした。目を向けると、子供くらいの背丈の男の子が見える。遠くて顔はよく見えないが、少年はだっ、と逃げるようにその場から駆けていった。
○
「楽しかったぁ〜! 紡愚、すごいねぇ! あれどうなってんの、水が弾けるやつ!」
帰路、英水樹は上機嫌だった。同年代の遊び相手がいないというのは本当だったらしい。
「水樹こそ、やっぱり『水』に関しては天才だ。なんで水で浮き輪が作れるんだよ」
「あれねぇ、私が泳げないから発明したんだよ。ボートとかも作れる!」
一生泳げるようにはならなそうだな、この女。
家に帰ると、来客がいるらしい、話し声が聞こえてきた。
「……ですから──」
「でも──水樹は……」
冷静な男の声と、英母の啜り泣く声が聞こえる。
何やら雰囲気が穏やかではなさそうだ。英の表情も硬い。これが初めての来訪ではない、のか?
何も言えずその場に佇んでいると、目の前でガララと扉が開けられた。
白髭の生えた細長い男だった。スーツを纏えばさぞ似合うだろう。
「おや、水樹ちゃん。帰っていたのかい」
「はい、村長……」
「……今日も、泉に行ったね」
英は、こくりと静かに頷いた。
村長と呼ばれた男はため息をついて、奥に「明日の朝、また来ます」と言ってその場を去った。
村長の後ろに続く、小さな人影があった。十歳くらいの子供だ。吊り目の金髪。どこかで見たことのある気もするが、思い出せない。
少しずつ、この旅の目的が明かされる気配を感じる。
○
「最近、村のみんなの様子がおかしいんだって。偉い人が街から調べに来たんだけど、水が原因らしいの。飲み水が悪いから村のみんなの体調も悪くなるんだ、って」
夕飯をいただいて、寝室。寝転んだまま、英は語り始めた。
水質汚染か。こんな閉鎖的な村では命取りになろう。全員が同じ水源を利用し、医者も満足にいまい。
「それで、私は良く山の泉に行って遊んでたの。前までは二人で行ってたんだよ。ほら、さっきの村長の息子……。でも、ある日事故が起きて、その子に大怪我させちゃって。それから騒ぎになって、私と遊んでくれる子はいなくなっちゃって、忌み子だとか、呪われてるだとか言われて──」
その時のことを思い出したのか、英は泣き出してしまった。俺は宥めながら、いくつか気になったことを尋ねた。
「疑われているなら、どうして今日は山に行ったんだ? 水樹は何も悪くないんだから、怪しい動きをしなければいつか疑いも晴れるハズだ」
英は涙を拭いながら首を横に振る。
「違う、違うの……泉の水がおかしいの、知ってたんだ、私。いつだったかな、私はそれに気付いて……それから毎日、水を綺麗に変えてたんだ。私の『水を操る程度の能力』ならそれができるから。それに気付いていたのは私だけだったから……!」
なのに! と、懺悔するように英は続ける。
「あの日、私は怪我したメグミに気が動転して、急いでたから水を変えるのを忘れちゃって……夜には気付いたんだけど、暗いしまあいっかって寝ちゃったんだ。次の日から、村のみんなの体調が悪化し始めて、私、急いで泉に向かって水を綺麗にした。だけど、もう汲まれた水に関しては無理で……」
俺は、泣き崩れる英の傍にいてやることしかできなかった。
村で今回の件は『竜神の裁き』として扱われており、『裁き』を止めるためには『竜角』を持つ子供を生贄に捧げなければならないと言う。田舎っぽいな。ドンピシャ英じゃねぇか。
この段階に至っても、俺は迷っていた。すなわち英を助けるべきか、否か。
史実では俺の助けなしに英は生き残っている。何もしないのが正解の可能性は大いにある。
しかし、ならばここに俺を送り込んだ紬が解せない。俺は何をすれば良い? 何をすれば現実に戻ることができる?
そして翌日。生贄の日。
俺は何も決められないまま、その日を迎えた。
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