大切なものと無機物
一冊の本を読んで、ページをスワイプした。
前々日、久々に、縫い物をした疲れもあったのかもしれない。
私は、人によっては「無駄遣いであり、金の亡者である」と名指しされる。いわゆる同性者の悪口を聞き流す。そして、異性から『どうせ、こういうの、嫌いそうデショ』と、魚が弱るまで観賞しても一切メンテナンスをしないかわりに、鏡だけは磨くそういう人たちと巡り合わせが多かった。私は上手に生きることをしらないので『おねだり』ができなかったのだ。
身綺麗にこざっぱり。モノはほとんど持たないので、「鞄を持っていない人」にまで軽い足取りの時代もあった。凝り性の心配性からの脱却が悪い方へ行ったので、気持ちの良い人ではなく気味が悪い方の人になっていたのは、誰からも付き合いをなくしてひとりぼんやりと数度目の引っ越しをした後に気がついたのだ。「電話番号、引っ越し挨拶、もういいや」という感じで、新規も旧来も全部綺麗なアドレスにしてみたのだ。救急車と消防車と119さえ覚えておけばいい。そういう感じで。
愛着がないのか、あるのかは、名前で決まると思っていた。ロボットに名前をつける。電子レンジに名前をつける。はたまた、擬人化読み物が増える。
「なんだかなぁ」デストピア感を試食でいいからしてみたようなその手にはまっている人をそういう感覚でしか見れない自分がいた。
私だってしたことはある。その手はマルチタスクになるのでブラビア感があるし、防犯にもなるらしい。忘れがちな冷蔵庫の食材を思い出してくれる端末。「今日の天気は?」程度から「気持ちのいい曲」にリクエストして、少しずつ苛立つ。「これじゃない」を繰り返すと「ごめんなさい」と機械の方が切れてしまう。どのメーカーも私に答えるマルチタスクにはならなかった。機械に命令してまでお喋りじゃない自分はこれは合わないと落ち込んだ。
赤いソファの本を読んだ。ショーとにしては少し長すぎる話。たぶん日本製、たぶんセレクトショップ系が勢いで買った買い取り品。赤は特に人を選る、人が選るのではない、色とはそういうものだと私は思う。わたしという擬人化に近いソファ。ソファはそこにあるだけだそういう話だ。
独り者でも3シータあるほうがなにかと便利だよ。ソファーは張り替えやら、で、初期愛化、初物家、日本人にはうぶが好きなのでどうかしらね。ベットのスプリングでさえ回転させたりすること細かいメンテナンスを出きる方なのかしら。でも、言えるのは「張り替えたら? 」で、つめたくいうのが二度読み返した私の優しさだと思っていた。
今日も醤油の染みがやっぱり落ちていないが、洗ってさっぱりさせた布製の買い物袋を鞄にぐいっと押し込んで出かける。