塵芥のような矜持(9)
ことり、と茶碗が置かれる。中身は半分ほど無くなっていた。
そう急くな、と言わんばかりに蛇沢辰巳が非難の表情を浮かべた。一転、合点がいったらしい。目をすがめて言う。
「人里に降りてきたのは最近かな。飲み物を飲み切ってしまうのは、『もう話すことはない』という意味を持つ」
「……うむ。それは失礼した。存外美味であった故な。少し見ない間に随分と面白くなったものだ」
実のところ、クリムの竜災に会話は必要ない。
必要なのは時間と、勘だけだ。クリムの世界は音で覆われている。さながら御伽の国だ。岩が、川が、机が椅子が、それぞれに『声』を奏でている。クリムはそれを選り分けるだけでいい。それが『万物の声を聞く能力』。
蛇沢の『声』は、酷く聞きづらい。それはこの男が『演じている』証拠だ。外界に出すべき情報を選別している。自分の立ち振る舞い──身振りや口調がどんな意味を持つか、理解した上で行動する。
やたらと大袈裟な言動もただ能力がため。生まれた時からきっと死ぬまで演じ続けるその狂気。これでこそ竜人。干支の正統後継者。
「単刀直入に、この度はどうされたのでしょうか、姫」
嫌に慇懃に蛇沢は尋ねた。口元がニヤついている。素直に気持ち悪いとクリムは思った。
「半世紀も姿を見せなかった竜神が今になって、どうして」
特段隠していることでもない。クリムは正直に答えた。
「他の兄弟については知らぬ。姿を見せぬのも気まぐれであろう。己が己、その目的がために過ごしている。半世紀前に現れたのが誰かは知らないが、どうせくだらぬ用事であろう」
十二人いる竜神の直系。クリムはその末っ子だ。随分可愛がられたものだ、と昔を懐かしむ。
「私は生まれてから数百年が経った頃、眠りについた。長い眠りだ。私が、自ら眠った。『声』を聞き届けるまで起きぬ契りを結んで。そして私は目を覚ました。竜人の集う場に来るのは、驚くようなことではなかろう」
その『声』というのは、なんだ。言われずともクリムは先を話した。
「……祈りだよ。私を必要とし、私が必要とする者の。つまり──私を殺してくれる者の声」
「…………」
蛇沢は黙って聞いていた。しばらく無音の時が流れた。
少しだけ茶碗に口をつけて、蛇沢が尋ねた。
「二つ、質問がある」
クリムは目で先を促す。
「一つ、竜の祖の者は不死身と聞いていた。二つ、その『声』の持ち主は見つかっているのか」
「ふむ。不死身というのは権能によるものだ。今は竜災というのだったか。真に死を知らぬ者などいない」
例えば生死を司る一番上の兄でさえ、何度も殺されれば死ぬ。困難な道ではあろうが。
「そして声の主だが──まだ見つかってはいない。あたりをつけてはいるがな」
「万能というわけではないのか」
「私はただの耳であり、口であるだけさ」
蛇沢はもう一口、茶碗に口をつけた。
「次はそちらが質問に答える番だ。蛇の忌み子よ。混沌を望み、されど人の幸福を願う者よ。その心は、如何に」
驚いた、と言わんばかりに蛇沢は目を見開いた。そういえば、蛇沢はクリムが紡愚と一緒に過去を覗いたことを知らない。
そして、クリムの竜災もまた蛇沢は知らない。規格外。竜神の祖。耳であり、口である。愚鈍なモノに干支の家系は微笑まない。蛇沢はにやりと笑った。
「竜の心臓から生まれた第一の息子は、生死を司るのだったか。耳、口から生まれた末の娘……音──いや、『会話』を司るのかな。声には出さずとも、聞こえる。無敵の竜災だ。万物がその支配下にあるのだろう」
「そう便利なモノでもないよ。して、返答如何によっては、協力するに吝かでないが?」
蛇沢はもう一口、茶碗を口に運んだ。嫌に絵になる図だ。顔だけは良い。本当に東洋人か疑わしいほどに。
そしてそれこそが蛇沢の竜災の真骨頂。茶碗の中身はもう無くなっていた。
「君の答え合わせに付き合う気はないよ、クリムぅ?」
異音が、寝室を満たす。
まるで水中──ぬるま湯の中にいるような。視界が歪む。思考が乱れる。ありもしない幻想が、クリムの脳髄を掻き乱す。
「全ての竜人は、祖の血を引いている。例外はない。実際に血縁があるわけではなくても……。冥土の土産というわけではないが教えてやろう。蛇が目をつけたのは原初帰りさ」
身体が動かない。最近こんなんばっかだな、とクリムは思った。目覚めたばかりで勘が鈍っている。
足りないのは恐らく、危機感。死にはしないだろう。ただ、紡愚と恵稀に迷惑をかける。それだけが申し訳なかった。
かろうじて動く口と耳だけで、クリムは吐き捨てた。
「……原初……帰り──それも、後天、的な……?」
万物の声を聞く竜神は。
微睡む意識の中で。
「正解。現れたのが君で良かった。蛇のルーツをまさに君だ。目や鼻、まして心臓ではなく、君に」
蛇沢辰巳。蛇の正統後継者。辰と巳を滅ぼし、当代で卯の家さえ吸収した、怪人。
「貴様の、竜災は──」
○
さてどうするか。
俺はとりあえず驚いてみた。
「うわぁっ! なんだこいつ! 毛皮に、牙……!?」
果たして先ほどの焼き直しにはならなかった。
人狼──西条茜が襲いかかってきたからだ。
「ちいっ!」
月夜の下でしか変身しない狼。神代に数多いた怪異の名残。伝承でしか耳にしない化け物。
知らない、っていうのが、俺にとっては何よりやばい。
「もう無理だよ。本能のままに動く殺戮兵器みたいなもんだから、今の茜ちゃん」
牙が、爪が、体躯を活かした体当たりが。
矢継ぎ早に俺を襲う。紙一重で躱してこそいるが、ところどころ制服が切れる。ただの爪が切れ味どうなってんだよ!
俺はどこまで行ってもただの人間なのだ。武術や体捌きをいくら修めたとしても、人間を超えた動きをする化け物についてはいけない。人の構造上の可動域を越えることはできない!
こういうのが一番だるいんだよなぁ。純粋な身体能力によるごり押し! 蛇沢の方がマシまである。
「するってぇとよぉ〜」
ナイフはダメだ。一度渾身の当たり方をしたが、柔毛な毛皮に阻まれた。ならば動きの邪魔なだけ。
俺は懐を弄った。遊戯室は広い。足りるだろうか?
取っ組み合いになったら目も当てられない。触れられてはならない。迫る凶爪を掻い潜りながら、俺は位置関係を入れ替える。
「お前を狙うのが正攻法じゃねぇのか〜!?」
お前、つまり透照光。
俺が透に襲いかかった時──西条は背後で一瞬判断が遅れて──
ジャジャーン……と。不協和音が鳴り響く。
「!?」
転移。景色が、変わる。遊戯室。俺のナイフは空を切る。
俺と、西条を挟んで透照光。振り出しに戻された!
すかさず西条が襲いかかってくる。判断が遅れた! 左腕で、振り下ろされる前に西条の腕を止める。まだ勢いが乗らない内に止めたはずなのに、俺は遊戯室の壁にまで吹き飛ばされた。なんて膂力だ!
ドゴォンっ! と俺の身体は壁に叩きつけられた。左腕は──逝ったか。プラプラしている。骨まで砕けてそうだ。受け身が取れないのも納得。
「カハッ……」
肺の中身を吐き出す。空気を吸いたいが──その前にやることがある。
『未来改変』
轟音が、耳元でもう一度。西条の追撃だ。土煙で見誤ったのだろう。西条の右拳は、ちょうど俺の顔のすぐ横を刺していた。運が良い。
運が良いってのは誇張ではない。恐らく視界以外の感覚器官が優れている。鼻か、耳か。恐らく鼻だろう。『未来改変』で選び取れる未来が極端に少ない。死角を取ってもだ。
「そんなに壊して大丈夫なのかぁ? 蛇沢の別邸なんだろう?」
『壊してもいいから遊戯室なのよ』
喋れるのかよ。声帯どうなってんだ。やけにくぐもった声だ。
決着は着いた。急募:俺の生存ルート。西条も動かなかった。地べたに座り込む俺を疑わしげな目で見つめている。
『貴方、巻き込まれただけって言ってたわね。このまま帰るって言うなら腕一本で見逃してあげてもいいけれど』
それは、有難い話だ。俺が無言でいると西条が変身を解いた。
「……決着は……着いた。俺も、こんな場所さっさと、逃げ出したい……」
喉から絞り出すような声だった。息も絶え絶えの満身創痍だ。
「……が、竜胆に殺されるんでな」
「!?」
がくり、と西条の身体が揺らぐ。
全身に力が入らないはずだ。よろめき、頭をぶつけそうだったので支えてやった。そのまま地面に横たえる。死なれてしまっては寝覚めが悪い。
か細い声を上げるのは、今度は西条の方だった。
「……なん、で……どう、して……」
俺の勝利条件は三つ。
西条が変身を解くこと。
透が位置を入れ替えてくれること。
西条が決して背後を振り返らないこと。
俺の竜災を以てすれば容易いことだが、それをこいつに教えてやる必要はない。
部屋の奥、伴奏していた透照光もまた身動きが取れなくなっていた。だらりと両腕をぶら下げて声も出せないはずだ。あの姿を見られてしまっては、西条は変身を解かなかったかもしれない。
「『薬を調合する能力』。無味無臭の麻痺毒なんて知らなかったろ。この世に存在しないんだからな。まあ、人狼には効かなかったみたいだが……」
そして、透照光の『位置入れ替え』。入れ替えるということは、空気も入れ替わるということで。透照光の周囲に撒いた麻痺毒も、俺と一緒に西条に襲いかかる。
未家お抱えの薬剤師だ。本体性能が雑魚なんだから、俺は当然に自衛手段を用意している。
「とお、る……」
「死んじゃいないはずだ。安心して寝てろよ」
物騒な世の中だ。俺は何かにつけて人殺しを忌避したがる。そんな当たり前の感覚がまだ残っていることに、安堵し、同時に落胆する。
情けをかけられて手に入れた勝利。相手の慢心がなければ手に入らなかった勝ち星。俺は虚しさ以外の何を感じれば良い?
「俺たちが用があるのは、蛇沢だけなんだからな」
クリムの竜災を『万物の声を聞ける程度の能力』→『万物の声を聞く能力』に変更しました。
それはそれとして主人公が毒殺ってどうなんだって?
弱い(当社比)から仕方ないね




