水
けだるげな眼でケンは開かない扉を見ていた。夜が明けてもけして開かない扉は、まるで壁のようである。人を入れないためというよりは、中から物を出さないための扉。
「うーー」
試験管の中で少女が声を発した。
見た目こそ10歳ほどの少女であるが、人とあまり接しなかったためか言葉を話せないようである。
ケンの持つ年季の入ったフラッシュライトを恨めしそうに見つめて唸っている。
本日もケンはこの少女のボディーガードをするのだ。普通、こういった任務には交代要員が置かれ隊員の疲労を蓄積させないための努力をする物だが、ここの連中にはその考えがないらしい。あるいはやはり死んでくれと思っているのかもしれない。
本当に情報漏洩が怖いならば、ケンを一人でこの部屋に置いておくものかと思った。
もちろん、情報を盗む様なことはしないが、一人でいることを許されるほどの信用を勝ち取ったつもりもない。ただ白いだけの味気ない壁と天井にはそもそも情報など外に出すつもりはないという意思を感じる。ケンを外に出さなければ情報は洩れない。そういう事だろう。
「つらいものだねえ」
軍上層部にも覇権争いに似たような派閥が存在すると聞く。ここもそう変わらないのだろう。問題はどの派閥に所属するべきか。
背中でいきなりドアが開いた。反射的に腰の拳銃に手を伸ばしたケンは、顔の高さに拳銃を構え、ゆっくりと左に移動する。試験管の前に。少女を敵から守らなければいけない。
「このクソッタレが!!」
いきなりなんだと思っていると研究員が二人小走りで入って来て、手に持ったガス管を試験管の上に置いた。
ケンは一人の研究員に所属照明を受けている間にその様子をうかがう。
きな臭いのはその口調だった。同僚か誰かへの悪口ならば、聞き流そうとも思った。しかしその目は冷酷に下を見下ろしている。そう、試験管の中を。
抱えるような大きな機械に付けられた鍵付きのスイッチを男は入れる。その様子を少女は黙って見上げていた。
掃除機のようなヒダの付いたホースから黄色いガスがゆっくりと試験管を濡らす。
試験管の壁を舐めるように落ちる、その黄色のガスには見覚えがあった。
「マスタードガス!!」
ケンは拳銃を男の腰に押し付けて引き金を引いた。貫通力の高い9mm弾でも、丈夫な骨盤に当たれば突き抜ける可能性が低いことを知っていた。
ビクンと針でも踏んだように飛び上がった研究員は、自分に何が起きたかも知らずただ床に倒れる。脂汗の浮かんだ顔もそのままに、もう一人の研究員の頭にまだ熱い銃口を押し付け、ゆっくりと肩を抱いた。
勿論友好的ではない。ケンは笑っていたが、どの人が見てもそれは獣の威嚇であり、まるでこれから食らう獲物を品定めしているようだった。
「今すぐ装置を止めろ」
「だ!ダメだ!途中で止めると逆流する!」
「……聞こえなかったのか?」
「撃つな!!知らんからな!!どうなっても!」
ピーっというアラームが鳴ってガスは止まった。同時に扇風機を最大で回したような異音が装置から上がる。ケンはホースを引き抜き、己の上着を脱いで試験管の穴に詰めた。
ガスがこれ以上入らないように。
問題はガスの種類。色と、鼻をつまんでも感じるニンニク臭から、びらん効果のあるガスと推定される。
「こいつは人殺しだ!!こうされて当然なんだ!」
「ああ? 俺は軍人だぞ人も殺す」
「お前は何も分かっていない!昨日1人消えたんだぞ!どこで見つかったと思ってる!!」
「話せ」
全ての職員は手の中にチップを入れられており、それが血圧、体温、緊張による発汗を検知している。研究する者の都合上の措置だそうだ。
昨日会った職員。彼が壁の中で見つかったそうだ。現在、行方不明として処理されている。
「壁の中とはダクトのことか?」
「いや、そのままの意味だ。手足が断熱材と鉄骨に絡みついて引きはがせない。溶けたバターみたいだった」
「そんなばかな」
「やるならこいつしかいないんだ。もう二週間も何も口にしていないはずのこいつしか。そうするよう、指示したのは主任だったんだから」
ケンは絶句した。この少女は不死身か。
普通人は水さえあれば1週間、食料だけでは3日と持たない。
間違いない。殺そうとしているのだ。
この気の狂いそうになる真っ白な空間で、たった一人飲まず食わずで。
さぞ恨みも強かろう。
「今すぐ出ていけ」
「……」
「その機械を持って出ていけ!!」
二人っきりになったケンはすぐにハイドレーションの飲み口を試験管の穴から通した。
うつむいたままの少女は白髪のように白い髪の毛に固い飲み口が当たると、ビクビクと震えるがそれだけだった。吸えば水が出る。そう伝えるが彼女は恐れて吸い付かない。
思えば、ちょうどガスを送り込んだ装置のホースに似ている。
ケンはホースを引き抜き、自ら飲み口を吸って喉を鳴らし水を飲む。
「ほら大丈夫だ。だから飲むんだ」
この幼い体に、あとどれだけ生きる時間が残っているというのか。
しかし少女は穴からチューブが入ってくると顔を顰めてうずくまる。
仕方なくケンは穴に顔を近づけた。小さな穴に口を付けて、口に含んだ水をゆっくりと吐き出した。
飲んでくれ。そんな願いと一緒に。
現在の在籍者と被害者
研究所在籍職員3621名 内、行方不明5 死亡1
収容動物2匹




