恨み
少女の名前はヌルと言った。
本名ではなく、管理番号。その名は、すべてドイツ語で記されるカルテに書かれた『0』を意味していた。
全ての始まりであり、かけることも割ることもできない物。
その名が示すように、彼女は周りとの接触ができなかった。触れることで壊してしまう、あるいは殺してしまうのだった。そして彼女はある時を境にして自分が実験動物であるという事を知り、外界との接触をたった。
カルテには『若年性アルツハイマー型認知症』と診断されている。
勿論、すべては彼女の演技だった。
ヌルの目の前である男が引き倒され、殴られ、硬い音が響いた。
線の抜けた水筒から絶えず水が零れ落ちる。
ケンと呼ばれた男が殴られたのは、ヌルに水を与えたためだった。
両足を投げ出し、だらりと赤黒い血を顔から流しながら運ばれて行く様をヌルはただじっと見つめていた。小さな瞳を一切の瞬きを忘れて、眼球が飛び出さんばかりに凝視した。
誰一人として許すつもりはなかった。その酷いことをした大人たちを覚えるためにヌルは静かに彼を見送った。
生まれてからずっと、手袋をつけた腕に抱かれてきたヌルには本当の温もりが分からなかった。お菓子のおいしさを知らなかった。タバコの煙臭さも知らなかった。
普通の男の態度も、あやすような優しい目も知らなかった。
それを取り上げられたのである。仕返しをするには十分すぎる理由であった。
ヌルは己の右手を左手でつかんでおもいきり引き絞る。すると人差し指の先からゆっくりと服がほつれるように糸が伸びた。赤黒いその糸は、まるで粘り気のある血のように自らを閉じ込める試験管を伝う。




